未唯への手紙
未唯への手紙
コンビニとカフェ
『よくわかる都市社会学』より
〈私〉たちの居場所:「心地よさ」の閉域から
「賑やかだけど、乾いているから」。煌々と光るコンビニのウィンドウに浮かび上がる人々の姿と新しい商品群に誘われ、吸い寄せられる。ひとりだけど、ひとりではない。ひとりではないけれど、ひとりでもある。個人的な実存や社会的な責任・義務の複雑な絡まりをいったん留保して紛れ込むことができるようなスキマ。そんなカラッとした安心感があるコンビニは、〈私〉たちが気軽に立ち寄れる[居場所]として全国各地に広がっている。それにしても、こうした心地よさが広がる現代的風景は何を意味しているのか。
大都市の不穏と魅惑:〈都市的なもの〉の居場所
近代都市は、労働力人口の流入による過密化に伴い、都市化・郊外化などのスプロールを発生させた。近代の都市計画は、その無秩序な都市化を制御する職住分離やソーニングを試みている。都市社会学者の磯村英一は、この近代的な都市空間の成立を、第1空間(家庭)、第2空間(職場)、第3空間(盛り場・交通)への空間拡大・機能分化として整理している。これらの空間のなかで〈都市的なもの〉がもっとも顕著に現れるのは、「地位・身分・教養も問題にされない、匿名を押し通せる、その意味できわめて〈自由〉で〈平等〉な人間関係の場としての第3空間とされる。特に大都市のカフェは、匿名的で、多様な他者が行き交う街路に開かれた起点である。
例えば、エドガー・アラン・ポーの小説「群衆の人」(1840)は、主人公がロンドンのホテルのコーヒーハウスから、街路を行き交うさまざまな通行人を観察するところから始まる。主人公はそのなかに不思議な老人を発見し、追跡する。しばらくして、老人は人気のない場所を恐れ、雑踏を求めて徘徊する「群衆の人」であると明らかになる。老人はなぜ群衆を求めるのか。
大都市の街路には、特定の集団・組織への帰属意識を共有しない多様な人々が集まる。その意味で人々は孤独だ。ただし、人々は、地位・身分、階級・階層を問われない、帰属意識の共有の喪失そのものを共通項とした「群衆」というヴェール、裏返されたカテゴリーとしても存在できる。誰もが紛れ込めるこのヴェールは--あの老人のように--孤独を一時的に癒すこともできるのだ。このとき近代都市は、場所と関係が複雑に絡み合う謎めいた迷宮として観察される。「大都市の群衆は、それをはじめて目の当たりにした人びとの心に、不安、嫌悪、戦慄を呼び起こす」一方、「すべて、おぞましい物までが、魅惑と化する場所」なのである。
大都市の人々が集う場所は、独特の雰囲気をまとい、一定の連帯感を作り出すこともある。例えば、パリのリップ、ドゥ・マゴ、ロンドンのコーヒーハウスやパブ、ベルリンのローマニッシェス・カフェなどのように、政治家・知識人・芸術家、あるいは特定階級の人々が集まり、政治的・思想的対話を展開し、文化的リソースを蓄積すれば、そこは市民社会の公共圏と評価される特権的な場所になるかもしれない。また、足しげく通うことで、オーナー、店主、店員、常連らと顔見知りになった第3空間は、その時・その場かぎりの匿名的関係ではないなじみの空間になる。
現代の都市--郊外の自由と退屈:〈都市的なもの〉のフラット化
しかし、現代の都市--郊外地域において、そこにしかない特権的な意味を持つなじみの空間、例えば行きつけのカフェを持っている人がどれだけいるだろうか。もちろん今でも多くの人々がカフェに集っているし、店員も愛想良く声をかけ、笑顔をみせてくれる。しかし、スターバックスに代表される現代的なカフェの多くは、グローバル、ナショナルチェーンとして期待される快適さや便利さを裏切らない程度には差異を作り出しながら、似たようなフォーマットで全国各地に広がっている。その従業員たちの振る舞いやサーヴィスは、単純作業とは異なるものの、「感情労働」や「パフォーマティブ労働」として半ばマニュアル化された商品の一部だ。どこにでも適用可能なフォーマットが商品として拡散することで特定の場所へのコミット(=なじみ)がいったん解除される。そして、そこにマニュアル化された親密さによる人間関係を繕うことで、ドライすぎず、またウェットでもない適度に流せるコミュニケーションが発生する。現代カフェのフォーマットと距離感は、それなりに快適で気楽なのだ。この「心地よさ」を求める消費者たちの欲望が、チェーン系カフェの拡大を支えている。
