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未唯への手紙

未唯への手紙

『数学者たちの黒板』

2023年10月05日 | 2.数学
 『数学者たちの黒板』

なぜ数学者には黒板が必要なのか
フィールズ賞受賞者を含む数学者109人の板書の写真その黒板にまつわるエッセイを収録。数学者たちの黒板への情熱に溢れた、唯一無二の「数学エッセイ」×「黒板の写真」集!

数学者は数学が何かを知っているが、彼らにとって、それを説明するのは難しい。私が数学について見聞したことを挙げてみよう。数字は、演繹法と抽象化を用い、古い知識から新しい知識を創造する技術だ形式的なパターンの理論」「数学は数の学問」「自然数や、平面と立体の幾何学を含む分野」「必要な結論を導き出す科学」「記論理学」「構造に関する学問」「時を超えた宇宙の構造を説明する「論理的なアイデアの詩」「公理の集合から、命題あるいはそれらの否定の集合までに至る、演繹的な経路を探す手段」「目に見えない、想像の中にしか存在しないものに関する科学」「正確な概念装実在のものであるかのように扱うことができるアイデアの学問」「明示的な構文規則に従い、一次言語の無意味な記号を操作すること」「理想化された対象の性質とその相互作用を調べる分野」「目的のために発明された概念と規則を用いた、巧みな演算の科学」「何がおそらく正しいのかに関する予想、問い知的な推測、発見的な議論」「多大な労力の上に作られた直観」「我々の文明によって構築された、貫性のある、最大の人工物」「完成に向かうにつれて、あらゆる科学がそうなるもの」「理想的な現実」「たかだか形式的なゲームにすぎ「ないもの」「音楽家が演奏をするように、数学者がすること」。

数学のことを、「何千年にもわたって書き綴られてきた物語で、常に加筆され、決して完成することのないもの」と捉える数学者もいる。これほど古い『経典』はないだろう。数学は、人類が自身について書き残している記録であり、歴史以上の長さを持つ。歴史には、修正されたり、改ざんされたり、消されたり、失われる可能性がある。でも、数学はずっと変わらない。A-B-Cは、ピタゴラスが彼の名前をつける以前から真であり、太陽がなくなっても、そのことを考える人が誰もいなくなっても真だ。そのことを考えるかもしれない、いかなる地球外生命にとっても真であり、彼らがそれについて考えるかどうかに関係なく、真だ。数学を変えることはできない。上下左右、空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在であり、いかなるものよりも真だ。

バートランド・ラッセルは数学のことを、「私たちが何について話しているのかも、私たちの言っていることが正しいのかどうかも、「分からない学問」と言った。他の科学者の言葉についても言及しよう。ダーウィンは、「数学者とは、真っ暗な部屋で、そこにいない黒猫を「探している盲人だ」と言った。ルイス・キャロルは、四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)を、打算、注意散漫、醜怪化、あざけりと書いている。状況を複雑にしているのは、数学を、特に高等な範囲で、理解するのが難しいことだ。それは、単純な共通言語(数を数えることは誰にでもできる)として始まったが、専門化された方言に変わり、あまりにも難解になったため、世界で数人しか話せなくなってしまったのだ。

これらはいずれも、私自身の考えではなく、常套句のようなものだが、そうだとしても私は数学に惹かれる。数学者たちは、確かな世界の中で生きている。他の分野の科学者も含め、残りの人が住んでいる世界において、確実性とは、「自分の知る限り、ほとんどの場合は、このような結果が起こること」を示す。証明に対するユークリッドの主張のお陰で、数学では、分かっている範囲内で、毎回、何が起こるかが分かる。

数学は、謎を説明するために私たちが持っている、最も明示的な言語だ。物理学の言語としての数学は、実際の謎(自然界で、はっきりとは分からないが、正しいと推測し、その後、正しいと確認される謎)架空の謎(数学者の心の中にのみ存在するもの)を記述するものだ。

では、これらの抽象的な謎はどこに存在するのだろう?その縄張りはどこか?人の心の中に住んでいると言う人もいるだろう。つまり、数学的対象(数字や、方程式、公式など、数学の用語集や装置全体を意味する)と呼ばれるものを思いつき、それらを存在せしめているのは、人の心であり、それらの振る舞いは、私たちの心の構造を反映したもの、ということだ。私たちは、自分の持っているツールと整合する形で、世界を検証するように導かれている(例えば、私たちに色が見えるのは、表面からの光の反射をそう捉えるように脳が構造化されているからだ)。これは、確かな情報に基づいてはいるが、少数派の見方であり、神経科学者や、根本原理に偏った一定数の哲学者や数学者が、主に持つ考えだ。(ほんの少しかもしれないが)より広く支持されているのは、数学がどこに存在するのかは、誰も知らない、という見方だ。どこかを指さして、「数学はそこから来た」、と言える数学者や自然主義者はいない。数学は、私たちの内面以外のどこかに存在し、創造されるものではなく発見されるものだという信念は、プラトンの信念にちなんで、プラトン主義と呼ばれる。彼は、時空を超えた、完璧な形をとる領域が存在し、地球上に存在するものは、その不完全なコピーにすぎないと信じた。定義上、時空を超えた領域は常に存在してきたもので、時間と空間の外側にあり、いかなる神が創造したものでもない。第3の見方は、数学は神の心の中に宿るというもので、歴史的にも現在においても、少数ではあるが無視できない数の数学者がそう考えている。集合論の創始者であるゲオルク・カントールは、「神の持つ最上の完璧さは、無限集合を創造する力にあり、それを可能たらしめるのは、その計り知れない高「潔さだ」と述べている。そしてシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、「神の考えを表すものでなければ、方程式は私にとって意味をなさない」と言った。

芸術家のように、数学者はしばしば、自分の知識の縁、すなわち、薄明かりしか差し込まない領域で研究する。取り組む価値のある問題に到達することは、時に、内面の冒険であり、多くの努力を必要とし、多くの領域を包括する。すべての冒険が意識的なものではない。古くて、由緒ある問題に向き合うのは、最後の砦に立ち、(それを試みた他の多くの人たちの報告によると)不可能に見える状況で、攻撃の計画を立てるのと少し似ている。

ワインの写真は、複雑な数学的推論の領域から厳選されたものの集まりだ。人間の思考の最前線、すなわち、まだ検討中で、現在進行形の問題を表した写真もある。説明的な写真や、物語的な写真、推測を含んだ写真もある。数式や描画は、あたかもそれ自身が生きているかのように揺れている。若い頃にLSDを服用し、小さな木片に書かれた、かろうじて読める文字を見て、「これが理解できれば、すべてが理解できるだろう」と考えたときの幻覚を思い出す。

これらの図を描き、公式や説明を書いた人々は、すべてを理解しているわけではないとしても、新しい知識を追究している。追究の多くは、数学を拡張する以外に実用上の目的はないかもしれない。とはいえ、控えめに言っても、彼らが研究していることは、これまでに誰も知らなかった何かである可能性がある。

黒板に書かれたものは、記号であり、これらの記号に残された指針を辿れば、そのときの思考の結論に戻ることができるし、一連の思考を再構築することもできる。黒板に書かれた文書は、数学という普遍的な言語以外では互いに話すことができない人々によって、世界中のどこででも再構築することができる。黒板に書かれたものを消してしまっても、それらは、数学という大薯の中の項目として、依然として存在するだろう。

これらの写真は、何年にもわたる研鑽と思考を記録したものだ。肖像画がそうであるように、そこには、心の状態や性格、内面の働きに関する何かが体現されている。飾り気のないこれらの写真を見ると、20世紀初頭にディスファーマーがアーカンソー州のアトリエで撮影した、農家と農作業員、その家族の写真を思い起こす。ワインの撮影した、これらの図表や方程式は、ディスファーマーの写真のように、あなたを見つめ返す。まるで撮影されたものの本質を明らかにするかのように、余分なものを取り除いた質を帯びている。あたかもワインがダンスの流れを辿ったかのように、そこには、思考が行われた、活気に満ちた様子が描かれている。彼女は目を閉じて、1行1行を追っているようだ。写真には、文書のような固定化された感覚があるが、その文書を書いた手の動きも感じ取ることができる。それらはすべて、数学者が、歴史的に、美と関わりを持ってきたことを象徴している。ある生き物と、そのホームグラウンドで遭遇したような臨場感もある。あまりにも魅力的で、ワインが最初に見たときに息を呑むほどだったであろうと思える黒板の写真もある。彼女の関心は、形式的な外観だけでなく、それぞれの黒板が示唆する意味の層にも及んでいる。それらの第一印象には、はっきりした意味があるが、消去された跡や、描き直されたもの、推論が進展してゆく過程には、さらなる意味があり、時間の経過とともに明らかになってゆくかのようだ。

数学者のアラン・コンヌは、数学において「存在する」という語は、矛盾の対象とならないことを意味する、と言った。これらのエレガントな写真には、人の厳密な思考というキャンバスに描かれた絵が、詳細に保存されている。

全体として、これらの写真はある種の証言であり、人の思考がより高い能力を持つことを信じた記録だ。ほとんどの抽象的な数学がそうであるように、たとえ明確な形で役に立たなくても、そのよらな推論的な思考には価値がある。時に詩人が、自分の文章を、散文よりも高尚なものと見なしたように、純粋数学という呼び名には、19世紀の俗物性の意味合いが(おそらく意図的に)含まれる。そうは言っても、純粋な思考と実践的な思考は区別しなければならない。それは、例えば、詩と簡単な報告書の間に存在する区別のようなもので、プラトンも同様の区別をしたであろう。数学が芸術なのか科学なのか、あるいはその両方なのかを判断するのは難しい。

 奥さんへの買い物依頼
ヨーグルト     129
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油揚げ         79
かき揚げ      150
キャラメルコーン         59

『哲学トレーニング』

2023年09月30日 | 2.数学
 (高校倫理の古典でまなぶ)

『哲学トレーニング』

人間を理解する

古典を使って考える哲学の「筋トレ」

◎現代思想

言語意味

私とあなたはその言葉を同じ意味で使っているのか―ウィトゲンシュタイン『青色本』『哲学探究』

言葉の意味はどうやって決まる?

(現代文学研究会の部室で緑と昇とが話しているうちに・・・)

緑 昇って、ときどき意味がわからないことを言うね。

昇 そんなことないよ。そういう緑の言っていることこそ、意味不明だよ。

直子 どうしたの。また、夫婦げんか?

昇 いや、けんかじゃないし、そもそも夫婦じゃないし・・・。でも、なんで言葉ってこんなにも通じないのかな。

緑 それは仕方ないんじゃない?だって、その言葉を言ったときに何を思い浮かべていたかなんて、結局は言った本人にしかわからないんだから。

直子 それはどうかなあ。たとえば、「お菓子食べたい」って言うからポテチを買ってきたら、「何それ?私が「お菓子」という言葉でイメージしてたのは「チョコレート」だったのよ」って言われたとしたら、どうよ?

昇 緑自身もそう言うことよくある!すごく困る!!

直子 でしょ!?やっぱり言葉の意味って自分で好き勝手に決められるものじゃなくて、ある程度客観的に決まっているものだと思うな。

緑 そんなもの誰が決めるのよ。

直子 誰って言うか・・・。たとえば、国語のテストだと辞書に載っている説明が、言葉の意味の「正解」になるわけでしょ。だから、言葉の意味って辞書に載っている説明のことなんじゃないかな。

言葉が通じるってどういうこと?

昇 確かに直子の言う通りかもなあ・・・。あっ、でもさ、でもさ。辞書に載っていなくても、自分で何かに名前をつけるってことはできるよね。たとえば、僕が新しく創ったお菓子に「ノボージュ」と名づけるとか。

直子 ああ、たまにいるねえ。そういう人。

昇 その場合には、「ノボージュ」って言葉はほかのお菓子ではなくて、そいつのことだけを意味することになるわけだよね。で、それはそいつに「ノボージュ」っていうラベルをぺたっとくっつけることで可能となっている、って感じで・・・。

緑 つまり昇は、その場合言葉の意味って、そのラベルをつけられた対象だって言いたいの?

昇 そうそう!さすがは緑。やっぱり僕らの言葉は通じ合っているね。

直子 何よ、さっきは「通じない」って言っていたじゃない!だから、言葉っていうのはそうじゃなくて…..。

●考えてみよう

あなたは緑(意味=心の中のイメージ説)・直子(意味=辞書の記述説)・昇(意味=対象説)の三人のうちで誰の考えに近いか、その理由とともに考えてみてください。

何が「伝わらない」の?

言葉にしないと何も伝わらない。では、その裏返しはどうだろうか。つまり、言葉にすれば伝わるのだろうか。いや、相手にうまく言葉が伝わらなくてもどかしさを感じた経験をもつ人は多いだろう。では、ここで「伝わらない」ものは何なのだろうか。音声としての言葉そのものはきちんと聞こえているし、届いている。では、何が伝わっていないのか。それは、その言葉によって意味されているもの、ということになるだろう。言葉の意味についての問いはこのようにして立ち上がってくる。ここでは、この問いを生涯考え続けていたウィトゲンシュタイン後期の思想の助けを借りながら、この問題を一緒に考えてみることにしよう。(以下の引用はすべて彼の著作からのもの)

意味=辞書の記述なのか

「言葉の意味とは何か」という問いに対してまず思いつくのは、対話で直子さんが述べていたように、その言葉を説明する辞書の記述によって答えるやり方である。たとえば、「石」という言葉の説明として辞書に「岩よりも小さいもの」と書いてあったならば、この記述が「石」という言葉の意味だと考えたくなる。しかし、ウィトゲンシュタインは、このような「言葉を別の言葉で定義する」説明に対して以下のように述べている。

一般的に「言葉の意味の説明」と言われるものは、非常に大まかに言えば、言葉による定義と指さしによる定義とに分けられる。(中略)言葉による定義では、一つの言語表現から別の言語表現に移るだけのことなので、ある意味では一歩も先に進まない。それに対して、指さしによる定義は意味を知る方向に向かって実際の一歩を踏み出すように思われる。(『青色本』)

なぜ辞書による説明では「一歩も先に進まない」のだろうか。それは、「言葉の意味を説明するその言葉の意味は何だろう」という問題が出てきてしまうからである。先ほどの例で言えば、「石」という言葉を説明する「岩よりも小さいもの」の中に出てくる「岩」や「小さい」という言葉はどういう意味なのか、と問われることになる。そこで今度は「岩」の説明を辞書で引いてみると、「石よりも大きいもの」と載っていたりする。これでは、どうどうめぐりだ。

つまり、言葉は辞書の内部に張りめぐらされた言葉の網を抜け出して、どこかで現実の世界の対象と結びつかなければならない。これを可能にするのが、もう一つの説明として挙げられた「指さしによる定義」である。

意味=対象なのか

たとえば、まだ言葉をあまり知らない子どもに「石」という言葉を教える場面を考えてみよう。その子はほかの言葉もよく知らないので、辞書の説明は使えない。このような場合には、実際に石をもってきて、「これが石だよ」と教えてあげることになるだろう。これが「指さしによる定義」だ。このような言葉の説明の仕方は、先ほどの対話で言えば昇くんの説明に近い。そして、言葉を実際の対象に結びつけているので、言葉を言葉によって説明するよりも「意味を知る方向へ実際の一歩」を踏み出してはいる。でも、実はこれでもまだ説明は終わらない。なぜだろうか。

私がある人の名前を指さしによって説明するとき、その説明された名前は色の名前としても、人種の名前としても、さらには方位の名前としても理解できる。つまり、指さしによる説明はいかなる場合にも別の仕方で解釈可能なのである。
(『哲学探究』28節)

たとえば、「これが石だ」と指さしによって説明することで、子どもが「石」という言葉を学んだとしよう。でもその後に、雪が降っているのを見て「あ、石!」とその子が言ったとしたらどうだろうか。その子は「石」という言葉が、色の名前(たとえば「白」のこと)だと思って、同じ色をもったものを「石」と呼んでいるのかもしれない。つまり、指さしによる定義だけでは、いろいろな解釈ができてしまって、「これ」が何を指しているのかが一つに決まらないのだ。

さて、困った。大人に対してであれば、「「石」は物の名前であって、色の名前ではないよ」と教えることができる。しかし、この子はまだ「物」とか「名前」という言葉が何を意味するのかを理解できないだろう。では、どうすればよいのだろうか。

一つのやり方は、たとえば実際に石に触らせてみせて、「その石は硬いね」って言ってみることである。あるいは、手にもたせて「その石は重いかな」と聞いてみるのでもよい。色は硬さをもたないし、重さももたないので、こうすれば「石」を色の名前と解釈するという選択肢はとれなくなるだろう。

このようにみてくると、単にあるものに「石」というラベルを貼りつけるだけでは、まだその言葉には意味が与えられていないことがわかる。言葉が何を意味するのかは、その言葉がどういう場面で、どういう経験と結びついて、ほかのどういう言葉と一緒に使われるのか等々という、さまざまな実際の使われ方を学ぶことによってはじめて理解できることになる。そして、ウィトゲンシュタインはこのような言葉の使い方を学ぶ過程やその言葉を使う活動全体のことを「言語ゲーム」と呼ぶ。

すると、石を名指したり、言われた言葉を後から発音して繰り返したりするといった過程もまた、言語ゲームと呼ぶことができるだろう。(中略)私はまた、言語とそれが織り込まれた活動のすべてを「言語ゲーム」と呼ぶ。(『哲学探究』7節)

意味=心の中のイメージなのか

それでは、言葉を使った活動を「ゲーム」として考えることにはどんなメリットがあるのだろうか。いろいろあるだろうが、そのうちの一つとして、意味を心の中から解放することができる、という点が挙げられる。

