バスレーンは効率的
バスレーンは合法的です。ちなみに、シミュレーションすると、バスレーンで5分に一台行くのと、隣のレーンで、50台の車が行くのを比べてみれば分かります。運ぶ人数は同じだけど、そこでのエネルギーは20倍以上です。
効率が全然違います。そのためにレーンを作って、高速に運べばいいです。何しろ、ガラガラで済みます。信号の制御も可能になります。
ハブまでの運搬は、20Km範囲の電気式軽車両で十分です。家での駐車面積も10分の一になります。シェアにすれば、ゼロになります。そうすれば、新しい地域インフラが市民主体で作れます。従来の道路整備費用以下で十分です。そして、地域の住民で行えば、雇用にもなります。家から駐車場がなくなれば、花壇ができます。
なぜ、こんな当たり前のことができないのか。なぜ、非効率と思わないから。車を所有しないと、生きていけないと思ってしまうのか。一日に1時間も乗らないのに。
著作権法とイノベーション
日本の著作権法は権利者を保護することしか考えていない。
使う方から考えたらどうなるのか。文化という観点から見たらどうなるのか。著作者も自分がちょっと付け加えただけです。ゼロから作ることはできない。ザナドゥー空間の枠内です。
ユーザーに好意的な著作権法のもとで、アメリカはイノベーションしてきた。図書館もそれに関与してきた。著作権者を保護するのは、あくまでも、その人が発信するためのもので、儲けるためのものではない。特許にしても同じです。侵害するのではなく、シェアすることです。
本来のシェアをここから始めればいい。30年前に、日本語変換の時にそう思いました。ATOKなどというものはシェアすればいい。そのために、シェアしていない企業、例えば、車メーカーがそれをマーケティングに使うことで、ユーザーに無償で渡していく。そこでは、集合知として、より多くの人が参画できる。日本語が最新になる。文化の基礎です。その意味ではフェアユースという名前のシェアです。
20年後の世界からタイムスリップ
同じ会社でありながら、技術部門と販売部門には20年以上の差があります。20年後の世界から来た人間として、どうするかです。20年後の技術をそのまま使ってもダメです。ついてこれない。意思の力のもとで、何も考えていない人間に存在の力で生き抜けて行ってもしょうがない。
彼らが変わってくるのを、待つところが大きいです。方向を示して、右往左往しているのをじっと待つことはつらいものです。
今の自衛隊が戦国時代にトリップした時も、結局、同じです。同化するしかなくなる。あまりにも、周辺部分が未発達です。どこに鉱山があるとかは地図があればわかるけど、それはパラドックスの世界です。
Jのシステム設計
Jを見ていると、システム設計がされていない。データーベース技術屋がいない。どれをメインにして、その周りをどう囲むのか。いかにシンプルにするのか。シンプルにしない限り、データベースは使えません。
システム設計で一番重要なのは、ゼロから作るということです。それだけの能力を持つ人間がいるかどうかです。それと範囲です。社会まで含むのか、単にデータベース本体だけなのか。
スタバIさんからのメッセージ
今日も明日もIさんが居ない。昼休みにスタバに行ったら、木曜日は朝から居るという言づけを伝えられた。まだ、先はながいですね。
メールで直接、伝えてもらうと有難いけど、それだけは避けよう。お客様とスタッフの関係であることが重要です。
17世紀の哲学での様相
17世紀の哲学で、偶然・必要と可能・不可能という様相もパラメーター選択ですでになされている。全て、必然であるとしたらというのは十分、考えられる。この地球・宇宙がそういうカタチになっているのを見れば、大きな意志が働いて、偶然はすべて必然につながっている。そうなると、今ある社会、この世界が最善であるということに帰結してしまう可能がある。
太平洋戦争に持ち込まない歴史があったのかないのか、パラドックスでは証明されない。日本に原爆を使わないという歴史では、朝鮮戦争でソ連が参戦して、そこで、一方的な原爆が使われたのか?
