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未唯への手紙

未唯への手紙

ハイデガー ドイツ学生団への呼びかけ

2020年03月20日 | 2.数学

『ハイデガーの超政治』より 学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」
以上でハイデガーが「自己主張」において、学問の本質をどのように規定したかについて概観した。彼はそれを民族の精神的世界の開示と捉えるのである。これは結局、存在者全体を主題化する形而上学以外の何ものでもない。彼は大学の教師たちがこうした学問の本質を体現し、そのことに基づいて学生を指導することを要求したのだった。彼によると、ドイツ学生団に必要とされるのはこのような指導者である。
ところでハイデガーが「自己主張」で提示する学問論的立場は、今も指摘したように、ナチズムの人種主義との対立をはらんでいた。大学において、こうした人種主義に立脚した強制的同質化を主導していたのがドイツ学生団であった。つまり「自己主張」はドイツ学生団との緊張関係のもと、それを「精神的な」方向へと導くことを目指していた。こうして「自己主張」は学問の本質についてひととおり論じたあと、今度はドイツ学生団への呼びかけに議論の重心を移していく。
ドイツ学生団は元来、ドイツの各大学の学生自治会の連合として組織されたものである。しかしドイツ学生団はナチスの政権獲得以前にすでに「ナチス学生同盟」によって支配されていた。ナチスはドイツ社会の他のどの領域よりも早く、大学において成功を収めていたのである。そしてドイツ学生団はナチスの政権掌握後、まだナチスが具体的な大学政策をもたない状況に乗じて、大学の国民社会主義的な強制的同質化を主導し、大学運営にも直接的な影響力を及ぼすようになっていた。大学の教授たちは自分たちの伝統的な権威を掘り崩す学生団に苦々しい思いを抱きながら、その急進化に対する対応に苦慮していたのである。
ハイデガーはこうした状況のなかで学長に就任した。先はども述べたとおり、彼は一方でドイツ学生団の人種主義を否定する立場を取っていた。しかし他方で、彼はドイツ学生団が学問の本質に目覚め、白身の大学改革構想を支持する力になることを期待していた。彼は同僚の教授たちが旧来の体制に固執する抵抗勢力になることは最初から織り込んでいた。したがってハイデガーの大学改革の基本的な戦略は、学生たちの変革への衝迫を正しい方向へと向け変えて、それを自身の改革の駆動力にするといったものだった。
ハイデガーはこのような学生たちへの期待を背景に、「自己主張」ではドイツ学生団の大学改革への意欲を肯定して次のように述べている。「ドイツの運命をその極限的な苦難の中で持ちこたえるというドイツ学生団の決然たる覚悟に、大学の本質への意志は由来する」。ただし、この意志は何ら制約を受けないものではなく、学生の本質を目指すものでなければならない。「この意志はドイツ学生団が新学生法をとおして自己の本質の法に服従し、そのことによってこの本質を真っ先に確定するとき、真なる意志なのだ」。ここで言及されている新しい「学生法」は、プロイセンの諸大学では五月一日に祝典において告知されていた。しかしフライブルク大学では、その告知は学長の就任式典と統合されることになっていた。学生団に課された三つの奉仕--労働奉仕、国防奉仕、知の奉仕
具体的にドイツ学生団は新学生法をとおして、いかなる制約に服するべきだと言うのだろうか。ハイデガーは「自己主張」において、ドイツ学生団が果たすべき三つの奉仕について語っている。すなわち「労働奉仕」、「国防奉仕(滅多ふ日緊)」、「知の奉仕」である。最初の労働奉仕と国防奉仕は、ドイツ学生団が一九二〇年代からその導入を強く求めていたものであり、まさに新たな学生法で学生の義務として規定されたものだった。一九三三年七月にはドイツ学生団の強いイニシアティブにより、大学に入学して四学期目までのすべての男子学生に対して、講義のない期間に一〇週間の労働奉仕が義稗づけられた。また国防奉仕はベルサイユ条約により義務兵役が禁じられているなかで、軍事教練の代替として位置づけられていた「国防スポーツ」への参加を意味していた。
これに対して、知の奉仕はハイデガー独自のものである。先はども述べたように、ドイツ学生団は大学における労働奉仕と国防奉仕の制度化を強く迫っていたが、この要求は多分にドイツ学生団の反知性主義的な姿勢を背景としていた。つまりドイツの学生には干からびた知など必要ない、労働奉仕や国防奉仕こそが大切なのだ、といったように、労働奉仕や国防奉仕の重視は、知や学問の軽視と結びついていた。
ハイデガーはすでに一九三三年五月の段階で、ドイツ学生団について次のような「批判的見解」を記している。「学生団は統一的で、精神的-国防的-労働奉仕的な教育を望んでおらず、軍事的な突撃隊-養成を、同じく反復訓練的な労働奉仕と余裕のない専門主義(『先端』業績)の実施とあわせて望んでいる」。ここではドイツ学生団が要求している突撃隊による軍事教練、労働奉仕、専門主義的教育が有機的な統一を欠いていることが批判的に捉えられている。この引用ではドイツ学生団が専門主義的教育を望んでいることが指摘されているが、ドイツ学生団の反知性主義は旧来の教養主義を干からびた知性として軽蔑し、手っ取り早く「役に立つ」知識を要求するという形でも現れていた。学問は国家、民族に有用なものであるべきだという彼らの「政治的学問」の主張も今述べたような姿勢と結びついていたのである。
もっともこうしたドイツ学生団の反知性主義的な態度は、大学の旧来の体制を否定する点においては、ハイデガーの立場と重なるところもあった。しかし彼はもちろん知を全面的に否定するわけではなく、これまでの学問のあり方を問題視し、それを新たな知によって置き換えることを目指していた。こうしてハイデガーは「自己主張」では知の奉仕を重視し、労働奉仕と国防奉仕も究極的にはこの知の奉仕のうちに統合するような形で再定義することを試みるのである。
ハイデガーは「自己主張」で、以上の三つの奉仕の必然性をドイツ学生団の三つの拘束から導き出している。彼が最初に挙げているのは「民族共同体への拘束」である。これは「民族のあらゆる身分や成員の労苦、希望、能力をともに担い、また行動しつつ分かち合うことを義務づける」ものである。この拘束は労働奉仕によって学生に植えつけられる。また二番目の拘束は「他の諸民族のただなかにおける国民の名誉と運命への拘束」である。これは[知と能力により裏打ちされ、規律によって引き締められた、献身への徹底した準備態勢を要求する」。この拘束は国防奉仕として学生に浸透させられる。