カフェだけではない。新しい商品・サーヴィスをコンパクトな店舗内に詰め込み回転させる、カタログのような情報空間としてのコンビニ。あるいはそれをより大規模にしたカテゴリーキラーと呼ばれる各種専門量販店、チェーン系カフェ、アミューズメント施設を集積したショッピングモールが、〈都市的なもの〉のコピーとして都市--郊外地域に広がる。無数の〈私〉たちが欲望する快適と便利で構成された商品世界の「心地よさ」は、このとき、大都市の謎と不穏な群衆を取り除いていく。「賑やかだけど、乾いている」。この言葉は、そこように拡散し、フラットになっていく〈私〉たちの居場所の、そして〈都市的なもの〉の自由で退屈なリアリティを表現している。
〈私〉たちの居場所:「心地よさ」の閉域から
「賑やかだけど、乾いているから」。煌々と光るコンビニのウィンドウに浮かび上がる人々の姿と新しい商品群に誘われ、吸い寄せられる。ひとりだけど、ひとりではない。ひとりではないけれど、ひとりでもある。個人的な実存や社会的な責任・義務の複雑な絡まりをいったん留保して紛れ込むことができるようなスキマ。そんなカラッとした安心感があるコンビニは、〈私〉たちが気軽に立ち寄れる[居場所]として全国各地に広がっている。それにしても、こうした心地よさが広がる現代的風景は何を意味しているのか。
大都市の不穏と魅惑:〈都市的なもの〉の居場所
近代都市は、労働力人口の流入による過密化に伴い、都市化・郊外化などのスプロールを発生させた。近代の都市計画は、その無秩序な都市化を制御する職住分離やソーニングを試みている。都市社会学者の磯村英一は、この近代的な都市空間の成立を、第1空間(家庭)、第2空間(職場)、第3空間(盛り場・交通)への空間拡大・機能分化として整理している。これらの空間のなかで〈都市的なもの〉がもっとも顕著に現れるのは、「地位・身分・教養も問題にされない、匿名を押し通せる、その意味できわめて〈自由〉で〈平等〉な人間関係の場としての第3空間とされる。特に大都市のカフェは、匿名的で、多様な他者が行き交う街路に開かれた起点である。
例えば、エドガー・アラン・ポーの小説「群衆の人」(1840)は、主人公がロンドンのホテルのコーヒーハウスから、街路を行き交うさまざまな通行人を観察するところから始まる。主人公はそのなかに不思議な老人を発見し、追跡する。しばらくして、老人は人気のない場所を恐れ、雑踏を求めて徘徊する「群衆の人」であると明らかになる。老人はなぜ群衆を求めるのか。
大都市の街路には、特定の集団・組織への帰属意識を共有しない多様な人々が集まる。その意味で人々は孤独だ。ただし、人々は、地位・身分、階級・階層を問われない、帰属意識の共有の喪失そのものを共通項とした「群衆」というヴェール、裏返されたカテゴリーとしても存在できる。誰もが紛れ込めるこのヴェールは--あの老人のように--孤独を一時的に癒すこともできるのだ。このとき近代都市は、場所と関係が複雑に絡み合う謎めいた迷宮として観察される。「大都市の群衆は、それをはじめて目の当たりにした人びとの心に、不安、嫌悪、戦慄を呼び起こす」一方、「すべて、おぞましい物までが、魅惑と化する場所」なのである。
大都市の人々が集う場所は、独特の雰囲気をまとい、一定の連帯感を作り出すこともある。例えば、パリのリップ、ドゥ・マゴ、ロンドンのコーヒーハウスやパブ、ベルリンのローマニッシェス・カフェなどのように、政治家・知識人・芸術家、あるいは特定階級の人々が集まり、政治的・思想的対話を展開し、文化的リソースを蓄積すれば、そこは市民社会の公共圏と評価される特権的な場所になるかもしれない。また、足しげく通うことで、オーナー、店主、店員、常連らと顔見知りになった第3空間は、その時・その場かぎりの匿名的関係ではないなじみの空間になる。
現代の都市--郊外の自由と退屈:〈都市的なもの〉のフラット化
しかし、現代の都市--郊外地域において、そこにしかない特権的な意味を持つなじみの空間、例えば行きつけのカフェを持っている人がどれだけいるだろうか。もちろん今でも多くの人々がカフェに集っているし、店員も愛想良く声をかけ、笑顔をみせてくれる。しかし、スターバックスに代表される現代的なカフェの多くは、グローバル、ナショナルチェーンとして期待される快適さや便利さを裏切らない程度には差異を作り出しながら、似たようなフォーマットで全国各地に広がっている。その従業員たちの振る舞いやサーヴィスは、単純作業とは異なるものの、「感情労働」や「パフォーマティブ労働」として半ばマニュアル化された商品の一部だ。どこにでも適用可能なフォーマットが商品として拡散することで特定の場所へのコミット(=なじみ)がいったん解除される。そして、そこにマニュアル化された親密さによる人間関係を繕うことで、ドライすぎず、またウェットでもない適度に流せるコミュニケーションが発生する。現代カフェのフォーマットと距離感は、それなりに快適で気楽なのだ。この「心地よさ」を求める消費者たちの欲望が、チェーン系カフェの拡大を支えている。