先ほどの対話の中で緑さんは、意味を心の中に浮かぶイメージと考える立場に近づいていた。たとえば、私が「石をもってきて」とある人に頼んだのだが、彼がもってきたのは私が欲しかったものではない、ということがあったとき、この食い違いは「石」という言葉で私と彼とがイメージするものが違ったからだ、と言いたくなるだろう。この点で、言葉の意味をその言葉を使う際に心の中に浮かぶイメージと考えることには、それなりの説得力がある。しかし、同時にいくつかの問題もある。

その一つは、相手が思い浮かべているイメージはどうやってわかるのか、という問題である。それなら、相手にどういうイメージを思い浮かべているかを説明してもらえばよい、と思われるかもしれない。だが、その説明はあくまで言葉で行われることになる。たとえば、「「石」という言葉で、私は「丸くて、白くて、硬くて…」というものをイメージしているのだ」と。

しかし、こう答えたとたん、今度はその答えの中に出てくる「丸い」とか「白い」という言葉で何をイメージしているのかという問題が出てくる。つまり、心の中のイメージを言葉で説明しようとすることには、辞書の場合と同様の限界があるのだ。

ここで先ほどの「言語ゲーム」というアイデアが効いてくる。どんなゲームでもよいが、たとえば将棋というゲームの「角」という駒の意味を理解している、とはどういうことかを考えてみよう。それはたとえば、角は将棋盤の中で斜めであれば四方にどこまでも動くことができるけど前後や横には動けない、ということをわかっているということかもしれない。あるいは、その駒がどういう場面で有効に使えるかをわかっていることかもしれない。いずれにしても、ゲームの中で角が果たす役割をわかっていて、その駒を使いこなすことができるならば、その人は角の意味を理解していると言ってよいことになるだろう。

一つの石(駒)の意味とは、ゲームの中でそれが果たす役割である、と言おう。(『哲学探究』563節)

それでは私たちは、将棋で角を動かすときに角が表す何かをイメ―ジしながら指しているだろうか。そんなことはしていない。そもそも角が表すものということで何をイメージすればよいのかさえわからない(角の駒の形や素材はここでは問題ではない。何なら消しゴムや紙切れで代用してもよいのだから)。それでも、将棋というゲームの中でその駒を動かすことができるなら、その駒の意味をわかっていると言える。そして、自分が動かすのと同じように相手がその駒を動かしているなら、相手はその駒を自分と同じ意味で理解して使っていることがわかる。

これと同じように考えていくと、「石」という言葉も、それを相手が自分と同じ意味で使っているとわかるためには、相手が「石」という言葉を用いるゲームの中で自分と同じような仕方でそれを使っていることがわかればよいので、心の中のイメージは必要ない、ということになる。

しかしここで、以下のような疑問をもつ人がいるかもしれない。「角」の使い方は言葉による定義が可能であるのに対して、「石」という言葉の使い方は先ほど述べたように言葉で定義できないのだった。したがって、これらを用いる営みを同じように「ゲーム」と呼ぶことには無理があるのではないか、と。

確かに、「角」と「石」の使い方の説明には大きな違いがある。しかし本当は、「角」の使い方だって言葉によって定義しつくせるものではないのだ。たとえば、「角が斜めに動く」ということを私とあなたが同意していたとしても、「斜めとはどこか」という点で二人の解釈が異なっているかもしれない。それゆえ、これまで私とあなたが同じルールを共有していたと思っていたのに、あなたが次の一手で私の考えるルールとはまったく異なる動かし方をして、二人が実はまったく異なるルールに従っていた、ということが判明するかもしれない。そしてこの食い違いの可能性は、これまで論じてきたように言葉によってあらかじめ排除しつくすことはできないのである。

以上のように、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という考え方を提案することによって、「意味が心の中にある」という私たちの陥りやすい誤解を解きほぐそうとした。しかしそれと同時に、そのような言語ゲームの規則を言葉によって説明することの限界(語りえぬこと)もまた明らかにしたのである。

要点の板書

言葉の「意味」とは、辞書の記述なのか、ラベルのつけられた対象なのか、心の中のイメージなのか、それら以外のものなのか。

◎本文をもとに考えてみよう

  • あなたが言葉によって説明できないと思うものは何だろうか。その理由とともに考えてみよう。問2意味のない「言葉」は考えられるだろうか。考えられるとすれば、それは意味をもつ言葉に比べて何が「ない」のだろうか。

◎出典

ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集第8巻哲学探究』藤本隆志訳、大修館書店、1976年。『哲学探究』丘沢静也訳、岩波書店、2013年

ウィトゲンシュタイン『青色本』大森荘蔵訳、筑摩書房、2010年(本文中の引用の対応は、順に『青色本』8頁、『哲学探究』大修館36、20、299頁/岩波28,12,291頁)

◎人物紹介

し、ウィトゲンシュタイン(18891951)哲学的問題と言語との関係を生涯考え続けたオーストリア生まれの哲学者。後半生では対話形式で思考を進めるという独自の哲学スタイルをとるに至った。小屋の外に会話が聞こえてきたが、入ってみたら中にはウィトゲンシュタイン一人しかいなかったという逸話は有名。

◎読書案内

  • 野矢茂樹「哲学の謎」(とりわけ「第7章意味の在りか」)、講談社現代新書、1996年

  • 永井均「ウィトゲンシュタイン入門」ちくま新書、1995年③デレク・ジャーマン監督「ウィトゲンシュタイン」1993年(①は☆②は☆☆☆、③は☆☆)


  • には今回扱った言葉の意味の問題を始めとして、面白い哲学的問題がたくさん紹介されている。②はウィトゲンシュタインの思想の流れを、彼と一緒に哲学しながら辿り直すことができる格好の入門書。③はウィトゲンシュタインの数奇な生涯を、彼の思想の変遷を交えて前衛的な映像で描いた伝記映画。

(高校倫理の古典でまなぶ)

『哲学トレーニング』

社会を考える

(社会と公共を考える)

哲学の「筋トレ」」

イスラーム

■公正平等

神のもとで人びとは何を正義と考えるのだろうか-『クルアーン(コーラン)』

文化によって異なる「正義」

(岩波高校を卒業したばかりの美咲と虎が大学の授業の話をしている)

美咲「異文化理解」ゼミのレポートどうする?

虎いやー、全然決まってないよ。大学に入って最初のレポートだから、よく分からないんだよね。美咲はどう?

美咲私は一応、「イスラームにとっての正義」にしようかな、と思って。先生に確認したら、おもしろいテーマだって言ってもらったよ。

虎早いね、やることが。確かにおもしろそうだけど、どうしてそれを選んだの?

美咲高校の時の倫理の話で先生が、「正義」は一つではなく、主観的な場合が多い、って話していたよね。文化や社会によって違う、とくに宗教的な要因が関係することがある、って。それを思い出して、それじゃあ、日本とかけ離れた感じのするイスラームの価値観だとどうなるんだろうか・・・と思って。

イスラームの聖典「コーラン」と「正義」

虎ふーん、そうやってそのテーマにたどり着いたんだ。なるほどね。でも単なるイメージかもしれないけど、イスラームの「正義」って、唯一絶対の神、アッラーのためのもので、暴力をともないがち、という気がするんだけど、どうなんだろうね?

美咲確かにそんなイメージがあるのかもしれないけれど、宗教にかかわらず、暴力に対抗するために暴力を用いるのは正義だって考える人もいるよね。それにイスラーム教徒がみんな暴力的なんてありえないでしょう?

虎まあね。でも、レポート書くための資料はどうするの?イスラームの本って、少なそうだけど。

美咲そうなんだよ。だから、基本的には聖典のクルアーンを使おうと思ってる。

虎「クルアーン」って「コーラン」のことだよね。高校の教科書では両方書いていたけど、どっちが本当なの?

美咲アラビア語を聞くと「クルアーン」らしいよ。

虎アッラーの言葉そのものの記録って習ったなぁ。

美咲そうそう、預言者とされたムハンマドの口からアッラーの言葉が発せられて、人びとに伝えられたんだって。その記録だからなかなか分かりにくくて、ちょっと困っているところ。

虎それって7世紀のアラビア半島のことだよね。今の思想と関係あるのかな?

美咲それがあるんだよね。レポートできたら読んでみて。

考えてみよう

「正義」とは絶対的なのだろうか、それとも相対的なものであり、文化や社会によって異なるのだろうか。ここでは主に、イスラームの聖典「クルアーン」を用いて、「正義」のあり方について考えてみよう。

「正義の味方」は何をする?

「正義」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるだろうか。「正しい」ことを追求するという肯定的なイメージが浮かぶだろうか。だが、この言葉を振りかざして、実際には自分の欲することを押し通そうとしているだけ、という否定的なイメージが浮かぶかもしれない。この言葉の意味はとても広いので、ここでは手始めとして「正義の味方」という言葉について考えてみよう。

皆さんにとって「正義の味方」は誰だろうか。昭和の子どもだった筆者は、月光仮面、タイガーマスク、ヤッターマンやガッチャマンといったテレビ番組から生まれたヒーローたちを連想する。特にタイガーマスクは、今でも「正義の味方」の代名詞として使われる。

これらのヒーローたちは困っている弱い者の味方で、強く悪い奴らを懲らしめてくれる存在として描かれる。すると「弱い者」が「正義」なのだろうか。もちろん必ずしもそうとは限らないだろう。だが「悪い奴ら」が「不正義」なのは確かである。そして「弱い者」は「悪い奴ら」によって不当な目にあっているため、「正義の「味方」がそれを助け、是正してくれるのである。この最後の点がポイントである。「正義」という言葉には、不当な状況をそれぞれにふさわしい、見合った状況にするという意味があると考えられる。

この点は、西洋思想における「正義」でも同じである。正義にはもともと「正当な分配」を目指すという基本的な意味がある。つまり一部の人たちが不当に利益を得て、他の人たちが理不尽な苦境におかれることなく、それぞれに見合ったものを公正に与えるにはどうすればよいのか、が正義をめぐる議論の根底にはあるのだ。

イスラームにおける「正義」

イスラーム思想を見ると、この「正義=見合うこと=公平(平等)」という傾向はさらに強いものとなる。それはこの宗教の成立そのものに大きく関わっている。

イスラームの預言者ムハンマドは6世紀後半にメッカで生まれたが、孤児として育ち、商人として前半生を過ごした。預言者となったのは40歳ごろで、唯一の神であるアッラーの啓示を受け始める。啓示の内容は当時のメッカの状況を反映して、貧富の格差という不平等やそれを助長する拝金主義を批判し、神のもとでの人間の平等を訴えるものであった。そしてこれが、イスラーム誕生の大きな原動力の一つであった。

したがって、イスラームの教えは日常生活における正義を強く説いている。たとえば当時の人々にとっての関心事の一つは、もめ事の解決や商売のやりとりが、正義つまり公正さにもとづいているかどうかであった。このテーマは、クルアーンで何度もさまざまな文脈で言及される(以下の引用の傍点はいずれも引用者による)。

神は、預かった物はきちんと元の持ち主に返すようにと命じた。また、他の人々の間を裁く際には、公正に裁くように、と命じた。(4章(女性)58節)

さらに次の章句は少し長いが、旧約聖書に登場するダビデを通してイスラームの正義に関する教えが語られている興味深いものである。ダビデはアッラーによって王権と知恵、そして裁きの力を与えられていた。ある時、二人の男が彼のもとに来て、こう言った。

「私たち二人は訴えたいことがあって参りました。どちらか一人が不当な行為を行っています。私たちを真理にもとづいて裁いてください。決して不当には裁かないでください。そして公平な道に導いてください。実はここにいるのは私の兄です。九十九頭の雌羊を持っていますが、私は一頭しか持っていません。それなのに兄は、「この一頭の雌羊もこっちによこせ」と言い、口論して私を言い負かしてしまったのです。」

ダビデはこう言った。「兄の方は、お前の一頭の雌羊を、彼が持っている多くの雌羊に加えるように要求したのだな。これはすでに不当な行為をなしている。共同で何かことを行う者は互いに害し合うものだ。ただし、信仰して善をなす者だけはそうではないが、そういった者は少ない。」(38章(サード)22-24節)

ここでは九十九頭の雌羊をもつ強欲な兄と、一頭の雌羊しかもたず口論にも負けた弱い弟が対比されている。ダビデは彼らの訴えを受け、弱者の味方をする裁きを下した。これがイスラーム教徒の理想とする正義ということになる。

またムハンマド自身が商人であったことが反映され、クルアーンでは商売上の正義、つまり公正さがしばしば説かれている。

ますめお前たちがものを量る時は、枡目を十分に計量しなさい。また正しい秤を使いなさい。その方が立派であり、良い結果[来世での天国]をもたらす。(17章(夜の旅)35節)我ら[アッラー]は人間が公正にふるまえるように秤を下した。
(57章(鉄)25節)

ここに出てくる「秤」(天秤)は、イスラーム社会で正義のシンボルとして用いられる。たとえば現在のイスラーム諸国の「正義省」のマークに秤が使われていることがある。秤とは釣り合いの象徴である。つまり公正であること、そして見合っていることが正義なのである。

 209『世界の歴史㉙』

冷戦と経済繁榮

中国――「民族共産主義」

建国期の中国

毛沢東が指導する中国共産党は、対日抗戦、国民党との内戦を経て一九四九年十月一中華人民共和国を樹立した。最優先課題は経済復興であり、貧農に均等配分する土地改革、国民党時代の官民癒着で巨大化した企業の国有化、悪性インフレを解消する統制経済などによって五二年までには戦前の生産を回復した。また中国のかつての版図を維持することも課題であった。それは国民党が移動した台湾であり、ソ連赤軍によって解放された満洲、反乱を鎮圧した新疆、そしてチベットなどの周辺地域であった。

安全保障も大きな問題であった。農村を拠点とするゲリラ的解放戦争を展開し独自の力で政権を奪取した中国共産党は、ユーゴのチトーと同様、ソ連にとっても侮りがたい存在であった。スターリンはヨーロッパでの冷戦が激化するなかで、中国接近をはかり、中国も「向ソ一辺倒」を宣言しこれに応えたが、スターリンは共産主義運動の盟主たる地位を確保し、中国を制御すべく、四五年八月に国民党政府と締結した不平等な友好同盟条約を変更する意図はなかった。そのため四九年十二月の毛沢東のモスクワ訪問でなされた改定交渉は難航した。インドやイギリスが中国を承認し、それをスターリンが中国の独自路線の現れと警戒したため、五〇年二月中ソ友好同盟相互援助条約が調印された。だがスターリンの譲歩は少なく、旅順港の条件付き返還の他、秘密協定で旅順への無通報兵力移送など不平等性は強く残った。

五〇年六月に勃発した朝鮮戦争も、スターリンが金日成に承諾を与えその後中国との調整が行われたものであり、また同年十月の中国義勇軍の派遣も中国が強く躊躇するなかでスターリンの主導でなされたものであった。朝鮮戦争のなかで進行したソ連への従属と朝鮮戦争でのアメリカとの戦いは、準軍事体制としても適合していたスターリン型社会主義モデルを導入させる契機にもなった。五三年夏ごろから毛沢東主導のもとに「過渡期の総路線」をとり「社会主義的改造に着手した。第一次五ヵ年計画も導入してソ連型重工業路線をとり、農業においても五五年以降急速な農業集団化を進め、五六年には大多数が、土地や生産手段を提供し労働に応じて分配する「高級合作社」に属することになった。

スターリン批判と中国

五三年三月のスターリンの死後、ソ連は「平和共存」路線をとり、五六年二月にはスタ―リン批判を行った。中国は「平和共存」路線には、平和五原則と非同盟運動への接近によって応じたものの、スターリン批判では、平和的移行論、個人崇拝など多くの問題に直面することになった。

中国は、限定的なスターリン批判を五六年四月上旬に開始した。批判の自由を容認した百花斉放、百家争鳴を鼓舞した整風運動であった。五六年九月に一一年ぶりに開催された第八回全国代表大会(八全大会)では、社会主義的改造の終了と個人崇拝の除去を宣言した。だが五七年二月の有名な毛沢東の「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の講話の楽観論は裏切られ、脱スターリン化は、共産党批判、党独裁批判などしだいに統制が不可能になり、六月から反右派闘争を開始し、公称で五五万人が追放された。対外政策も硬化し、五七年秋毛沢東は「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」と述べ、モスクワでの世界共産党会議では、「東風は西風を圧する」と「平和共存路線」に対して異論を唱えていた。

またこの会議で毛沢東は、一五年でイギリスに追いつき追い越すとも述べていた。毛沢東はすでに五七年夏ごろから、反右派闘争の延長として大衆の士気を鼓舞することによって生産を増産させる考えに傾いており、五八年五月、八全大会第二回会議において「社会主義の総路線」が決定され、大躍進運動が展開された。またこれに続いて開催された中央軍事委員会拡大会議において、核兵器の開発が決定されるとともに、軍建設でもソ連モデルが批判され毛沢東の人民戦争論に立脚する方針が決定された。大衆の主意の重視、社会主義体制においても階級闘争は存在し、そのため「継続革命」が必要であるという毛沢東路線が鮮明になり始めた。また組織面でも、国家と党の分業はなくなり、党中央に組織された「小組」が大きな権限をもつ、党の「一元的指導」が導入された。イデオロギー、戦略、組織の面でソ連モデルからの離脱が顕著になった。このためこれ以降、文化大革命までの中国の共産主義は、「毛沢東モデル」(毛里和子)とか「第三世界路線」とか呼ばれるようになる。