点と個の関係

2020年03月19日 | 2.数学

中々、「沈黙の春」にならない。車がやかましい。 #沈黙の春
ノーツつくりだけやっています。 #単純作業に明け暮れる
メルケルの言動は民主主義と人類が試されている。それに応えようとしている。「戦時」下では全体主義が効率的なのは確か。個の存在を無視できる。存在を無意味にする。 #メルケルの言動
生田は誰よりも存在を考え、未来から今を見て、努力を惜しまない。表現の場を奪われたままにはさせない。 #生田絵梨花は正義
未唯空間2.2 点(個)は点を全体の一部と見ないで全体を作るものとしている。これはトポロジーの画期的アイデアで真理に近い。コペルニクス変換、カントの示すもの。 #点と個の関係
無印のジュートマイバックを買いに来た。大二枚、小二枚で960円。本棚を整理する。 #無印買い物
国境が封鎖できるのであれば、人間関係もたちきれる。友達も親子も。それで心理学の病はなくなる。内に向かえばいい。 #国境封鎖
EUという枠と国の枠は家族と個の枠の関係と同じ。 #家族という枠組み
木曜日はネットで確認することがないのでradikoで放送大学の心理臨床を聴きながら作業を進めている。出てくるのは人間関係のことばかり。関係を絶てば済む話ばかり。名称ばかりが難しくなっている。正常な人間は大したものではない。 #radikoで放送大学
歴史も数学も個と全体の関係。自由も平等もそのなかに入っている。 #個と全体の関係
明日の気温は今日よりも6度も低くて 15度だそうです。春ですね。「沈黙の春」を目指そう。車がやかましいけど、人の交流がなくなれば、車もなくなるでしょう。 #沈黙の春
桜が見れるスタバは人が集まるので閉鎖された。がら空きの駅前スタバでゆっくりしよう。精密画の外人だけがいた。。話し掛けたい人物です。 #スタバ風景
米国のスタバから机・椅子が撤去されている。立ちながら考えることになる。その分、頭は回る。 #スタバ風景
明日の生ちゃんのミュージカルが無事終わることが大切なこと。 #生田絵梨花は正義
ネットとアップル、つまり、GAFAの世界になっていく。各自が内なる世界をつくりだすためのインフラ。教育と仕事が再構成され、家族制度は崩壊する。
トルコの「観光立国」の行方が気になる。農業国から観光に切り替えた。ギリシャ国鉄のストでバスで入国した時にガイドから言われた。地域を生かし、平和を活かすもの。観光というグローバル化の弊害。中国から日本への来訪がもたらしたもの。ネガティブな要素がどう展開されるか。 #観光立国


