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3.7個の目的

 3.7個の目的
ひとりの認識:
個から始まる生活
宇宙にただ一人の感覚
私は私の世界に生きる
考えることしかできない
地域の目的:
地域という単位があるならば
個の単位で地域に思いを掛ける
地域は権限を取得して自立する
地域で危機感を共有する
コンパクト化:
地域は境界をつくらないこと
全体は仮想的なもの
自立の条件はコンパクト性
各地域が突出する
クライシス対応:
個から地域をつくりあげる
クライシスに分散自立で対応
クライシスは必ず起こる
破壊を想像のきっかけにする


個の目的
個の目的を実現する
地域を個からつくる
個の目的のために地域を利用
クライシスを最大活用


 強制追放 ギリシアとトルコの住民交換
第一次世界大戦後にオスマン帝国が崩壊すると、ギリシアは古 代の故地と見なした地域を回収するためトルコ領アナトリアの 一部を併合しようとした。しかし、侵攻は惨たる結果に終 わった。その後に続いたギリシアトルコ戦争 (1919-22)では 営で大虐殺が起こり、 そのため史上初めて国際的に承認さ れた住民の強制交換が実施された。この住民交換は、1923年1 月にスイスのローザンヌで合意され、それによって、 100万人 以上のギリシア正教会キリスト教徒が新国家トルコ共和国から 追放され、約35万のイスラーム教徒がギリシアから追放され た。交換の監視は、国際連盟が担当した。
○移動・救出・追放
強制的な住民交換の前に、数十万のキリスト教徒 (主にギリシア人とアルメニア人)が、ギリシア・トルコ戦争を受けてすでにアナトリアから脱出していた。1922年までに、 25万人以上のキリスト教徒難民が、アナトリアの領土奪還を進めるトルコ軍から逃れてギリシアに到着していた。しかも、1919年以降ギリシア軍が占拠していたスミルナが1922年9月に大火で破壊されるとさらに多くのギリシア人がやってきた。火災が起こるとスミルナの波止場に集まってきてギリシア海軍艦船・商船・小型漁船が救援に来るのを待ち、それに乗ってエーゲ海を渡りギリシアへ向かった。
トルコから、ギリシアからキリスト教徒を、ギリシアからイスラーム教徒を追放する件を協議していた段階では、ギリシア政府もトルコ政府も、それによって国境を画定して安定した均質国家を作りた いと考えていた。しかし、この住民 交換は宗教に基づくものであり、対象となる対象となる複雑な言語的アイデンティティーはまった考慮されていなかった。係争地域では、正教会キリスト教とイスラームが何百年も前から共存して暮らしており、そのため伝統や文化の違いは曖昧になっていた。 また、ギリシアに到着したキリスト教徒難民の多くはギリシア語が話せず、新たな同国人から排斥されたし、トルコに到着したイスラーム教徒も、ギリシア人と見なされて、よそ者扱いさ れた。
○強制移住
強制的に移住させられた人々は、全員がそれまで住んでいた国 と、財産と生計手段を失った。 キリスト教徒難民の多く は、トルコでは専門家や事業主として成功を収め、何不自由な い暮らしを送っていた。そんな彼らがやってきたギリシアは、極貧にあえぐ将来性のない国だった。 ギリシアは戦争で疲弊していたのに加え、わずか数か月で人口が20パーセント増えたため、流入する難民に住宅と支援を提供するのに苦労した。
トルコでイスラーム教徒難民たちが直面した状況も、ほとん ど変わらなかった。ギリシアにいたころは大半が小規模農民 で、トルコでは正教会キリスト教徒が逃亡し、大量に殺され、最終的に追放されたため所有者のいない農地はあったが、 家屋の多くは難民の到着前に地元住民の手で壊されるか占拠さ れるかしており、 難民たちには住む家がなかった。
1926年までに住民交換はほぼ完了した。しかし、難民たち にとって生活再建の試みは始まったばかりだった。 出身国に残してきた財産を補償するという約束はほとんど守られず、多く 難民は貧困と差別との果てしない戦いを強いられた。


 超大国の崩壊 ソヴィエト連邦崩壊後の移動
ソヴィエト連邦(ソ連)が1991年に崩壊したとき、旧ソ連の人口 20パーセントに当たる約6000万人が、例えばカザフスタン 国外で民族的カザフ人のように、 祖国の外で暮らしてい 北西部にあるラトヴィア、エストニア、リトアニ から中央アジアにあるカザフスタンやキルギスまで、20 以上の無士国に散らばっていた。そのうち2500万人以上が 民族的ロシア人だった。
○住民の移動と再定住
ソ連時代(1922-91)、当局は開発を推進し、統制を強め、少数民族にロシア語とロシア文化を受け入れるよう圧力をかけてロシア化するため、国民を国内各地に移動させていた。 例えば1954年、ソ連のフルシチョフ首相は「処女地」開拓計画を開始し、ロシア人の「志願者」数十万人をカザフスタンのい わゆる「休閑」地に派遣し、 カザフスタンでは何百年も前から牧畜が主要経済活動だったにもかかわらず、 彼らを定住させて制作に従事させた。1959年には、カザフ人はカザフスタンで 少数派となり、全人口に占める割合は3分の1以下にまで低下した。 同様の動きは、ウクライナなど他の地域でも見られた。 ロシア人が批判勢力となるのを防ぐため、当局は多くの自治共和国の境界線を変更した。
ソ連が崩壊したとき、祖国で暮らしていた何千万もの住民は独立したことに歓喜した。 しかし、祖国から遠く離れた場所に いる多くの者たちにとって、未来は不透明だった。 強制追放に よって、何百万もの国内難民や国外難民、移住者が生まれており、その多くは友人や家族と再会したり、かつての故郷に戻りたいと切望していた。しかし、彼らの行く手には新たな国境など数々の障害があった。 それでも、武力紛争や民族間の対立が多くの人のプッシュ要因となって、 移住者が旧ソ連諸国か ロシアに流れ込んだ。
○ソ連崩壊後の諸共和国
旧ソ連の統治機構が崩壊したことで、 当初は権力の空白が生まれ、その隙を突いて犯罪・腐敗紛争が多発した。アルメニアとアゼルバイジャンのあいだでは、ナゴルノカラバフをめぐって国境紛争が今も激しく続いているし、ロシアがウクライ ナからクリミア半島を強奪したことで混乱が起こった。域内での経済格差も大きく、そのため中央アジアやシベリアから人々が仕事を求めてモスクワに移り住んでいる。しかし、かつてソ連の支配下にあった国々の多くは、徐々に発展へと向かっている。 中央ヨーロッパと東ヨーロッパは、世界のどの地域よりも 急激な経済成長を経験した。ただし旧ソ連諸国の多くでは、若い世代が西側でのチャンスを求めて続々と国外へ流出している。


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