未唯への手紙
未唯への手紙
自転車をあなどることなかれ
『現代ドイツを知るための62章』より
ドイツ人の自転車好きは、かれら固有の合理的な理由による。すなわち①コストがかからず、節約に励む人向きである。②歩くより時間の短縮が見込める。③CO2を排出しないから環境に優しい。④体力を使うので適度の運動とリフレッシュができる。④騒音を出さず、静かな住環境が保てる。⑤レジャーにも使え、自転車同好会に加入すれば仲間が増え、長距離レクレーションに役立つ。
かれらはまず交通ルールを定めて、インフラを整備し、都市計画、環境計画に自転車を組み込んで合理的に普及を図る。①自転車は歩道を走行してはいけない。②車道は、自動車と競合すれば危険であるから、可能なかぎリ専用の自転車道を整備する。それはふつう茶色で舗装し、自転車のマークが描かれている。③サイクリングーロードを網の目のようにつくる。④都市計画に合わせて駐輪場を整備する。⑤鉄道とドッキングさせ、自転車持ち込み車両(鉄道、ただしインターシティは不可、一部のSバーン、バスも可)を走らせる。⑥多くの町に自転車道マップを用意し、利用者に配布する。自転車の普及においても、ドイツ人はこのように、徹底的な取り組みを図るのである。
筆者も自転車積み込み列車を、旅行中にたびたび見かけたが、車両には目立つ自転車のマークが描かれている。若者たちは力が強く、自転車を列車に積み下ろしするのをあまり苦にしていない。列車が目的地に着くと、自分の自転車に乗り代えて颯爽と走行していく光景は、ありふれた日常の一部になっている。
ドイツには環境政策の一環として自転車導入に熱心な都市がある。平坦地にあるミュンスターは、自転車王国オランダと同様な自然条件であり、「自転車都市宣言」をしているのでとくに有名だ。たとえば駐輪場は駅前に3300台を収容することが可能で、自転車修理マイスターまで常駐している。人口28万人に対して、自転車利用者は約45%であり、自転車道のインフラ整備にも尽力している。また環境都市フライブルクは、パークーアンドこワイド(自動車とSバーンのコンビネーション)制によって日本でも知られるが、ここも環境政策の一環として自転車普及を位置づけてきた。市内延べ400キロの自転車道路網を整備し、「自転車に優しい街」を標榜しており、郊外も含めた人口22万のうち、旧市内に住む約3万5000人が通常、自転車を利用している。
ドイツは同好会のネットワークが全国規模で広がっている。同好会文化は自転車にもおよび、ドイツには全ドイツ自転車協会(ADFC、個人年会費46ユーロ)という1万2000人の会員を擁する全国組織があり、地方にもその支部および各種協会がある。これは一種の政治団体でもあって、交通・環境政策、とくに自転車網整備の推進団体となっている。通常、古まざまなイヴェントや会誌の無料配布、情報の提供などをおこなう。
たしかに自転車には弱点がある。まず雨天の場合や起伏が激しい坂道、厳冬期などは使用の妨げになる。しかしドイツは日本より雨量は少なく、南部の山岳地帯を除けば平坦地が多いので、自転車のメリットが大きい。厳冬期対策として、ドイツではフード付きヤッケが普及しており、防寒にもある程度対応ができるが、これはもちろん程度の問題である。
このような自転車へのシフトは、「自動車大国」といわれたドイツにも、環境意識の高まりと共に顕著になってきた。自転車への転換は、化石燃料から再生可能なエネルギーヘの変換、脱原発などの一連の動向に呼応したものであることが分かる。しかしそれだけに留まらず、ドイツ人には自然の空気に触れ、体を動かすという人間の原点に喜びを感じる文化があるように思われる。かつてワンダーフォーゲル運動が盛んであったが、現代の自転車ブームは、その延長線上に位置づけられる。
ドイツ人の自転車好きは、かれら固有の合理的な理由による。すなわち①コストがかからず、節約に励む人向きである。②歩くより時間の短縮が見込める。③CO2を排出しないから環境に優しい。④体力を使うので適度の運動とリフレッシュができる。④騒音を出さず、静かな住環境が保てる。⑤レジャーにも使え、自転車同好会に加入すれば仲間が増え、長距離レクレーションに役立つ。
かれらはまず交通ルールを定めて、インフラを整備し、都市計画、環境計画に自転車を組み込んで合理的に普及を図る。①自転車は歩道を走行してはいけない。②車道は、自動車と競合すれば危険であるから、可能なかぎリ専用の自転車道を整備する。それはふつう茶色で舗装し、自転車のマークが描かれている。③サイクリングーロードを網の目のようにつくる。④都市計画に合わせて駐輪場を整備する。⑤鉄道とドッキングさせ、自転車持ち込み車両(鉄道、ただしインターシティは不可、一部のSバーン、バスも可)を走らせる。⑥多くの町に自転車道マップを用意し、利用者に配布する。自転車の普及においても、ドイツ人はこのように、徹底的な取り組みを図るのである。
筆者も自転車積み込み列車を、旅行中にたびたび見かけたが、車両には目立つ自転車のマークが描かれている。若者たちは力が強く、自転車を列車に積み下ろしするのをあまり苦にしていない。列車が目的地に着くと、自分の自転車に乗り代えて颯爽と走行していく光景は、ありふれた日常の一部になっている。
ドイツには環境政策の一環として自転車導入に熱心な都市がある。平坦地にあるミュンスターは、自転車王国オランダと同様な自然条件であり、「自転車都市宣言」をしているのでとくに有名だ。たとえば駐輪場は駅前に3300台を収容することが可能で、自転車修理マイスターまで常駐している。人口28万人に対して、自転車利用者は約45%であり、自転車道のインフラ整備にも尽力している。また環境都市フライブルクは、パークーアンドこワイド(自動車とSバーンのコンビネーション)制によって日本でも知られるが、ここも環境政策の一環として自転車普及を位置づけてきた。市内延べ400キロの自転車道路網を整備し、「自転車に優しい街」を標榜しており、郊外も含めた人口22万のうち、旧市内に住む約3万5000人が通常、自転車を利用している。
ドイツは同好会のネットワークが全国規模で広がっている。同好会文化は自転車にもおよび、ドイツには全ドイツ自転車協会(ADFC、個人年会費46ユーロ)という1万2000人の会員を擁する全国組織があり、地方にもその支部および各種協会がある。これは一種の政治団体でもあって、交通・環境政策、とくに自転車網整備の推進団体となっている。通常、古まざまなイヴェントや会誌の無料配布、情報の提供などをおこなう。
たしかに自転車には弱点がある。まず雨天の場合や起伏が激しい坂道、厳冬期などは使用の妨げになる。しかしドイツは日本より雨量は少なく、南部の山岳地帯を除けば平坦地が多いので、自転車のメリットが大きい。厳冬期対策として、ドイツではフード付きヤッケが普及しており、防寒にもある程度対応ができるが、これはもちろん程度の問題である。
このような自転車へのシフトは、「自動車大国」といわれたドイツにも、環境意識の高まりと共に顕著になってきた。自転車への転換は、化石燃料から再生可能なエネルギーヘの変換、脱原発などの一連の動向に呼応したものであることが分かる。しかしそれだけに留まらず、ドイツ人には自然の空気に触れ、体を動かすという人間の原点に喜びを感じる文化があるように思われる。かつてワンダーフォーゲル運動が盛んであったが、現代の自転車ブームは、その延長線上に位置づけられる。
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EUとギリシャ危機問答 迷宮の出口を求めて
『現代ドイツを知るための62章』より
1 なぜギリシャ危機が大騒ぎになっているのか、そしてギリシャの現状は?