ポントリャーギン『連続群論』

2020年03月15日 | 2.数学

『数学的な思考とは何か』より 参考文献解説
『初歩からの数学』(岡本和夫、長岡亮介、放送大学出版会)
 本編で述べているように『初歩からの数学』というと、やたら初歩的で単純な計算練習を繰り返すことで、良くいえば「わかった気にさせる」、悪くいえば「数学的に意味のない数学もどきで人々をだます」ような「リメディアル教育」を連想しがちなわが国の文化的な風土にあって、「最小限、これだけ理解していれば、大学で数学ユーザとして活躍するのに十分である」というメッセージを鮮明に訴え、「わかりやすいこと」と「わかるべきこと」との決定的な相違を示すことで、わが国の教育文化に一石を投じたいと願って上梓したものである。大学の立場から、この内容を精選するとともに、大学数学へと向かう準備となる鳥瞰図となることを目指しだのが『数学の森』である。
『連続群論 上』『連続群論 下』(ポントリャーギン、柴岡泰光訳、岩波書店)
 20世紀の偉大な数学者ポントリャーギンの有名な著書で、筆者が読んだのはその邦訳である。この書物は、現代代数学で強調される置換群などの有限群と異なる位相群を視野にいれて書かれた20世紀的な公理的な群論の解説書で、この基本ストーりが分かると、その叙述がいかに現代的に洗練されているかが分かるのであるが、群論についての知識が皆無だと(筆者の場合それに近かった)、公理的な記述を叙述的に語っている本書は、何か問題なのか、というもっとも基本的なことが分かるまで、読書を継続する忍耐を求められる。しかし、本書の著者であるポントリャーギンが盲目であったことを知ると、この爽雑物を排除した叙述が、深い思索の結果を他者に伝えようとする努力の成果であるというべきことがわかる。
『線型代数入門』(斎藤正彦、東京大学出版会)
 斎藤正彦先生の大ベストセラーで、いまも日本全国の大学で、線型代数の教科書としてもっとも良く採用されている。いま線型代数を教える教員がこの本で線型代数の世界に入門したのが大きな理由であろう。著者が大学に入学した年に初版が出版され、斎藤先生から直々に教えて頂くという好運を得た。著書全体が分かると、諸部分の組み立てのうまさ、ストーリーの展開の巧みさ、数学的に品格ある構成など、名著の特徴が見えて来るが、著者自身の経験に即しても、初学者にとっては必ずしも読みやすいものではない。実際、筆者の当時の同級生で、いまは著名な理工系の大学教授になっている男が、「あの線型代数にはほとほと参った!」と正直な告白をしている。しかしながら、学生に媚びをうるような、著者と読者の品性を疑う入門書が多い中で一段と光を放っている。
『解析概論』(高木貞治、岩波書店、改訂第3版)
 高木貞治先生の数ある名著の中で、大学初年級の学生でも読める、そして「読まなければならない」と思われていた、日本を代表する解析学の入門書。冒頭に現代の実数論が高木先生ならではの物語として展開されているため、そこで蹟く学生は数学科に行くべきではないという命題が脈脈と学生の間で語り継がれていた。最終章には、ルベーグ積分も扱われている。筆者は、通俗的と言われるかも知れないが、「初等関数」の章が、高木先生の文章の力で、読んでいてたまらない魅力に映った。著者の学生時代は、分厚く重厚な装丁の本であったが、最近は手軽に持ち運べる版もあり毎日の通学通勤の電車の中で読めるのも楽しそうである。
『数学の森-大学必須数学の鳥瞰図』(岡本和夫、長岡亮介、東京図書)
 本文で触れているが、放送大学における『初歩からの数学』(岡本和夫氏との共著)を、編集者の意向にしたがって、大学生や社会人のために大学初年級の数学までを視野において大幅に書き直した。基礎的で重要であるが高校範囲のものについては理論的な核心だけを抽出するとともに、大学で出会う現代数学の入門部分で、高校数学の延長では理解しにくいものを強調することで、現代数学の鳥瞰図を理解して大学数学への勇気を奮い起こして欲しいと願って作ったものである。特に「線型代数」と「微積分」の2科目に分断されて教育される現代数学の基礎部分に対して、出来るだけ統合的な視界を与えたいと考えた。例えば、線型代数の基礎概念であるベクトルの典型が、微積の基本対象である関数であること、あるいは、微積で学ぶフーリエ級数が線型代数で学ぶ正射影の和であることなどである。


