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新デジタル通貨リブラ フェイスブックの真の狙いは何か

『決定版 リブラ』より 世界に衝撃を与えたリブラ計画 フェイスブックが発行する新デジタル通貨リブラ
 社会的な意義としての金融包摂
  ホワイトペーパーの中でフェイスブックがことさら強調しているのは、リブラが金融包摂(ファイナンシャル・インクルージョン)に貢献する、という社会的な意義だ。金融包摂とは、金融サービスを受けられない人々に、新たに金融サービスにアクセスできるような環境を整えることであり、世界銀行は、「全ての人々が、経済活動のチャンスを捉えるため、また経済的に不安定な状況を軽減するために必要とされる金融サービスにアクセスでき、またそれを利用できる状況」と定義している。
  他方で、こうした説明を、フェイスブックが自らの勢力圏拡大の意図などを覆い隠すものだ、と疑って考える向きも少なくないだろう。
  フェイスブックは、世界中で17億人の銀行口座を持だない人(アンバンクト:unbanked)に対して、リブラは支払い手段を新たに提供できる、とその意義を主張している。また、貧しい人の支払いコストを軽減することにも役立つとしている。
  現在の決済システムは、多くの人、とりわけ貧困層にとってかなりコストが高い、という問題点があることは否定できない。世界銀行によると、新興国の出稼ぎ労働者は、本国への送金に平均で6・9%の手数料を支払っているという。
 強い逆風下でなぜリブラ計画を発表したのか
  フェイスブックのリブラ発行計画については、世界中の金融当局や米国議会から、それを強く警戒する意見が噴き出している。リブラ計画の発表直後に、米下院金融サービス委員会のマキシン・ウォーターズ委員長(民主党)は、「仮想通貨の開発停止に合意するようフェイスブックに要求する」との声明を発表した。世界の金融システムの安定を監視するFSB(金融安定理事会)も、各国の首脳に書簡を送り、事実上リブラを名指しして規制を求めた。
  詳細については第3章に譲るが、個人データの流出が2018年に発覚したのをきっかけに、フェイスブックは世界中で強い批判に晒ざれ、コンテンツのチェックや個人データの利用、管理について厳しい対応を求められた。
  さらに足もとでは、米国の反トラスト法(独占禁止法)の適用を視野に入れた司法当局の捜査の手も着実に及びつつある。フェイスブックを含め大手プラットフォーマーである、いわゆるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アニソン)の解体を主張する意見も米議会には出ている。
  こうした極めて強い逆風の環境の下で、フェイスブックがグローバル規模でデジタル通貨を発行し、新たに金融分野へと足を踏み入れることを宣言すれば、それだけで多くの批判を浴びることは目に見えていた。
  それにもかかわらず、このタイミングでフェイスブックがリブラの発行計画を公表したのはいったいなぜだろうか。
 ビジネスモデルの修正を迫られるフェイスブック
  2012年にフェイスブックは、5つの経営理念を高々と発表している。影響力を重視(FOCUS ON IMPACT)、迅速に行動(MOVE FAST)、大胆であれ(BE BOLD)、オープンであれ(BE OPEN)、社会的価値を築く(BUILD SOCIAL VALUE)の5つだ。
  最後の社会的価値については、「フェイスブックは単に一企業を築くために存在しているのではなく、より開かれ、つながった世界を作るために存在している。フェイスブックで働く者全てには、日々のあらゆる活動において、世界にとって真に価値あるものをどのようにして築くか、という点に力を注いでもらいたい」と説明されていた。
  リブラ計画は、こうしたフェイスブックの理念の延長線上にあると考えることもできるだろう。リブラ計画の概要を示すホワイトペーパーでは、以下の6つの理念が打ち出されているが、特に社会的価値を築く(BUILD SOCIAL VALUE)、というフェイスブックの企業理念と重なる部分は多い。金融包摂を推進することが、大きな社会的な意義を持つという点が強調されているのである。
   ・もっと多くの人が金融サービスや安価な資本を利用できるようにする必要がある、と私だちは考えます。
   ・人には合法的な労働の成果を自分でコントロールする生まれながらの権利がある、と私だちは考えます。
   ・グローバルに、オープンに、瞬時に、かつ低コストで資金を移動できるようになれば、世界中で多大な経済機会が生まれ、商取引が増える、と私たちは考えます。
   ・人びとは次第に分散型ガバナンスを信頼するようになる、と私たちは考えます。
   ・グローバル通貨と金融インフラは公共財としてデザインされ統治されるべきである、と私たちは考えます。
   ・私たちには全体として、金融包摂を推進し、倫理的な行為者を支援し、エコシステムを絶 え間なく擁護する責任がある、と私たちは考えます。
  リブラ計画には、金融包摂の推進など社会的意義を強調することで、フェイスブックのイメージアップを図る狙いがあるのだろう。しかし、本当の狙いはそれにとどまらない可能性もあ
  規制強化の流れの中で既存のビジネスモデルが修正を迫られる中、フェイスブックがビジネスモデルの転換と新たな収益源の確保を狙った、という側面もあると予想される。そのからくりを次に見てみよう。