2009年10月にギリシャの政権交代があったが、新政権が財政を見直した結果、ギリシャがユーロ加盟の際に提出したかつての収支報告は、事実ではなく、虚偽であったことが判明した。これがギリシャの財政危機の発端であり、EU内のみならず世界に激震が走った。もしギリシャが経済再建できず、デフォルト(債務不履行)をしてしまったら、ギリシャ国債が紙くずになってしまうからである。これがギリジャー国だけならともかく、ヨーロッパ各国や世界に波及する重大な問題であることは、各国のギリシャ国債保有額をみれば分かる。
まず外国の金融機関がもつギリシャ国債保有額を確認しておこう(単位はドル、2011年6月現在)。
フランス 567億4000万 オーストリア 33億5100万
ドイツ 339億7400万 スイス 28億6400万
イギリス 140億6000万 ペルギー 19億900万
ポルトガル 102億8600万 アメリカ 73億1800万
オランダ 50億300万 日本 16億9500万
イタリア 40億4500万 インド 2200万
これらの債権を各国の公的金融機関や銀行が保有しているのであるから、ギリシャのデフォルトがヨーロッパのみならず世界の金融不安を引き起こすことは明らかだ。とくにイタリア、ポルトガルは財政赤字にあえいでいるから、多額の国債の損失は致命的であるし、日本とて対岸の火事というわけにはいかない。
ギリシャ危機の際に、フランスとドイツを中心にしたEUと国際通貨基金IMFが急濾対応した。2011年H月に打ち出した内容は、ギリシャにきびしい緊縮財政や赤字削減を求めながら、ギリシャの国債の半額分を債務免除するというものである。しかしその後、この緊縮財政、公務員の賃金カットをめぐって、ギリシャ国内で激しいデモや抗議が発生し、そのニュースは全世界へ発信された。これに対する多くの識者の反発や冷ややかな反応が、ギリシャ危機解決のむずかしさを物語る。
さらに2012年5月6日の総選挙の結果、EU離脱も辞さないとの「急進左派連合」(SYRIZA)の強硬派が主導権を握ったが、解決の手立てもなく、翌月の6月17日に再選挙がおこなわれた。その選挙結果は、「ユーロ残留」を主張する中道右派の「新民主主義党」(ND)が129議席を得て第一党となった。「全ギリシャ社会主義運動」33議席と合わせると、「財政緊縮派」が過半数を取ったので、かろうじて当面、最悪の事態を乗り切ることができた。財政再建路線を推進すれば、緊急の支援融資によって、国の財政が破綻することはひとまず回避できるからだ。しかしギリシャは危機を依然として抱えたままである。
2 ギリシャ問題はドイツとどのような関係にあるのか
ドイツはフランスと協力してEU統合を主導してきたが、現在のドイツはEU統合のメリット、すなわちューロ経済の貿易黒字をもっとも享受している国である。かつてューロ導入以前のマルクの時代では、ドイツ経済が好調になると、マルク高になり、それが輸出を圧迫した。しかしEU17カ国が導入したューロ圏では、全体としてレートが決まり、ドイツー国の経済と直接連動しない。
ギリシャ、それに次ぐスペイン危機は、EUに対する信頼を損ね、ューロ安を引き起こした。これが皮肉なことに、結果的にドイツの輸出産業には追い風になっている。事実、ューロ圏のなかで貿易収支の黒字国は、ドイツとオランダだけなのだ。さらにューロ安は、ドイツにとって外国市場の拡大にも貢献するという効果をもたらした。
輸出大国ドイツは、現在、ユーロ安によってマルク時代より、はるかに多くのメリットを享受している。あわせてシュレーダー前首相が提唱した構造改革の成果もあらわれてきた。近年のドイツは経済が復調し、貿易収支が改善され、失業率が大幅に低下している。わが世の春を謳歌しているドイツ産業界は、本音の部分では、ユーロ体制の堅持という立場であるけれども、それをあからさまに発言しない。EUのなかでドイツが突出すると、他国から警戒されるからである。
経験を積んだメルケル首相も、この経済のメカニズムをじゅうぶん承知し、ギリシャ危機ではドイツが中心的役割を果たさねばならないことを認識している。たしかにドイツは、EU首脳からギリシャ問題に最大限コミットし、支援基金の拠出を求められている。しかしメルケル首相は、国内世論の反対によって安易に動くことができないのである。
ドイツとギリシャは、いわばコインの表と裏のような関係である。事実ギリシャの富裕層は、銀行から預金を引き出し、ドイツ国債を買い、保身に走っている。すなわちギリシャ経済が火の車になれば、ますますドイツが潤うというパラドックスが生じているのである。
3 ドイツ国内の反応はどうか
勤勉なドイツ人からすれば、ギリシャの労働人口の4分のIを占める公務員数、その給料の高さ、年金の良さは、信じがたい事実と映ってしまう。さらに緊縮財政に反対する暴動やデモを見て、もういい加減にしろというのが本音である。2012年8月のドイツの世論調査では、ギリシャのユーロ離脱やむなしが61%を占めているし、ドイツはすでに承認した財政支援を超えて援助すべきではないというのが72%である。これが率直なドイツ人の国民感情である。安易な救済策をおこなえば、それが前例となり、当事国はまじめに財政再建に取り組まないという、問題も生じるからである。
ところが現在、財政危機はギリシャだけでなく、スペインにも波及し、さらにイタリア、ポルトガルなどにも飛び火することが懸念されている。EUは危機回避の道筋として、欧州中央銀行による危機国の国債買い入れと、ユーロ圏救済基金「欧州安定メカニズム」(ESM)を発足させ、支援をおこなうことになった。たしかにドイツ国内では、メルケル首相はEUのメリットをドイツは受けているのだから、EUを守るべきだとする筋論を展開し、連邦議会は反対意見を押し切って、すでに2012年の6月に「欧州安定メカニズム」への負担金1900億ユーロの拠出を可決した。