単一性という概念

2020年03月14日 | 2.数学

『哲学の技法』より すべては一つ 「私の教えはすべて一のことで貫かれている」
中世には、イスラム世界じゆうに宮殿が点在していた。それらの宮殿のうち、現在も残るのは一つしかないが、そのアルハンブラ宮殿を訪れた人は必ず、こう思うはずだ。もし後世の人たちに、一つだけ残す宮殿を選ぶチャンスが与えられたとしても、これ以上の選択はできなかっただろう、と。宮殿は絶好の口ケーションにあり、起伏に富んだグラナダ市旧市街のちょうど反対側の丘の上に立つ。旧市街のどこからでも息を呑むほど美しいその姿を拝むことができる。場所によって違った表情を見せる他、夜明けと夕暮れどきには、宮殿全体が残り火のような輝きを放つ。それは壁が赤い鉄分を含んだ塵で覆われていることによるもので、名称の由来にもなっている。「赤いもの」を意味するアラビア語「アル・ハムラー」が「アルハンブラ」の語源だ。
アルハンブラ宮殿は、単一の建造物でもなければ、複合施設のようなものとして計画されたものでもなく、数世紀にわたって増改築が繰り返されてきた住居だ。壮麗な中心部には、ユースフ一世(在位一三三三~五三年)とムハンマド五世(在位一三五三~九一年)の治世下で建てられたナスル宮がある。それらの建物の装飾やデザインは細緻を極めるとともに、見事な調和を保っているだけではなく、イスラムの中心思想を生き生きと表現したものにもなっている。それはこの宮殿が、宗教的な施設ではないにもかかわらずというより、宗教的な施設ではないからだ。少なくとも私たちがふだん理解している意味では、この宮殿は宗教的なものではない。イスラムの思想では、聖と俗が区別されない。「世俗という分類そのものが不要になるほど、聖なるものがあらゆる様式の建築物に備わっている」と、セイイェド・ホセイン・ナスルはいう。アッラーがいないところはない。裕福な世俗の支配者の家にすらいる。なぜなら「魂に大きな影響を与えるのは、日曜日に美術館や教会で見る絵よりも、日々の経験だからだ」。
いちばんわかりやすいのは、建物のあちこちにアラビア語の言葉による装飾が施されていることだろう。そのさまは英国の歴史家ロバート・アーウィンがいうようにまさに「住める本」のようだ。ナスル朝の理念である「アッラーの他に勝者はいない」は何百という壁や、アーチや、柱に刻まれている。コーランの言葉が記されているのは、宮殿内の最も高い場所、つまり神には読めるが人間には読めない場所だ。また宮殿内の見どころとなる場所は、すべて神の栄光を表しており、「ライオンの中庭」の噴水には、「至高のアッラーがあらゆるものに美しさで優ることを望まれた噴水」という碑文がある。
装飾の中心をなす幾何学的な形や模様は、イスラム教では偶像崇拝が禁じられていることを示すだけのものではない。それは神によって定められた、宇宙の秩序も示している。例えば、多角形とアラベスクが絡まり合った模様は、男性と女性の象徴であり、「生命のリズム」を表現していると、ナスルは見る。またアーウィンによれば、アルハンブラ宮殿の複雑さや細緻さには、私たちがわかった気になるのを防ごうとする意図がある。私たちは理解しようとするのではなく、永遠の探求に「浸って」、自分たちの有限性を自覚することを求められる。ここに観光で訪れても、建物の美しさに見とれるばかりで、その宗教的な意味を見過ごせば、建物が「深く考えるための装置」になっていることはわからない。
あらゆる世俗のものの中にある聖なるもの、あらゆる有限のものの中にある無限なるものはすべて一つであり、全一であり、単一であるというイスラムの精神的、知的な理想を、物理的に見える形で表現したのが、アルハンブラ宮殿だ。イスラムでは、すべてのものは根源的に一つであり、神は絶対的に単一であると説かれる。イスラム思想の研究者ジョン・リナードは次のように書いている。「あらゆるイスラム神学の思索や議論で中心に置かれているのは、絶対的に単一のものである神からなぜ多様なものが生まれるかという問題だ」。ナスルも次のようにいう。「イスラム世界で昔から受け継がれ、深められてきた学説はすべて、単一性(タウヒード)の教義と一致している」
単一性や唯一性という観念は、世界の多くの哲学の伝統に見られる。例えば、インドでは、すべての主な学派によって、あらゆる存在が根源的には一つであると主張されている。そのような考えをはっきりと述べている最も古い文献は、初期のウハニシヤッドだ。そこでは、私たちの個々の自己(アートマン)は、普遍的な自己、すなわち「一なるもの(ブラフマン)」の部分であると説かれている。
 それは動き、それは動かない。
 それは遠くにあり、それは近くにある。
 それはすべての中にある。
 それはすべての外にある。
インド哲学には、この単一性を簡潔に表現した重要なフレーズがいくつかある。その一つは「タット・トヴァム・アシ」だ。このサンスクリット語はふつう「それはあれである」と訳される。例えば、「それは最良の本質である。この世界全体はそれをその自己として持っている。それが実在である。それがアートマンである。それがあれである「タット・トヴァム・アシ」」というようにいわれる(アートマンはブラフマンと同一の普遍的な自己を意味する場合と、個別の自己を意味する場合があり、ここでは前者の意味で用いられている)。またこれに似た表現で、「アートマン(普遍的な自己)はこれではない、あれではない(ネティ・ネティ)」という表現も有名だ。これはもう少しわかりやすくいうと、アートマンは個別の何かではなく、すべてであるという意味だ。アートマンは「大きさを持たないから、大きさを測ることはできない。破壊されることはないから、滅びることはない。何にもくっつかないから、執着することはない。束縛されず、揺るがず、傷つかない」とされる。
インド哲学の中で単一性という概念を最も発達させたのは、不二I元論を唱えたアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派だ。「アドヴァイタ」とは、文字どおりには非(「ア」)二元性(「ドヴァィタ」)を意味する。同学派の代表的な思想家であるシャンカラは、実在には絶対的な次元と、日常的な次元の二つの次元があると説いた。日常的な次元では、世界は多様に見えるが、絶対の次元には単一の実在しかない。絶対の次元ではすべてがブラフマンである。
もしすべてが一つなら、自己と他者や、主体と客体に違いはなく、ひいては個人の意識や意図もない。私たちがふだん経験している世界は、強力な幻影以外の何ものでもない。自己と他者の二元性があるときに初めて、私たちは他者の姿を見たり、匂いを嗅いだり、声を聞いたり、互いに言葉を交わしたりできる。絶対的な単一性に気づくとは、嗅いだり、聞いたり、考えたり、理解したりする者が一切いないことに気づくことである。「それによってこのすべてを理解しているのであるから、何によってそれを理解することができようか。理解する者を理解することができようか」という。
同じように、宇宙の原理と私たちひとりひとりの義務との調和を明らかにするダルマという概念も、ものごとの根源的な単一性を想定することで成り立っている。ダルマは全一なるものとしては宇宙の原理であるが、同時に個々人の義務でもある。したがってひとりひとりの正しい行為によって、根源的な唯一性、全体の単一性は支えられているとされる。
中国思想にも、単一性の強調は見られる。道教では、ものごとの区別は思考と言葉によって生ずるものであり、それらの人為的な区別を超えたところでは、すべては一つであるとされる。「どれだけ多様でも、どれだけ異なっていても、道においてはすべてが一つである」と『荘子』は説く。そのことがわからないのは、「朝三暮四」といわれる。「朝三暮四」とは、次のような逸話に由来する言葉だ。ある猿回しが猿たちに「朝に三粒、夕に四粒、木の実をやろう」といったところ、猿たちは怒りだした。そこで調教師は「それなら朝に四粒、夕に三粒やろう」といった。すると猿たちはたちまち喜んだという。どちらでももらえる木の実の数は同じであることが、猿たちにはわからなかったという話だ。
単一性は、儒教ではあまりテーマにならないが、孔子は一度ならず、「私の教えはすべて一つのことで貫かれている」と述べている。曾子が弟子たちに説明したところによれば、これは孔子の教えはすべて「誠実さ(忠)と思いやり(恕)」に行きつくという意味だという。すべてのものごとが一つであることは次のようにも表現されている。「私がものごとの一つの隅を示したとき、君たちがそれによって残った他の三つの隅のことを学べないなら、私は同じ教えを繰り返さない」