毛沢東モデル

この毛路線はまず十月、第二次台湾海峡危機の「瀬戸際政策」で示され、中ソ対立が顕著となった。また大躍進運動は、5章で説明されるように、破綻がただちに明らかになった。五九年七月避暑地の廬山で開催された政治局拡大会議で、国防相の彭徳懐が大躍進運動を批判したが、毛沢東は激怒し、右翼日和見主義と攻撃した。八月には彭徳懐をはじめとする軍幹部を「反党集団」として追放処分にし、国防相に林彪を指名した。おりしもチベット国境をめぐり中印紛争が勃発したときであった。しかし五九年四月、毛沢東は党務と理論活動に専念するとして国家主席を辞任し、劉少奇が就任し、党総書記になった鄧小平とともに、六〇年から経済調整といわれる大躍進運動の修正を行った。鄧小平が「白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫はよい猫だ」という「白猫黒猫論」を展開したのはこのときであった。このため六二年には経済は回復軌道に入った。

しかし薄一波の回顧録によれば、毛沢東は五九年十一月ごろから「修正主義」批判の理論武装を開始していたという。毛沢東はダレスの「平和的変革」の主張に着目して、アメリカは力の政策に加えて、浸透、体制転覆などの「欺瞞的手段」で帝国主義を維持し攻勢をかけようとしており、キャンプ・デーヴィッドでの米ソ首脳会議で示されたように、ソ連を腐敗させ資本主義を復興させることを企図しているとし、アメリカ帝国主義、ソ連の修正主義、国内の修正主義との戦いを強調するようになった。

この路線はまず、軍拡となって現れ、既定の方針とはいえ、六四年十月十六日水爆開発能力を示すウラン型核爆弾の地下核実験に成功した。この日は、フルシチョフが党と政府のポストから解任された翌日であり、同時に米ソの地下核実験禁止条約への挑戦でもあった。また六五年五月には航空機からの原爆投下による爆発実験に成功し、六六年十月には中距離弾道ミサイル(MRBM)による爆発実験にも成功した。ついでソ連への修正主義批判がイデオロギー論争として展開された。六四年十月フルシチョフが解任された後も、中ソ対立は緩和せず、米ソに対決するため、支援と連帯によって第三世界から支持を調達することを試みた。

そして、資本主義の浸透による腐敗と弱体化を防ぐため、国内思想引き締めを強化した。思想の純化と綱紀粛正であり、六二年夏ごろ提唱され翌年春から開始された社会主義教育運動であった。これは劉少奇らと路線対立を引き起こし、文芸界にも軍部にも及んだ。林彪は人民戦争論を唱え、軍内思想強化のために六一年から『毛主席語録』を出版していた。路線対立と権力闘争が複雑に絡み始めた。

六四年夏のトンキン湾事件、六五年二月の北爆開始と、アメリカのベトナムへの介入が本格化すると、北ベトナムに全面支援を確約した。六五年から七三年まで、三二万の中国兵力が北ベトナムに駐留したという。しかし北京はアメリカとの直接対決は回避しようとしており、そのため空軍の支援には消極的であった。一方六五年二月コスイギンがハノイを訪問して支援を約束し、それにはミサイル技術が含まれていた。また毛沢東はトンキン湾事件から衝撃を受け、核攻撃を含む大規模戦争に備えるように指令した。これは軍内の路線対立を強め、そのなかで林彪の権力が強まっていった。その後中国は大激動の時代に突入した。プロレタリアート文化大革命(文革)である。

文革

文化大革命の時代は一九六六年から七六年までの一〇年といわれている。権力闘争、路線闘争、文化闘争、武力闘争、アナーキーなど多面的側面をもつこの「革命」は、そうであるがゆえにさまざまなドラマ、悲劇をも生み出した。革命は、劉・鄧、北京に代表される権力中枢に対して反対派を組織し、奪還闘争を展開することから始まった。反対派の中心は毛沢東であり、その拠点が「文化大革命の司令部」といわれた上海の文化革命小組であった。対抗権力は闘争の基盤を、権力中枢から疎外された一つである学生に求めた。当初自然発生的な運動であった高校生・大学生の「紅衛兵」は、毛沢東の支援を受け闘争になだれ込んだ。この両面作戦の前に権力中枢は容易に崩壊し、六六年八月の一一中全会では文化大革命が党の方針として採択された。解放された紅衛兵のエネルギーは、「造反有理」などを掲げ、権力中枢(実権派)の逮捕・追放・自己批判を迫り、地方に運動を広げた。しかししだいに内証し相互に武闘を繰り返した。フランス革命がそうであったように、凄惨な祭りであった。

また毛沢東は、権力組織をコミューン型に変換することを求めた。六七年一月から労働者も闘争の場に登場し、コミューン(六七年上海コミューン)を形成し始めた。しかし統制のとれないこの動きは、下からの奪権運動が共産党支配そのものを突き崩す危険をはらんでいた。そのため燎原の火のごとく全国に拡大する運動を抑制する拠点が必要とされ、六七年春ごろから各地で革命委員会が形成された。この流動的な権力状況のなかで決定的な力をもったのが軍であった。軍は革命委員会を掌握し、六八年秋までには全国に及んだ。六八年十月実権派が追放されるなかで一二中全会が開催され、劉少奇は党籍を剥奪、永久追放され、六九年四月の第九回全国代表大会(九全大会)において、毛沢東の勝利がうたわれ、林彪が毛沢東の後継者として明記された。いわゆる「造反派」の勝利であった。しかし、それは毛沢東、林彪、文革小組を拠点にのし上がった「四人組」との間の流動的なバランスの上にたつものであった。

中ソ対立の激化

この間、ソ連との関係は悪化する一方であった。六五年二月コスイギンがハノイから北

京に飛び周恩来・毛沢東と会談し中ソ和解を提案した。毛沢東の返事は、中国の批判は「九〇〇〇年続く」というものであった。その後ソ連は中国国境で軍事力を強化(一七個師団から二七個師団へ)し、さらに戦術核、大陸間弾道ミサイル(ICBM)も配備して先制予防攻撃の宣伝を繰り返し、圧力をかけた。この軍事的脅威に加えて、中国は六八年のブレジネフ・ドクトリンは中国にも適用されるのではないかという不安を抱き、「社会帝国主義」を非難し、その年十月には林彪は対ソ戦争準備の指令を出したほどであっ

この緊張のなかで六九年三月二日、中ソ国境を流れるウスリー河の島、珍宝島(ダマンスキー島)で武力衝突が起きた。モスクワに緊張がはしった。

この地区では長年対立が起きていたが武力使用はしないという暗黙の了解があり、それが破られたからである。ソ連は、核攻撃を含む報復措置を検討した。しかしソ連がとった措置は、軍事力を増強して圧力をかける一方で、中国を交渉に引き出すというものであった。モスクワは、強硬手段が中国を西側に追いやることを恐れたのである。九月コスイギンがハノイでのホー・チ・ミンの葬儀に出席後、北京を訪問してこの紛争収拾で合意し、危機は終息した。しかし北京は、文化大革命による疲弊と外交的孤立のなかで、対米関係の見直しに着手していた。

 とりあえず5冊 片付けました るーしーちゃんはおまけ

『ウィトゲンシュタインと独我論』

2023年09月23日 | 2.数学
『ウィトゲンシュタインと独我論』

『論考』における「独我論」

「論考」においては、〈事〉とそれを認識する<思念〉とそれを外に表した〈命題〉は、同一の論理形式を有している。(図解Ⅰを参照。とは言え、事実としては可能的事実であってもよい訳であり、そしてこの場合には、思念は想像になる。何れにせよ事実と思念は、あらゆる可能的事実をも含めて、同一の論理形式を持って対応しており、そしてその論理形式は、それらに対応する命題において示される。したがって、あらゆる可能的事実をも含めた意味での〈世界〉と、それに対応するところの、想像を含めた意味での<思念)「広義の思念」は、同一の命題によって表される事になる。それ故その意味で、〈世界〉とそれに対応する<思念>――「広義の思念」のこと、以下同じ――は同じ内容を有し、且つ、可能的命題を含めた意味での命題の全体が〈言語〉であるとすれば、同一の言語の範囲内にあって、その〈言語〉の限界を限界とし、その意味で同じ限界を有する事になる。ち、〈世界〉と〈思念〉は、内容を同じぐし、且つ、限界も同じくするのである。そしてその意味で、〈世界〉と〈思念〉は、完全に重なり合いながら動くことになる。ところで、〈思念〉は疑いも無く私<思念〉である。したがって、内容においても限界においても〈思念〉と完全に重なり合いながら動く〈世界〉もまた、私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。

*『論考』2・17、2・181、3、3・315を参照。

さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する<言語>(dieSprache,diealleinichverstehe5・私的<言語>であるのであるから。したがって、私の<世界)は、私のみが理解する〈世界〉私的〈世界〉なのであるから。(図解Ⅱを参照。)私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論>の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、……が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。

  • この部分は、文法的には、「それのみを私は理解する言語」即ち「私が理解する唯一の言語」ととる事も可能であり、事実多くの(例えば、ラッセル、ヒンティッカ、ステニウス、ブラック)そうとている。しかし、それでは、「世界は私の〈世界〉である」という事は帰結するが、「その私の〈世界〉は、他人には理解不可能である」という事は帰結しない。即ち、独我論は帰結しないのである。ウィトゲンシュタインは、独我論について、こう言っている。「誰も私を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。即ち、他人は「私が本当に意味する事」を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。….私は、彼は私を理解すべきである、という事は論理的に不可能である事を望む。即ち、彼は私を理解する、と言う事は、偽ではなく無意味であるべきなのだ。」(『青色本』p.65、一一〇頁)なお、ここで言う「私の<言語>」は、『探求』においては、第二五六節で「私自身のみが理解出来る言語」(dieSprache,dienurichselbstverstehenkann)と言われている。

それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論――簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論――を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。(図解とWを参照。)

私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。

  • 『論考』2・17、2・181、3、3・315を参照。


さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する<言語><dieSprache,diealleinichverstehe5・私的〈言語〉るから。したがって、界〉は、私のみが理解する<世界>――私的〈世界〉なのであるから。(図解Ⅱを参照。)私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論>の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。

  • この部分は、文法的には、「それのみを私は理解する言語」即ち「私が理解する唯一の言語」ととる事も可能であり、事実多くの(例えば、ラッセル、ヒンティッカ、ステニウス、ブラック)そうとている。しかし、それでは、「世界は私の〈世界〉である」という事は帰結するが、「その私の〈世界〉は、他人には理解不可能である」という事は帰結しない。即ち、独我論は帰結しないのである。ウィトゲンシュタインは、独我論について、こう言っている。「誰も私を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。即ち、他人は「私が本当に意味する事」を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。….私は、彼は私を理解すべきである、という事は論理的に不可能である事を望む。即ち、彼は私を理解する、と言う事は、偽ではなく無意味であるべきなのだ。」(『青色本』p.65、一一〇頁)なお、ここで言う「私の<言語>」は、『探求』においては、第二五六節で「私自身のみが理解出来る言語」(dieSprache,dienurichselbstverstehenkann)と言われている。

それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論――簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論――を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。(図解とWを参照。)

私の言語の諸限界は、私の世界の諸限界を意味する。(5.6)

[私の]世界と[私の生活は一つである。(5・621)

私は、私の世界(小宇宙)[そのもの]である。(5.63)

[時々刻々]思考し表象する主体は、[世界の中には]存い。(5・631)

[時々刻々思考し表象する]主体は、世界には属さない、それは、世界の一限界なのである。(5・632)

[時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている]形而上学的主体は、世界の中の何処に認められるべきなのか。君は、こう言うであろう、ここにおける事態は、眼と視野の関係と同じである。しかし、君は実際には眼を見てはいない。[それ故、眼は視野の中には存在しない。]

そして、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は、出来ない。(5633)[それ故、視野と眼の関係は偶然的である。]

つまり、[二重の意味で]視野は例えばこのような形を[必然的に]持つものではないのである。(5・6331)

この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではない、という事と関係している。我々が見るものは全て、別様でもあり得たのである。(5・634)ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟る。独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在が残るのである。(5・64)

したがって実際、この意味でならば自我が哲学において心理学的にでは無く問題になり得る、という意味が存在する。自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、哲学に入り込む。[この自我、即ち]哲学的自我は、人間ではない、人間の身体ではない、或いは、心理学が扱う人間の心ではない、それは、形而上学的主体であり、[私の]世界の部分ではな[超える事の出来ない]限界なのである。(5・641)

独我論で、「世界は私の〈世界〉である」と言うときの世界、即ち、私の世界は、私の生活世界の事である。(5・621)ここで我々は、決して、私の世界として物的な世界のみを考えてはならない。私の世界は、私の感覚、感情、思い、意志、等々、によって成り立っている私の生活世界なのであり、そして、それが即ち〈私〉というものの内実なのである。(5・63)

ところで、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しない。(5・631)ウィトゲンシュタインによれば、例えば「Aは、pと考える」は「「p」は、pと考える」という形式を持っているのである。(5・542)主体Aは、命題「p」に成り切って、pと考える訳である。これが現実の事実である。即ち主体Aは、この世界から姿を消すのである。(なおこの所見は、中期においては、普通一般にIchdenke(私は考える)という表現によって意味されている事は、実はEsdenkt(考えが生じている)という表現で表されるべきものだ、と言われる。)こういう訳で、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しないのである。勿論、生じている考えは、私が考えているものである。しかしその〈私〉は、私の生活世界の中には現れない。そのような主体は、私の生活世界には属さず、私の生活世界の一限界(eineGrenze)なのである。(5・632)そのような主体によって思考され表象される世界は、論理的に、当の主体を前提とし、且つ、当の主体を超え出る事は出来ないからであろう。それでは、私の生活世界の他の限界は何か。それは、私のみが理解する言語によって与えられる全可能的事実ではないか。そしてこの限界は同時に私の言語の諸限界(die Grenzen)でもあるのである。(56)私の言語の限界が諸限界と複数になっているのは、言語の限界には、名前に関する限界と、それらの間で可能な結合の形式に関する限界が有るからではないか。

他方、時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている形而上学的<主体〉は、世界の中の何処に認められるべきか、と問われれば、君はこう言うであろう、形而上学的<主体〉と私の生活世界の関係は、眼と視野の関係と同じである。しかしそのように言うとき、もしも君がⅠ図のような図式、即ち、眼が視野の中に入り込んだ図式、を思い描いているとすれば、それは誤りである。何故ならば、君は実際には眼を見てはいないのであるから。したがって、眼と視野の関係は、Ⅱ図のようでなくてはならない。しかし、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は出来ない。(5・633)したがって、眼と視野の関係は偶然的なのである。それ故、眼と視野が必然的にI図のような図式を有する訳でもない。実は眼は「見る」という事と何の関係もなく、実は額が見るのだ、という事も、論理的には有り得るのである。つまり、眼と視野の関係は論理的にはI図のような形もI図のような形も持ちはしないのである。(5.6331)この事は、我々の経験の如何なる部分もアプリオリではないのであり、我々が見るものは全て別様でもあり得たのだ、という事と関係している。(5.634)何故ならば、もしも眼と視野が必然的にI図のような図式を有するとすれば、たとえ眼の構造は偶然的であるとしても、それを前提にすれば、視野には眼の構造を反映するアプリオリな構造が存在する事になるであるから。

ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、即ち独我論の自我がⅢ図のように大きさのない点へと収縮されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟るのである。言い換えれば、独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在如何なる部分もア・プリオリではない実在が残る、という訳である。(5・64)

とは言え独我論と実在論は、実は高々極限としてそれぞれの世界が一致するしくは重なるmitdemreinenRealismuszusammenfallen)までであって、独我論が純粋な実在論になるのではない。第一、独我論の自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、大きさのない点としてであろうとも、なお形而上学的〈主体〉として、また、世界の一部分ではなく限界(dieGrenze)として、残のである。(5・641)そして第二には、私の言語は依然として私のみが理

言語であるから。したがって『論考』においては、独我論が消え去る訳ではない。それでは、そのような独我論を脱却するにはどうすればよいのか。それには、形而上学的<主体〉は実は非在である、という事と、②言語は、私の言語――私のみが理解する言語(私的言語)ではなく、本来公的なもの(公的言語)だ、という事を、明らかにしなくてはならない。そして『論考』の後、①の作業が『青色本』と『探求』において遂行され、②の作業が『探求』において遂行された。そして実は、その何れの作業の土台にも、彼の「言語ゲーム論」があるのである。言うならば、彼の「言語ゲーム論」が、彼の「独我論」批判の土台なのである。(図解Vを参照。)しかし、この事の具体的議論は第二章本論に譲る。

なお、Ⅱ図においては、眼と視野の関係は偶然的であった。それでは、Ⅲ図における自我と世界の関係はどうであろう。それは、世界は必然的に私の世界である、という意味では必然的であるが、その世界の内容は、アプリオリではなく、別様でも有り得た、という意味では、やはり偶然的なのである。したがって、言うなれば、自我と世界の関係は、形式的には必然的だが、内容的には偶然的なのである。そして「眼と視野」の比喩は、眼と視野の関係は形式的にも偶然的である、という点において、破れる訳である。

 209『世界の歴史⑩』

西ヨーロッパ世界の形成

聖処女・羊飼い・大天使

ジャンヌ・ダルク

奇蹟力をもつ王の勢威はいつまでも続かない。しょせん民衆の日常とはかけはなれた高みから聖性を垂示しようとする試みは根付かない運命にあるからだ。「魔女」として火刑台にのぼったドンレミ村の田舎娘が、王と王国の危地を回復するとは、いかにも不思議だが、現実の出来事であった。