ところがドイツ国内では、与野党議員を含む支援反対派は、「欧州安定メカニズム」支援そのものが基本法(憲法)違反だとし、3万7000人の署名を集めて訴訟を起こした。その判決が2012年9月12日に下され、結局、合憲と出たので、救済機関が10月に発足することになった。その結果、メルケル首相は、すでに議会の承認を得た上限1900億ユーロを拠出することになろう。
これによって一時的に、「ギリシャ危機」という迷宮からの出口が見えてきたようであるが、だからといってギリシャを含め、スペイン、イタリアなどの一連の財政危機が回避されたわけでない。これら諸国の「時限爆弾」はいつ爆発するか分からず、南欧のドミノ連鎖を食い止める努力が、これからも続いていく。メルケル首相だけでなく、EUの首脳たちの誰もが、ギリシャのユーロ圏離脱からEU崩壊へという最悪のシナリオを望んでいるはずはない。かれらは第2次世界大戦後、先人たちが営々と築いてきたEUの成果を、維持・発展させようとしているのだから。
1 なぜギリシャ危機が大騒ぎになっているのか、そしてギリシャの現状は?
2009年10月にギリシャの政権交代があったが、新政権が財政を見直した結果、ギリシャがユーロ加盟の際に提出したかつての収支報告は、事実ではなく、虚偽であったことが判明した。これがギリシャの財政危機の発端であり、EU内のみならず世界に激震が走った。もしギリシャが経済再建できず、デフォルト(債務不履行)をしてしまったら、ギリシャ国債が紙くずになってしまうからである。これがギリジャー国だけならともかく、ヨーロッパ各国や世界に波及する重大な問題であることは、各国のギリシャ国債保有額をみれば分かる。
まず外国の金融機関がもつギリシャ国債保有額を確認しておこう(単位はドル、2011年6月現在)。
フランス 567億4000万 オーストリア 33億5100万
ドイツ 339億7400万 スイス 28億6400万
イギリス 140億6000万 ペルギー 19億900万
ポルトガル 102億8600万 アメリカ 73億1800万
オランダ 50億300万 日本 16億9500万
イタリア 40億4500万 インド 2200万
これらの債権を各国の公的金融機関や銀行が保有しているのであるから、ギリシャのデフォルトがヨーロッパのみならず世界の金融不安を引き起こすことは明らかだ。とくにイタリア、ポルトガルは財政赤字にあえいでいるから、多額の国債の損失は致命的であるし、日本とて対岸の火事というわけにはいかない。
ギリシャ危機の際に、フランスとドイツを中心にしたEUと国際通貨基金IMFが急濾対応した。2011年H月に打ち出した内容は、ギリシャにきびしい緊縮財政や赤字削減を求めながら、ギリシャの国債の半額分を債務免除するというものである。しかしその後、この緊縮財政、公務員の賃金カットをめぐって、ギリシャ国内で激しいデモや抗議が発生し、そのニュースは全世界へ発信された。これに対する多くの識者の反発や冷ややかな反応が、ギリシャ危機解決のむずかしさを物語る。
さらに2012年5月6日の総選挙の結果、EU離脱も辞さないとの「急進左派連合」(SYRIZA)の強硬派が主導権を握ったが、解決の手立てもなく、翌月の6月17日に再選挙がおこなわれた。その選挙結果は、「ユーロ残留」を主張する中道右派の「新民主主義党」(ND)が129議席を得て第一党となった。「全ギリシャ社会主義運動」33議席と合わせると、「財政緊縮派」が過半数を取ったので、かろうじて当面、最悪の事態を乗り切ることができた。財政再建路線を推進すれば、緊急の支援融資によって、国の財政が破綻することはひとまず回避できるからだ。しかしギリシャは危機を依然として抱えたままである。
2 ギリシャ問題はドイツとどのような関係にあるのか
ドイツはフランスと協力してEU統合を主導してきたが、現在のドイツはEU統合のメリット、すなわちューロ経済の貿易黒字をもっとも享受している国である。かつてューロ導入以前のマルクの時代では、ドイツ経済が好調になると、マルク高になり、それが輸出を圧迫した。しかしEU17カ国が導入したューロ圏では、全体としてレートが決まり、ドイツー国の経済と直接連動しない。
ギリシャ、それに次ぐスペイン危機は、EUに対する信頼を損ね、ューロ安を引き起こした。これが皮肉なことに、結果的にドイツの輸出産業には追い風になっている。事実、ューロ圏のなかで貿易収支の黒字国は、ドイツとオランダだけなのだ。さらにューロ安は、ドイツにとって外国市場の拡大にも貢献するという効果をもたらした。
輸出大国ドイツは、現在、ユーロ安によってマルク時代より、はるかに多くのメリットを享受している。あわせてシュレーダー前首相が提唱した構造改革の成果もあらわれてきた。近年のドイツは経済が復調し、貿易収支が改善され、失業率が大幅に低下している。わが世の春を謳歌しているドイツ産業界は、本音の部分では、ユーロ体制の堅持という立場であるけれども、それをあからさまに発言しない。EUのなかでドイツが突出すると、他国から警戒されるからである。
経験を積んだメルケル首相も、この経済のメカニズムをじゅうぶん承知し、ギリシャ危機ではドイツが中心的役割を果たさねばならないことを認識している。たしかにドイツは、EU首脳からギリシャ問題に最大限コミットし、支援基金の拠出を求められている。しかしメルケル首相は、国内世論の反対によって安易に動くことができないのである。
ドイツとギリシャは、いわばコインの表と裏のような関係である。事実ギリシャの富裕層は、銀行から預金を引き出し、ドイツ国債を買い、保身に走っている。すなわちギリシャ経済が火の車になれば、ますますドイツが潤うというパラドックスが生じているのである。
3 ドイツ国内の反応はどうか
勤勉なドイツ人からすれば、ギリシャの労働人口の4分のIを占める公務員数、その給料の高さ、年金の良さは、信じがたい事実と映ってしまう。さらに緊縮財政に反対する暴動やデモを見て、もういい加減にしろというのが本音である。2012年8月のドイツの世論調査では、ギリシャのユーロ離脱やむなしが61%を占めているし、ドイツはすでに承認した財政支援を超えて援助すべきではないというのが72%である。これが率直なドイツ人の国民感情である。安易な救済策をおこなえば、それが前例となり、当事国はまじめに財政再建に取り組まないという、問題も生じるからである。