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母子関係と日本社会

『超高層のバベル』より
 父親アレルギーの戦後史
  山田 見田さんは、お母さんはご健在ですか。
  見田 母は、僕が七歳のとき、死んだんですよ。
  山田 私も一〇歳の時に母を癌で亡くしました。やはり戦争末期です。だから、母というもののしんどさ、そういうものはなかったといえばなかったんです。よさというか、甘美さもなかった。ですから、ちょっとそこらへんが分からないところもあるんです。自分の女房と息子との関係を見ていると、それは甘美でもあるかもしれないけれど、けっこう息子もしんどいだろうな、という気もしています。
  見田 なるほど。山田さんの作品の、適度の乾燥度というか、家族をちょっと外から見ている感じが分かるような気がします。僕も、例えば「おふくろ」なんていう言葉は嫌いなんです。「おふくろ」と日本人が言う時の生あたたかい湿った感じが、どうも受けつけないんです。それは七歳で母がいなくなったからかもしれない。
  山田 いきなり突飛な例ですけれども、泉鏡花もわれわれと同じくらいの時に母親を亡くしているんですね。鏡花はもうずっと母恋しという感じで生涯を終えましたね。逆に言うと、非常にイリュージョンを作りやすい年齢だった。ただ、僕はそういうイリュージョンを作り損なってしまったというか、母子関係についてあまり自分の経験から出発することがちょっと難しいところがあって、今日の対談はどうなるか(笑)。
  見田 二人とも不適格者(笑)。山田さんのドラマはよく見ていて、特に『岸辺のアルバム』は非常に感服して見ていました。あれは最初、小説という形で発表されたんですね。
  山田 ええ、一九七四、五年頃の『東京新聞』の連載です(のち、光文社文庫、二〇〇六年)。
  見田 今回その小説のほうを読ませていただきましたが、母子関係について、山田さんはいち早く鋭く取り上げていらっしやっていたことにびっくりしました。全然古くなっていない。まったくアクチュアルだと思いました。
  山田 いやあ、もうはるか昔のことでねえ。
  見田 いや、現在の家族、母子関係のことを含めて、『岸辺のアルバム』の構図から基本的に変わっていないのではないでしょうか。あのあと、一九八〇年代、九〇年代を通して『岸辺のアルバム』に似た現象が起きるし、言葉としても「家庭内離婚」とか、社会的にいろいろ、あのあとで出てくる。そういったものを先取りしている。けれども、仮にもし一九六四、五年頃だったら、あの状況は書けなかったのではないかと思います。六四、五年から七四、五年までの一〇年は非常に大きな変化があったけど、それ以降は大きく言えば変化はなだらかだったと思います。二〇年は経っているんですけど。そのことと関わってくると思いますが、現在の家族、母子関係については、どのようにお考えですか。
  山田 大ざっぱなことを申しますと、父母という関係で言えば、父親的なるもの、超越的なるものに対して、日本は戦争直後から非常にアレルギーを起こした社会だったと思うんですね。母親を中心に生活もできてきたし、文化も母親にスイッチした。言い方を変えれば、見田さんの『自我の起原--愛とエゴイズムの動物社会学』(真木悠介名義、岩波書店、一九九三年。のち、岩波現代文庫、二〇〇八年)のネーミングに従えば、「生成子」、つまり遺伝子的な母の愛というような形で、六〇年代くらいまでは来ることができた。ところが、それ以後、個の確立という思いが育ってきて、母親のエゴというものが出てきた。その母親のエゴと遺伝子的な愛と、両方が支配するようになって、より母性的な社会になってしまった。見田さんの本に示唆されてのことですが、そういうふうに感じるんですよね。
   経済的には父親がばりばり働いていたのですが、経済というのは結局「生成子」の生存に関わることで、超越的なことではないんですね。ですから、経済の範囲では父親もがんばれるんだけれど、そこから飛び立つような超越性は、父親もついにもつことができなかったと思うんです。母性を否定して、いわば「生成子」の生存を大前提にさせない超越性をもてなかった。そのことが、さまざまな問題を生んできたのではないでしょうか。
 「お母さんだけはいやだ」のリアリティ
