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未唯への手紙

未唯への手紙

多くの人に支えられて 石井志保子

2015年08月17日 | 2.数学
『数学まなびはじめ』より 多くの人に支えられて 石井志保子

小学校時代

 「数学者になろう」と思ったのはいつ頃だろうか。そんなに遠い昔ではないような気がする。

 一方で、科学と算数が関係があるなどとは考えもしなかった。算数は不得意だった。計算が遅く、そのうえしばしば間違えた。しかし考えることは好きだったようだ。ある先生は授業のたびに生徒達に算数の問題をやらせ、できた生徒から提出させてその場で採点するという形式のテストをやっていた。これは私にとっては拷問のようなものだった。他の子たちはさっさと計算を済ませてどんどん提出してしまう。残された生徒の数はだんだん少なくなっていき、やがて私一人になってしまう。

 しかし、ある日異変が起こった。いつもは計算問題だったのが、その日は考えさせる文章問題だったのだ。解いて先生に提出しに行ったとき「あれ?」と気がっいた。他の子供たちは皆まだ考え中で、私が一番乗りだったのだ。先生も驚いたようで、答案が正しいのにもう一度驚いたようだった。その後のテストも同じようだった。計算問題と文章問題のたびにビリと一番を行ったり来たりした。

 数学者の中にはラマヌジャンのように数に対する感覚が極めて鋭い人がいるが、私はそれが生まれつきかなり鈍いのだろう。数に対する感覚が鈍くても数学者になれるという例になってしまった(ちなみに私の数学には数の計算はほとんど登場しない)。

 小学校高学年の頃に生まれて初めての「数学上の発見」をした。学校で分数と整数のかけ算を習っていたときのことだった。ここで、分数にかけるのは整数である必要はなく、分数と分数のかけ算も考えることができるということを、先生に教わる前に「発見」したのだった。私は興奮して友だちにこのことを話し、どうやって分数と分数のかけ算をするのか説明して聞かせた。友だちは「ふうん」と」っただけで全然感動してくれなかった。

 ヒルツェブルッフは幼いころにπが無理数であることを発見したそうだ。それに比べると何ともささやかな「発見」である。しかし考えることの好きな人は分かってくれるだろう。教わるのではなく自分で発見する--このことがすばらしい体験なのだ。

中学・高校時代

 中学校に入るともう計算問題はなく、おかげで数学は得意科目になった。小学校ではあまりぱっとしなかった私の成績も中学校に入ってからはずっと学年でトップだった。勉強はどの科目も面白かった。しかし両親はこのことについて全く評価してはくれなかった。それどころか父親は、高校生になった私に「女の子がガリ勉していい成績をとっている間に、男の子は人生勉強をしているものだ」と言った。「慢心しないように」との心遣いからの言葉だったのだろうが、何が大切なのかまだ判断のつかなかった私はそれから学校の勉強をやめてしまい「人生勉強」に精を出すことにした。成績も下がってきた。しかしおかげで私は自分のからを破ることができたとも言える。人生勉強のひとつ、ハンドボール・クラブで、私は新しい自分を発見したのだ。それまでは私は運動音痴で走るのもとても遅く運動会が大嫌いだった(苦手な運動をクラブ活動として選んだのも「人生勉強」のためだった)。しかし毎日遅くまで練習をしていると、少しずつ上達し、ボールを投げることも走ることも得意になった。特に走るのが速くなったのに自分でも驚いた。そして今まで遅かったのはただ「走り方」を知らなかっただけなのだと気がっいた。苦手だったはずの運動会ではリレーのクラス代表選手として走ることにもなった。なによりも「自分は運動が好きなのだ」ということを発見したのが収穫だった。ハンドボールは3年生の秋まで公式試合に出て、高校時代をとおして熱中したものだった。

 高校時代には読書にも夢中になった。海外の小説が好きだったが、もっと好きだったのは、科学についての一般向けの解説書だった。そんな本の中で、時間の進み方は絶対のものではなく、物体が光速に近くなるにつれ時間の進み方が遅くなることとか、引力というのは空間のゆがみであるとか、微少な粒子の挙動を知るために、なんらかの手段でそれを「見る」と、粒子の挙動は変わってしまい、見たことにならないなどということを知った。とりわけ私を魅了したのは、正確な形は思い出せないが、物体の速度の入った方程式で、速度が光速に比べてとても小さいと古典的な運動を表す方程式だが、光速に近付くと質量が無限大になるというものだった。1つの方程式が常識も非常識も包含している。私は深く感動し、自然を統一して記述するこのような方程式を私も見つけてみたいものだと思った。数学者になった私はささやかな定理をいくつか見つけて論文にしているが、高校時代の私が見たらはたして合格点をくれるだろうか?

大学時代

 高校卒業後、東京女子大学の数学科に入学したのだが、これは正直いって当時は不本意な選択だった。しかし今思ってみるとここで学べたことは幸運だったようだ。

 まず第一にのびのびとした雰囲気で数学の楽しさを知ることになった。£-S論法にいたく感激して、最初の帰省の折に高校生だった弟にそれを教えたものである。集合論や群論、環論に出会うたびに、驚きと感激があった。そして先生たちは皆、学生の一人一人に気を配っておられたようだ。私は、しばしばわからなくなると先生の研究室を訪ねては質問した。そんなとき、どの先生もゆったりと時間をとってくださり、ていねいに質問に答えてくださった。松原先生にルベーグ積分のことについて何か質問したおり、「ああ、そうなのか」と深く納得したことがあった。そのときの帰り道、うわのそらだったのだろう。空は晴れていたにもかかわらず、持っていた傘をさして帰り、下宿の入り口でそれに気がついたということもあった。

 もう1つ運が良かったと思えることは、たくさんの良い友人が得られたということだ。女子高校や女子大学の良い面は、女性がリーダーを経験できるということである。女子の数がきわめて少ない共学の高校を卒業した私は、本当のリーダーを経験したことはない。実験やその他の生徒会の活動でも常に補助的な役割だった。クラスの代表者である組長になったことはなく、つねに副組長だった。リーダーの器を持つ人がリーダーになるという面は確かにあるが、リーダーを経験してこそ鍛えられるという面もある。女子高校でリーダーを経験してきた友人達はやはり統率力、人望があった。彼女たちは卒業後何十年ののちの今も社会でやはり、リーダーとして活躍している。

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