ところが現在、財政危機はギリシャだけでなく、スペインにも波及し、さらにイタリア、ポルトガルなどにも飛び火することが懸念されている。EUは危機回避の道筋として、欧州中央銀行による危機国の国債買い入れと、ユーロ圏救済基金「欧州安定メカニズム」(ESM)を発足させ、支援をおこなうことになった。たしかにドイツ国内では、メルケル首相はEUのメリットをドイツは受けているのだから、EUを守るべきだとする筋論を展開し、連邦議会は反対意見を押し切って、すでに2012年の6月に「欧州安定メカニズム」への負担金1900億ユーロの拠出を可決した。
ところがドイツ国内では、与野党議員を含む支援反対派は、「欧州安定メカニズム」支援そのものが基本法(憲法)違反だとし、3万7000人の署名を集めて訴訟を起こした。その判決が2012年9月12日に下され、結局、合憲と出たので、救済機関が10月に発足することになった。その結果、メルケル首相は、すでに議会の承認を得た上限1900億ユーロを拠出することになろう。
これによって一時的に、「ギリシャ危機」という迷宮からの出口が見えてきたようであるが、だからといってギリシャを含め、スペイン、イタリアなどの一連の財政危機が回避されたわけでない。これら諸国の「時限爆弾」はいつ爆発するか分からず、南欧のドミノ連鎖を食い止める努力が、これからも続いていく。メルケル首相だけでなく、EUの首脳たちの誰もが、ギリシャのユーロ圏離脱からEU崩壊へという最悪のシナリオを望んでいるはずはない。かれらは第2次世界大戦後、先人たちが営々と築いてきたEUの成果を、維持・発展させようとしているのだから。
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EUの光と影 グローバル化とローカル化の狭間で
『現代ドイツを知るための62章』より
現在EUはヨーロッパ統合というグローバル化と、各国の主権重視や地域分権制という一種のローカル化のふたつの力学が作用している。一見すると正反対方向の動向のようであるが、そのメカニズムがEUの光と影をつくり出しているといえる。本章では今、EU内で起きているこの現象をクローズアップしてみたい。
ヨーロッパ統合への道は、ヨーロッパ大陸から戦争をなくすための民族の対立を超えた和解へのプロセスであった。とりわけ長年の宿敵関係にあったドイツとフランスは国益の対立から、近現代史においてわずか100年間で普仏戦争から第1次、第2次世界大戦へと3度も戦火をまじえ、ヨーロッパを壊滅的な悲劇へと巻き込んだ。
例を挙げれば、アルザス地方にある人口23万人のフランス歴史都市ストラスブールは、今日では欧州統合の象徴の町ともいえ、欧州議会の所在地として国際政治の要にもなっている。ストラスブールとは「街道の町」という意味で、ドイツとフランスの国境に位置し、普仏戦争や2度の世界大戦ではドイツとフランスが家族・肉親が敵味方に分かれて何度も戦ったところで、つねに戦勝国側の領土となってきた。
A・ドーデーの小説『最後の授業』(1873)は、普仏戦争後におけるアルザスのドイツ領編入時の作品だが、ここでは国語としてのドイツ語、フランス語も戦争のたびに変わるという悲劇が繰り返されてきた。今、この地はその歴史に学び、ヨーロッパの地を再び戦場としないための努力が払われており、ドイツ語が小・中学校で積極的に学習、指導されている。
とくに中学生には英語かドイツ語を選択させているが、ドイツ語を学ぶ生徒が半数以上いるという。まさに隣国の言語を通して異文化への理解を深めていこうとする地道な努力が重ねられている。その一環として両国は恩讐を超え、統一歴史教科書を完成させたのは、画期的な試みであった。事実、第2次世界大戦後、EU圏においては戦火をまじえることはなかった。
EUの歴史のなかで、ユーロの誕生も特筆すべき成果である。1999年1月1日、EUは共通通貨ユーロを誕生させた。ユーロ加盟の条件として、財政赤字をGDP(国内総生産)の3%以内にするというきびしい条件は、スペインやポルトガル、イタリアなどの国々に経済における構造改革を義務づけ財政状態を改善させた。しかし加盟にあたって、財政の報告書がかならずしも実態と一致しなかったので、その矛盾が現在、ギリシャ危機、あるいはEU危機として噴出しているのは事実である。
さて現在、17力国が導入しているユーロによって、加盟国だけでなく世界貿易、あるいはヨーロッパを訪れるツーリストにも、実感としてヨーロッパがひとつであることを自覚することができる。これはEU域内市場における金融改革の一元化により、より公正な競争条件のもとで効率的な経済活動をおこなうということで、両者の利点を活かそうとするものである。
ヨーロッパ各国が通貨を共有することにより、旅行者は通貨両替のわずらわしい手間が省け大きなメリットがある。またEU国内でも、同じ通貨を使用することでヨーロッパの人びとはひとつになったことを日常的に実感することにもなる。他方では賃金や商品の価格の透明性が増し、企業間の競争が激化するという現象もみられる。
興味深いことだが、EUの東方拡大は、近代国家が成立するまでの地理的なつながりを復活させたように思える。(プスブルク帝国は13世紀から第1次世界大戦までヨーロッパ大陸に君臨したが、オーストリアを中心としたドイツ語文化圏とEUの東方拡大地域が重なる。そこにはドイツが歴史、文化、経済、政治の中心であるとの響きがあり、「汎ゲルマン主義」を想起させる。これは経済的な中心国となったドイツに対する警戒感を引き起こす一因となっている。
さらには、EUは国境のために人為的に分離、統治されていた少数民族が国家を超えてひとつの民族文化圏を再構築するという効果を生み出した。スペインと南フランスの国境地方に存在する少数民族のバスク族は国境を行き来し、国家を超えた独特の文化圏を形成してきたが、その交流が盛んになった。