カフェだけではない。新しい商品・サーヴィスをコンパクトな店舗内に詰め込み回転させる、カタログのような情報空間としてのコンビニ。あるいはそれをより大規模にしたカテゴリーキラーと呼ばれる各種専門量販店、チェーン系カフェ、アミューズメント施設を集積したショッピングモールが、〈都市的なもの〉のコピーとして都市--郊外地域に広がる。無数の〈私〉たちが欲望する快適と便利で構成された商品世界の「心地よさ」は、このとき、大都市の謎と不穏な群衆を取り除いていく。「賑やかだけど、乾いている」。この言葉は、そこように拡散し、フラットになっていく〈私〉たちの居場所の、そして〈都市的なもの〉の自由で退屈なリアリティを表現している。
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情報空間と都市
『よくわかる都市社会学』より
サイバー都市論
1964年、都市地理学者のM.ウェッバーは「都市的な場所と非場所的な都市領域」と題した論考を発表した。電気的なコミュニケーション・メディアが普及し、それに媒介された専門家集団や、興味関心で結びついた[関心の共同体(community of interest)」の台頭によって「場所ではない都市領域」が現れつつあり、それが「ポスト都市の時代」をもたらすだろうという都市とメディアの未来の到来を、今から半世紀ほども前にウェッバーは予想したのだった。それはM.マクルーハンが、「都市は観光客向きの文化的幽霊としてならともかく、もう実在しない。どのハイウェイの食堂にもテレビがあり、新聞があり。雑誌がある。それはニューヨークやパリとまったく同じように世界都市的だ」と述べたのとほぼ同じ頃のことだ。
インターネットも携帯電話もなく、カラーテレビすらまだ普及していなかった時代に現代のメディアと社会についてしばしば語られているのと同様のことが予言されていたことに、私たちは驚くべきなのだろうか。それとも、メディアと社会の関係をめぐる想像力の変わらなさの方にこそ驚くべきなのか。実際、インターネットが普及し始め、ネットワーク上に「電子政府」や「電子商店街」が現われ始めた1990年代半ば以降、「電脳空間の中のサイバー都市の出現」と、それに伴う「現実の都市の行方」が、さまざまな形で語られてきた。
都市というメディア
都市とメディアが代替関係にあるように語られるのは、都市がそもそも情報の集中や交換の場であり、それによって売買や取引、集団の結成やデモンストレーションなどが行われる場所として存在してきたからだ。さまざまな土地や社会から人も物も情報も集まり、それらの組み合わせを通じて新たな物や情報、そして人間の新たな生き方や思想を生み出してきた都市は、そもそも地理的世界の中で異なる土地や集団の間にあって、それらの間の関係を媒介する「メディア」だった。それは人と物と情報が行き来する「交通空間」だったのであり、それゆえ「情報空間」でもあったのだ。
都市のメディア性は、それが文字通り[空間]であり「場所」であること、すなわち複数の人間によって共有され、その内部に多様な人や物や情報からなる部分領域を含み、その間を人びとが行き来できる広がりであることによって支えられていた。「メディア」というと、人と人をつなぐ回線やチューブのような線的なものをイメージする人もいるかもしれないが、都市というメディアは広がりを持った「空間」なのだ。「情報空間」に相当する英語のcyberspaceは、SF作家のウィリアム・ギブソンが『ニューロマンサー』で用いたのが最初とされる。ギブソンはそこで、コンピューターネットワークに意識を接続したハッカーが経験するネットワークのヴァーチャルな現象世界を、都市空間のような広がりを持ち、壁や建物の立ち並ぶ空間として表現した。現代の社会的想像力の中でも都市は、ネットワーク内の世界を考えるための隠喩として機能している。
それでも人は、街角に並ぶ
マクルーハンが言ったように、テレビや雑誌、あるいは今日のインターネットやケータイやスマートフォンが、物理的な空間の中の都市を「文化的幽霊」にしてしまったという事実は、今のところない。この点において、「サイバースペースの中の都市的な場」が「現実の都市」に取って代わるという仮説は、現時点では間違いである。だが、現実の都市で私たちが行ってきたさまざまな行動が、ネットワークにつながれたディスプレイとキーボードによって取って替わられるようになったこともまた事実である。
