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3.6コミュニティ

 3.6コミュニティ
中間の存在:
中間が全てを担う責務は大きい
乃木坂はコミュニティ
メンバーが強くなる仕組み
メンバーが主役
メンバーの思い:
個の思いを実現させる場を提供
戻ってこれる場を提供
ユニットを作り、意思表明
思いをカタチにする
働き掛ける:
周辺にアピールして近傍を作る
外仕事の意味を果たす
コミュニティを拡張
ストーリーでライブでの輝き
インフルエンサー:
本来あるものをつないでいく
メディアを用いた影響力
理念を表し、外部に展開する
常に全体を巻き込む


コミュニティ
コミュニティは地域の核
未来への実験をする
コミュニティでまとまる
周りを取り込む


 強制移住とロシア化
今日、ロシアは世界一面積が広い国で、地球上で人間が住んで いる地域の8分の1を占めている。 ところが600年前には、モスクワ大公国という、タタール人の支配下にあるモスクワ周辺の 小国にすぎなかった。しかし15世紀後半からモスクワ大公国 は拡大を始めた。まずは西へ向かって他のロシア系民族の領土 を奪い、次いで東に転じてタタール人の土地を要求し、さらに 東へ進んで最終的にはシベリア全土を奪取し、数多の民族を支 配下に収めるロシア帝国を築いた。
ロシアの支配地域はかつてないほど広がったが、その領土拡 大に庶民の自主的な移動が伴うことはめったになかった。16 世紀後半にロシアの農民は農奴とされて実質的に領主の所有物 となり、自由に移動することを禁じられた。全ロシア人の3分 の1以上を占める農奴は、ほとんどが生涯をひとつの土地で暮 らし、ひどい貧困に苦しむ者も多かった。しかし、領主は自分 の農奴を移動させることができ、 周辺地域やシベリアの新たな 征服地へ移住させることがあった。自分の意志で東方へ向かっ た人間は、ごくわずかしかいなかった。
○飢饉と征服
最大の移動は、1601年から1603年のあいだに突然、 しかも悲 な形で発生した。 ロシアで冷夏が続いたため不作となって 饉が起こり、当時の全ロシア人の3分の1に当たる200万人が死亡した。 避難民が都市へと流れ込み、 農村から人が消えた。 多 くの農民が、この大災厄をきっかけに都市で新たな生活を始めるために土地を永遠に捨て、それによって農奴身分から脱した のである。
それからの200年間に、ロシアがシベリアに拡大したことで さらなる人口移動が起こった。シベリア征服の結果、ロシアの エリート層はシベリアの豊かな資源を搾取することで裕福に なったが、同時にシベリアに住む先住民を容赦なく弾圧した。 先住民支配を強化するため、ロシアはシベリア各地にオストログ(砦)を設置してヤサク(毛皮で納める税)を取り立てた。北東部 に住むサバ人とカムチャツカ半島のアイヌは、深刻な被害を受 けた。彼らへの処置は現在では大量虐殺と見なされており、わずかの間に先住民の70%がーーーロシア人に殺されるか、彼らが持ち込んだ天然症になるかして命を落 とした。また、毛皮を手に入れたいというロシア人の欲望は、現地の野生生物にも大きな被害を与えた。
○文化的支配
1700年代になると、ロシア国家は 農民に対し、 兵役に就く見送りとし て帝国の周縁部に土地を与えるようになった。これによって、シベリア と 「小ロシア」 (現在のウクライナ)を 「ロシア化」 (ロシア文化を優位に置くこ としようとしたのである。当初ロ シアの農民は慣れない環境に苦しん だし、サハ人のトナカイ飼育方法 は、シベリア東部で何千年も続けられてきたものの、大規模化すると持続できなくなった。それでも時間とともにロシア人はこうした地域に定 着して多数派となり、ロシア語が地 域の主要言語になった。そうした状態は現在も北アジアの広い地域で変 わっておらず、ロシア人以外の民族は今も少数派だ。


 シドニー 湾岸都市
人種は混ぜてしまえば 、国家間での戦争はなくなる。玲子がギリシャ第3の都市は シドニーと言っていた。アテネ、モントリオールに続く都市。ということはテッサロッサよりもギリシャ人が多い。
オーストラリア・ニューサウスウェールズ州にある沿岸都市シドニーは、イギリスから囚人と 海兵隊員を乗せた船団が1788年に到着したときには、すでにファースト・オーストラリアン たちが住んでいた(pp.154-57入者たちは、この地についてのファースト・オーストラ リアンの知識を活用し、彼らを労働力として利用しながら、徐々にシドニーを、土壌がやせた 不毛な地から活気に満ちた入植地へと変えていった。庭を備えたイギリス風のコテージが作ら れ、コロニアル風であるジョージ王朝様式の壮大な公共建築物が建てられた。
○新たな移住者を引きつける
1830年代から1850年代のあいだ、イギリスやアイルランドの貧しい農民が、政府の補助を受 けた移民事業によって大勢シドニーに移り住んだ。 1851年、ニューサウスウェールズ州で ゴールドラッシュが起こると、ヨーロッパやアメリカ、中国から新たな移住者の波が押し寄せ 中国人探鉱者の多くはそのままとどまり、現在のシドニー・ビジネス中心区域(CBD)やへ イマーケットに居を定めた。
第二次世界大戦 (1939-45) 後は労働力不足から、白人ヨーロッパ人と中東人の移民を促す オーストラリア政府の「人口を増やすか滅びるか (Populate or Perish)」キャンペーンが始まった。 このときやってきた移 民たちはシドニーの郊外に結びつきの強いコミュニ ティーを作り、新たな食文化を生み出した。 1970 年代には白豪主義政策が廃止され 、アジア諸国、特にベトナムから移民が大勢やってきた。21世紀に 入って新たに移住の主流となったのは、IT・医療・工学分野の技能を持ったインド人移民と、 起業家が多い中国からの移住者である。こうした結果、今ではシドニーは外国生まれの住民が全住民の40パーセント以上を占め、世界でも有数の移民人口を抱える多様性を持った都市となった。


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