またスペイン北東部の自治州カタルーニャは、首都マドリードヘの対抗意識が強く、カタルーニャ文化を再認識しようとしている。さらには、地中海貿易圏のような中世海洋国家の時代に栄えた地域経済圏が、市場統合の動きのなかで結びつきを強めている動きがみられる。国境地域においては、国家という枠組みを超えて、地域結合体(回「o‐「吝目」が経済面だけでなく、文化や教育面でもたがいに協力し合っていることが分かる。
さてEUは東欧地域に拡大し、単一労働市場が形成されたので、域内では国籍の差別なく、資本の移動や就労の自由が保障されている。そして「シェングン条約」によって、域内では関税の撤廃や査証なく人の移動も自由になった。なお東欧という名称は、EU、国連、アメリカ、日本で区分が異なり、中欧との線引きを定義するのがむずかしいが、ここでは2004年以降EUに加盟した国々ということにしたい。
2004年5月にはEUは東欧へと広がり、あらたに10か国が加盟し、2007年1月1日から、さらに27力国へと膨らんだ。その結果、あらたにEUに加盟した東欧の国々では、経済面においてふたつの新しい社会現象が生じている。第1に、旧EU域内へ新規加盟国から仕事を求めて移住労働者が増加するという現象であり、第2として、資本の側からは安い人材を求め、労働賃金の高い旧加盟国から、新規加盟国へ企業進出するという現象である。これはEU全体から見れば、経済活動の活性化を促すものといえるが、しかしこれもナショナリストから見れば、とくに流入する労働者は移民と同じようであり、排斥運動につながっていった。
ドイツではネオナチが、外国人に対して敵対活動をおこなってきた。連邦憲法擁護局によると、2010年にネオナチは5600人で前年より600人増加している。とくにネオナチは、難民キャンプを襲撃し、外国人を殺戮してきた。記憶に新しいのは、2011年にネオナチ3人組が警官一人を含む外国人10人を暗殺していた事件が発覚したことである。また極右翼も直近で、1万人から1万400人に増えている。
このような極右翼的なナショナリズムは、単にドイツだけではなく、フランスにも存在する。フランスやベルギーではネオナチとはまったく違う次元であるが、ムスリム女性の被るヴェールを政教分離という理念のもとに、公教育の場では禁止した。これも建前は別として、グローバル化の反対の動きと解釈できる。しかしながら、統合へのグローバル化の動きは、決して各国の独自の文化や言語、生活習慣といったものを捨て去ることではない。むしろ国境というものがなくなることで、みずからの歴史や文化、伝統に対して誇りや愛着を再認識し、共生の重要さを深化させるものなのである。
現在EUはヨーロッパ統合というグローバル化と、各国の主権重視や地域分権制という一種のローカル化のふたつの力学が作用している。一見すると正反対方向の動向のようであるが、そのメカニズムがEUの光と影をつくり出しているといえる。本章では今、EU内で起きているこの現象をクローズアップしてみたい。
ヨーロッパ統合への道は、ヨーロッパ大陸から戦争をなくすための民族の対立を超えた和解へのプロセスであった。とりわけ長年の宿敵関係にあったドイツとフランスは国益の対立から、近現代史においてわずか100年間で普仏戦争から第1次、第2次世界大戦へと3度も戦火をまじえ、ヨーロッパを壊滅的な悲劇へと巻き込んだ。
例を挙げれば、アルザス地方にある人口23万人のフランス歴史都市ストラスブールは、今日では欧州統合の象徴の町ともいえ、欧州議会の所在地として国際政治の要にもなっている。ストラスブールとは「街道の町」という意味で、ドイツとフランスの国境に位置し、普仏戦争や2度の世界大戦ではドイツとフランスが家族・肉親が敵味方に分かれて何度も戦ったところで、つねに戦勝国側の領土となってきた。
A・ドーデーの小説『最後の授業』(1873)は、普仏戦争後におけるアルザスのドイツ領編入時の作品だが、ここでは国語としてのドイツ語、フランス語も戦争のたびに変わるという悲劇が繰り返されてきた。今、この地はその歴史に学び、ヨーロッパの地を再び戦場としないための努力が払われており、ドイツ語が小・中学校で積極的に学習、指導されている。
とくに中学生には英語かドイツ語を選択させているが、ドイツ語を学ぶ生徒が半数以上いるという。まさに隣国の言語を通して異文化への理解を深めていこうとする地道な努力が重ねられている。その一環として両国は恩讐を超え、統一歴史教科書を完成させたのは、画期的な試みであった。事実、第2次世界大戦後、EU圏においては戦火をまじえることはなかった。
EUの歴史のなかで、ユーロの誕生も特筆すべき成果である。1999年1月1日、EUは共通通貨ユーロを誕生させた。ユーロ加盟の条件として、財政赤字をGDP(国内総生産)の3%以内にするというきびしい条件は、スペインやポルトガル、イタリアなどの国々に経済における構造改革を義務づけ財政状態を改善させた。しかし加盟にあたって、財政の報告書がかならずしも実態と一致しなかったので、その矛盾が現在、ギリシャ危機、あるいはEU危機として噴出しているのは事実である。
さて現在、17力国が導入しているユーロによって、加盟国だけでなく世界貿易、あるいはヨーロッパを訪れるツーリストにも、実感としてヨーロッパがひとつであることを自覚することができる。これはEU域内市場における金融改革の一元化により、より公正な競争条件のもとで効率的な経済活動をおこなうということで、両者の利点を活かそうとするものである。
ヨーロッパ各国が通貨を共有することにより、旅行者は通貨両替のわずらわしい手間が省け大きなメリットがある。またEU国内でも、同じ通貨を使用することでヨーロッパの人びとはひとつになったことを日常的に実感することにもなる。他方では賃金や商品の価格の透明性が増し、企業間の競争が激化するという現象もみられる。
興味深いことだが、EUの東方拡大は、近代国家が成立するまでの地理的なつながりを復活させたように思える。(プスブルク帝国は13世紀から第1次世界大戦までヨーロッパ大陸に君臨したが、オーストリアを中心としたドイツ語文化圏とEUの東方拡大地域が重なる。そこにはドイツが歴史、文化、経済、政治の中心であるとの響きがあり、「汎ゲルマン主義」を想起させる。これは経済的な中心国となったドイツに対する警戒感を引き起こす一因となっている。
