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欧州社会モデル(ESM)

『揺れる大欧州』より 社会モデルはもうなくなったのか

実際の欧州社会モデル(ESM)は、その表現で示されるよりもっと捉えどころのないものである。うまい言い方がある。ESMは、完全にヨーロッパ的だとは言えない、完全に社会的でもない、単一のモデルでもない。もし、大衆教育や健康保険を提供し、失業者や弱者を守ろうとする国家機関のことを指すならば、そんな機関は米国など、すべての先進国にある。ESMが完全に「社会的」だと言い切れないのは、経済的繁栄、そして、富める者から貧しい者への経済再分配に、究極のところで依存しているからだ。ESMが単一のモデルと言えないのは、福祉制度の種類、不平等の水準、その他多くの特質において、それぞれのEU諸国間に大きな隔たりがあるからだ。

ESMは多様な面を持つが、EUの多くの領域と同じく、再構築と改革を必要としている。約一五年前にまで話をさかのぼろう。多くの人たち同様、私は、福祉国家を初めて築いた戦後初期とかなり異なる現代社会状況の下で、福祉国家はどうなるべきかを考え始めた。やや重要な補足を加えれば、そのとき私が作り上げた枠組みは今日でも十分通用するに違いない。ウィリアム・ベバリッジのような戦後福祉国家の創設者たちは、福祉制度と富の創造の関係について深く考えなかった。今日、これらの関係が中核的だと考えなければならない。福祉国家は、社会的投資国家に変貌すべきである。

社会的投資国家とは、富の創造を扱うのであって、ものごとがうまくいかなくなってから事態を収拾するべく汲々とする制度ではない。社会的投資国家は、「否定的」から「肯定的」な福祉へと移行する。べバリッジは、以前から存在する社会経済的な弊害を正すと訴えた。無知、不潔、窮乏、怠惰、そして疾病という「五大悪」に対抗する必要性を、彼はとりわけ強調した。これらの悪を肯定的なもの、すなわち追い求めるべき強い願望へと転換するのが今日の課題なのだ。言い換えれば、教育と技術、繁栄、積極的な人生の選択、社会や経済への参加、そして健康で充実したライフスタイルの追求を促すことが大切だ。

ベバリッジは、彼の有名な後継者T・H・マーシャルがそうだったように、権利面に思考をすべて集中させた。今日、福祉は権利のみならず市民の側の義務も前提にしていることを認めねばならない。義務は、多少なりとも拘束力によって強いるべきもので、それは奨励策でも、より懲罰的な方法でもかまわない。例えば失業手当は、昔は主に権利とみなされたが、結果は程度の差こそあれ逆の効果を生んだ。「福祉依存」は、実際にある現象だ。福祉を受ける者が二定期間を過ぎれば仕事を探すとか訓練に従事することを義務づける。そうした能動的な労働市場政策の導入によって、失業者を減らせることがわかっている。

伝統的な福祉国家はリスク管理の仕組みだった。人が自分では対処できない、例えば健康や仕事、個人的事情のリスクに保険を提供するのだ。リスクを最小限に抑えることが肝要であり、それが「安全」だと定義される。しかし、私たちが前向きに人生のチャンスを考える時、リスクはもっとニュアンスに富み、微妙な観念である。とくに急速に変化する世界でリスクを取ることは、明らかに多くの場合、肯定的な面を持っている。

機会とリスクとの複雑な関係に戻って考えてみよう。リスクを減らしたり避けようとしたりするより、積極的に受け入れることで、安全はしばしばより強化される。こうした意見は、起業家にも多くの労働者にもあてはまる。「フレキシキュリティ」の概念は、まさにこの相互作用を捉えようとする試みである。