十四、五世紀は、戦争の世紀である。フランスのみをとっても、フランドル・ギュイエンヌ戦争(一二九四~九八年)、フランドル戦争(一三〇二~一三〇五年)、そして百年戦争(一三三七~一四五三年)とつづいた。国家の財政は疲弊し、農村は荒廃し、人心は乱れた。頼るべき人もモノもなしに、フランスはこのまま衰退してゆくかに思われた。この時代、奇妙な伝説がどれほどプロパガンダとして上から流布させられても、それがただちに浸透することはまれであった。しかし、ただ一人の少女の純なる思い込みが、軍隊を動かし、王位を動かし、国を動かすという驚くべき出来事が、この時起きた。ジャンヌ・ダルクである。

彼女は一四二四~二五年に天使のお告げを得て、まずヴォークールールの守備隊長の所に赴き、そこからオルレアンに向かうが、途中シノンで王太子とはじめて会い、ポワティエでは神学者の一団から審問を受けた。処女性をチェックされて立場が公認され、ブロワをへてオルレアンに入ったのが一四二九年四月二十九日であった。彼女も会議に加わった作戦が功を奏し、同年五月、イングランド軍のために七ヵ月間包囲されていたオルレアンを解放したのである。

そして王太子の王位継承権を主張し、ランスで七月十七日に大司教から塗油を受けてシャルル七世が即位することになる。だがジャンヌは、翌年イングランド軍に捕らえられ、宗教裁判で有罪とされ、火刑に処せられる。

さて、多くの予言者がこの時期には生まれ出たのだが、この点、とくにジャンヌは著名であった。パリの一市民は、批判的だが、つぎのように同時代に述べている。「この時期に一人の乙女が、言われるようにロワール川の河畔に現れて自ら予言者だと名乗り出た。そしてかくかくしかじかのことが実現するだろうと言った」。彼女の政治的立場や権力者との関係がいかなるものであれ、その予言が、直接、国家の命運を決める政治・軍事決定のきっかけとなり、しかも正確な企図の下敷きになったことは、まこと、フランス史上空前絶後のことであった。口頭の予言文化が脈々と流れていたのだろう。

予言は知識人の占有ではなかったのである。一四六〇年前後には、ポワトゥー地方の農民が、いくつかの集会を独自に開く。そこではかれらは予言によって、下層民たちが貴族と教会関係者を破壊するだろうと言っていたというのである。いずれにせよ不思議な時代、不思議な出来事である。

百年戦争

もう少し、この不思議の背景に肉薄してみたい。どんな時代、どんな状況、どんなメンタリティーが、ジャンヌの活動を可能にしたのだろうか。そもそも彼女の「愛国心」は、実際に「フランス国民」に感化を及ぼし、積極的な反応を得たのだろうか。ナショナリズムはすでにあったのか。

一三三七年には、フランス王フィリップ六世がイングランド王エドワード三世のフランス領内の封土(アキテーヌなど)を取り上げ、他方でイングランド王はフィリップのフランス王位継承権を認めずに、自ら王位継承を主張した。これが「百年戦争」の始まりである。その間、スロイスの海戦(一三四〇年)、ポワティエの戦い(一三五六年)、ついで、フランスから三分の一を削ってしまったブレティニー・カレー条約(一三六〇年)が結ばれた。しかし一三六九年には、新たに英王領土が没収された。

十五世紀に入るとアザンクールの戦い(一四一五年)が英軍の勝利とともに戦われ、英国の仏国内の占領地が増えてゆく。また仏王の捕虜化、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦の開始などが危機を増幅する。フランスにとって屈辱的なトロワ協約(一四二〇年)が締結されて、イングランド王ヘンリ五世がフランス王に宣せられる。

そこに現れたのが、ジャンヌ・ダルクであった。彼女の死後もフランスの反撃は続き、カスティヨンの戦い(一四五三年)で英軍が仏軍に敗れ、ボルドーが降伏して百年戦争は終結し、カレーを除く全域からイングランド勢力は放逐される。

百年戦争時の王と国家意識

この百年戦争は、通常、中世的な封建制原理に終止符を打ち、国家主権をその領域(国土)支配とともに樹立する契機となった戦争だと理解されている。しかし、本当にこの時期に国民国家ないし主権国家があったなどといえるのだろうか、考えてみよう。

一三二八年に、男子なくシャルル四世が死去したとき、フィリップ端麗王の子供たちのうち、エドワード二世の寡婦で三世の母であるイザベルがまだ存命であった。だからエドワード三世にフランス王位が移ると考えるのが普通だろう。女子相続を認めない習いになっていたフランスで、なぜこの封建関係に規定された正当な要求が認められなかったのか。それは、フランス人らのあいだに一定の「国民意識」「国家意識」があったと仮定しなくてはうまく説明できないだろう。

十四世紀の神学者ニコル・オレームは、フランス王の条件は、フランス人であることだ、と述べている。そしてフランス王権は、ただ王や王家に属するものではなく、王国の三身分(聖職者・貴族・平民)すべてのものだという意識がすでにあったからこそ、一四二〇年のトロワ協約はかくも屈辱的だと考えられたのである。ヘンリ五世が、いくら国民感情に配慮し、フランス王国の不可分性と統合性を説いて、フランスの法・慣習・特権・自由を護ると約束したうえで支配者に納まろうとしたにもかかわらず、猛烈な反感を買ったのは当然すぎるかもしれない。フランス王家王国の象徴たる「ユリの花」が踏みにじられたのであり、言葉のわからぬ英国人の手に王冠と王国が移されるのはフランス人には赦せないのであった。この感情が、「オルレアンの乙女」(ジャンヌ・ダルク)によって火をつけられた。百年戦争は、その最終局面では党派争いなどではなく、国と国、国民と国民の争いでありえた。ジャンヌは正しく国民感情を体現し、国を動かす予言をなしえたのである。

百年戦争の結果、フランスは領土を確保し、イングランドも一四五五年から始まったラ戦争後、近代主権国家に近づくが、ブルゴーニュ公の北方への領国拡張策も、一種のナショナリズムの表れであったことを見逃してはならない。トロワ協約後、ブルゴーニュ公はフランスから離れ、ネーデルラント北部を押さえて自立した国家の創出をめざしたのである。

別の点でも、それは「近代的」戦争であった。歩兵による集団戦法が、騎馬の弩隊を圧倒するという軍事的な新展開があったからである。傭兵軍隊が雇われ盛んに活躍したことも、大きな特徴である。かれらは、それぞれの王国の防衛に尽くした。そしてその負担は全国民が担うよう、シャルル七世下で按配された。かくて、貴族層は徐々にその役割を失ってゆき、国王と市民との支えあいという絶対王政期の政治の仕組みが芽吹いた。

羊飼いのもつ政治的意味

さて、ジャンヌ・ダルクとその伝説にもどろう。ジャンヌ・ダルクが、「羊飼い」だったという話がある。ブルゴーニュの年代記作者モンストルレやジャン・ジュフロワは、彼女の評判を落とすために彼女を「牛飼い女」にした。また、すでに同時代に彼女が「女羊飼い」だという伝説が広まりはじめていたのも事実である。羊飼いであったからこそ、かくも民衆の信望を得たというのであろうか。しかしジャンヌ自身は、糸紡ぎや裁縫上手な女の子ではあったが、羊飼いであることについては、公開審理で否認している。

古来、羊飼いは宗教において特別の位置を占めていた。古代オリエントでは、いずれの国においても王や神々が羊飼いとして表象された。キリスト教でも族長や預言者を(もと)羊飼いとし、また司祭をもそう喩える習わしがある。中世は、この伝統をより豊かにした。

「子供時代のイエスの福音書」(外典)が十三世紀から流行して、羊飼いへの好意的な見方が台頭する。また、時禱書をはじめとするミニアチュールの図像も、三王に先立ってイエスに会いにいった羊飼いを好んで描くようになる。入城式でのスペクタクルでも、羊飼いらの扮装が登場する。結局、十五世紀末には、三王とならんで羊飼いが、さまざまなメディアを通じて栄光化されたことになる。

だが、聖書の物語への新たな影響だけが、羊飼いを注目の的にしたのではない。中世後期の荒れ果てた農村は、かえって家畜の放牧地を急増させ、それが都会人たちの食習慣の変化、肉食偏重とあいまって、実際的にもかれらの活動を重要なものにし、関心を高めさせたのである。

羊飼いは、山や農村を主な活動の舞台とした。山野のまんなかで動物たちと暮らすかれらは、どこか神秘的なところがあると感じられていた。見てみたい誘惑にかられる人物ではあるが、ときにはうさんくさく付き合いにくい変人ということにもなる。実際、農村では羊飼いらは広大な土地を横切って動物たちを動かし飼わねばならないので、しばしば農耕者と衝突し、また他の羊飼いとぶつかることもあった。ときに国境を越え移動するかれらについては、土地利用・通行権などが問題となった。性格的には不精で不誠実でサボリ屋で、怠惰で変わり者だという評判だ。

しかし動物にはやさしくて、ほかのだれにもできないような付き合い方をする。かれらは、天気の見分け方や植物の知識に精通し、何月にどの植物が生え、それにどんな効能があるか熟知して、家畜を護らねばならなかった。

その関連でいえば、百年戦争のときジャンヌ・ダルクは、自分の家畜を「インスラ(イ―ル)」と呼ばれる城のところに兵士の危害からまぬがれさせるためにつれていったと、裁判記録にはある。狼藉をはたらく兵士らは、容赦なく家畜を奪っていくからだ。さらに狼の危難もひかえていることは、すでに述べたとおりである。

羊飼いであって後年フランス国王に仕えることになったジャン・ド・ブリーが、十四世紀後半に著した「善き羊飼い」の手引書がある。国王(シャルル五世)みずから羊飼いの科学に興味をもって執筆を命じたようだ。本書には、羊飼いの仕事の特質と栄誉、天候の予兆のしかた、動物の病とその治療法、その他各月の留意点などが書かれている。そして面白いことに、章句の端々に、司牧者たる聖職者とその信徒を羊に見たてた忠言が数多くちりばめられていて、どちらともとれる二面性がある。

社会的に特別な立場は、宗教的な異能者という噂をもたてることになった。実際羊飼いは、ときに魔術を使った廉で裁かれている。一四九六年、ポントワーズの住人は、ある羊飼いに魔術的手段で自分の家畜を護ってくれるように頼んで、一二スーの罰金を科された。かれらは他のどんな職業人にもまして、特別な力があると考えられていたようだ。

十字軍のうち、一二二年、ドイツとフランスで発生した「少年十字軍」を率いたのは、まだ青二才の羊飼いであり、かれらはイエスの出現を得て、自分の神聖な使命を悟ったのだという。ほかにも羊飼いの加わった民衆運動は、いくつも記録にとどめられる。年代記の語るところでは一二五一年、羊飼いを中心とする民衆が激しく反乱を起こし、聖地を解放したいと願った。一三二〇年にも、パリの仏国王をたずねて十字軍の先頭に立つように願う「羊飼いの十字軍」と呼ばれる運動が、羊飼いの若者の幻視から始まった。イングランドでは、宗教劇や羊飼いの「対話」が、社会の厳しい批判をするところまでゆく。たとえばタウンリーの羊飼い劇がその例である。フランスではかくも過激なことはしないで、むしろ既存秩序の賞讃の舞台にかれらが登場する。

要するに、権力者の注目を浴び、また政治的な意味を負わされ、自らも民衆に隠然と影響力をもつことをたのんで自信を深め、行動を起こすようになったのが中世末の羊飼いであったといえる。ジャンヌ・ダルクが本来の羊飼いであったかどうかはべつとして、牛や羊と日ごろ親しんでいた田舎娘であり、「妖精の木」とその近くの泉のまわりで踊り歌って春祭りを楽しんだことはたしかであるし、またそのような伝説が広まったこと自体、動物との特別な関係をもつ人物が政治の舞台に聞入して、その方向を変えることもありうるという時代の特質を表している。ここにも、中世盛期以後、自然を征服・収奪してきた人間とその社会への自然側のリアクションがあるのではないか。

大天使ミカエルと国家

もうひとつ、ジャンヌ・ダルクにからめて中世末の国家と信仰について考えるとき、「大天使」が興味深いきっかけになるのではないだろうか。ジャンヌは、故郷ドンレミ村の泉のほとりで、大天使ミカエルのお告げを聴き(幻聴)、自らのフランス救国の戦士としての使命を確信した。大天使のほかには、聖女マルガリータとカテリーナの「声」が聞こえたという。その後も、幾度も決定的なお告げを授かっている。なぜ、大天使なのだろうか。たとえば聖母マリアではいけないのだろうか。

大天使は聖者とちがって純粋な霊であるから、聖遺物がない。どの修道院も王侯も、その骨をもつということはできない。ノルマンディーの海岸沖の小山上にあるモン・サン・ミシェル修道院や、イタリア東部のモンテ・ガルガノを代表的な巡礼地とするとしても、だれにでも、どこからでも、すべからく「高きところ」から現れる融通無礙の遍在性を備えている。しかも、中世末にいよいよ切迫した危機感が抱かれた「最後の審判」においては、大天使は竜をふみひしぎ、神の天使の軍勢を率いて、サタンの軍勢たる悪霊や反キリスト先遣隊たる呪われた民族ゴグ・マゴグの軍隊を折伏する。

諸天使たちが、地上の信徒たちの身近にいて物質的援助をしたのにたいし、もともと大天使は、数ある天使たちのうちでも最高の地位にあり、主の玉座のまわりに侍る四人の主要天使が含まれる。ミカエルのほか、聖母マリアに受胎告知をして盛んに図像に描かれた「慈悲の天使」ガブリエル、そしてラファエルとウリエルである。

なかでも戦う大天使ミカエルは、光の君であり、おびただしい天使の群れから、一頭地抜きんでた存在だ。もともとかれは、戦士たちの守り手であるとともに、国家・帝国の守護者でもあった。カロリング朝は、国の守護者としてほとんど公式にかれを認知していたし、ついでドイツでもザクセン朝の諸王が、勝利をもたらしてくれる天使にいくつものバシリカを捧げた。

フランス、そしてジャンヌ・ダルクとのかかわりに着目すれば、中世盛期から中世後期にかけて、ミカエルは仏王が標章に採用するところとなり、シャルル七世時代からは、仏王の守護者として王軍の旗にも描かれ、いわば王権のシンボルとなるのである。

中世末に、神の代理としてキリストに並び立つようにしていよいよ存在感をました正義と戦いの大天使は、不断の戦争に巻き込まれながら、正義はわれにありとして、霊的な高みから国土を支配する権威を要求していった王の統べる集権的国家に、まさにふさわしい存在ではあるまいか。

 トークは消えたけどメールは残っている ダブルで受信していて本当に良かった 一番好きな 8月2日のメール #早川聖来

『世界哲学史7』

2023年09月20日 | 2.数学
『世界哲学史7』―近代自由と歴史的発展

一九世紀はその前の世紀とに満の意味で、世界の多くの場所で、大規模な変革へ向けた力が発揮された時代である。哲学はそうしたエネルギーを吸収しつつ、それまでの思想的な旧制度の種から、自らを解放しようともがいていた。哲学を近代的段階から現代的段階へと引き上げ、移行させようとしていた。

代数方程式論からガロア理論へ

+ラグランジュからガウス、アーベルを経てガロアへ

ラグランジュ(一七三六~一八一三)以前に、四次以下の下の代数方程式の代数的な一般解、すなわち加減乗除と冪根によって表現される解の公式は見つかっていたが、五次以上の代数方程式については見つかっていなかった。ラグランジュも同様に五次以上の代数方程式の代数的な一般解を見つけることに成功しなかったが、彼は、四次以下の方程式の解法を分析し、なぜ五次以上の方程式でそれがうまくいかないかを考えた。その結果、解の入れ替えによる対称性に方程式の解法の本質があることを見抜いた。ラグランジュの代数方程式の理論は『方程式の代数的解法についての省察』(一七七〇)という著作の中で展開されている。

この著作の第一のプロセスでは、与えられた代数方程式から出発して、その解を探そうとするのに対し、第二のプロセスでは、与えられた解から出発してその解を持つような代数方程式を探す。第三のプロセスでは、解の入れ替えによる対称性を探究することによって、代数方程式の代数的な一般解が求められる仕組みを顕わにする。すなわち、第一、第二のプロセスにおいて、代数方程式という対象が扱われているのに対し、第三のプロセスでは、それが捨象され、解の入れ替えという操作による対称性自身を主題化する方向に向かうのである。

代数方式の代数的な一般解が探される中で、n次代数方程式は重複を含めてn個の解を複素数の中に持つことがガウスによって証明された。C・F・ガウス(一七七七~一八五五)は著書『アリトメチカ研究』(一八〇一年)において、数論や代数学の問題について、幾何学(作図に基づく構成的な幾何学)によって証明を与える。そして、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことが、ガウスの平方剰余相互法則や定規とコンパスによる作図可能問題とも関わる円分方程式論に発想を得ながら、アーベル、続いてガロアによって証明された。