さらには、EUは国境のために人為的に分離、統治されていた少数民族が国家を超えてひとつの民族文化圏を再構築するという効果を生み出した。スペインと南フランスの国境地方に存在する少数民族のバスク族は国境を行き来し、国家を超えた独特の文化圏を形成してきたが、その交流が盛んになった。
またスペイン北東部の自治州カタルーニャは、首都マドリードヘの対抗意識が強く、カタルーニャ文化を再認識しようとしている。さらには、地中海貿易圏のような中世海洋国家の時代に栄えた地域経済圏が、市場統合の動きのなかで結びつきを強めている動きがみられる。国境地域においては、国家という枠組みを超えて、地域結合体(回「o‐「吝目」が経済面だけでなく、文化や教育面でもたがいに協力し合っていることが分かる。
さてEUは東欧地域に拡大し、単一労働市場が形成されたので、域内では国籍の差別なく、資本の移動や就労の自由が保障されている。そして「シェングン条約」によって、域内では関税の撤廃や査証なく人の移動も自由になった。なお東欧という名称は、EU、国連、アメリカ、日本で区分が異なり、中欧との線引きを定義するのがむずかしいが、ここでは2004年以降EUに加盟した国々ということにしたい。
2004年5月にはEUは東欧へと広がり、あらたに10か国が加盟し、2007年1月1日から、さらに27力国へと膨らんだ。その結果、あらたにEUに加盟した東欧の国々では、経済面においてふたつの新しい社会現象が生じている。第1に、旧EU域内へ新規加盟国から仕事を求めて移住労働者が増加するという現象であり、第2として、資本の側からは安い人材を求め、労働賃金の高い旧加盟国から、新規加盟国へ企業進出するという現象である。これはEU全体から見れば、経済活動の活性化を促すものといえるが、しかしこれもナショナリストから見れば、とくに流入する労働者は移民と同じようであり、排斥運動につながっていった。
ドイツではネオナチが、外国人に対して敵対活動をおこなってきた。連邦憲法擁護局によると、2010年にネオナチは5600人で前年より600人増加している。とくにネオナチは、難民キャンプを襲撃し、外国人を殺戮してきた。記憶に新しいのは、2011年にネオナチ3人組が警官一人を含む外国人10人を暗殺していた事件が発覚したことである。また極右翼も直近で、1万人から1万400人に増えている。
このような極右翼的なナショナリズムは、単にドイツだけではなく、フランスにも存在する。フランスやベルギーではネオナチとはまったく違う次元であるが、ムスリム女性の被るヴェールを政教分離という理念のもとに、公教育の場では禁止した。これも建前は別として、グローバル化の反対の動きと解釈できる。しかしながら、統合へのグローバル化の動きは、決して各国の独自の文化や言語、生活習慣といったものを捨て去ることではない。むしろ国境というものがなくなることで、みずからの歴史や文化、伝統に対して誇りや愛着を再認識し、共生の重要さを深化させるものなのである。
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メルケル首相と現代政治 「コールのお嬢さん」
『現代ドイツを知るための62章』より
ドイツの政治家のなかで、女性の占める割合は日本より多いが、2010年の統計では、まず各政党の党員の女性比は、「左翼党」と「緑の党」が高く、それぞれ37・3%、37・1%であるのに対し、「キリスト教民主/社会同盟」(CDU/CSU)は25・6%であった。さらに現在の国会議員数のうち、女性数は「キリスト教民主/社会同盟」がもっとも少なく、20%にも満たない(次ページ表参照)。このような現代の保守政党のなかで、アングリカーメルケルがはじめての女性として首相に上り詰めたのは、強運だけではなく傑出した政治的能力をもっていたからであろう。
女性首相メルケルのキャリアは、ドイツ現代政治史そのものであるといっても過言ではない。簡単に首相の略歴を確認すると、ドイツ現代史に呼応して4つの転機があったと分析できる。旧西ドイツの(ンブルクで1954年に生まれたが、プロテスタントの牧師であった父の教区移動と共に、生後まもない1955年に、旧東ドイツヘ移住したので、彼女は実質的には東ドイツ出身者ともいえる。
まず第1の転機は自然科学者への道である。メルケルはライプツィヒ大学出身で、理論物理学を専攻し、自然科学者として、1978年から東ドイツ科学アカデミーに研究員として就職した。1986年に理学博士の学位を取得、旧東ドイツの政治体制を知っていた彼女であったので、当時、意図的か否かは分からないが、政治にはかかわらず、研究者の道を歩んだ。
第2の転機は、ベルリンの壁の崩壊を機に、研究者から政治家へ転身を果たしたことである。壁の崩壊後、旧東ドイツの体制に対する懐疑心から、彼女は科学アカデミーの研究員を辞任することになる。当時、1990年に「キリスト教民主/社会同盟」の首相、ヘルムート・コールは、東ドイツの明るい未来を語り、人びとはその夢に酔っていた。たしかに東西冷戦構造からの脱却、ドイツ民族の再統一へのアピールは、多くの人びとの熱狂的な賛同を得た。
その熱気にメルケルもこころを動かされたのであろう。彼女は東ドイツの「民主主義への出発」の結党に参加、統一前から政界に進出した。1990年、彼女はコール首相と出会い、10月3日の再統一後、東の「キリスト教民主同盟」と合同した同党のメンバーになった。旧東ドイツでは目立った政治活動をしていなかったので、それは彼女に対する逆風ではなく、むしろ追い風となった。北ドイツのメクレンブルク=フォアポンメルン州の「キリスト教民主同盟」から国政に出馬し、当選を果たした。