トポロジー発想

2020年03月14日 | 2.数学

国家を乗っ取るものに対しての対抗策。超国家がある。 #超国家
超国家は基本空間のようなもの。そこに照らし合わせて行動を決めていく。 #超国家
共有地の問題も超が存在することによって解決する。有限であることを理解するものが一番上にいる。 #共有地問題
国の暴走を捉まえる。国というのは乗っ取られるもの。日本も米国もスペインも乗っ取られている。超がいて、はじめて安定する。重要なのは、超と個が一体化できること。 #国の暴走
数学的な思考の時になぜ、トポロジーをベースにしないのか。三角関数ではないでしょう。デカルト平面はナンセンス。 #トポロジーが基本
トポロジーは座標系と異なり、点から発想する、個から発想する。そして、全体を作り上げる。そこからベースとなる基本空間で連続性を保つ。これが新しい社会の構造そのもの。それでつくられたのがインターネットの世界。 #トポロジーが基本
組織は上から作るものではなく、下から積み上げるもの。ローカルとグローバルに分けて,その間にハブを置く。 #トポロジー構造
観光立国が成り立つ条件。地域が平和であること。トルコとに入った時に感じた。農業国から観光立国に変わったという説明。ギリシャ国鉄のストがなければ、それを聞くことはなかった。 #観光立国の条件
ヨーロッパはスペイン風邪がベースになっている。第一次世界大戦時に、米国と欧州を三度回っていた。その都度、拡大していった。第一次大戦の欧州派遣軍が仲介。駐屯地、途上の船で亡くなっていった。戦死よりも多かった。 #スペイン風邪
災いは欧州から。その思いを反映しての政策。時として、逆の場合が多い。米国発祥。その場合は対策にならない。ともかく、すべてを止めることしかない。その上で考えてみる。 #災いは欧州から
『数学的な思考とは何か』を読んでいたら、参考文献として、ポントリャーギン『連続群論』が上がっていて、驚いた。好きな本です。位相群にロマンを感じていた。 #連続群論
数学のすごさは根底から観ていくこと。それを表している本は未だにない。インターネットはトポロジーで出来ている。空間の考えは数学的思考がないと理解できないのに。第2章の主旨を明確にする。人類が生きてきた証にする。 #人類が生きてきた証


数学は天賦の才か、習得した能力か?

2020年03月07日 | 2.数学

『なぜ理系に進む女性は少ないのか?』より
数学は天賦の才か? 女性を危険にさらす考え
 なぜ多くの最も聡明な女性たちは数学や科学のキャリアを追い求めないのだろうか? ある不思議な発見がきっかけで、私は急にこの論争に放りこまれた。私は、同僚たちとの共同研究において、学生がまったく新しい題材を学ぶときのとまどいに対し、どう対処するかを調べていた。数学や科学でのとまどいは日常的に起こるものである。というのも、多くの言語の領域と異なり、数学や科学にはまったく新しい技術、概念や概念的体系が新たな題材に含まれることがよくあるからだ。そこで我々は、学生に新たな学習課題を与え、そのうち半分の学生に対しては、はじめの頃にいくつかの混乱しやすい題材を提示した。
 その結果、頭の良い女子はこの混乱をまったく処理できないことがわかった。実際、その女生徒の知能指数(IQ)が高ければ高いほど、結果は悪かった。多くのIQの高い女子は、混乱を経験した後にはその題材を学習することができなかった。これは男子には起こらなかった。男子ではIQが高いほどよりよく学んだのだ。混乱は彼らにやる気を起こさせただけだった。
 これらの発見は、我々の実験対象が第5学年の生徒だっただけに、なおさら衝撃的だった。女子は、依然としてほとんどすべての科目において男子よりも良い成績を収めていた。また女子の成績に不名誉な点は何ひとつなかったのだ。また、我々が彼らに与えた題材や問題には、数学は含まれていなかった--だから、女性と数学についてのステレオタイプは働いていなかったのである。
 IQの高い女子は困難にぶつからないときには驚くほど良い成績だったので、我々がここで見ているものは、能力の違いではなく、生徒が自分の能力に疑問を投げかけられるような経験にどう立ち向かうか、つまり困難によってやる気を出すか、士気をくじかれるかどうかの違いなのである。バーバラ・リヒトはこれらの発見の裏づけを進めた。それに続く研究の中で、彼女は異なる課題と尺度を用いて、聡明な女子、つまり物事が順調なときには勝者である子は、困難に出くわして自信を失ったり有能さが目減りしたりしたとき、精神的に傷つきやすいことを指摘したそして、まさに能力分布の頂点でこそ、数学におけるジェンダー差が現れる部分なのである。よって、数学で現れる差の少なくとも一部分は、数学能力のジェンダー差というより、むしろ挫折や混乱への対処の性差と考えられる。
良い知らせか、悪い知らせか?
 数学や科学分野の女性の問題にとって、このことは良い知らせか? はたまた悪い知らせか? もちろん、もし能力があるならこれは良い知らせだろう。しかし、同様に悪い知らせにもなりうるのだ。結局、もし賢い女性が難題にうまく対処できないならば、これは彼女達には数学や科学の専門職、つまり難しいとわかっている問題に取り組むことや、それらを根気強く追求する作業をともなう職業には適していないということを意味するのではないかと考えられるからである。このことはまさに、女性では挫折への感受性がより大きいことの根底にあるものを発見しようとなぜ我々が一生懸命になったのか、その理由になっている。我々は、もしその根底にあるものを見いだすことができれば、この状況を変えられると信じていた。確かに、我々にはその状況が変えられるのだ。
 最近の研究で、我々は、傷つきやすさに対する心理学的基盤を突きとめた。我々はまた、この要因への対処が数学の成績でのジェンダー差を小さくするような介入を報告した--それは課題の上でも実社会でもそうであった。
数学は天賦の才か、習得した能力か?
 この研究は、一般的に学生が知的能力と特に数学の能力について信じこんでいることから始まる。彼らはそれらの能力を天賦の才、つまり単に持つか持たざるかの能力と見なすのだろうか? それとも発達可能なもの、つまり初めの能力をもとに訓練と努力で広がるものと見なすのだろうか?
 我々は過去の研究で、知的能力を天賦(不変のもの)ととらえると、その学生は挫折に出会うと、その能力に疑問を持ち、やる気を失うということを明らかにした。対照的に、知的能力を発達可能な資質ととらえると、その学生は、困難に直面した際、積極的で効果的な改善法を探した。
 我々はまた、こういった知的能力についての思い込みが、成績が急に下がったり多くの生徒が学校に興味を失う、非常に難しい時期である中学校への移行期に、どれだけ成績をとれるかを予測できることを示した。ここで、知的能力を発達可能なものと見なした生徒は、知的能力を天賦とした生徒よりも学習への興味を持続したと同時にずっと良い成績を収めた--実際、2つの集団は、中学入学前の成績も入学時学力検査の成績も同じであったにもかかわらず。さらには、成績の差は、2年間連続して広がったのだ。
 これらの発見をジェンダーの立場で見ると、第8学年の終わりには、男子と女子の数学の成績にはかなりの隔たりがあるが、これは知的能力を天賦と考えた生徒のみにいえることである。知的能力を発達可能なものと考える生徒では、差はほとんどなかった。実際に、そのような考えの男子は能力が固定していると考える男子より少しだけ成績が良かったし、女子では、同様の比較でとても成績が良かった(繰り返すが、実際彼らは同じ数学の成績で入学しているにもかかわらず、である)。これは、知的能力を単に天賦の才だと信じている女子は数学があまりよくできないが、知的能力を発達可能な資質だと考える女子はよくできる場合が多いことを示している。
 同様の研究で、我々はコロンビア大学の医学部進学課程における化学課程を受講する学生らを第1学期の期間、追跡調査した。この講義はかなり難しいものであるが、科学的職業に就く人にとって大きな影響力を持つ。ここで我々は科学の成績における典型的な男女の差を見いだした。しかし、繰り返すが、これは知的能力を天賦と考えている学生だけに見られたことである。知的能力を発達可能なものと考える学生については、そのジェンダー差は逆転していた。女子学生は、最後には男子学生より高い成績を収めていたのである(通例に従い、入学時の成績を今回はSAT〔大学進学適性試験〕の成績をもとに比較している)。
 こうして、すべての頭脳明晰な女性が同じように傷つきやすいわけではないという状況が見え始めた。能力は不変のもので成績で判定できると見なす人間は傷つきやすいと思われ、したがって困難にぶつかると自分の能力に疑問を持つ--「じたばたしなければならないなら、天賦の才を持っていないに違いない」「最初の成績が悪いなら、天賦の才はないに違いない」--と。