私たちはもう、コンサートのチケットを求めて街のプレイガイドに並ぶことはないし、CDショップに行かずともサイトから音楽を直接ダウンロードすることもできる。銀行の窓口に行かずとも机の上の端末やケータイで用を済ます二とができるし、旅行の予約もネットの方が割安だ。実際の街の中で人と会ったり食事をしたりする場所を探すのすら、まずはネットを使って情報収集し、委り換え案内サービスや地図検索サービスで経路を調べ、その店が気に入ればメールやツィッターで友人や不特定多数の他者たちに情報を発信する。もちろん。インターネット以前にも、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのメディアを通じて発信され、流通し、共有された情報やイメージが、現代の都市生活の重要な側面を形作ってきた。この意味で、新聞も雑誌もラジオもテレビも、20世紀の都市を構成する重要な要素だったのであり、20世紀の終わり近くになってそこにインターネットや携帯端末が加わったというのが、社会史的事実である。
だが、そんな現代でも新しいゲーム機器やゲーム・ソフト、パソコンの新OSの発売日には、店頭に徹夜で長蛇の列ができたりする。オタクの街・電脳の街である秋葉原で、情報空間に日々アクティヴに関わる人々が、「現物」をいち早く入手することと、新発売の現場に立ち会うことを求めて行列する。現代における物理的な都市とヴァーチャルな世界との関係を考えるための切り口のひとつが、そこに示されているのではないだろうか。
サイバー都市論
1964年、都市地理学者のM.ウェッバーは「都市的な場所と非場所的な都市領域」と題した論考を発表した。電気的なコミュニケーション・メディアが普及し、それに媒介された専門家集団や、興味関心で結びついた[関心の共同体(community of interest)」の台頭によって「場所ではない都市領域」が現れつつあり、それが「ポスト都市の時代」をもたらすだろうという都市とメディアの未来の到来を、今から半世紀ほども前にウェッバーは予想したのだった。それはM.マクルーハンが、「都市は観光客向きの文化的幽霊としてならともかく、もう実在しない。どのハイウェイの食堂にもテレビがあり、新聞があり。雑誌がある。それはニューヨークやパリとまったく同じように世界都市的だ」と述べたのとほぼ同じ頃のことだ。
インターネットも携帯電話もなく、カラーテレビすらまだ普及していなかった時代に現代のメディアと社会についてしばしば語られているのと同様のことが予言されていたことに、私たちは驚くべきなのだろうか。それとも、メディアと社会の関係をめぐる想像力の変わらなさの方にこそ驚くべきなのか。実際、インターネットが普及し始め、ネットワーク上に「電子政府」や「電子商店街」が現われ始めた1990年代半ば以降、「電脳空間の中のサイバー都市の出現」と、それに伴う「現実の都市の行方」が、さまざまな形で語られてきた。
都市というメディア
都市とメディアが代替関係にあるように語られるのは、都市がそもそも情報の集中や交換の場であり、それによって売買や取引、集団の結成やデモンストレーションなどが行われる場所として存在してきたからだ。さまざまな土地や社会から人も物も情報も集まり、それらの組み合わせを通じて新たな物や情報、そして人間の新たな生き方や思想を生み出してきた都市は、そもそも地理的世界の中で異なる土地や集団の間にあって、それらの間の関係を媒介する「メディア」だった。それは人と物と情報が行き来する「交通空間」だったのであり、それゆえ「情報空間」でもあったのだ。
都市のメディア性は、それが文字通り[空間]であり「場所」であること、すなわち複数の人間によって共有され、その内部に多様な人や物や情報からなる部分領域を含み、その間を人びとが行き来できる広がりであることによって支えられていた。「メディア」というと、人と人をつなぐ回線やチューブのような線的なものをイメージする人もいるかもしれないが、都市というメディアは広がりを持った「空間」なのだ。「情報空間」に相当する英語のcyberspaceは、SF作家のウィリアム・ギブソンが『ニューロマンサー』で用いたのが最初とされる。ギブソンはそこで、コンピューターネットワークに意識を接続したハッカーが経験するネットワークのヴァーチャルな現象世界を、都市空間のような広がりを持ち、壁や建物の立ち並ぶ空間として表現した。現代の社会的想像力の中でも都市は、ネットワーク内の世界を考えるための隠喩として機能している。
それでも人は、街角に並ぶ