メルケルは「コールのお嬢さん」といわれ、首相の秘蔵っ子であった。1年生議員であるにもかかわらず、1991年に女性・青少年担当大臣を務めることになったが、彼女の入閣は、東ドイツ出身者であったからと理解された。1998年にコール首相の敗北によって、「キリスト教民主同盟」は野党となったけれども、そのなかで逆に彼女の党内におけるキャリアが加速され、1998年から「キリスト教民主同盟」の幹事長、さらに2000年に党首に就任する。
第3の転機は2005年からの首相就任である。2005年選挙で「キリスト教民主同盟」と「社会民主党」の大連立政権が成立し、首相には「キリスト教民主同盟」のメルケルが選出された。就任当初、政治的手腕は未知数であったが、しだいに存在感を示しはじめた。国際デビューは2007年の(イリゲンダム・サミットであったが、ホスト国の役割をじゆうぶん果たした。
その後、指導力を発揮して、EUをリードする政治家とみなされるようになり、現在ではメルケル政権は2期目に入っている。コール首相のような長期政権になるのかどうか分からぬが、2011年のドイツ経済状況は好調であり、経済成長率は3%を維持した。現在、その陰りがみられるものの、成侵率はプラスを確保できる以込みである。さらに政治半腕の判断は、失業率の指数で見ると分かり易い。
たとえば2012年1月の統計では、失業率はドイツ全体で7・3%である。メルケルが政権を引き継いだときには、それはH%を超えていたので、かなり低下していることが分かる。たしかに現在、ギリシャ問題に手を焼いているとはいえ、彼女の手堅い政権運営には定評があり、安定した人気を保持している。
第4の転機はフクシマ原発事故以降、メルケル首相がドイツを脱原発へ方向転換したことである。その経緯は曹早で説明するが、結論は2022年までに原発17基を全廃するとした。フクシマ以降のドイツの対応はすばやく、こうしてドイツは原発40年の歴史を閉じることになる。これは単なる政策の変更で、とても転機といえたものではないという反論があろう。しかし筆者も面識のある、ミュンヘン在住の熊谷徹氏は、『メルケルの転向』(2012)を出版され、これを読めば、ドイツ人の脱原発の倫理的理由が手に取るように分かり、メルケルの決断は、歴史的な意義をもっといえる。独断であろうともリスクに対しては、徹底的に安全を求める姿勢は、まさしく「ドイツ的」というところなのか。
ただし本音の部分では、フクシマ原発事故以来、ドイツに強烈な反原発の風が吹いているなかで、脱原発への大転換は、原発容認が世論からバッシングされるのを見越しての決断であると噂されている。政治決戦である2013年の国政選挙において、「キリスト教民主同盟」の地盤を維持する狙いがあったとするならば、コール元首相に似てなかなかの遠謀深慮の政治家であるといえる。事実、反原発を党是としてきた「緑の党」や脱原発の「社会民主党」は、対立軸を喪失し、選挙戦術の再検討を強いられている。
以上、メルケル首相の4つの転機を述べたが、最後の第5の転機だけは起こってほしくないと願うばかりである。つまりユーロ崩壊への引き金を引く役である。EUの命運はドイツが担っているといっても過言ではないが、しかしこの問題は、後の「EUとギリシャ危機」の章で語ろう。いずれにしても現代のドイツの政治から目が離せないが、メルケル首相はその中心となる人物といえる。
ドイツの政治家のなかで、女性の占める割合は日本より多いが、2010年の統計では、まず各政党の党員の女性比は、「左翼党」と「緑の党」が高く、それぞれ37・3%、37・1%であるのに対し、「キリスト教民主/社会同盟」(CDU/CSU)は25・6%であった。さらに現在の国会議員数のうち、女性数は「キリスト教民主/社会同盟」がもっとも少なく、20%にも満たない(次ページ表参照)。このような現代の保守政党のなかで、アングリカーメルケルがはじめての女性として首相に上り詰めたのは、強運だけではなく傑出した政治的能力をもっていたからであろう。
女性首相メルケルのキャリアは、ドイツ現代政治史そのものであるといっても過言ではない。簡単に首相の略歴を確認すると、ドイツ現代史に呼応して4つの転機があったと分析できる。旧西ドイツの(ンブルクで1954年に生まれたが、プロテスタントの牧師であった父の教区移動と共に、生後まもない1955年に、旧東ドイツヘ移住したので、彼女は実質的には東ドイツ出身者ともいえる。
まず第1の転機は自然科学者への道である。メルケルはライプツィヒ大学出身で、理論物理学を専攻し、自然科学者として、1978年から東ドイツ科学アカデミーに研究員として就職した。1986年に理学博士の学位を取得、旧東ドイツの政治体制を知っていた彼女であったので、当時、意図的か否かは分からないが、政治にはかかわらず、研究者の道を歩んだ。
第2の転機は、ベルリンの壁の崩壊を機に、研究者から政治家へ転身を果たしたことである。壁の崩壊後、旧東ドイツの体制に対する懐疑心から、彼女は科学アカデミーの研究員を辞任することになる。当時、1990年に「キリスト教民主/社会同盟」の首相、ヘルムート・コールは、東ドイツの明るい未来を語り、人びとはその夢に酔っていた。たしかに東西冷戦構造からの脱却、ドイツ民族の再統一へのアピールは、多くの人びとの熱狂的な賛同を得た。
その熱気にメルケルもこころを動かされたのであろう。彼女は東ドイツの「民主主義への出発」の結党に参加、統一前から政界に進出した。1990年、彼女はコール首相と出会い、10月3日の再統一後、東の「キリスト教民主同盟」と合同した同党のメンバーになった。旧東ドイツでは目立った政治活動をしていなかったので、それは彼女に対する逆風ではなく、むしろ追い風となった。北ドイツのメクレンブルク=フォアポンメルン州の「キリスト教民主同盟」から国政に出馬し、当選を果たした。
メルケルは「コールのお嬢さん」といわれ、首相の秘蔵っ子であった。1年生議員であるにもかかわらず、1991年に女性・青少年担当大臣を務めることになったが、彼女の入閣は、東ドイツ出身者であったからと理解された。1998年にコール首相の敗北によって、「キリスト教民主同盟」は野党となったけれども、そのなかで逆に彼女の党内におけるキャリアが加速され、1998年から「キリスト教民主同盟」の幹事長、さらに2000年に党首に就任する。
