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他者が存在しない

他者が存在しない

 私にとっては、他者が存在しないことは当たり前です。

 私に固有なものの世界の中でも、私は自然風景の美に魅了されるし、本を読むことだってできる。ここでの自然とは現象学的還元を受けた後の現象的自然なるものである。

 また、本はだれか他の人によって書かれたものと想定してはならない。何しろ、世界には他の自我が存在していないのだから。そして、この世界の中心に位置するものは私の身体とそれと結びついた、私の人格である。

フッサールのデカルト的査察への主観性構成論

 ①独特なエポケーを受けた世界(私に固有なものの世界)の中心に位置するものは、私の身体である。

 ②そこに一つの物体が現れるとする(他者の身体なのだが、まだ、身体という意味を持たない)

 ③物体は私の身体に似ている。そこで、対化の現象が起こり、ある種の統括で、物体は身体の意味を獲得する。

 ④これは新たな身体を自己の身体とする、他者の現象世界とが、私と私にとっての現象世界としての思考的変容として、現れる。

 思考的変容とは、(ちょうど私がそこに居るように)そこから、現象的世界が開け、その中心としての身体を個とする他の私(他我)が構成されることを考えてよい。

 それと同時に、その対化による、他者との対比によって、私の自己も初めて、私という意味を受け取る。

すべての人間は私である

 結局、すべての人間は私であるという、世界観的な展開がみられる。これはものすごく、孤独なことです。

 同時に生きる他者の心の想像が想像であって、現実ではないことに気付いたからだ。この思いは中学の時に、非常に強かった。そうとしか、説明できない。

 だから、現象は現象としての自分なりのロジック、その結果としてある。だから、自分にとっては当たり前だった。他者は、過去か、未来の私である。

現象学というのは

 現象学というのは、目の前にあるものだけで考えることだけです。思考停止せずに、考える。自分の分かる範囲で納得する。その中で、他人は存在しない。というのは、存在する理由が分からない。

 納得いかない以上は、それを通すしかないでしょう。そういう単純なことです。中学生の時に思ったことです。西洋では、神が存在するから。神が存在するなら、他人も存在する。

奥さんへのメール

 朝の血糖値は105でした。臥薪嘗胆。唯我独尊。

 今日、管を外すそうです。

 外しましたが、パッドがいることになりました。部屋にあります。持って来てください。
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地方自治の類型

地域のコミュニティと個人の分化

 最大のポイントは地域のコミュニティから中央を作り出すことです。国を超えてでも、お互いに連携すること。企業のコミュニティ、販売店のコミュニティなどとも連携できるような、横のつながりを持てること。

 その時にベースになるのは、個人の分化。本当にそこまで行けるかどうか。地方分権から個人の分化まで行くというやり方はムリです。地方分権になるまでの道は遠い。そこまでに勝負は決まります。

 個人の方を先にする。それを企業が助ける。行政は均一のサポートを主体としているので、変わることはできない。そうなってくると、組織の分化のなかでは、企業の分化に期待したい。メリット追求で儲かる仕組みを市民との関係で作り出せばいい。

地方自治の類型

 地方自治の方は、今のままでも、生きていけるという、お役所体質があるから、動かないでしょう。市民とか、マーケティングという感覚が欠けています。

 ハッキリ言って、国の一部の機能をやっていれば、食っていけます。お金は中央で握られているけど、2/3は地方自治で使っている。

 類型で考えると、集権・分離型はほとんど、国が全て、事務処理を行っているので、権限も責任も持たない。社会主義国家のようで、効率が悪い。

 分権・分離型では、一定領域で、自治体の責任で事務処理が行われて、国の関与は行われない。イギリスなどの英米系の国家に多く見られる形態。

 集権・融合型では、事務処理では国が財源を留保し、執行だけを自治体に任せるという形態。戦後の日本のパターン。フランスなどもこの形態。

 分権・融合型では、国はガイドラインの設計とか財源調整などでは関与するが、実際の事務事業の企画・実施・評価に関する裁量権は自治体が保有する。スウェーデンなどの北欧の国家による形態である。