多くの執筆者、とくに政治的左派の人々は、福祉国家を「非商品化」という観点から考えてきた。そもそも市場本位の経済では、通貨、価格、そして利益が、必然的に人生の最も多くの面で支配的な役割を持つ。言い換えるなら、ものや人間の労働力も売買される商品である。福祉国家は、これと異なる場をつくり出し、別の価値観が花開く。だから、市場原理が関わると、その本質的特性が傷つくのだという。だが、そんなふうに区別しても助けにならない。例えば、職場は経済的思考に支配されているかもしれないが、多くの他の価値もそこに関われるし、また関わるべきである。

単調な仕事の場合ですら、多くの人は、仕事から生まれる収入そのものより、そこから得る満足を重視する。反対に、福祉国家が提供する多くのサービスは「無料」かもしれないが、それはいつも、「引き渡し時に無料」であることを意味している。つまり、くだんのサービス利用者には無料で提供されるということだ。言うまでもなく、福祉国家は必要な代金を支払ってもらわなければならない。利用時に「無料」だとしても、制度利用者は通常、無料ではない。その人は自らが払う税金によって費用の一部を負担している。

今日の状況では、税の支払いに加え、福祉制度の利用者による直接的な拠出もなされるべきだ。「無料」サービスは、高貴な理想を具現化しているが、よく知られる困難に陥りやすい。サービスは乱用され、過小評価されがちで、時として制度劣化の悪循環を生む。比較的小さな額であったとしても直接的拠出によって、こうした問題は抑えられる。サービス利用に対する責任ある態度を促し、貧困者に受給を躊躇させる抑止効果が生まれることもない。不平等を減らすためにつくられた制度が、こうでもしなければ、結局はそれをつくり出しかねない。

対応策が二重になる傾向が出てきており、そこでは裕福な者は単に離脱する。つまり、医療、教育、その他の分野で、私的給付と公的給付に分かれ、支払う余裕のある者たちは、一般社会とは異なる高水準の手当や支援を享受する。だから拠出原則、つまり利用者からの直接的拠出を、とくに現状ではもっと普及させなければならない。作られた不平等を最小化することを改革の主目的の一つに置くべきだ。離脱可能な人々を公的サービスの大きな傘の中に引きとめることは、貧困層にいる人々を置き去りにしない状況を作るのと同じくらい大切なことだ。

社会正義が、社会的投資国家でも基本であることに変わりはない。しかし、将来への投資は、事後の再分配と同じくらい、不平等是正のために重要であろう。例えば、教育面で成功するかどうかは、幼児期に何か起きたかにしばしば左右されることがわかっている。

不利な状況から子どもを救うための先行投資が、ここでは極めて重要になる。最上位階層もまさしく同じだ。前章で述べたように、不平等は、EU諸国をはじめ、ほとんどの先進国で過去二〇年ほどの間に急拡大した。その多くは、少数のエリートによって蓄積された驚くほど膨大な収入の結果だ。このような不平等は、単に税制によって是正できはしない。それを生み出した経済秩序への積極介入によってのみ縮小できる。

福祉国家の改革、もしくは社会的投資国家への転換には、問題になっている「国家」に注意を払う必要がある。先に引用した「先生、先生!」ジョークのように、伝統的な福祉国家は、個人を受け身の国民として扱いがちだった。

失業登録した人は、お役人に見下され、冷淡に扱われかねない。国家という制度は、巨大な官僚制になる傾向があり、官僚の関心や懸念は、本来仕えるべき市民から遠くかけ離れがちである。利用者の権限強化と、政策決定の分散化が論じられるべきだ。こうした過程は民営化などとはっきり区別すべきである。人的および社会関係資本を育てることは、福祉制度の鍵を握る部分であるし、そうなるべきだ。幼い子どもが学校に行く権利から高等教育や生涯学習までの幅広い教育改革が基本となる。人的および社会関係資本は、積極的な社会参加だけでなく、労働市場での成功にとっても重要だ。だから、社会的投資国家は、伝統的な福祉国家以上に、介入主義を取らねばならない。
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