第3の転機は2005年からの首相就任である。2005年選挙で「キリスト教民主同盟」と「社会民主党」の大連立政権が成立し、首相には「キリスト教民主同盟」のメルケルが選出された。就任当初、政治的手腕は未知数であったが、しだいに存在感を示しはじめた。国際デビューは2007年の(イリゲンダム・サミットであったが、ホスト国の役割をじゆうぶん果たした。
その後、指導力を発揮して、EUをリードする政治家とみなされるようになり、現在ではメルケル政権は2期目に入っている。コール首相のような長期政権になるのかどうか分からぬが、2011年のドイツ経済状況は好調であり、経済成長率は3%を維持した。現在、その陰りがみられるものの、成侵率はプラスを確保できる以込みである。さらに政治半腕の判断は、失業率の指数で見ると分かり易い。
たとえば2012年1月の統計では、失業率はドイツ全体で7・3%である。メルケルが政権を引き継いだときには、それはH%を超えていたので、かなり低下していることが分かる。たしかに現在、ギリシャ問題に手を焼いているとはいえ、彼女の手堅い政権運営には定評があり、安定した人気を保持している。
第4の転機はフクシマ原発事故以降、メルケル首相がドイツを脱原発へ方向転換したことである。その経緯は曹早で説明するが、結論は2022年までに原発17基を全廃するとした。フクシマ以降のドイツの対応はすばやく、こうしてドイツは原発40年の歴史を閉じることになる。これは単なる政策の変更で、とても転機といえたものではないという反論があろう。しかし筆者も面識のある、ミュンヘン在住の熊谷徹氏は、『メルケルの転向』(2012)を出版され、これを読めば、ドイツ人の脱原発の倫理的理由が手に取るように分かり、メルケルの決断は、歴史的な意義をもっといえる。独断であろうともリスクに対しては、徹底的に安全を求める姿勢は、まさしく「ドイツ的」というところなのか。
ただし本音の部分では、フクシマ原発事故以来、ドイツに強烈な反原発の風が吹いているなかで、脱原発への大転換は、原発容認が世論からバッシングされるのを見越しての決断であると噂されている。政治決戦である2013年の国政選挙において、「キリスト教民主同盟」の地盤を維持する狙いがあったとするならば、コール元首相に似てなかなかの遠謀深慮の政治家であるといえる。事実、反原発を党是としてきた「緑の党」や脱原発の「社会民主党」は、対立軸を喪失し、選挙戦術の再検討を強いられている。
以上、メルケル首相の4つの転機を述べたが、最後の第5の転機だけは起こってほしくないと願うばかりである。つまりユーロ崩壊への引き金を引く役である。EUの命運はドイツが担っているといっても過言ではないが、しかしこの問題は、後の「EUとギリシャ危機」の章で語ろう。いずれにしても現代のドイツの政治から目が離せないが、メルケル首相はその中心となる人物といえる。
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生きる力
生きる力
昨日、退院したのは、正解でした。生きる力が湧いてきます。
朝起きたら、精巣の方も軽い感じでした。熱は36.6度です。
スタバで名前を書くこと
豊田市駅前のスタバでラテを頼みました。かなり、混雑しています。注文時に名前を聞かれた。取り違えをなくすことと、コミュニケーションを考えているとのこと。
ベルギーのブリュセル駅中のスタバで、同様に名前を聞かれた。ビックリした。カップに書き込んでいた。ドイツのスタバでも同様なことが行われていた。
意志からの小細工
意志はいろいろな小細工を仕掛けてきている。その都度、時間の消費に悩まされてきた。先が見えるたびに、挫折されてきた。
土曜日のパートナーからの相談で、自分の存在の確認ができたので、大いに助かりました。心の支えです。
意志は次に何を仕掛けてくるか。それ以前に仕掛けないといけない。この一か月後の本はすべてリカバリーします。再攻勢です。
歩き回るのは無理
調子に乗って、豊田市を動き回っていた。体温を監視しながら。まだ、歩くと痛いです。手術した部分です。切って、除去して、縫っただけなのに。まあ、こうやって、スタバまで来れただけで十分です。
体温が37度を超えたので、早急に帰宅しました。精巣のところの膿が増えている感じです。とりあえず、寝ながら、体温の安定を図ります。抗生物質は当てにはなりません。
奥さんとのメール
夜ご飯は食べないの?
食べられそうもないです。抗生物質も飲みました。
了解!
昨日、退院したのは、正解でした。生きる力が湧いてきます。
朝起きたら、精巣の方も軽い感じでした。熱は36.6度です。
スタバで名前を書くこと
豊田市駅前のスタバでラテを頼みました。かなり、混雑しています。注文時に名前を聞かれた。取り違えをなくすことと、コミュニケーションを考えているとのこと。
ベルギーのブリュセル駅中のスタバで、同様に名前を聞かれた。ビックリした。カップに書き込んでいた。ドイツのスタバでも同様なことが行われていた。
意志からの小細工
意志はいろいろな小細工を仕掛けてきている。その都度、時間の消費に悩まされてきた。先が見えるたびに、挫折されてきた。
土曜日のパートナーからの相談で、自分の存在の確認ができたので、大いに助かりました。心の支えです。
意志は次に何を仕掛けてくるか。それ以前に仕掛けないといけない。この一か月後の本はすべてリカバリーします。再攻勢です。
歩き回るのは無理
調子に乗って、豊田市を動き回っていた。体温を監視しながら。まだ、歩くと痛いです。手術した部分です。切って、除去して、縫っただけなのに。まあ、こうやって、スタバまで来れただけで十分です。
体温が37度を超えたので、早急に帰宅しました。精巣のところの膿が増えている感じです。とりあえず、寝ながら、体温の安定を図ります。抗生物質は当てにはなりません。
奥さんとのメール
夜ご飯は食べないの?
食べられそうもないです。抗生物質も飲みました。
了解!
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