哲学の3つの謎

2020年03月02日 | 2.数学

慣れたら、鉄製フライパンを買おう! 美味しい卵焼きの作り方にはコツがある?綺麗な形に仕上げるには。#自炊生活
やっと、今回の意味がわかってきた。3.11の時は前兆があったので、すぐに分かった。今回は事態がグズグズしていて分かりにくかった。分かった以上はしっかりと観ていくことにする。 #ウイルスの意味
そこで、まずは机の上をきれいにした。といっても、脇にどけただけ。
SARSの時は現役。店舗―本社、メーカー―本社のテレビ会議を標準にしたかった。移動するリスク軽減。分かったのは本社は店舗を集めるのが好き、メーカーは本社に行くのが好き、と言うこと。ならば、勝手にしてくれ。 #テレビ会議システム
エコバックよりコンビニ袋の方が安全・安心。一番、安心・安全なのはがら空きのスタバ。危険なのは接触の「家」 #安心・安全
中学への春休みのテーマ。長期の休みに考える「なぞ」。哲学には三つのなぞがある。存在のなぞ、認識のなぞ、言葉のなぞ。これを解けば、社会は変えられる。大人には今知っていることを述べてもらう。つまり、情報共有。 #哲学の3つの謎
恐竜が好きな子は歴史から、車が好きな子は社会学から、アイドルが好きな子はコミュニケーションからアプローチできる。好き嫌いで決めればいい。 #好き嫌いで決定
中学二年の時の「存在のなぞ」現象をトラウマと思い込んで、現象解析が遅れてしまった。50歳過ぎてからだった。中学生から考えていれば、社会は変わっていたのに。 #存在のなぞ
社会を変えることに挑戦してほしい。大人は総理が変われば社会が変わると思っているが、総理は結果であって、原因ではない。大人は原因を追求する勇気がないので社会を変えることはできない。中学生は潔白です。根底から変えられる。家とか親とかは幻想です。個の存在があるだけ。 #社会を変える
存在は答えであって、問いではない。存在があるから無がある。 #問いと答え
南京がすごい。休校を決めると同時にオンライン教育を始めた。市民の動きの管理を始めた。軍ではなく、地域のコミュニティでの自己防衛。 #南京の対策
15年前に大連に行ったときに大連駅に入ろうとしたら、チェックゲートになっていた。すごい国だと感じた。多くの人間を監視する体制が行われていた。それをボランティアで可能にしている。 #共産主義国家の監視
地区の自立は個の自立で可能になる。その時に活躍するNPOが日本にはない。あっても自分達の手で守るという理念がない。 #地域の自立
これを機になぜ、オンライン学習とかテレワークに向かわないのか。3.11で感じたけど、復興にしか目がいかない。集まることが無くなれば、すべての空間が使える。都市と田舎の関係も変わる。ライブも都市に限定されている。バーチャルにして、新たな課金システムを作ったところが勝ちになる。またしてもGAFAとかUberに取られてしまうのか。 #オンライン教育
南京の人口は東京には及ばないが、フィンランドよりも多い。そこで可能なことまで技術は出来上がっている。集まらなくてもいいなら、人口問題多くは解決できる。 #南京の対策
中国の小学校は6時半ぐらいからやっていた。15年前、大連で朝の散歩で小学校の前を通ったら、子供たちが集まっていて、先生もタクシーで駆けつけていた。 #大連の小学校
生ちゃんのナターシャを東京行かずに味わいたい。バスラもドームとか映画館に行かずに味わいたい。その時には望遠鏡モードがほしい。ひたすら生田を追いかける。5000円は出せるか。 #生田絵梨花は正義
こうなったら、CiscoとGoogleに作ってもらおう。ライブ同時開催の経験があり、生ちゃんの父親が役員をしているから。そうなると[Alexandros]も可能になるか。 #生田絵梨花は正義
明日は火曜日。ということは駅前スタバはお休み。松坂屋に付き合うことはないのに。折角、安全・安心なスタバに行こうと思ったのに。スタバが定休日は20年来なかったこと。 #松坂屋の休日
オンライン学習のインフラ。街中で体温検査 「新規感染者ゼロの街」新型コロナ封じ込め徹底する中国・南京を歩く #南京の対策