マクルーハンが言ったように、テレビや雑誌、あるいは今日のインターネットやケータイやスマートフォンが、物理的な空間の中の都市を「文化的幽霊」にしてしまったという事実は、今のところない。この点において、「サイバースペースの中の都市的な場」が「現実の都市」に取って代わるという仮説は、現時点では間違いである。だが、現実の都市で私たちが行ってきたさまざまな行動が、ネットワークにつながれたディスプレイとキーボードによって取って替わられるようになったこともまた事実である。
私たちはもう、コンサートのチケットを求めて街のプレイガイドに並ぶことはないし、CDショップに行かずともサイトから音楽を直接ダウンロードすることもできる。銀行の窓口に行かずとも机の上の端末やケータイで用を済ます二とができるし、旅行の予約もネットの方が割安だ。実際の街の中で人と会ったり食事をしたりする場所を探すのすら、まずはネットを使って情報収集し、委り換え案内サービスや地図検索サービスで経路を調べ、その店が気に入ればメールやツィッターで友人や不特定多数の他者たちに情報を発信する。もちろん。インターネット以前にも、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのメディアを通じて発信され、流通し、共有された情報やイメージが、現代の都市生活の重要な側面を形作ってきた。この意味で、新聞も雑誌もラジオもテレビも、20世紀の都市を構成する重要な要素だったのであり、20世紀の終わり近くになってそこにインターネットや携帯端末が加わったというのが、社会史的事実である。
だが、そんな現代でも新しいゲーム機器やゲーム・ソフト、パソコンの新OSの発売日には、店頭に徹夜で長蛇の列ができたりする。オタクの街・電脳の街である秋葉原で、情報空間に日々アクティヴに関わる人々が、「現物」をいち早く入手することと、新発売の現場に立ち会うことを求めて行列する。現代における物理的な都市とヴァーチャルな世界との関係を考えるための切り口のひとつが、そこに示されているのではないだろうか。
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豊田市図書館の10冊
豊田市図書館の10冊
出社2日目だけど、生活を戻すために、電車で豊田市へ行って、図書館から本を借りた。
まだまだ、歩くには苦労しているので、10冊に留めた。それでも十分、重たかった。
これで累計16000冊を超えました
019.9『FIGARO』私が目覚める、読書案内 ときに人生の相談相手に、ときに未知なる世界への案内役に。自分を広げてくれる素敵な時間へようこそ
147.5『絵コンテ発想法』寺子屋指南! 紙と筆があればできる驚きの発想法
010.4『平成24年度全国図書館大会島根大会記録』文化を伝え 未来を創る 図書館 -古事記編纂1300年 神々の圀しまねから-
361.78『よくわかる都市社会学』
674『コミュニケーションデザイン』コミュニケーションをデザインするための本
253.07『オリバー・ストーンが語る もう一つのアメリカ史』ケネディと世界存亡の危機
384.5『子どもたちのフランス近現代史』
141.8『WILLPOWER 意志力の科学』
159.4『僕が電通を辞める日に絶対伝えたかった79の仕事の話』
543.5『ひとりからの反原発マニュアル』
出社2日目だけど、生活を戻すために、電車で豊田市へ行って、図書館から本を借りた。
まだまだ、歩くには苦労しているので、10冊に留めた。それでも十分、重たかった。
これで累計16000冊を超えました
019.9『FIGARO』私が目覚める、読書案内 ときに人生の相談相手に、ときに未知なる世界への案内役に。自分を広げてくれる素敵な時間へようこそ
147.5『絵コンテ発想法』寺子屋指南! 紙と筆があればできる驚きの発想法
010.4『平成24年度全国図書館大会島根大会記録』文化を伝え 未来を創る 図書館 -古事記編纂1300年 神々の圀しまねから-
361.78『よくわかる都市社会学』
674『コミュニケーションデザイン』コミュニケーションをデザインするための本
253.07『オリバー・ストーンが語る もう一つのアメリカ史』ケネディと世界存亡の危機
384.5『子どもたちのフランス近現代史』
141.8『WILLPOWER 意志力の科学』
159.4『僕が電通を辞める日に絶対伝えたかった79の仕事の話』
543.5『ひとりからの反原発マニュアル』
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