無数の可能性がある世界に対して、現実は一つしか存在しないというのは、本当にそうなのか。宇宙論からすると、それは別のマルチバースを作り出すことになります。
17世紀なら、神の存在を使えるから、よかったけど、18世紀以降はそういうわけに言えなくなった。ニーチェじゃないけど、神は死んでいるから。そうなると、この世界は何なんだ。この世界は何かと、この宇宙は何かが同値になります。
17世紀の哲学にも連続に関することが出てきています。連続体は部分を持たないモナドによって、現象として、認識される。肉体は連続であり、精神はディスクリートであるところから、それらを融合するアイデアである。
ライプニッツの微分の世界から来たのでしょう。彼は連続性から無限小を作り出した。その数学的なアイデアが哲学に生きてきた。おかげで、底が抜けてしまった。
今、トポロジーが哲学に反映されていないのは、それをとことん考えた人間が居ないからでしょう。
バスレーンは合法的です。ちなみに、シミュレーションすると、バスレーンで5分に一台行くのと、隣のレーンで、50台の車が行くのを比べてみれば分かります。運ぶ人数は同じだけど、そこでのエネルギーは20倍以上です。
効率が全然違います。そのためにレーンを作って、高速に運べばいいです。何しろ、ガラガラで済みます。信号の制御も可能になります。
ハブまでの運搬は、20Km範囲の電気式軽車両で十分です。家での駐車面積も10分の一になります。シェアにすれば、ゼロになります。そうすれば、新しい地域インフラが市民主体で作れます。従来の道路整備費用以下で十分です。そして、地域の住民で行えば、雇用にもなります。家から駐車場がなくなれば、花壇ができます。
なぜ、こんな当たり前のことができないのか。なぜ、非効率と思わないから。車を所有しないと、生きていけないと思ってしまうのか。一日に1時間も乗らないのに。
著作権法とイノベーション
日本の著作権法は権利者を保護することしか考えていない。
使う方から考えたらどうなるのか。文化という観点から見たらどうなるのか。著作者も自分がちょっと付け加えただけです。ゼロから作ることはできない。ザナドゥー空間の枠内です。
ユーザーに好意的な著作権法のもとで、アメリカはイノベーションしてきた。図書館もそれに関与してきた。著作権者を保護するのは、あくまでも、その人が発信するためのもので、儲けるためのものではない。特許にしても同じです。侵害するのではなく、シェアすることです。
本来のシェアをここから始めればいい。30年前に、日本語変換の時にそう思いました。ATOKなどというものはシェアすればいい。そのために、シェアしていない企業、例えば、車メーカーがそれをマーケティングに使うことで、ユーザーに無償で渡していく。そこでは、集合知として、より多くの人が参画できる。日本語が最新になる。文化の基礎です。その意味ではフェアユースという名前のシェアです。
20年後の世界からタイムスリップ
同じ会社でありながら、技術部門と販売部門には20年以上の差があります。20年後の世界から来た人間として、どうするかです。20年後の技術をそのまま使ってもダメです。ついてこれない。意思の力のもとで、何も考えていない人間に存在の力で生き抜けて行ってもしょうがない。
彼らが変わってくるのを、待つところが大きいです。方向を示して、右往左往しているのをじっと待つことはつらいものです。
今の自衛隊が戦国時代にトリップした時も、結局、同じです。同化するしかなくなる。あまりにも、周辺部分が未発達です。どこに鉱山があるとかは地図があればわかるけど、それはパラドックスの世界です。
Jのシステム設計
Jを見ていると、システム設計がされていない。データーベース技術屋がいない。どれをメインにして、その周りをどう囲むのか。いかにシンプルにするのか。シンプルにしない限り、データベースは使えません。
システム設計で一番重要なのは、ゼロから作るということです。それだけの能力を持つ人間がいるかどうかです。それと範囲です。社会まで含むのか、単にデータベース本体だけなのか。
スタバIさんからのメッセージ
今日も明日もIさんが居ない。昼休みにスタバに行ったら、木曜日は朝から居るという言づけを伝えられた。まだ、先はながいですね。
メールで直接、伝えてもらうと有難いけど、それだけは避けよう。お客様とスタッフの関係であることが重要です。
17世紀の哲学での様相
17世紀の哲学で、偶然・必要と可能・不可能という様相もパラメーター選択ですでになされている。全て、必然であるとしたらというのは十分、考えられる。この地球・宇宙がそういうカタチになっているのを見れば、大きな意志が働いて、偶然はすべて必然につながっている。そうなると、今ある社会、この世界が最善であるということに帰結してしまう可能がある。
太平洋戦争に持ち込まない歴史があったのかないのか、パラドックスでは証明されない。日本に原爆を使わないという歴史では、朝鮮戦争でソ連が参戦して、そこで、一方的な原爆が使われたのか?
無数の可能性がある世界に対して、現実は一つしか存在しないというのは、本当にそうなのか。宇宙論からすると、それは別のマルチバースを作り出すことになります。
17世紀なら、神の存在を使えるから、よかったけど、18世紀以降はそういうわけに言えなくなった。ニーチェじゃないけど、神は死んでいるから。そうなると、この世界は何なんだ。この世界は何かと、この宇宙は何かが同値になります。
17世紀の哲学にも連続に関することが出てきています。連続体は部分を持たないモナドによって、現象として、認識される。肉体は連続であり、精神はディスクリートであるところから、それらを融合するアイデアである。
ライプニッツの微分の世界から来たのでしょう。彼は連続性から無限小を作り出した。その数学的なアイデアが哲学に生きてきた。おかげで、底が抜けてしまった。
今、トポロジーが哲学に反映されていないのは、それをとことん考えた人間が居ないからでしょう。
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