 とりあえず、分権・融合型になってもらう。

地方分権としての図書館クラウド

 地方分権をいかに進めるかというところでは、市民参画をソーシャルネットワークを使って、情報共有して、自分たちの意思をまとめて、力にして、自分たちがすることは自分たちでやる。

 その進むべき道を指し示す、一番分かり易いのが図書館クラウドでしょう。ライブラリというものを、いかに皆のものにしていくのか、そこから意見をどのように求めていくのか、どう見つけていくのか、生涯学習ではないけど、そのための場を明確にしていくことです。

現象そのものへ

 現象から本質へというところから、現象そのものへ。科学的根拠というよりも、見えているもの。

 私たちは目の前の花瓶が裏側を備え、誰も見ていなくても存在を続ける、客観的な実在であると思っている。

 世界そのものが、私が生まれる前から存在して、私が眠っている間も存在し、存続し、死後も存在する、巨大な、客観的実在であると信じている。

 私はこれを信じていません。それが「存在と無」です。外なる世界として見ています。内なる世界にはそんなものはありえません。

超越論的自我

 超越論的自我を超越論的と呼ぶのは、経験的自我の超越論的構成の主体となるからである。同じ理由で、それは超越論的主観性と呼ばれることがある。

 私が私である体験とは、経験的自我と超越論的自我の分裂の体験である。他者の存在の認識は、西洋哲学では、ほとんど扱われなかった。
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新たな公共と個人の分化

公的部分・民間部分の組み合わせ

 公的部分はA、民間・非営利部分はB、民間営利部分はCと分けて、それぞれがどう重なるかとみると、7つに累計される。

 一番は、行政が直営的なサービスを提供する領域。

 二番は、独立性を持つ、個人や家族の私的生活や各種集合の活動領域。

 三番は、原則として、市場メカニズムの作用で、企業者が自由な企業活動を行う領域。

 四番は、公的部門と市民およびその集団が問題ごとに適当な役割分担をしながら、協力的ないしは協働的な対応をしていく領域。

 五番は、二番と三番の民間部門同士の協力的な活動領域。

 六番は、公的な部分と民間部分の閉域な活動が何らかの形で重なり合う領域。

 七番は、三番において、BとCが協力的に行う事業において、Aが資金援助、あるいは一定以上の規制や行政指導の行政関与を行うことにより、A、B、Cの三者による協力的な活動になる領域。

 いわゆる、共有と言われている領域が拡張しているのが特徴である。

 まだまだ、公から見ているけど、私から見ていくことが重要です。

新たな公共と個人の分化

 新たな公共とは、公共領域を官独占ではなく、様々な主体が問題解決者になるべきである、この考え方のパラダイム転換をいう。

 個人の分化とか、組織の分化のベースはここです。色々な主体が問題解決していく。今、自分がやっていることだけが仕事ではない。

 そうでないと、公共部分だけをやる、専門的なカタチになってしまっては、答えが出てこない。

 多分、一番難しいのは個人の分化です。出来るかどうかです。やる気があるかです。組織の分化は儲かればできます。グーグルはやっています。

 個人の分化をやっているのは図書館です。本というものは、なぜ、存在するのか。そのテーマを皆に考えてもらいたい。それでもって、動いてもらいたい。

生涯学習の意味

 そこまでいけば、少しは変わるし、そのための生涯学習の意味が見えてくる。EUの2020年にしても、大学生のための教育だけでなく、生涯学習が大きなテーマになっています。それは北欧やドイツと同レベルにヨーロッパ全体を合わせるという、無茶な計画です。