N・Hアーベル(一八〇二~一八二九)は、ガウス、ヤコビ(一八〇四~一八五一)と共に一九世紀を通して数学的発見の大きな源泉となっていく楕円関数論に大きな業績を残した数学者である。楕円関数とは、楕円や双曲線、レムニスト(二点からの距離の積が一定の曲線の特別な場合)の弧長の計算に由来する楕円積分の逆関数である。アーベルは、この楕円関数を代数方程式論と結びつけながら、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことを証明したのである。次いで、ガロアは、ラグランジュによる解の入れ替えによる対称性を明確にしながら五次以上の代数方程式が代数的な一般解を持たないことを証明した。ガロアはえによって変わらない、今日〈体〉と呼ばれる加減乗除の四則演算で閉じた数の体系を顕わにすることで、代数方程式の代数的な可解性についての問題を解決に導くのである。解の入れ替えによる対称性の分解の仕方と、元々の代数方程式の係数の生成する数の体系に冪根を添加することによって生み出される数の生成する数の体系との間に正確な対応関係があることをガロアは示した。入れ替えの操作の分解の列と、その操作によって不変になる冪根の添加による数の体系の拡大の列の間には包含関係を逆にして正確な対応関係があるのである。四つ以下のものの入れ替えの操作はある単純な規則性をもって分解されるが、五つ以上の入れ替えの操作にはそのような分解は存在しない。そのことをもってガロアは五次以上の代数方程式には、代数的な一般解が存在しないことを示したのである。

ガロア理論が成立するまでの方法的変遷

代数方程式の冪根を用いた一般解の探究についてのラグランジュ以前の方法からラグランジの方法への移行と、カント哲学からフィヒテ哲学への移行との間には一種の類似性が見出せる。ラグランジュもフィヒテも、カントのように対象の構成の可能性を経験の可能性と同一視しない。ラグランジュは数学の方法を、フィヒテは哲学の方法を感性から、さらにそれらを対象からも解放する方向へと向かう。すなわち、二人とも、存在と対象を純粋に知性において主題化するだけでなく、形式と操作を主題化する構造的方法へと向かっていくのである。

上述したガウスの幾何学的直観に依存する数学的方法を、ガロアは純粋に代数学的なものに転換させながら、代数方程式の可解性についての問題を解く。ガロアの仕事の重要性は、代数方程式の可解性は解の入れ替えの対称性の問題に帰着され、代数方程式そのものは忘れてもよいことを示したことである。この入れ替えの操作そのものは数学的対象として主題化され、乗法と単位元に対する逆元で閉じた〈群〉として捉えられることになる。また、加減乗除の四則演算を満たす数の体系は後にデデキントによって〈体〉と名付けられることになるが、ガロアは、出発点となる体(基礎体)に冪根を添加して拡大された体(拡大体)を構成する方法を導入する。

4ガロア理論と群論の、関数論や幾何学、微分方程式論への拡がり

リーマン面の導入

一九世紀半ばまで、解析関数論は大きく発展していたが、複素関数(複素数を変数とする関数で、一般には関数値も複素数)の良い性質〈解析性〉をいかに正確に定義するのか、関数の多価性をいかに扱うべきかということなど大きな問題があった。B・リーマン(一八二六~一八六六)は、学位論文「複素一変数関数の一般論に対する基礎」(一八五一年)において、まず複素平面(複素数を実数の軸と虚数の軸からなる二次元の平面ととらえる描像)のどの方向から近づけても同じ微分係数をとる複素関数を解析関数と定義し、このような関数は今日コーシー=リーマンの方程式と呼ばれる方程式を満たすことを示した。

この解析性についての条件の下、リーマンは多価の複素関数を、後にリーマン面と呼ばれる幾何学的描像を用いて、一個の解析関数にすることを考える。リーマン面について本質的なことは、複素数上の多価関数であるということを、複素平面が複数枚重なり合っていることと解釈するということである。複素平面上の変数z点をα(通常は関数値がゼロになる点)の周りで連続的に回転移動させた際、同じ変数値に戻るごとに関数は異なる値をとるような場合、変数zが一回転するごとに別の複素平面に移っていくと解釈するのである。このような点を分岐点αと呼び、すべての分岐点の周りで同様なことを考える。このような解釈を基にして、変数の定義域のある一次元複素空間と関数の値域のある一次元複素空間から成る二次元の複素空間すなわち四次元の実空間に埋め込まれた二次元の実曲面を構成する。このような関数の幾何学的描像がリーマン面であり、多価関数は一個の関数として理解されるようになる。

このリーマン面の中でもっとも単純なものの一つが、すべての分岐点の周りにおいて、平方根の因子を持つ二価の関数についてのものである。その中で、平方因子を含まない一次、または二次の多項式の平方根を取った二価の関数のリーマン面は球面になる。また、平方因子を含まない三次、または四次の多項式の平方根をとった関数のリーマン面を楕円曲線と呼ぶ。楕円曲線は穴が一つ(種数一)のトーラス面(ドーナツ状の形の表面)となる。そして、楕円積分は、この楕円曲線すなわちトーラス面上の経路に沿った積分となる。この見方が、それまでの楕円積分の捉え方を大きく変えていくことになる。

しかし、K・ワイエルシュトラス(一八一五~一八九七)のような厳密性を数学の基礎に据えようとする数学者は、リーマンの用いる〈面〉といった曖昧な概念は数学において用いるべきでないと考える。そして、彼は、楕円積分の逆関数と等価である(ペー)関数と呼ばれる無限級数を用いて楕円積分の理論を展開していく。そして、後に、様々な関数と群論の関係がリ―マン面という概念を通じて明らかにされていく。

リーマン面の〈面〉とは何か。ガウスによる複素平面や三次元実空間内の曲面幾何学については、二次元ないし三次元の物理的空間とのアナロジーの下、感覚表象的に視覚化可能である。しかし、何重にも重なり合った複素平面、ないし四次元の実空間(複素二次元)に埋め込まれた二次元の面としてのリーマン面は、三次元の実空間の中において厳密な意味では視覚化不可能である。このような理由から、リーマン面の〈面〉という幾何学的対象を、数学的対象として基礎づけることの必要性にリーマンは迫られることになる。そのような文脈の中で、リーマンは曲面幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より大きくなる幾何学)や双曲幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より小さくなる幾何学)といった非ユークリッド幾何学を一般化する微分幾何学を構築し始める「幾何学の基礎をなす仮説について」(一八五四年)というタイトルの教授資格取得講演の冒頭で、空間概念の基礎づけのために、現代の集合や位相に繋がる〈多様体〉の概念(現代数学の多様体の概念とは異なる)を導入する。

+デデキントによる代数関数論と代数学の抽象化

代数関数とは、多項式関数を係数に持つ代数方程式の根として定義できる関数であり、楕円関数もそれに含まれるが、リーマンの弟子であるJ・W・R・デデキント(一八三一~一九一六)も、リーマン面による代数関数へのアプローチに満足しなかった。一方、一八七〇年代頃からガロア理論が数学界で受容され始める。デデキントは〈体〉という概念を導入しながら、ガロア理論にとって本質的な考え方、すなわち、〈体〉とは、有理数のように加減乗除の四則演算で閉じた系であるが、ある体(基礎体)について、それ自身に含まれない元を添加することで拡大体を生成することができるという考え方を表現した。そして、このような体の拡大(ガロア拡大)に対応して、それを固定する群(ガロア群)が存在するとしたのである。

有理数と整数の概念が拡大され、数の集合が構成され、次第に大きくなっていく。ガロアがその理論を構築する中で導入したように、代数体(代数的数)とは、整数を係数とする代数方程式の解として表せる複素数のことであり、その代数方程式の最高次の係数が一の場合に、それを代数的整数と言う。これらはそれぞれ、通常の有理数と整数の概念を拡大したものである。デデキントとH・ウェーバー(一八四二~一九一三)は、それをさらに拡張して代数関数体の理論を、有理数体の拡大体である代数体の理論との類似性に導かれながら構築した。このようにして、デデキントは代数関数論を代数的数論に導かれながら構築していくが、それを通して、代数学は、任意の対象の集合上に定義された代数的な構造の科学へと変容していく。関数の集合の生成する体系は、数の集合の生成する体系の拡張として理解されるようになる。別の見方をすると、代数関数論の中で、数概念が拡大されたともいえる。そして、これらのことが大きな動機となって、デデキントは実数の基礎づけ、自然数の基礎づけ、さらに集合論の構築に向かっていくことになる。

リーマン面は、類比的な意味にしかすぎないかもしれないが、関数の振る舞いを「目に見える」ようにした。リーマンに続いて、ワイエルシュトラスが解析的な方法で、続いてデデキントが代数的な方法でリーマン面を再構成した。それによって、リーマン面に内在する構造が顕わになった。ここで、構造とは、関数的対応関係に純化された同型性によってのみ定義されるものである。そして、この対応関係を顕わにすることこそ、数学的シンボルそして代数学の本質的役割である。ここには、カント哲学からフィヒテ哲学への移行と類似した移行が観察される。また、それはカント哲学内部での直示的構成>から〈記号的構成>へのフィヒテ哲学を介した転換と理解することもできる。

エルランゲン・プログラムとリー群の誕生

クライン(一八四九~一九二五)はそのエルランゲン・プログラム(一八七二年)の中で、変換群のもとでの不変量、すなわち群の顕わにする対称性こそが幾何学の基礎にあると主張し、その見方において、代数方程式論を正多面体の対称性と結びつける。例えば、四次の代数方程式の一般解は、鏡像を含む正四面体、ないし正六面体の対称性と結びついている。また、五次の代数方程式は代数的な一般解は持たないものの、その解の公式は正二〇面体の対称性と結びついて楕円積分によって書ける。クラインは、それらの研究によってガロア群の幾何学的意味を顕在化させ、保型変換関数を不変にする変数変換)によるリーマン面を構成し、その中で双曲幾何学との結びつきを明らかにする。一方、H・ポアンカレ(一八五四~一九一二)は、リーマン面に微分方程式論とガロア理論と結びついた群論(モノドロミー群)を結びつけながら、微分方程式論の幾何学的描像を得ていく。

S・リー(一八四二~一八九九)は、常微分方程式が解ける条件をガロア理論と類似な方法を用いて探究することを、一八七〇年代に自らに課した。リー自身はこの試みに成功しなかったが、有限次元連続群の概念を生みだした。リーは、微分方程式に現れる連続群についての一般理論から、今日リー群と呼ばれる幾何学的にも非常に重要な連続群を生み出したのである。そして、このことが、代数方程式の代数的解法と微分方程式のシステムの一般的積分の探究との間に完全な類似があることを示したC・E・ピカール(一八五六~一九四一)とE・ヴェシオ(一八六五~一九五二)の仕事に道を開いた。

さて、クラインは、「長さ」や空間の曲がり方の大きさを示す曲率を一定に保つ変換群の違いによって、幾何学的空間の違いが生じると考え、曲率正の曲面幾何学や曲率負の双曲幾何学といった非ュークリッド幾何学をエルランゲン・プログラムの中に包摂する。ちなみに、曲率ゼロの空間はユークリッド幾何学の空間である。それに対して、彼は、位置によって異なる曲率を持つ空間からは、そのような不変量は取り出せないとして、リーマンによって導入された微分幾何学を重要なものと認めなかった。しかし、微分幾何学は、物理学者アインシュタイン(一八七九~一九五五)によって一九一五年に見出された一般相対性理論という物理的時空の描像に用いられた。さらに、数学者Hワイル(一八八五~一九五五)やE・カルタン(一八六九~一九五一)が、微分幾何学に内在するリー群によってその空間の対称性を顕わにした。このように微分幾何学はエルランゲン・プログラムの変換群による幾何学という視点に包摂されていくのである。

 209『世界の歴史⑧』

イスラーム世界の興隆

預言者ムハンマド

預言者のプロフィール

イスラームの預言者ムハンマドは、五七〇年ころ、メッカのクライシュ族に属するハシム家に生まれた。誕生のときに父のアブド・アッラーフはすでになく、ハーシム家の長であった祖父のアブド・アルムッタリブの保護にたよって、母親のアーミナの手ひとつで育てられた。ほかに兄弟や姉妹はなく、ムハンマドは母と二人だけの寂しい子供時代を送らなければならなかった。しかもムハンマドが六歳になったころに母親も世を去り、さらに二年後には、保護者のアブド・アルムッタリブが死没するという不運に見舞われた。アブド・アルムッタリブの死後、ハーシム家の家長となった叔父のアブー・ターリブは、孤児となったムハンマドを引き取り、この甥をたいせつに育てあげた。ムハンマドをシリアへの隊商に同行させたのは、この人物である。

ムハンマドの少年時代について、これ以外の事実はほとんど知られていない。少年がおかれた環境はひどく苛酷であったが、近親者のあたたかい援助によって、何とかこの試練を乗り切ることができた。「コーラン」(第九三章)にいう。

彼(神)は孤児であるそなたを見出し、庇護を与えてくださらなかったか彼は迷っているそなたを見出し、正しい道に導いてくださらなかったか彼は貧しいそなたを見出し、富を与えてくださらなかったか

ムハンマドが二十五歳になったとき、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、その正直な人柄を見込んで彼にシリアへの隊商をまかせた。ムハンマドの誠実さにうたれたハディ―ジャは、人を介して結婚を申しこみ、その年から二人の結婚生活が開始された。伝承によれば、このときハディージャはすでに四十歳に達していたと伝えられる。二人のあいだには三男四女が生まれたが、三人の男の子はいずれも幼児のうちに夭折した。

アッバース朝時代の伝承学者イブン・サード(八四五年没)は、ムハンマドのプロフィ―ルをおよそ次のように伝えている。

ムハンマドの肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかであった。口ひげとあごひげはともに濃く、薄い毛が胸から腹のあたりまでのびていた。肩幅は広く、足どりはしっかりとしていて、その歩き方はまるで坂道を下るようであった。背丈は低くもなく、高くもない程度であった。いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好きであったが、トカゲは食べなかった。よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふけるときには、いつまでも黙っていた。人に対しては誠実であり、すすんで人助けを行い、常にやさしい言葉をかけるのを忘れなかった。(『大伝記集』)この伝承は、ムハンマドの没後二〇〇年以上をへてまとめられたものであり、預言者の実像をどれだけ正確に伝えているかとなると、いささか疑問である。没後になってから伝説化された部分も少なくないと思われる。しかし、後世のムスリムたちが、ムハンマドのプロフィールをこのように描いていたことは確かであり、その点に注目すれば、なかなか興味深い人物像であるといえよう。

最初の啓示

メッカのムハンマドは、毎年、ラマダーン月(第九月)になると、家族といっしょにヒラー山の洞窟にこもって祈り、集まってくる貧しい人びとに施しをするのを習慣にしていた。六一〇年、ムハンマドが四十歳になったころのラマダーン月、いつものようにヒラー山の洞窟にこもっていると、ある夜、うとうととまどろんでいたムハンマドのもとに大天使ガブリエルが現れ、次のような神(アッラーフ)の啓示をつたえた。

詠め、「凝血から人間を創造し給うた汝の主の御名において」

詠め、「汝の主はペンによって[書くことを教え給うたもっとも尊いお方]「人間に未知のことを教え給うたお方」であると(「コーラン」第九六章一~五節)

「詠め」とは、声に出して読むことである。コーラン、正しくはクルアーンも、元来は「声に出して読むもの」を意味している。このように最初から「読誦」を重視したのは、シリアのキリスト教会で聖書が読誦されていることを、ムハンマドがよく知っていたからであろうと推測されている。

いっぽう、最初に下された啓示は次の章句であるとする伝承も残されている。

マントにくるまる者よ

立て、そして警告せよ

汝の主をたたえよ

汝の衣を清めよ

不浄をさけよ

〔後で〕多くを得ようとして、施してはならない

汝の主のために堪え忍べ(「コーラン」第七四章一~七節)

現在のところ、どちらが最初の啓示であるのか、確かなことはわからない。いずれにせよ、最初の啓示をうけたムハンマドは、恐れおののき、マントにくるまって、ただふるえているだけであったという。これが神の言葉であることを信じることさえできず、何か悪い霊(ジン)にとりつかれたにちがいないと思いこんでいたのである。

預言者としての自覚

しかし、恐れおののくムハンマドをはげまし、断続的に下される言葉は神の啓示にほかならないと信じたのは、年上の妻ハディージャであった。彼女のはげましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。この意味で、ハディージャはイスラームに帰依した最初の人物としてきわめて重要な役割を果たしたといえよう。もっとも、神への絶対的な帰依を意味する「イスラーム」が宗教の名称として確立するのは、アッバース朝時代になってからのことである。ムハンマドは、必要に応じて、神への服従(イスラーム)、信仰(イーマーン)、宗教(ディーン)などの言葉を自在に使っていたらしい。

それでは、最初のイスラーム教徒(ムスリム)となった男性は誰だったのだろうか。ムハンマドの庇護者であった叔父アブー・ターリブの息子アリー(後の正統カリフ)だとする説もあるが、当時、十歳に満たないアリーが神の言葉を十分に理解できたとは思われない。むしろ奴隷としてムハンマドに仕え、後に解放されたザイドこそ最初の男性ムスリムであるとする考えが有力である。ムハンマドは、この解放奴隷をことのほか可愛がり、早世した息子たちのかわりとして育てていたのである。

同じメッカで細々とした商売をいとなむアブー・バクルは、ムハンマドの古い友人のひとりであった。彼もまた、ムハンマドに下された言葉を神の啓示として理解し、ごく早い段階でイスラームに改宗した。このような共鳴者が増えるにつれて、ムハンマドは「神の使徒」(ラスール・アッラーフ)としての自覚を深めていったように思われる。

「創造主である神は、ラクダと天と大地をつくり、人間に雨と穀物とナツメヤシを与えてくださった。また神は、最後の審判の日に、地獄へ落ちた人間には恐ろしい業火を用意し、善行ゆえに天国へ導かれた者には、従順にかしずく乙女と緑したたる楽園を準備してださる。地獄へ落ちるのは、他人の遺産をむさぼり、ただむやみに富を愛する者たちである」。つぎつぎと下される啓示によって、唯一なる創造主、最後の審判の主宰者、慈悲深い神と罰を下す恐ろしい神など、アッラーフについての具体的イメージがしだいに明らかにされていった。