カリフ制再興による大地の解放

2020年02月29日 | 2.数学

『イスラーム学』より イスラームの今日的使命--カリフ制再興による大地の解放
大地の解放のカリフ制
 イスラームの政体、カリフ制における政体の単一性は、領域国民国家を前提としていません。政体を支配者の数が単独か、少数者か、多数者かで分類するギリシャの政治思想の伝統に呪縛され、支配者の数に偏執的にこだわる西欧人は、カリフ制と聞くと、単独者の支配する独裁制を思い浮かべるようです。本質を見損なう愚かな反応と言わざるを得ません。カリフ制とは、なによりも、地球全体、人類全体を、神の法(シャリーア)の支配の下におこうとの、真の意味でのグローバリゼーションの政治思想なのです。先に述べた通り、イスラーム法の用語では、カリフの語はほとんど用いられず、イスラーム政体の元首はイマームと呼ばれており、カリフの語に深い意味はありません。
 しかし、世界観の深層においては、クルアーンではカリフ(ハリーファ及びその複数形のハラーイフ)の語は地球と深く結びついています。クルアーンのカリフの用例は地球(アルド)とセットになっており、同じ節の中で「地球」の語が現れない少数の用例でも、必ず前後の文脈で地球が主題となっていることが分かります。勿論、「真の意味でのグローバリゼーション」だと言ったからといって、それが無条件に良いものだ、ということにはなりません。言い換えれば、それは世界制覇を目指す真正の帝国主義だということですから。カリフ政体によるグローバリゼーション、あるいは大地の解放については、後に述べるとして、ここでは先ず、カリフ政体の特質を現代日本文化に即した表現で明らかにしておく必要があるでしょう。
カリフ制の世俗性
 先ず、カリフ政体は、世俗国家である、と言ってみましょう。実は、世俗主義、政教分離、神権国家、などの概念は、いずれもヨーロッパ・キリスト教文化を背景にして初めて意味をなす概念であり、イスラーム文明だけでなく、インド文明、中国文明、日本文明(文化でもどちらでも構いませんが)にも当てはまりません。ですので、本当は、カリフ政体を世俗国家と言うことも、宗教国家、あるいは神権国家と言うこともどちらも意味が無いのですが、近似的に言うなら、まだ世俗国家ということになります。というのは、スンナ派のイスラーム政治論、カリフ制は、紛れもない宗教国家、神権国家であるシーア派のイマーム制のアンチテーゼとして成立したからです。
 シーア派のイマームは、アッラーの啓示に則ってウンマ(ムスリム共同体)を治めるためにアッラーから任命されます。イマームは、アッラーの導きによって過ちを犯すことの無い無謬の指導者、教主なのです。シーア派の教義によると、アッラーの神意を知りうる者は、このイマームだけであり、他の信徒たちには、アッラーの意思へのアクセスは閉ざされています。信徒たちが、アッラーの御心にしたがって、イスラームを実践したいと思っても、このイマームを介するしか、アッラーの意思にアクセスすることはできないのです。このイマーム制こそ、神と人間の間を仲介する宗教者たる聖職者が政治を行う、という西欧的意味での宗教国家、神権制に他なりません。
 ところが、このシーア派のイマーム制のアンチテーゼとして成立したスンナ派のカリフ制は、カリフの無謬性を明示的に否定します。スンナ派は、神意を体現する無謬の存在は預言者だけであり、預言者ムハンマドの逝去後には、いかなる人間であれ神意を体現することも、無謬性を有することもありえないと考えます。ただし、スンナ派では神意を体現する無謬の存在は預言者の逝去後には存在しなくなりますが、神とのコミュニケーションが完全に途絶えた、と考えるわけではありません。
 預言者やイマームのように無謬の完全な存在でなくとも、常人に比べると霊性に勝れ、時に神智を授かることもあるような宗教的エリート集団は、スンナ派の歴史の中にも存在しています。彼らは徐々にスーフィーと呼ばれる神秘主義修道者として結集するようになり、西暦12-13世紀頃からは、「道(タリーカ)」として知られる無数の神秘主義修道会を形成していきます。しかし、こうした霊性は、イスラーム法学上カリフの資格条件とされることは決してなく、現実の歴史の中でも、こうした神秘主義修道会のカリスマ的な指導者も、時に地域の豪族のレベルで教団国家のような地方政権を作ることはあったとしても、ムスリム共同体全体を統べるカリフになることはありませんでした。
 一方、ヨーロッパの宗教理解における神と「俗人」を仲介する聖性を帯びた宗教者、聖職者の概念に最も近いこのような霊性に優れた神秘主義修道者スーフィーとは別に イスラームには、イスラーム学の専門家であるウラマー(アーリムの複数形)、あるいはイスラーム学の中核のイスラーム法学を修めた者という意味でフカハー(ファキーフの複数形)と呼ばれるイスラーム法学者集団が存在します。シーア派のイランではイマームの不在時には、このフカハー(イスラーム法学者)がイマームの代理人として信徒を導くという教義が発展し、遂にイラン・イスラーム革命において、政治を含む生活の全ての領域においてフカハーがシーア派平信徒を全面的に指導するという「イスラーム法学者の後見(ウィラーヤ・アルファキーフ)」体制が成立し、イマーム制のような典型的な宗教国家、神権政治ではないものの、ある意味では宗教国家、神権政治に近いものが実現しました。
 スンナ派では、歴史的に、イスラーム法学者がカリフになったり、政権の中枢を担ったり、といったことは起きませんでした。しかし、実は、スンナ派でも、霊性や無謬性はカリフの資格条件ではありませんが、イスラーム法の知識はカリフの資格条件の一つに数えられています。というのは、先に見たように イスラームには三権分立の思想は無く、理論的には司法も元首であるカリフの職務であり、カリフは最高裁長官も兼ねていたからです。
 しかし、現実には当時の世界における最大の帝国となったカリフ政体においてカリフ自身が裁判を司ることが事実上不可能になったこともあり、カリフは司法をイスラーム法学者(フカハー)たちに任せることが慣行化します。カリフがイスラーム法--というよりは当時はまだイスラーム法の体系はできあがっていませんでしたから、クルアーンと預言者のスンナ(慣行)に対する知識、と言った方が適切ですがーを有して実際に裁判を司ったカリフは、歴史家たちが正統カリフ(フラファー・ラーシデゥーン)と呼ぶ最初の4人のカリフ、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーだけでした。彼らの後には、政治はカリフとその臣下の文官、武官、司法はイスラーム法学者という管掌の分業体制ができあがります。