 南欧はあくまでもローカルです。東欧は東欧のやり方があります。ウクライナがそんな形でやることができるかどうか。やって幸せになれるかどうか。あくまでも土地を使った農業をやっていくのが、彼らの幸せです。全部を産業化することではなく、サービス化することです。

デカルトの生活規範

 奥さんとの関係はデカルトの生活規範を持たせます。外なる世界は社会に合わせます。内なる世界をどう作るかです。これだけのことを経験すれば、本来、変わるはずだけど、変えたくはない。

地方自治の重要性

 1.地方自治は独裁や専制政治に対する防波堤となる。

 2.地方自治は政治に地域的実験が可能になる

 3.地方自治は民主政治のテキストです。

 4.地方自治は民主的な社会改革への道である。

 5.地方自治は地域の特性や民意の多様性を反映できる仕組みである。

 この定義そのものをコミュニティに当てはめることはできない。下から積上げるものになります。しかし、定義としては正しい。

オリンパスのICレコーダ

 オリンパスもやはり、200で一つのフォルダーになっている。ただし、自動的に切り替わらない。
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ショート・リターンとグランド・リターン

早めに目標を言う

 全ての目標に向けて。早めに目標を言うことは、相手にとって、脅威になる。

入院生活

 それにしても、単純に寝られない。これも妨害でしょう。前立腺が初めて、小さく、試される時です。

 部屋が替わりました。今までの部屋はナースセンターに近いところで、手術後の人の部屋でした。奥さんが来て、バタバタとやっていました。毎回、それで文句を言われています。

 尿は出たけど、ほとんどカスみたいなものです。あっちの方が出やすいみたいです。

 カテーテルも取り外したので、病人らしくないです。コンビニで買ってきて、食べていいのかな。腹はペコペコで、体重は減っている。熱は36.4です。カテーテルがなくなって、スッキリしています。

 座ったり、歩いたりしないといけない。運動はできないから。今はタラタラしている。集中力を高めることが重要です。

闘うしかない

 こうなったら、闘うしかないでしょう。自分が死ぬ前に作り出すものに対して、責任を持たないといけない。

集中力

 集中力だけは欠いてはいけません。生きている理由のために。なぜ、このことが伝わらないのか。時間は消費するものではなくて、生産するものです。

ショート・リターンとグランド・リターン

 こんなことまで分かってしまった。ホスピタリティはスタバに向いている。

 それぞれが相手を見て、変えていく。データベースなどの定量的なものよりも定性的なもの。一番大きいのは、現場から変えていく発想です。そうすることができる人間をどう育てるかというところがないです。

 夢というのは、不思議ですね。どこかへ行っていても、どんな状況でも、戻ろうとすれば、寝ているところに戻れます。それまでやっていることはチャラになります。

 これがショートならば、グランドがあるはずです。今、生きていることも同じです。ここでやっていることも、本当に目をつぶれば、元のところに戻ります。それがどこかは、本来は見えているはずです。

 それが存在なんでしょうね。自分が言うところの「存在と無」というところの存在を明らかにしないといけない。存在している間に。

店舗コミュニティの情報共有

 店舗コミュニティの情報共有というのは、かなり思い切ったスタンスです。全体を見た上でそれをやっていくことと、横を見ています。

 社会の動きにとって、どうしているのか。エネルギー問題一つをとっても、単にエネルギーを確保すればいいのではなく、どのようにして、皆で使っていくのか、皆という共有概念をどう持ってくるのか。

 これを実践できるのは、かなりの人でないとダメです。積上げるフェーズではなく、拡げるフェーズです。

時間は過ぎ去るべきではない

 道元曰く、私が山に登り、川を渡った時に、私は存在していた。私には時間があるに違いない。私はすでに存在している。

 時間は過ぎ去るべきではない。もしも、時間が去来によって、特徴づけられていないとすれば、私が山に登った時間は、今、ここにある。過去から現在、現在から未来への流れ、世俗的な時間の否定によってのみ、時間は真の時間になると、道元は考えていた。
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