  見田 一つには、動物的な母子関係の核みたいなものが、どうしようもなくあるわけです。もう一つは、社会構造とか文化としての面があって、今おっしやった母親のエゴとかもある。一方では、女性も近代人として、個の確立、自我の確立を目指すようになる。しかし、この文化としての面の内部で、これとは反対に、母親の「自我の確立」を抑圧するような、例えば「日本文化論」的な規範も同時に強くある。この三つの、自然としての力と、社会構造的な必然と、文化の慣性や再生産みたいなものとが、お互いに対立しながら、その対立が結果としては補強し合って、現在の日本の非常に強力で伸縮自在の母性権力のようなものが合成されていると思います。
   けれども、その内部に本当は矛盾があって、そこから出てくる複雑な問題が山田さんの作品にもいろんな形で出てきていると思うんです。『岸辺のアルバム』を一つの元型として見ると、母親が父親以外の男性を愛するということについて、息子の繁が、一般論としては一夫一婦制にこだわるつもりはない、「だけど、お母さんだけはどうしてもいやなんだ」という場面がありますね。そこは非常にリアリティがある。そのリアリティはどこから来るんだろうか。
   つまり、家族というものが今後どうなるか、解体するのか、永久に残っていくのか、その中間なのか、それは誰にも分からない。ただ、壊れていくという論理的可能性はあると思います。
   でも、実際壊れかける場合には、そう簡単には壊れないところがあって、その核には動物的な母子関係みたいなものがあるのではないだろうか。繁の母親への感情、思想としては一夫一婦制がなくてもいいが、自分の母親はどうしてもいやだ、という感情の根っこには、動物的なものがあると思う。そこが面白い。つまり、人間は基本的には、社会の形でも人間関係でも、どんどん変わって適応するけど、それでも何か変わらないものがあるのか、ないのか。つまり、文化の「常数C」というか、「自然的」なものがあるのか、それともないのか、ということを考える場合、母子関係のあのエピソードは一つのポイントだと思うんです。
  山田 確かに、ある年齢までは生成子的な関係を受け入れないと、生存を脅かされてしまう。それに逆らってまで、母子関係を若い時から壊そうとするのは、どうでしょうか。見田さんもお書きになっていますが、そこまで組み入れた上で人類を滅ぼしてしまうと思っている、DNAの手の込んだ計画なら別だけれども(笑)。
   ふつうに言えば、母子関係は年齢によって変わってくると思うんですね。幼児の場合と一〇代後半ぐらいからでは、当然変わってくる。その時に母親が、ここでもう子どもは離れていくんだ、というリアリズムを受け入れられるかどうか。しかし、母親としては、一歩も二歩も後退して「さあ、あなたは私の手から離れなさい」と言うことがなかなかできない。なぜかと言えば、一つは母親がやはり個の確立をしてしまい、そしてその個の拡張が広く社会の中で羽ばたけないために、不自然に強く子どもに及んでいるからでしょう。子どもが生成子的な母性を必要としなくなったあと、母の個の行き場所が狭い。その皺寄せが子どものほうにいっているのでしょうね。
  見田 過剰な皺寄せが。
  山田 母性を脱して、女としての個の確立欲はあるんだけれど、それを社会が満たしてくれない。まだ男性社会ですから。
  見田 男性は社会的なアイデンティティを求めやすい。今の日本社会では。けれども、女性の場合、それができなかった時に、子どもにアイデンティティを向ける。
  山田 母親が子どもに痕跡をいつまでも残しておこうとする。今、母性と「女性」性というような力が非常に強くなってきているから、男の子が飛び出せない。飛び跳ねられない。母性から抜けるための一つの契機としての性欲が衰えてきている、という話がありますね。それは、そういうお母さんたちの強い力が影響を与えているのではないでしょうか。

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個と超のつながり

何が言いたいのか。やはり、覚醒かな。個が超とつながって覚醒となるとほとんど預言です。クルアーンで言いたかったのそういうことなんでしょうね。個人が本当に個であるために、生まれてきた理由、生きている理由を果たす。 #個と超のつながり
筆記具はまた、コクーンに戻ってきそうです。上から攻めるのが正解なんでしょうか。 #筆記具選択
情報センターとしての図書館を考えた時に何が足りないのか。本しかない。本は読まないとわからない。読んでもわからない。所詮、他人事。 #情報センターとしての図書館
全体の枠組みがわからない。だから、ポイントから始めるしかない。ポイントから始めるのに何がいるのか。好奇心だけで展開できるのか。好奇心は全体があって始めてわかる。 #全体とポイント

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