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世界史 イスラムの繁栄

『一気にわかる世界史』より イスラムの繁栄 500年~1500年

イスラムの台頭

 西暦400年代にローマ帝国の西側=西ローマ帝国が崩壊して、「繁栄の中心」は、帝国の東側=東ローマ帝国に移りました。

 「生き残った帝国」東ローマー西暦500~600年代には、ここが当時の世界で最も繁栄した大国であったのですが、ローマ帝国の最盛期にくらべれば、政治も文化もふるいませんでした。ただし、東口ーマ帝国は、衰退しながらも1400年代まで続きます。

 やがて、繁栄の中心はローマ帝国の外に移っていきました。東どなりの、メソポタミアとその周辺の西アジアです。

 600年代には、西アジアのアラビア半島で、アラブ人のムハンマド(570頃~632)によってイスラム教が創始され、急速に力を持つようになりました。「イスラム(イスラーム)」とは「神への絶対的服従」を意味する言葉で、イスラム教は一神教の一種です。

 神のことは「アッラー」といいます。また、イスラムの最も根本的な聖典は「コーラン(クルアーン)」といいます。アラビア半島では400年代頃から、一神教のキリスト教やユダヤ教が浸透しており、ムハンマドはその影響を受けたのでした。

 イスラム教の特徴に「個人の内面や生活習慣だけでなく、政治・社会のあり方についても踏み込んで規定する」ということがあります。そこでイスラム教徒(ムスリムという)たちは、単なる「教団」ではなく、政治的・社会的にまとまった独自の新しい「国」をつくりました。

 この国は、当初はアラビア半島の一都市からはじまりましたが、ムハンマドが亡くなる頃(632没)までにはアラビア半島全体を支配しました。それは「アラビア半島が根拠地であるアラブ人全体をまとめる国ができた」ということでもありました。

 その後、この「イスラム教徒の国」は、近隣の大国であるササン朝ペルシア(パルティアを受け継いだ国で、今のイランにあたる)を征服し、さらに東ローマ帝国からシリアやエジプトを奪うなどして急速に拡大しました。

 こうして700年頃までには「イスラム帝国」といわれる、かつてのローマ帝国にも匹敵する超大国が生まれました。ここから、世界の繁栄の中心は「イスラム」になります。

 イスラムに征服された人びとの多くは、イスラム教徒になりました。イスラム教にも、キリスト教と同じように、特定の民族を超えたさまざまな人びとに対して開かれた面がありました。また、イスラム勢力の中心であったアラブ人は、征服した各地に移り住んでいきました。

ウマイヤ朝とアッバース朝

 イスラム教徒たちは、ムハンマドの死後30年ほどのあいだは、「カリフ」(後継者の意味)と呼ばれる指導者を、有力者たちの選挙で決めていました。

 しかし征服・拡大を通じさまざまな対立が生じて、深刻な権力争いが起こりました。そして、その争いに勝利して指導者=カリフとなった者が、以後その地位を一族の者に受け継がせるという「世襲化」を行いました。これは、カリフがほかの国でいう「皇帝」にあたる存在になった、ということです。

 皇帝や国王が支配する政権を「王朝(○○朝)」といいますが、カリフを継承した初期のイスラム帝国はウマイヤ朝という政権でした。しかし、ウマイヤ朝はそれほど長続きせず、700年代半ばには別の家系のアッバース朝がとってかわります。

 ウマイヤ朝のイスラム帝国は、征服者であるアラブ人がさまざまな特権を持つ「アラブ人の帝国」でした。そのため、ペルシア人(ササン朝の中心的民族、今のイラン人につながる)などのアラブ人以外の人びとには不満がありました。その不満などから起こった反乱の結果、アッバース朝が成立したのです。

 アッバース朝はアラブ人主導の政権ですが、成立にあたり他の民族の協力を得ています。その政治のもとでアラブ人の特権は弱まり、さまざまな民族のあいだの平等化がすすんだのでした。

 また、ウマイヤ朝時代にはイスラム教のなかで「スンナ(スンニー)派」と「シーア派」という2大宗派の基礎ができました。

 スンナ派は多数派で、選挙による初期のカリフからウマイヤ朝へと引き継がれたカリフの正統性を認めますが、少数派のシーア派はこれを否定します。

 シーア派では、ウマイヤ朝とは異なるムハンマドの家系の人物(初期のカリフの1人、アリーのこと)とその子孫こそが正統なカリフである、と主張するのです。教義の根本の点では両者は大きくはちがいません。

 シーア派はペルシアを中心に広がっていきました。つまり、この2大宗派の成立には、「アラブ人とペルシア人の対立」ということもかかわっているのです。

 現在、イスラム教徒の1~2割がシーア派で、残りの大部分がスンナ派です。今のイランは、ほかのイスラム諸国とあまりよい関係ではないのですが、それにはこうした宗派のちがいも影響しています。

ギリシア・ローマの文明に学ぶ

 イスラムの人びとは、多くのことをギリシアやローマの文明に学びました。イスラムの人びとがそれを学んだのは、西側のとなりの東ローマ帝国の人びとからでした。東ローマ帝国とイスラムのあいだには、争いもありましたが、貿易や文化的な交流もさかんだったためです。

 たとえば、イスラムでさかんだった学問・科学の研究は、ギリシアの学問を引き継いだものです。イスラム帝国が征服した旧来ローマ帝国領(エジプトなど)には、ギリシア・ローマの書物が多く残っていました。800年頃から、イスラムの人びとは、それらの書物を自分たちの言葉であるアラビア語にさかんに翻訳しはじめました。そして、翻訳するだけでなく、やがて独自の研究へと進んでいったのです。

 アラビア語は、イスラム帝国を築いた中心勢力であるアラブ人の言葉です。イスラムの聖典である「コーラン」もアラビア語で書かれています。そこでアラビア語は、さまざまな民族が暮らすイスラムの国ぐにのなかで共通語になっていました。

 ただし、科学の研究がさかんだったといっても、イスラムの科学が、かつてのギリシアやローマのレベルを大きく超えて、それらをすっかり過去のものにしてしまったというのではありません。

 たとえば西暦1000年頃、イスラムの科学者たちは、彼らからみて千数百年前のギリシアの哲学者で科学者でもあるアリストテレスの著作を、「偉大な権威」として、教科書のように扱いました。これは、近代科学の急速な発展ぶりとは、大きくちがいます。
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