こうして、ムハンマドがメッカの人びとに伝道をはじめるまでの間に、およそ五〇人ばかりがムスリムの仲間入りを果たした。彼らのなかには、有力な氏族に属する者もあれば、弱小の氏族に属する者もあったが、その多くが三十代半ばまでの若者であったことは注目に値する。また、ビザンツ帝国領やアビシニア(現在のエチオピア)生まれの奴隷、あるいは解放奴隷のほかに、同盟者(ハリーフ)として部族の保護下にあるよそ者も含まれていた。『ムハンマド』の著者ワットは、初期の改宗者はおちぶれ果てた人たちではなく、概して言えば、メッカ社会の最上層のちょうどひとつ下に属していたと述べている。これらの若者たちは、富の獲得にはしる富裕者を糾弾し、弱者への救済を説くムハンマドの教えに、おそらく新鮮な社会正義を見出したのであろうと思う。

伝道と迫害

「神の使徒」としての自信を深めたムハンマドは、六一四年ころから公の伝道を開始した。ムハンマドが活動の拠点に定めたのは、名門マフズーム家の青年アルカムが提供してくれた大きな屋敷であった。昼間、ムハンマドと三九名の弟子たちはこの家に集まり、説教と礼拝のときを過ごした。青年たちのなかには、そのままここで夜を過ごす者もあったらしい。評判を聞いて、この家を訪ねる人の数も徐々に増大していった。

しかし、メッカの人びとの多くは、この「若者宿」での活動にさしたる関心を示さなかった。彼らは、「神は唯一である」という教えをいぶかしく思うだけで、これまでどおりの信仰に疑いを抱く者はほとんどなかったといってよい。新しい教えを説くムハンマドは、名門ではあるが、さほど実力のないハーシム家の一青年にすぎなかったからである。

だが、ムハンマドへの共鳴者が少しずつ増えるにつれて、クライシュ族の指導者たちの間に消しがたい疑惑が生じはじめた。このままムハンマドが若者たちを集めて、勢力を拡大していけば、メッカ社会の伝統的な権威はそこなわれ、やがてはこの男がメッカの支配者になってしまうのではないか。「コーラン」(第二五章七~八節)に、

彼ら(不信仰者)はいう。「これは何とした使徒だ。食べ物をとり、市場を歩きまわるとは。〔本物の使徒なら〕どうして天使が遣わされ、彼といっしょに警告者とならないのか」。

とあるのは、指導者たちの疑惑があからさまな形をとりはじめたことを示している。クライシュ族の各家の間には、商売上の利益をまもり、社会の不正を正すために「有徳者同盟」がむすばれ、この当時はハーシム家にその指導権が与えられていた。しかし、ムハンマドの行動に危機感をおぼえた同盟者たちは、使徒の属するハーシム家をこの同盟から除外する行為にでた。そのうえで、同盟していた家長たちはムハンマドと会見し、もし偶像崇拝への攻撃をやめれば、彼に富と権力を保証し、彼らもいっしょにアッラーフへの礼拝をおこなおうと提案した。

ムハンマドは、彼らとの妥協の誘惑にかられた。しかし、いちじの迷いからさめたムハンマドは、「おまえたちにはおまえたちの宗教が、そして私には私の宗教がある」として、毅然たる態度を示した。これをみたクライシュ族の大商人たちは、ムハンマドとその仲間にたいして公然の迫害を開始するにいたった。マフズーム家のアブー・ジャフルは、ムハンマドと同世代であったが、新しい改宗者が出ると、「おまえは先祖の宗教を捨ててしまった。われわれは、きっとおまえたちの名誉を傷つけてやるぞ」といって脅したという。

このような迫害に耐えかねたムハンマドは、いちじ信徒の一部をキリスト教徒の国アビシニアへ避難させなければならなかった。大商人たちは、共謀してムハンマドのハーシム家とアブー・バクルのタイム家に対し、ムスリムへの保護(ズィンマ)を取り消すように圧力をかけた。この当時、氏族の保護を失うことは、生命の安全すら保障されないことを意味していた。六一九年には、このような圧力にもかかわらず、ムハンマドを断固として守ってくれた叔父のアブー・ターリブと最愛の妻ハディージャがあいついで世を去った。ムハンマドは絶望の淵に沈みこみ、ここに誕生まもないイスラームは最大の危機を迎えたのである。

西方イスラーム世界の輝き―コルドバ

ジブラルタルを越えて

トゥール・ポワティエ間の戦い

七一一年の春、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出した一万二〇〇〇のアラブ軍は、ベルベル人の将軍ターリク・ブン・ズィヤード(七二〇年没)の指揮のもとに破竹の進撃をつづけた。同年七月、ロドリゴの率いる西ゴート王国軍を一蹴すると、未来の首都コルドバを二ヵ月の包囲の後に陥落させた。タホ川の北岸にある西ゴート王国の首都トレドも、一部ユダヤ人の裏切りによって十月にはターリクの前に開城し、王国は事実上崩壊した。

部下として派遣した将軍ターリクの成功を知ったアラブの将軍ムーサー・ブン・ヌサイル(六四〇~七一六七年)は、翌年、みずから一万の軍を率いてイベリア半島に押し渡った。彼は半島最大の都市であり、学術の中心地としても名高いセビリアを落とすと、進軍の停止命令を無視したターリクを鞭打ったうえで鎖に拘束した。しかし皮肉なことに、ムーサー自身もカリフの承認を得ることなく行動したと非難され、まもなくダマスクスへの召還命令が下された。

ところが七一五年、ムーサーが四〇〇名の西ゴート諸侯と奴隷と財宝をともなってダマスクスに帰還すると、彼の非をとがめるどころか、ウマイヤ・モスクでは凱旋の将軍をむかえて盛大な祝典が催された。ムーサーによるイベリア半島の征服は、サラゴサを越えてアラゴンやレオンの高地にまで及んだが、アラブ人は北部の山岳地帯を除く半島の支配領域をアンダルスと名づけた。現在、南スペインの一帯をさして用いられるアンダルシアは、このアラビア名に由来している。

七一七年ころ、ピレネー山脈を越えたアラブ軍はフランク王国領に侵入すると、ナルボンヌを占領し、さらに北上して大西洋岸に近いボルドーを陥れた(七三二年)。アンダルス総督(アミール)のアブド・アッラフマーン(七三二年没)が率いるアラブ軍は、北進をつづけてトゥール近郊まで迫ったが、トゥールとポワティエの間でフランク王国の宰相カール・マルテル(六八九〜七四一年)の迎撃軍と遭遇した。七三二年十月、トゥール・ポワティエ間の戦いはフランク軍の勝利に帰し、戦闘で指揮官を失ったアラブ軍はピレネー山脈の南に引き返した。

しかし、この戦いの結果を過大に評価し、もしこのときアラブ・イスラーム軍が勝利を収めていたら、オックスフォード大学では聖書のかわりに「コーラン」が講義されていたであろうと考えるのはまちがっている。アラブ軍の補給路は伸びきっていたし、当時のアラブ軍にはヨーロッパ全土を征服するだけの士気の高さは残っていなかったからである。それにおおかたのアラブ人は、緑濃いオリーヴが繁らないような寒冷の土地には住むことができないと考えていた。彼らは、何よりもナツメヤシとオリーヴを好む民族であった。

後ウマイヤ朝の成立

七五〇年、アッバース朝がイラク全土を制圧したとき、新政権の追及の手を辛くも逃れたウマイヤ家の青年がひとりいた。名前はアブド・アッラフマーン・ブン・ムアーウィヤ(七三一~七八八年)、俊敏で鷹のような風貌をもつ二十歳の若者であった。彼はユーフラテス川に飛び込んで追手をかわし、パレスティナで庇護者をみつけると、北アフリカに渡り、七五五年にはモロッコのセウタまでたどり着いた。

ジブラルタルを渡ってグラナダに上陸したアブド・アッラフマーンを、当地のムスリムは熱烈に歓迎した。アミール職にある総督が彼らの統率に当たっていたが、有能な人材を欠き、アンダルスは混沌とした状況におかれていた。これに引き替え、アブド・アッラフマーンはれっきとしたウマイヤ家の出身であり、新しい指導者としてまたとない人物とみなされたのである。

支持者を糾合したアブド・アッラフマーンは、緑の旗を押し立ててコルドバへと進軍し、七五六年五月、アミール・ユースフの抵抗を退けると、首都に入城して後ウマイヤ朝五六~一〇三一年)の樹立を宣言した。しかし、このアブド・アッラフマーン一世(在位七五六~七八八年)がアンダルスを完全に平定するのには、さらに一〇年の歳月を必要とした。アッバース朝からは領内に騒乱を引き起こすための密使が送られてきたし、アラブ人が漁夫の利を得ることに不満なベルベル人は各地で反乱をくり返したからである。

アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝と友好関係を樹立したフランク王国のカ―ル大帝(在位七六八〜八一四年)との軍事的対決も辞さなかった。七七八年、カール大帝が半島北東部のサラゴサへ進撃してくると、アブド・アッラフマーン一世はこれを迎え撃ち、ピレネー山脈の隘路を追撃してフランク軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いの模様を記した『ローランの歌』(十一~十二世紀ごろの成立)は、次のように歌いはじめる。

われらの大帝シャルル王は、
まる七年、スペインにありて、
高き土地を海まで征せり。
彼の前に支え得る城はなく、
城壁、城市、打ち毀つべきはのこらず。
ただサラゴスのみは、山上にありて、
マルシル王これを領す。彼、神を愛せず。(有永弘人訳)

さて、アブド・アッラフマーン一世は、アンダルスの平定後もアミール(総督、あるいは軍司令官)の称号に甘んじていたが、アッバース朝による内政の干渉には断固たる態度を示した。カリフ・マンスールから代わりのアンダルス総督が派遣されてくると、二年後にはその首を塩づけにして、メッカ巡礼の途上にあったマンスールに送り返したという。「クライシュ族の鷹」の異名はこのようにして生まれた。ヒッティの『アラブの歴史』によれば、マンスールは「余と、かような恐ろしい敵を、海でへだて給うた神に感謝し奉る」と叫んだと伝えられる。

名君アブド・アッラフマーン三世

賭博と酒におぼれたハカム(在位七九六~八二二年)の治世が、改宗した現地人ムスリムの反乱とそれへの苛酷な弾圧のうちに終わったあと、その子アブド・アッラフマーン二世(在位八二二~八五二年)がアミール位を継承した。

彼はマーリク派の法学に手厚い保護を与え、スンナ派による統治の実現をはかった。バグダードに対抗すべくイスラーム文化の振興にも熱心であったが、その治世も間断ない反乱に苦しめられた。イスラーム化とアラブ化が進むにつれて、急進的なキリスト教徒は反発を強め、自発的な殉教者を出すまでにいたった。彼らはムハンマドとイスラームを公然とののしり、逮捕されてもひるまず、すすんで死の刑に服したのである。

しかも半島北部のキリスト教諸侯は次々とアミールに反旗を翻し、南部地方でも、八八〇年、西ゴート伯の子孫でイスラームに改宗したイブン・ハフスーンが、現地人の改宗ムスリムを率いて反乱を起こした。イブン・ハフスーンは、ふたたびキリスト教に復帰し、北アフリカのアグラブ朝(八〇〇~九〇九年)と手を結んで、一時はコルドバを孤立化させるところまでアンダルス総督を追いつめた。

このような状況のなかで八代目のアミール位に就いたのが、二十三歳のアブド・アッラフマーン三世(在位九一二~九六一年)であった。キリスト教徒の奴隷を母にもつこの青年の君主は、まず全国に広まっていた反乱の鎮圧に着手する。手はじめにエルビラとセビリアを占領すると、九一七年には強敵イブン・ハフスーンの勢力を壊滅させ、次いで九三二年、トレドを再征服してアンダルス全土の統一を回復した。北アフリカにおこったフアーティマ朝が秘密の宣教員をアンダルスに送り込み、アミール位を脅かしはじめたのを知ると、アブド・アッラフマーンは先手を打って対岸のマグリブ(モロッコ)に軍を進め、この地方を自国領に組み込むことに成功した。

九二九年一月、アブド・アッラフマーン三世は、みずから「カリフ・ナースィル」を名乗り、全国のモスクに対して、金曜日の集団礼拝にはこのカリフの名で説教をおこなうよう命令した。これによってイスラーム世界には、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが並び立つことになったのである。アッバース朝はあくまでも正統なカリフ位の継承権を主張したが、当時のアッバース朝カリフには、北アフリカのファーティマ朝やアンダルスの後ウマイヤ朝にその主張を認めさせるだけの実力はなかったといえよう。

アブド・アッラフマーン三世のときに、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えた。国内にイスラ―ム法による統治がゆきわたると、カリフは北の山岳地帯によるキリスト教国に対しても再三にわたって軍事的な圧力をくわえた。南方への略奪行為をくり返していたレオン王国に対してはみずから軍を率いて出陣し、キリスト教徒の連合軍に大きな打撃を与えた。コルドバの宮廷にはヨーロッパ諸国から次々と使節が送られてきたが、彼らは宮廷の豪華なたたずまいに驚異の目を見張ったことであろう。九六一年、半世紀におよぶ彼の長い治世は栄光のうちに幕を閉じたのである。

国家の運営

「アミール」は、東方イスラーム世界では、軍司令官や地方総督の意味に用いられた。しかし後ウマイヤ朝では、もっぱら国家の首長をしめす最高の称号であった。アブド・アッラフマーン三世がカリフを称してからも、公式の文書には「信徒の長」(アミール・アルムミニーン)と記したのは、東方イスラーム世界の場合と変わらない。「カリフ」(後継者)より「信徒の長」の方が、外部の異教徒に対して、より勇ましい響きをもつと考えられたのであろう。

事実、アミールあるいはカリフは、イスラーム法の執行に最後の責任をもち、軍隊の最高指揮権を有する国家の首長であった。カリフの第一の補佐役は侍従(ハージブ)であり、宮廷内の三官庁(ディーワーン・アッラサーイル)、租税庁(ディーワーン・文書庁アルハラージュ)、軍務庁(ディーワーン・アルジャイシュ)を統轄する宰相としての役割を果たした。アンダルスは、北部の辺境区をのぞいて二一余りの行政区(クーラ)に分割され、各行政区には中央官庁の支所がおかれていた。キリスト教徒やユダヤ教徒の庇護民(ズィンミー)が、人頭税の支払いを条件に信教の自由と一定の自治を与えられたことも、イスラーム国家に共通の特徴であった。

軍隊の主力はアラブ人とベルベル人によって構成されていたが、九世紀初頭からマムル―ク(奴隷軍人)の採用がはじまった。アブド・アッラフマーン三世の時代になると、ユダヤ商人の手をへて多数のフランク人、ブルガール人、あるいはスラヴ人奴隷が購入され、彼らの一部は宮殿を警護するエリートの護衛兵に抜擢された。こうして西方イスラーム世界は、東方イスラーム世界と同様に、奴隷出身のマムルークが軍事力を独占する時代を迎えたのである。

モンゴメリー・ワットは、「イスラーム・スペイン史」のなかで、ムスリムの君主は、「事実上、支配機構の面で西ゴートの伝統に範を求めることは何一つなかった」と述べている。後ウマイヤ朝は、政治的には東方のアッバース朝と対抗したが、官庁(ディーワーン)による行政機構をとり入れ、さらに古代イランの伝統をひくバグダードの宮廷儀式を採用した。後述するように、アンダルスのムスリムたちは東方イスラーム世界へ盛んに出かけて行き、カイロやバグダード、あるいはダマスクスでイスラーム諸学を学び、その成果を故郷にもち帰った。そのなかには、当然、カリフ政治の理論と行政の実態についての情報も含まれていたとみなければならない。コルドバのムスリムたちの顔は、北方のヨーロッパではなく、東方のイスラーム世界へと向けられていたのである。

 クルアーンというのは憲法じゃなく 民法の詳細な部分 ここまで規定するか そして アラーの恩を売るか
 これぞ スーパーアイドル ショールームで5万人はすごい #池田瑛紗
 そして戦いの書でもある
 シリーズ 近現代ヨーロッパ 70年史『分断と統合への試練 1950-2017』にウクライナ 戦争の前半部分が記述されていた。

『世界哲学史7』

2023年09月20日 | 2.数学
『世界哲学史7』―近代自由と歴史的発展

一九世紀はその前の世紀とに満の意味で、世界の多くの場所で、大規模な変革へ向けた力が発揮された時代である。哲学はそうしたエネルギーを吸収しつつ、それまでの思想的な旧制度の種から、自らを解放しようともがいていた。哲学を近代的段階から現代的段階へと引き上げ、移行させようとしていた。

代数方程式論からガロア理論へ

+ラグランジュからガウス、アーベルを経てガロアへ

ラグランジュ(一七三六~一八一三)以前に、四次以下の下の代数方程式の代数的な一般解、すなわち加減乗除と冪根によって表現される解の公式は見つかっていたが、五次以上の代数方程式については見つかっていなかった。ラグランジュも同様に五次以上の代数方程式の代数的な一般解を見つけることに成功しなかったが、彼は、四次以下の方程式の解法を分析し、なぜ五次以上の方程式でそれがうまくいかないかを考えた。その結果、解の入れ替えによる対称性に方程式の解法の本質があることを見抜いた。ラグランジュの代数方程式の理論は『方程式の代数的解法についての省察』(一七七〇)という著作の中で展開されている。