歴史と哲学と数学

2020年02月27日 | 2.数学

学校というのは非日常と捉えよう。集まることに意味はない。学校を見直すだけでなく、教育そのものを考える。 #非日常
仕事が社会を壊すときが来ている。 #社会を壊す
未唯宇宙の考察から生まれた三つの変革。家族制度、教育制度、仕事のあり方。それらの根本にある、#個の覚醒
個から新しい社会を作り出す #個から発想
行動は接触を生み出す。それを否定しよう。 #行動を否定
非日常を否定しても何も変わらない。日常を変えること、満員電車から降りること。 #日常
お金を配ることが国の役割。BIは始まっている。間に「仕事」を挟む必要はない。自分のミッションを果たすだけ。 #BIは始まっている
こういうことだったんだ! 行動しなくても進んでいく。気づけるかどうか。そのためにスマホを造り出したんだ。なるほど。#突然の理解
本でなければ難しいものは歴史と哲学。本でも難しいのは数学。雑学はテレビで十分。 #歴史と哲学と数学
学校って、何なのか? 国体以外になにがある。 #学校は必要か
数学で知ったことで大きなことは概要と詳細が同値だということ。体系は全てが前提。全てがない世界。 #概要と詳細
対策っていうけど有効なのかな? シナリオは読めているのか? 確率的のおかしなことばかり。 #確率的思考
フランス革命の初期にガロアは決闘でなくなった。数学者の透徹な目で革命の実態を見ていてほしかった。異なる世界に至っていた。 #数学者の役割
本を理解するのは難しい。あまりにも広大。好き嫌いにしても目次を見るだけでも重労働。20年前に新刊書に絞った。当時の豊田市図書館は市レベルでトップの予算を誇っていた。 #本を理解する
本には人間と同様にDNA があることに気づいた。一行だったり、単元だったりしている。OCRでDNAを抽出を行ってきた。 #本のDNA
マンハッタン計画で膨大な金をかけた。使わないと納得がいかない。軍備があるから戦争する。国立作ったから使う。おもてなし出来なくても。それって論理? #論理が逆
やはり、超国家が人類には必要と痛感。国レベルでは目先のことで判断してしまう。日韓中の反応にしても。個と超国家がつながるには何が必要か。これが第4章歴史編の問いに当たる部分。しっかり、観ておこう。 #超国家


デルフィの啓示

2020年02月15日 | 2.数学

富士通のパソコンを開けたら、デスクトップに現われたのはデルフィ(デルフォイ)。見たことがある。アーモンドの木の下で啓示を得た。「行動するな! 考えなさい!」。このタイミングで贈られてくるとは。やはり、かんがえよう。 #デルフィの啓示
70歳の誕生日プレゼント