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未唯への手紙

未唯への手紙

知の都市 アッシュールバニパル王立図書館

2013年09月16日 | 6.本
『都市の誕生』より

今日、博物館、図書館、美術館は世界のどの都市にもある。だが、その起源となったものは古代都市の砂にまみれた遺跡のなかに埋もれている。たとえばワシントンDCには蔵書数二一○○万点以上という世界最大のリサーチセンター、アメリカ議会図書館がある。そういう大図書館の先駆的な存在だったのがアッシュールバニパル王立図書館である。アッシュールバニパルは紀元前六六八年から前六二七年までアッシリアを統治した王で、現在のイラクのモスルに近いティグリス川流域の都市エネヅエに図書館を建設した。このとき初めて、人類の知識の集積がひとつの建物に収められた。その後、アッシュールバニパル王の名前が忘れられてからも、この図書館の概念はずっと廃れることがなかった。

アッシュールバニパル王の図書館が大量に収蔵する粘土板や、蝋を塗った筆・記川の板には、メソポタミアのありとあらゆる文献が記されていた。襖形文字で記された『ギルガメシュ叙事詩』のような文学もあれば、占星学および天文学の論文や、預言書、祭儀書もあった。すぐれた知識の宝庫だったこの図書館は、残念ながら長くは存続せず、アッシュールバニパル王の死後に焼失してしまった。その残骸は十九世紀になってから見つかっている。今日までに約三万点にのぼる粘土板の断片が掘りだされ、目録の作成と翻訳が進められている。その作業にあたっているのは、それにふさわしいアッシュールバニパル王立図書館の末裔、大英博物館である。

古代の博物館および図書館でもっとも有名だったものは、エジプトの地中海に臨む都市、アレクサンドリアにあった。ナイル川河口の西岸に位置するアレクサンドリアは、巨大な国際都市としてもっとも古く、さまざまな文化と民族が入りまじった真の「るつぽ」だった。この都市の基礎は紀元前三三一年にアレクサンドロス大王が築いた。大王が初めて訪れたとき、その沿岸部には小さい漁村くらいしかなかった。残念ながら大王は、自ら構想した石造りの都を完成させる前に世を去った。砂漠のなかの都アレクサンドリアは、前三二三年にアレクサンドロスが没したのちエジプトの支配者となったプトレマイオス一世によって建設が引き継がれた。ロードスのディノクラテスによって設計されたこの都市には、ミレトスのヒッポダモスの都市計画に基づき、格子状の構造が用いられた。紀元前一世紀半ばには人口約三〇万人の港湾都市として大いに栄え、その後の一〇〇〇年近くのあいだプトレマイオス朝の首都でありっづけた。

アレクサンドリアの商船団は、はるか遠いインドやアフリカの都市とも取引をしていた。この国際都市で、ユダヤ人、ギリシャ人、バビロニア人、エジプト人は数百年にわたって平和に共存していた。ギリシャとは異なって女性も財産権を有し、政治家、詩人、建築家になることも自由だった。だが、この都市が際立っていた理由、ヘレニズム世界の知と文化の中心地だった理由は、素晴らしい博物館と図書館があったことに尽きる。アテナイの政治家で哲学者だったパレロンのデメトリオスの忠告にしたがい、プトレマイオス一世は都の中心の王宮--王国の権力の中枢--を博物館、すなわち「ムーサたち〔文芸を司る女神たち〕の場所」にし、知的権威の中心とした。ここに世界の人びとが集まり、知識の真の力を学んだ。それは思考を変える力、ひいては世界を変える力であった。

プトレマイオス一世はありとあらゆる文化を背景にする文献を収集したので--ちなみに、ヘブライ語の聖書がギリシャ語に翻訳された場所はアレクサンドリアだった--宮殿を増築する必要に迫られ、その際には学者たちが逗留し、研究するための施設を付け加えることにした。こうして研究所、天文台、動物園が設けられた「知の都市」ができあがった。当時この都市に移り住んだすぐれた知識人に、数学者のエウクレイデス(紀元前三二五年~前二六五年)、解剖学の草分けであるカルケドンのヘロピロス(前三三五年~前ニハ○年)などがいた。ギリシャでは人体の解剖は許されていなかったが、アレクサンドリアではそれが許され、ヘロピロスなどは解剖の公開実験を行なっている。そういう研究を重ねた結果、ヘロピロスは、思考する場所は心臓ではなく脳であることや、静脈と動脈には空気ではなく血液が流れていることを明らかにした。また、心臓と脈とのあいだに関連があることを把握し、それを病気の診断に利用した。これらのことは、病気をもたらすのは神々であると一般に信じられていたこの時代、人体を理解するうえでの大きな進歩だった。

プトレマイオス二世の治世(紀元前三〇八年~前二四六年)には海辺の図書館の隣に博物館が併設された。白大理石のファサードが輝くこの博物館は、図書館と同じように講堂、議事堂、天文台を備え、さまざまな種類の動植物の標本を収蔵していた。図書館につながる出入り口の上部には額が掲げられ、そこに「知の療養所」と記されていた。図書館の内部には一〇室が連なる続き部屋があって、それぞれの部屋は修辞学、数学、詩歌といった分野にあてられ、壁に設けられた棚にパピルスの巻物が収められていた。もっと小さい部屋もあって、そこで学者たちは書物を読み、その内容について議論した。プトレマイオス一世が思い描いた「知の都市」はみごと実現し、「世界初の総合科学研究所」となった。

ところが、アレクサンドリア図書館はニネヴエにあった図書館と同じ運命をたどることになる。ひとつだけ異なるのは、アッシュールバニパルの粘土板のほうがパピルスの巻物よりも火に強かったことだ。紀元前四八年、ユリウス・カエサルがアレクサンドリア港でクレオパトラの艦隊を焼き払ったとき、その炎が専吻棺に燃えうつった。ローマの歴史家のリウィウスによれば、当時この図書館および博物館には四〇万巻の文献が収められていたという(だが、これは誇張された数字であると考えられている)。何巻が燃え残ったかはわからないが、無事だった文献があったとしても、ほとんどは後日にキリスト教徒の支配者によって破壊されたと考えられる。キリスト教以前の知識は異端と見なされ、忌み嫌われたのだ。

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