この著作の第一のプロセスでは、与えられた代数方程式から出発して、その解を探そうとするのに対し、第二のプロセスでは、与えられた解から出発してその解を持つような代数方程式を探す。第三のプロセスでは、解の入れ替えによる対称性を探究することによって、代数方程式の代数的な一般解が求められる仕組みを顕わにする。すなわち、第一、第二のプロセスにおいて、代数方程式という対象が扱われているのに対し、第三のプロセスでは、それが捨象され、解の入れ替えという操作による対称性自身を主題化する方向に向かうのである。

代数方式の代数的な一般解が探される中で、n次代数方程式は重複を含めてn個の解を複素数の中に持つことがガウスによって証明された。C・F・ガウス(一七七七~一八五五)は著書『アリトメチカ研究』(一八〇一年)において、数論や代数学の問題について、幾何学(作図に基づく構成的な幾何学)によって証明を与える。そして、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことが、ガウスの平方剰余相互法則や定規とコンパスによる作図可能問題とも関わる円分方程式論に発想を得ながら、アーベル、続いてガロアによって証明された。

N・Hアーベル(一八〇二~一八二九)は、ガウス、ヤコビ(一八〇四~一八五一)と共に一九世紀を通して数学的発見の大きな源泉となっていく楕円関数論に大きな業績を残した数学者である。楕円関数とは、楕円や双曲線、レムニスト(二点からの距離の積が一定の曲線の特別な場合)の弧長の計算に由来する楕円積分の逆関数である。アーベルは、この楕円関数を代数方程式論と結びつけながら、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことを証明したのである。次いで、ガロアは、ラグランジュによる解の入れ替えによる対称性を明確にしながら五次以上の代数方程式が代数的な一般解を持たないことを証明した。ガロアはえによって変わらない、今日〈体〉と呼ばれる加減乗除の四則演算で閉じた数の体系を顕わにすることで、代数方程式の代数的な可解性についての問題を解決に導くのである。解の入れ替えによる対称性の分解の仕方と、元々の代数方程式の係数の生成する数の体系に冪根を添加することによって生み出される数の生成する数の体系との間に正確な対応関係があることをガロアは示した。入れ替えの操作の分解の列と、その操作によって不変になる冪根の添加による数の体系の拡大の列の間には包含関係を逆にして正確な対応関係があるのである。四つ以下のものの入れ替えの操作はある単純な規則性をもって分解されるが、五つ以上の入れ替えの操作にはそのような分解は存在しない。そのことをもってガロアは五次以上の代数方程式には、代数的な一般解が存在しないことを示したのである。

ガロア理論が成立するまでの方法的変遷

代数方程式の冪根を用いた一般解の探究についてのラグランジュ以前の方法からラグランジの方法への移行と、カント哲学からフィヒテ哲学への移行との間には一種の類似性が見出せる。ラグランジュもフィヒテも、カントのように対象の構成の可能性を経験の可能性と同一視しない。ラグランジュは数学の方法を、フィヒテは哲学の方法を感性から、さらにそれらを対象からも解放する方向へと向かう。すなわち、二人とも、存在と対象を純粋に知性において主題化するだけでなく、形式と操作を主題化する構造的方法へと向かっていくのである。

上述したガウスの幾何学的直観に依存する数学的方法を、ガロアは純粋に代数学的なものに転換させながら、代数方程式の可解性についての問題を解く。ガロアの仕事の重要性は、代数方程式の可解性は解の入れ替えの対称性の問題に帰着され、代数方程式そのものは忘れてもよいことを示したことである。この入れ替えの操作そのものは数学的対象として主題化され、乗法と単位元に対する逆元で閉じた〈群〉として捉えられることになる。また、加減乗除の四則演算を満たす数の体系は後にデデキントによって〈体〉と名付けられることになるが、ガロアは、出発点となる体(基礎体)に冪根を添加して拡大された体(拡大体)を構成する方法を導入する。

4ガロア理論と群論の、関数論や幾何学、微分方程式論への拡がり

リーマン面の導入

一九世紀半ばまで、解析関数論は大きく発展していたが、複素関数(複素数を変数とする関数で、一般には関数値も複素数)の良い性質〈解析性〉をいかに正確に定義するのか、関数の多価性をいかに扱うべきかということなど大きな問題があった。B・リーマン(一八二六~一八六六)は、学位論文「複素一変数関数の一般論に対する基礎」(一八五一年)において、まず複素平面(複素数を実数の軸と虚数の軸からなる二次元の平面ととらえる描像)のどの方向から近づけても同じ微分係数をとる複素関数を解析関数と定義し、このような関数は今日コーシー=リーマンの方程式と呼ばれる方程式を満たすことを示した。

この解析性についての条件の下、リーマンは多価の複素関数を、後にリーマン面と呼ばれる幾何学的描像を用いて、一個の解析関数にすることを考える。リーマン面について本質的なことは、複素数上の多価関数であるということを、複素平面が複数枚重なり合っていることと解釈するということである。複素平面上の変数z点をα(通常は関数値がゼロになる点)の周りで連続的に回転移動させた際、同じ変数値に戻るごとに関数は異なる値をとるような場合、変数zが一回転するごとに別の複素平面に移っていくと解釈するのである。このような点を分岐点αと呼び、すべての分岐点の周りで同様なことを考える。このような解釈を基にして、変数の定義域のある一次元複素空間と関数の値域のある一次元複素空間から成る二次元の複素空間すなわち四次元の実空間に埋め込まれた二次元の実曲面を構成する。このような関数の幾何学的描像がリーマン面であり、多価関数は一個の関数として理解されるようになる。

このリーマン面の中でもっとも単純なものの一つが、すべての分岐点の周りにおいて、平方根の因子を持つ二価の関数についてのものである。その中で、平方因子を含まない一次、または二次の多項式の平方根を取った二価の関数のリーマン面は球面になる。また、平方因子を含まない三次、または四次の多項式の平方根をとった関数のリーマン面を楕円曲線と呼ぶ。楕円曲線は穴が一つ(種数一)のトーラス面(ドーナツ状の形の表面)となる。そして、楕円積分は、この楕円曲線すなわちトーラス面上の経路に沿った積分となる。この見方が、それまでの楕円積分の捉え方を大きく変えていくことになる。

しかし、K・ワイエルシュトラス(一八一五~一八九七)のような厳密性を数学の基礎に据えようとする数学者は、リーマンの用いる〈面〉といった曖昧な概念は数学において用いるべきでないと考える。そして、彼は、楕円積分の逆関数と等価である(ペー)関数と呼ばれる無限級数を用いて楕円積分の理論を展開していく。そして、後に、様々な関数と群論の関係がリ―マン面という概念を通じて明らかにされていく。

リーマン面の〈面〉とは何か。ガウスによる複素平面や三次元実空間内の曲面幾何学については、二次元ないし三次元の物理的空間とのアナロジーの下、感覚表象的に視覚化可能である。しかし、何重にも重なり合った複素平面、ないし四次元の実空間(複素二次元)に埋め込まれた二次元の面としてのリーマン面は、三次元の実空間の中において厳密な意味では視覚化不可能である。このような理由から、リーマン面の〈面〉という幾何学的対象を、数学的対象として基礎づけることの必要性にリーマンは迫られることになる。そのような文脈の中で、リーマンは曲面幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より大きくなる幾何学)や双曲幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より小さくなる幾何学)といった非ユークリッド幾何学を一般化する微分幾何学を構築し始める「幾何学の基礎をなす仮説について」(一八五四年)というタイトルの教授資格取得講演の冒頭で、空間概念の基礎づけのために、現代の集合や位相に繋がる〈多様体〉の概念(現代数学の多様体の概念とは異なる)を導入する。

+デデキントによる代数関数論と代数学の抽象化

代数関数とは、多項式関数を係数に持つ代数方程式の根として定義できる関数であり、楕円関数もそれに含まれるが、リーマンの弟子であるJ・W・R・デデキント(一八三一~一九一六)も、リーマン面による代数関数へのアプローチに満足しなかった。一方、一八七〇年代頃からガロア理論が数学界で受容され始める。デデキントは〈体〉という概念を導入しながら、ガロア理論にとって本質的な考え方、すなわち、〈体〉とは、有理数のように加減乗除の四則演算で閉じた系であるが、ある体(基礎体)について、それ自身に含まれない元を添加することで拡大体を生成することができるという考え方を表現した。そして、このような体の拡大(ガロア拡大)に対応して、それを固定する群(ガロア群)が存在するとしたのである。

有理数と整数の概念が拡大され、数の集合が構成され、次第に大きくなっていく。ガロアがその理論を構築する中で導入したように、代数体(代数的数)とは、整数を係数とする代数方程式の解として表せる複素数のことであり、その代数方程式の最高次の係数が一の場合に、それを代数的整数と言う。これらはそれぞれ、通常の有理数と整数の概念を拡大したものである。デデキントとH・ウェーバー(一八四二~一九一三)は、それをさらに拡張して代数関数体の理論を、有理数体の拡大体である代数体の理論との類似性に導かれながら構築した。このようにして、デデキントは代数関数論を代数的数論に導かれながら構築していくが、それを通して、代数学は、任意の対象の集合上に定義された代数的な構造の科学へと変容していく。関数の集合の生成する体系は、数の集合の生成する体系の拡張として理解されるようになる。別の見方をすると、代数関数論の中で、数概念が拡大されたともいえる。そして、これらのことが大きな動機となって、デデキントは実数の基礎づけ、自然数の基礎づけ、さらに集合論の構築に向かっていくことになる。

リーマン面は、類比的な意味にしかすぎないかもしれないが、関数の振る舞いを「目に見える」ようにした。リーマンに続いて、ワイエルシュトラスが解析的な方法で、続いてデデキントが代数的な方法でリーマン面を再構成した。それによって、リーマン面に内在する構造が顕わになった。ここで、構造とは、関数的対応関係に純化された同型性によってのみ定義されるものである。そして、この対応関係を顕わにすることこそ、数学的シンボルそして代数学の本質的役割である。ここには、カント哲学からフィヒテ哲学への移行と類似した移行が観察される。また、それはカント哲学内部での直示的構成>から〈記号的構成>へのフィヒテ哲学を介した転換と理解することもできる。

エルランゲン・プログラムとリー群の誕生

クライン(一八四九~一九二五)はそのエルランゲン・プログラム(一八七二年)の中で、変換群のもとでの不変量、すなわち群の顕わにする対称性こそが幾何学の基礎にあると主張し、その見方において、代数方程式論を正多面体の対称性と結びつける。例えば、四次の代数方程式の一般解は、鏡像を含む正四面体、ないし正六面体の対称性と結びついている。また、五次の代数方程式は代数的な一般解は持たないものの、その解の公式は正二〇面体の対称性と結びついて楕円積分によって書ける。クラインは、それらの研究によってガロア群の幾何学的意味を顕在化させ、保型変換関数を不変にする変数変換)によるリーマン面を構成し、その中で双曲幾何学との結びつきを明らかにする。一方、H・ポアンカレ(一八五四~一九一二)は、リーマン面に微分方程式論とガロア理論と結びついた群論(モノドロミー群)を結びつけながら、微分方程式論の幾何学的描像を得ていく。

S・リー(一八四二~一八九九)は、常微分方程式が解ける条件をガロア理論と類似な方法を用いて探究することを、一八七〇年代に自らに課した。リー自身はこの試みに成功しなかったが、有限次元連続群の概念を生みだした。リーは、微分方程式に現れる連続群についての一般理論から、今日リー群と呼ばれる幾何学的にも非常に重要な連続群を生み出したのである。そして、このことが、代数方程式の代数的解法と微分方程式のシステムの一般的積分の探究との間に完全な類似があることを示したC・E・ピカール(一八五六~一九四一)とE・ヴェシオ(一八六五~一九五二)の仕事に道を開いた。

さて、クラインは、「長さ」や空間の曲がり方の大きさを示す曲率を一定に保つ変換群の違いによって、幾何学的空間の違いが生じると考え、曲率正の曲面幾何学や曲率負の双曲幾何学といった非ュークリッド幾何学をエルランゲン・プログラムの中に包摂する。ちなみに、曲率ゼロの空間はユークリッド幾何学の空間である。それに対して、彼は、位置によって異なる曲率を持つ空間からは、そのような不変量は取り出せないとして、リーマンによって導入された微分幾何学を重要なものと認めなかった。しかし、微分幾何学は、物理学者アインシュタイン(一八七九~一九五五)によって一九一五年に見出された一般相対性理論という物理的時空の描像に用いられた。さらに、数学者Hワイル(一八八五~一九五五)やE・カルタン(一八六九~一九五一)が、微分幾何学に内在するリー群によってその空間の対称性を顕わにした。このように微分幾何学はエルランゲン・プログラムの変換群による幾何学という視点に包摂されていくのである。

 209『世界の歴史⑧』

イスラーム世界の興隆

預言者ムハンマド

預言者のプロフィール

イスラームの預言者ムハンマドは、五七〇年ころ、メッカのクライシュ族に属するハシム家に生まれた。誕生のときに父のアブド・アッラーフはすでになく、ハーシム家の長であった祖父のアブド・アルムッタリブの保護にたよって、母親のアーミナの手ひとつで育てられた。ほかに兄弟や姉妹はなく、ムハンマドは母と二人だけの寂しい子供時代を送らなければならなかった。しかもムハンマドが六歳になったころに母親も世を去り、さらに二年後には、保護者のアブド・アルムッタリブが死没するという不運に見舞われた。アブド・アルムッタリブの死後、ハーシム家の家長となった叔父のアブー・ターリブは、孤児となったムハンマドを引き取り、この甥をたいせつに育てあげた。ムハンマドをシリアへの隊商に同行させたのは、この人物である。

ムハンマドの少年時代について、これ以外の事実はほとんど知られていない。少年がおかれた環境はひどく苛酷であったが、近親者のあたたかい援助によって、何とかこの試練を乗り切ることができた。「コーラン」(第九三章)にいう。

彼(神)は孤児であるそなたを見出し、庇護を与えてくださらなかったか彼は迷っているそなたを見出し、正しい道に導いてくださらなかったか彼は貧しいそなたを見出し、富を与えてくださらなかったか

ムハンマドが二十五歳になったとき、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、その正直な人柄を見込んで彼にシリアへの隊商をまかせた。ムハンマドの誠実さにうたれたハディ―ジャは、人を介して結婚を申しこみ、その年から二人の結婚生活が開始された。伝承によれば、このときハディージャはすでに四十歳に達していたと伝えられる。二人のあいだには三男四女が生まれたが、三人の男の子はいずれも幼児のうちに夭折した。

アッバース朝時代の伝承学者イブン・サード(八四五年没)は、ムハンマドのプロフィ―ルをおよそ次のように伝えている。

ムハンマドの肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかであった。口ひげとあごひげはともに濃く、薄い毛が胸から腹のあたりまでのびていた。肩幅は広く、足どりはしっかりとしていて、その歩き方はまるで坂道を下るようであった。背丈は低くもなく、高くもない程度であった。いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好きであったが、トカゲは食べなかった。よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふけるときには、いつまでも黙っていた。人に対しては誠実であり、すすんで人助けを行い、常にやさしい言葉をかけるのを忘れなかった。(『大伝記集』)この伝承は、ムハンマドの没後二〇〇年以上をへてまとめられたものであり、預言者の実像をどれだけ正確に伝えているかとなると、いささか疑問である。没後になってから伝説化された部分も少なくないと思われる。しかし、後世のムスリムたちが、ムハンマドのプロフィールをこのように描いていたことは確かであり、その点に注目すれば、なかなか興味深い人物像であるといえよう。

最初の啓示

メッカのムハンマドは、毎年、ラマダーン月(第九月)になると、家族といっしょにヒラー山の洞窟にこもって祈り、集まってくる貧しい人びとに施しをするのを習慣にしていた。六一〇年、ムハンマドが四十歳になったころのラマダーン月、いつものようにヒラー山の洞窟にこもっていると、ある夜、うとうととまどろんでいたムハンマドのもとに大天使ガブリエルが現れ、次のような神(アッラーフ)の啓示をつたえた。

詠め、「凝血から人間を創造し給うた汝の主の御名において」

詠め、「汝の主はペンによって[書くことを教え給うたもっとも尊いお方]「人間に未知のことを教え給うたお方」であると(「コーラン」第九六章一~五節)

「詠め」とは、声に出して読むことである。コーラン、正しくはクルアーンも、元来は「声に出して読むもの」を意味している。このように最初から「読誦」を重視したのは、シリアのキリスト教会で聖書が読誦されていることを、ムハンマドがよく知っていたからであろうと推測されている。

いっぽう、最初に下された啓示は次の章句であるとする伝承も残されている。

マントにくるまる者よ

立て、そして警告せよ

汝の主をたたえよ

汝の衣を清めよ

不浄をさけよ

〔後で〕多くを得ようとして、施してはならない

汝の主のために堪え忍べ(「コーラン」第七四章一~七節)

現在のところ、どちらが最初の啓示であるのか、確かなことはわからない。いずれにせよ、最初の啓示をうけたムハンマドは、恐れおののき、マントにくるまって、ただふるえているだけであったという。これが神の言葉であることを信じることさえできず、何か悪い霊(ジン)にとりつかれたにちがいないと思いこんでいたのである。

預言者としての自覚

しかし、恐れおののくムハンマドをはげまし、断続的に下される言葉は神の啓示にほかならないと信じたのは、年上の妻ハディージャであった。彼女のはげましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。この意味で、ハディージャはイスラームに帰依した最初の人物としてきわめて重要な役割を果たしたといえよう。もっとも、神への絶対的な帰依を意味する「イスラーム」が宗教の名称として確立するのは、アッバース朝時代になってからのことである。ムハンマドは、必要に応じて、神への服従(イスラーム)、信仰(イーマーン)、宗教(ディーン)などの言葉を自在に使っていたらしい。

