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未唯への手紙

未唯への手紙

スターリン批判 1953~56年

2016年07月05日 | 4.歴史
『スターリン批判 1953~56年』より

スターリンの登場と大粛清、そしてナチス・ドイツとの大祖国戦争

 スターリンのソ連は、一九三一年に満州国をつくった日本の軍国主義と三三年に国の権力を掌握したヒトラーのナチス国家によって、東西から挟み撃ちにあうことを警戒して、極度の緊張状態にありました。スターリンは、ナチスと日本の手先が国内各層に浸透していると考え、その「第五列」「人民の敵」を除去するという名目で、一九三七年から三八年にかけて大粛清、「大テロル」を実施しました。この二年間に一五四万八三六六人を逮捕し、六八万一六九二人を処刑したのです。ほとんどすべての人が不当に逮捕され、罪なくして殺害されました。このすべてが極秘のうちに実行されました。

 ソ連は、日本とは一九三九年ノモンハンで死闘を行ない、その勢いを抑えることに成功しましたが、一九四一年にはついにナチ・ドイツの侵攻をうけ、生死をかけた戦争に突入しました。ドイツ軍はベラルシア、ウクライナを占領し、モスクワの郊外に迫り、レニングラードを包囲し、スターリングラードを陥落させる直前にまで進みました。しかし、ソ連の国民はまさに英雄的な抵抗によって、ヒトラーの軍をくいとめました。指導者スターリンは抵抗戦の象徴となりました。二七〇〇万人の人口喪失を出しながら、ソ連はナチス・ドイツを打ち破り、撃退しました。ソ連の勝利は、連合軍の勝利に対する決定的な貢献となりました。

 戦後、ソ連軍の占領地の東ヨーロッパと北朝鮮には、共産党政府がつくられ、東ヨーロッパの国々はソ連を盟主とする社会主義陣営を構成するにいたりました。ソ連は、米国と世界を両分する超大国となり、ヨーロッパから冷戦がはじまります。東アジアでは、中国内戦の結果、共産党軍が勝利して、中国は一九四九年、共産党国となりました。そして、一九五〇年には朝鮮戦争が起こり、スターリンはこの戦争に支持を与え、深く関与しました。この間のスターリンの緊張はたいへんなものでした。

スターリンの死、わきあがる批判、そして反動

 一九五三年三月、朝鮮戦争がつづいている最中、スターリンが死にます。スターリンの死は全世界で悼まれましたが、後継者はただちにスターリンから離れはじめました。マレンコフとベリヤがその先頭を進みました。ところが、六月になると、ペリヤは、フルシチョフらに、「外国帝国主義の手先」であり、権力の簒奪を図ったとして、逮捕されてしまいます。こんどは政権の主役マレソコフが、一九五五年二月、フルシチョフによって辞任に追い込まれます。ソ連の主役はフルシチョフとなりました。

 国内では、シペリア極北の収容所に入れられている政治囚たちが、ペリヤの失脚前後から反乱を起こし、政権を震憾させる地下爆発となりました。中央ではスターリンの粛清で被害をうけた古参ボリシェヴィキが動き、歴史学者が立ち上がり、ミコヤンの努力もあって、スターリン批判のうねりが生じました。フルシチョフがそれに結びつくことになります。

 一九五六年二月、ソ連共産党第二〇回大会が開かれました。スターリン死後の最初の大会でしたが、大会の最終日の秘密会で、フルシチョフがスターリンの個人崇拝の結果について、驚くべき報告を行なったのです。このことはソ連の外の世界では誰も知らぬままでしたが、六月になって、アメリカ国務省が密かに入手したフルシチョフの秘密報告を発表しました。全世界が暴露された秘密報告、そこで述べられたスターリンの粛清の実相に驚きました。どうしてこのようなことが起こったのか。ソ連の体制、社会主義と共産党に対する幻滅が広がったのも当然です。共産主義者たちは、スターリン的なものから社会主義の理想を救い出そうと必死になりました。

 ソ連の国内でも、批判と反省の動きが拡大しましたが、一九五六年一〇月、ハンガリー事件が起こったあと、反動が決定的になり、スターリン批判の雰囲気は断ち切られてしまいます。ここでソ連史における「第一次スターリン批判」は終わりました。

 一九五七年から体制を盤石にしたフルシチョフが、自らの政策を実現していきますが、収容所から帰ってきた元政治囚の巨大な圧力のもと、一九六〇年には、いまコ度、ソ連の改革のためにスターリン批判を再開しなければならなくなりました。一九六一年の二二回党大会は、第二次スターリン批判の場となりました。だがフルシチョフは、一九六四年に政権の座を追われ、後継者のブレジネフはスターリン批判にブレーキをかけようとします。そこで、知識人を中心とする批判勢力はスターリン批判の継続を主張して、共産党政府に抵抗をはじめました。ここからソ連史における新しい「異論派」運動がはじまります。スターリン批判は、ソ連社会の民主的改革運動の中に溶け込んでいくことになりました。

 「異論派」を抱えたソ連社会主義は、ブレジネフのもと成熟の時期をむかえ、その時代はほぼ二〇年間つづきました。一九八五年にゴルバチョフが現われ、ペレストロイカをはじめますが、それはある意味ではスターリソ批判の完成であったと言えます。しかし、それは同時に、ソ連国家社会主義体制の終焉を導きました。一九九一年、ソ連は存在しなくなり、後継国はエリツィンのロシア連邦となりました。今日の口シアです。

二一世紀のみなさんへ

 本書は、この曲折に満ちた歴史のうちで、二〇世紀に生まれ、二〇世紀に消えてしまったソ連国家社会主義体制の歴史の決定的な転換点をとりあげて、その危機の五年間の歴史を描き出す試みです。世界の超大国、人類の理想を体現した国と言われた国で、神とも崇められた指導者が死んだところからどのような変化のすえに、その指導者が批判されるようになったのか。その指導者のもとでなされた驚くべき非道な行為が明るみに出て、批判が加えられ、どのように社会を変えていかなければならないか。人々が悩み、模索をはじめたところ、行き過ぎた批判は許せないと国家からプレーキがかけられてしまう五年間の過程です。

 ソ連国家社会主義の体制を理解することは、二〇世紀の世界史を認識するためには不可欠ですから、本書は世界史認識を求める方に役に立つでしょう。社会主義という、資本主義とは別の社会体制に関心を持たれる方にとっては、ソ連の実相をリアルに知るという意味があるでしょう。さらに、人間とはどのような社会にあっても、国家の統制に抗して自らの信念にもとづき社会の不正義を正すために努力せずにはおれないものだという実例を見ることができるでしょう。一九五三年から五六年のソ連という極限状況で変化を求める人々の姿は、普遍的な感動を与えてくれると思います。

 みなさん、自由なお気持ちで、本書を読んで下さい。ソ連の歴史と社会の特殊な事情については、巻末に説明がありますので、わからなくなれば、そのつど参照して下さい。人名索引は人物の紹介もかねています。年表は本文を読むのに地図の役割をしてくれるでしょう。

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