それでは、最初のイスラーム教徒(ムスリム)となった男性は誰だったのだろうか。ムハンマドの庇護者であった叔父アブー・ターリブの息子アリー(後の正統カリフ)だとする説もあるが、当時、十歳に満たないアリーが神の言葉を十分に理解できたとは思われない。むしろ奴隷としてムハンマドに仕え、後に解放されたザイドこそ最初の男性ムスリムであるとする考えが有力である。ムハンマドは、この解放奴隷をことのほか可愛がり、早世した息子たちのかわりとして育てていたのである。

同じメッカで細々とした商売をいとなむアブー・バクルは、ムハンマドの古い友人のひとりであった。彼もまた、ムハンマドに下された言葉を神の啓示として理解し、ごく早い段階でイスラームに改宗した。このような共鳴者が増えるにつれて、ムハンマドは「神の使徒」(ラスール・アッラーフ)としての自覚を深めていったように思われる。

「創造主である神は、ラクダと天と大地をつくり、人間に雨と穀物とナツメヤシを与えてくださった。また神は、最後の審判の日に、地獄へ落ちた人間には恐ろしい業火を用意し、善行ゆえに天国へ導かれた者には、従順にかしずく乙女と緑したたる楽園を準備してださる。地獄へ落ちるのは、他人の遺産をむさぼり、ただむやみに富を愛する者たちである」。つぎつぎと下される啓示によって、唯一なる創造主、最後の審判の主宰者、慈悲深い神と罰を下す恐ろしい神など、アッラーフについての具体的イメージがしだいに明らかにされていった。

こうして、ムハンマドがメッカの人びとに伝道をはじめるまでの間に、およそ五〇人ばかりがムスリムの仲間入りを果たした。彼らのなかには、有力な氏族に属する者もあれば、弱小の氏族に属する者もあったが、その多くが三十代半ばまでの若者であったことは注目に値する。また、ビザンツ帝国領やアビシニア(現在のエチオピア)生まれの奴隷、あるいは解放奴隷のほかに、同盟者(ハリーフ)として部族の保護下にあるよそ者も含まれていた。『ムハンマド』の著者ワットは、初期の改宗者はおちぶれ果てた人たちではなく、概して言えば、メッカ社会の最上層のちょうどひとつ下に属していたと述べている。これらの若者たちは、富の獲得にはしる富裕者を糾弾し、弱者への救済を説くムハンマドの教えに、おそらく新鮮な社会正義を見出したのであろうと思う。

伝道と迫害

「神の使徒」としての自信を深めたムハンマドは、六一四年ころから公の伝道を開始した。ムハンマドが活動の拠点に定めたのは、名門マフズーム家の青年アルカムが提供してくれた大きな屋敷であった。昼間、ムハンマドと三九名の弟子たちはこの家に集まり、説教と礼拝のときを過ごした。青年たちのなかには、そのままここで夜を過ごす者もあったらしい。評判を聞いて、この家を訪ねる人の数も徐々に増大していった。

しかし、メッカの人びとの多くは、この「若者宿」での活動にさしたる関心を示さなかった。彼らは、「神は唯一である」という教えをいぶかしく思うだけで、これまでどおりの信仰に疑いを抱く者はほとんどなかったといってよい。新しい教えを説くムハンマドは、名門ではあるが、さほど実力のないハーシム家の一青年にすぎなかったからである。

だが、ムハンマドへの共鳴者が少しずつ増えるにつれて、クライシュ族の指導者たちの間に消しがたい疑惑が生じはじめた。このままムハンマドが若者たちを集めて、勢力を拡大していけば、メッカ社会の伝統的な権威はそこなわれ、やがてはこの男がメッカの支配者になってしまうのではないか。「コーラン」(第二五章七~八節)に、

彼ら(不信仰者)はいう。「これは何とした使徒だ。食べ物をとり、市場を歩きまわるとは。〔本物の使徒なら〕どうして天使が遣わされ、彼といっしょに警告者とならないのか」。

とあるのは、指導者たちの疑惑があからさまな形をとりはじめたことを示している。クライシュ族の各家の間には、商売上の利益をまもり、社会の不正を正すために「有徳者同盟」がむすばれ、この当時はハーシム家にその指導権が与えられていた。しかし、ムハンマドの行動に危機感をおぼえた同盟者たちは、使徒の属するハーシム家をこの同盟から除外する行為にでた。そのうえで、同盟していた家長たちはムハンマドと会見し、もし偶像崇拝への攻撃をやめれば、彼に富と権力を保証し、彼らもいっしょにアッラーフへの礼拝をおこなおうと提案した。

ムハンマドは、彼らとの妥協の誘惑にかられた。しかし、いちじの迷いからさめたムハンマドは、「おまえたちにはおまえたちの宗教が、そして私には私の宗教がある」として、毅然たる態度を示した。これをみたクライシュ族の大商人たちは、ムハンマドとその仲間にたいして公然の迫害を開始するにいたった。マフズーム家のアブー・ジャフルは、ムハンマドと同世代であったが、新しい改宗者が出ると、「おまえは先祖の宗教を捨ててしまった。われわれは、きっとおまえたちの名誉を傷つけてやるぞ」といって脅したという。

このような迫害に耐えかねたムハンマドは、いちじ信徒の一部をキリスト教徒の国アビシニアへ避難させなければならなかった。大商人たちは、共謀してムハンマドのハーシム家とアブー・バクルのタイム家に対し、ムスリムへの保護(ズィンマ)を取り消すように圧力をかけた。この当時、氏族の保護を失うことは、生命の安全すら保障されないことを意味していた。六一九年には、このような圧力にもかかわらず、ムハンマドを断固として守ってくれた叔父のアブー・ターリブと最愛の妻ハディージャがあいついで世を去った。ムハンマドは絶望の淵に沈みこみ、ここに誕生まもないイスラームは最大の危機を迎えたのである。

西方イスラーム世界の輝き―コルドバ

ジブラルタルを越えて

トゥール・ポワティエ間の戦い

七一一年の春、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出した一万二〇〇〇のアラブ軍は、ベルベル人の将軍ターリク・ブン・ズィヤード(七二〇年没)の指揮のもとに破竹の進撃をつづけた。同年七月、ロドリゴの率いる西ゴート王国軍を一蹴すると、未来の首都コルドバを二ヵ月の包囲の後に陥落させた。タホ川の北岸にある西ゴート王国の首都トレドも、一部ユダヤ人の裏切りによって十月にはターリクの前に開城し、王国は事実上崩壊した。

部下として派遣した将軍ターリクの成功を知ったアラブの将軍ムーサー・ブン・ヌサイル(六四〇~七一六七年)は、翌年、みずから一万の軍を率いてイベリア半島に押し渡った。彼は半島最大の都市であり、学術の中心地としても名高いセビリアを落とすと、進軍の停止命令を無視したターリクを鞭打ったうえで鎖に拘束した。しかし皮肉なことに、ムーサー自身もカリフの承認を得ることなく行動したと非難され、まもなくダマスクスへの召還命令が下された。

ところが七一五年、ムーサーが四〇〇名の西ゴート諸侯と奴隷と財宝をともなってダマスクスに帰還すると、彼の非をとがめるどころか、ウマイヤ・モスクでは凱旋の将軍をむかえて盛大な祝典が催された。ムーサーによるイベリア半島の征服は、サラゴサを越えてアラゴンやレオンの高地にまで及んだが、アラブ人は北部の山岳地帯を除く半島の支配領域をアンダルスと名づけた。現在、南スペインの一帯をさして用いられるアンダルシアは、このアラビア名に由来している。

七一七年ころ、ピレネー山脈を越えたアラブ軍はフランク王国領に侵入すると、ナルボンヌを占領し、さらに北上して大西洋岸に近いボルドーを陥れた(七三二年)。アンダルス総督(アミール)のアブド・アッラフマーン(七三二年没)が率いるアラブ軍は、北進をつづけてトゥール近郊まで迫ったが、トゥールとポワティエの間でフランク王国の宰相カール・マルテル(六八九〜七四一年)の迎撃軍と遭遇した。七三二年十月、トゥール・ポワティエ間の戦いはフランク軍の勝利に帰し、戦闘で指揮官を失ったアラブ軍はピレネー山脈の南に引き返した。

しかし、この戦いの結果を過大に評価し、もしこのときアラブ・イスラーム軍が勝利を収めていたら、オックスフォード大学では聖書のかわりに「コーラン」が講義されていたであろうと考えるのはまちがっている。アラブ軍の補給路は伸びきっていたし、当時のアラブ軍にはヨーロッパ全土を征服するだけの士気の高さは残っていなかったからである。それにおおかたのアラブ人は、緑濃いオリーヴが繁らないような寒冷の土地には住むことができないと考えていた。彼らは、何よりもナツメヤシとオリーヴを好む民族であった。

後ウマイヤ朝の成立

七五〇年、アッバース朝がイラク全土を制圧したとき、新政権の追及の手を辛くも逃れたウマイヤ家の青年がひとりいた。名前はアブド・アッラフマーン・ブン・ムアーウィヤ(七三一~七八八年)、俊敏で鷹のような風貌をもつ二十歳の若者であった。彼はユーフラテス川に飛び込んで追手をかわし、パレスティナで庇護者をみつけると、北アフリカに渡り、七五五年にはモロッコのセウタまでたどり着いた。

ジブラルタルを渡ってグラナダに上陸したアブド・アッラフマーンを、当地のムスリムは熱烈に歓迎した。アミール職にある総督が彼らの統率に当たっていたが、有能な人材を欠き、アンダルスは混沌とした状況におかれていた。これに引き替え、アブド・アッラフマーンはれっきとしたウマイヤ家の出身であり、新しい指導者としてまたとない人物とみなされたのである。

支持者を糾合したアブド・アッラフマーンは、緑の旗を押し立ててコルドバへと進軍し、七五六年五月、アミール・ユースフの抵抗を退けると、首都に入城して後ウマイヤ朝五六~一〇三一年)の樹立を宣言した。しかし、このアブド・アッラフマーン一世(在位七五六~七八八年)がアンダルスを完全に平定するのには、さらに一〇年の歳月を必要とした。アッバース朝からは領内に騒乱を引き起こすための密使が送られてきたし、アラブ人が漁夫の利を得ることに不満なベルベル人は各地で反乱をくり返したからである。

アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝と友好関係を樹立したフランク王国のカ―ル大帝(在位七六八〜八一四年)との軍事的対決も辞さなかった。七七八年、カール大帝が半島北東部のサラゴサへ進撃してくると、アブド・アッラフマーン一世はこれを迎え撃ち、ピレネー山脈の隘路を追撃してフランク軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いの模様を記した『ローランの歌』(十一~十二世紀ごろの成立)は、次のように歌いはじめる。

われらの大帝シャルル王は、
まる七年、スペインにありて、
高き土地を海まで征せり。
彼の前に支え得る城はなく、
城壁、城市、打ち毀つべきはのこらず。
ただサラゴスのみは、山上にありて、
マルシル王これを領す。彼、神を愛せず。(有永弘人訳)

さて、アブド・アッラフマーン一世は、アンダルスの平定後もアミール(総督、あるいは軍司令官)の称号に甘んじていたが、アッバース朝による内政の干渉には断固たる態度を示した。カリフ・マンスールから代わりのアンダルス総督が派遣されてくると、二年後にはその首を塩づけにして、メッカ巡礼の途上にあったマンスールに送り返したという。「クライシュ族の鷹」の異名はこのようにして生まれた。ヒッティの『アラブの歴史』によれば、マンスールは「余と、かような恐ろしい敵を、海でへだて給うた神に感謝し奉る」と叫んだと伝えられる。

名君アブド・アッラフマーン三世

賭博と酒におぼれたハカム(在位七九六~八二二年)の治世が、改宗した現地人ムスリムの反乱とそれへの苛酷な弾圧のうちに終わったあと、その子アブド・アッラフマーン二世(在位八二二~八五二年)がアミール位を継承した。

彼はマーリク派の法学に手厚い保護を与え、スンナ派による統治の実現をはかった。バグダードに対抗すべくイスラーム文化の振興にも熱心であったが、その治世も間断ない反乱に苦しめられた。イスラーム化とアラブ化が進むにつれて、急進的なキリスト教徒は反発を強め、自発的な殉教者を出すまでにいたった。彼らはムハンマドとイスラームを公然とののしり、逮捕されてもひるまず、すすんで死の刑に服したのである。

しかも半島北部のキリスト教諸侯は次々とアミールに反旗を翻し、南部地方でも、八八〇年、西ゴート伯の子孫でイスラームに改宗したイブン・ハフスーンが、現地人の改宗ムスリムを率いて反乱を起こした。イブン・ハフスーンは、ふたたびキリスト教に復帰し、北アフリカのアグラブ朝(八〇〇~九〇九年)と手を結んで、一時はコルドバを孤立化させるところまでアンダルス総督を追いつめた。

このような状況のなかで八代目のアミール位に就いたのが、二十三歳のアブド・アッラフマーン三世(在位九一二~九六一年)であった。キリスト教徒の奴隷を母にもつこの青年の君主は、まず全国に広まっていた反乱の鎮圧に着手する。手はじめにエルビラとセビリアを占領すると、九一七年には強敵イブン・ハフスーンの勢力を壊滅させ、次いで九三二年、トレドを再征服してアンダルス全土の統一を回復した。北アフリカにおこったフアーティマ朝が秘密の宣教員をアンダルスに送り込み、アミール位を脅かしはじめたのを知ると、アブド・アッラフマーンは先手を打って対岸のマグリブ(モロッコ)に軍を進め、この地方を自国領に組み込むことに成功した。

九二九年一月、アブド・アッラフマーン三世は、みずから「カリフ・ナースィル」を名乗り、全国のモスクに対して、金曜日の集団礼拝にはこのカリフの名で説教をおこなうよう命令した。これによってイスラーム世界には、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが並び立つことになったのである。アッバース朝はあくまでも正統なカリフ位の継承権を主張したが、当時のアッバース朝カリフには、北アフリカのファーティマ朝やアンダルスの後ウマイヤ朝にその主張を認めさせるだけの実力はなかったといえよう。

アブド・アッラフマーン三世のときに、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えた。国内にイスラ―ム法による統治がゆきわたると、カリフは北の山岳地帯によるキリスト教国に対しても再三にわたって軍事的な圧力をくわえた。南方への略奪行為をくり返していたレオン王国に対してはみずから軍を率いて出陣し、キリスト教徒の連合軍に大きな打撃を与えた。コルドバの宮廷にはヨーロッパ諸国から次々と使節が送られてきたが、彼らは宮廷の豪華なたたずまいに驚異の目を見張ったことであろう。九六一年、半世紀におよぶ彼の長い治世は栄光のうちに幕を閉じたのである。

国家の運営

「アミール」は、東方イスラーム世界では、軍司令官や地方総督の意味に用いられた。しかし後ウマイヤ朝では、もっぱら国家の首長をしめす最高の称号であった。アブド・アッラフマーン三世がカリフを称してからも、公式の文書には「信徒の長」(アミール・アルムミニーン)と記したのは、東方イスラーム世界の場合と変わらない。「カリフ」(後継者)より「信徒の長」の方が、外部の異教徒に対して、より勇ましい響きをもつと考えられたのであろう。

事実、アミールあるいはカリフは、イスラーム法の執行に最後の責任をもち、軍隊の最高指揮権を有する国家の首長であった。カリフの第一の補佐役は侍従(ハージブ)であり、宮廷内の三官庁(ディーワーン・アッラサーイル)、租税庁(ディーワーン・文書庁アルハラージュ)、軍務庁(ディーワーン・アルジャイシュ)を統轄する宰相としての役割を果たした。アンダルスは、北部の辺境区をのぞいて二一余りの行政区(クーラ)に分割され、各行政区には中央官庁の支所がおかれていた。キリスト教徒やユダヤ教徒の庇護民(ズィンミー)が、人頭税の支払いを条件に信教の自由と一定の自治を与えられたことも、イスラーム国家に共通の特徴であった。

軍隊の主力はアラブ人とベルベル人によって構成されていたが、九世紀初頭からマムル―ク(奴隷軍人)の採用がはじまった。アブド・アッラフマーン三世の時代になると、ユダヤ商人の手をへて多数のフランク人、ブルガール人、あるいはスラヴ人奴隷が購入され、彼らの一部は宮殿を警護するエリートの護衛兵に抜擢された。こうして西方イスラーム世界は、東方イスラーム世界と同様に、奴隷出身のマムルークが軍事力を独占する時代を迎えたのである。

モンゴメリー・ワットは、「イスラーム・スペイン史」のなかで、ムスリムの君主は、「事実上、支配機構の面で西ゴートの伝統に範を求めることは何一つなかった」と述べている。後ウマイヤ朝は、政治的には東方のアッバース朝と対抗したが、官庁(ディーワーン)による行政機構をとり入れ、さらに古代イランの伝統をひくバグダードの宮廷儀式を採用した。後述するように、アンダルスのムスリムたちは東方イスラーム世界へ盛んに出かけて行き、カイロやバグダード、あるいはダマスクスでイスラーム諸学を学び、その成果を故郷にもち帰った。そのなかには、当然、カリフ政治の理論と行政の実態についての情報も含まれていたとみなければならない。コルドバのムスリムたちの顔は、北方のヨーロッパではなく、東方のイスラーム世界へと向けられていたのである。

 クルアーンというのは憲法じゃなく 民法の詳細な部分 ここまで規定するか そして アラーの恩を売るか
 これぞ スーパーアイドル ショールームで5万人はすごい #池田瑛紗
 そして戦いの書でもある
 シリーズ 近現代ヨーロッパ 70年史『分断と統合への試練 1950-2017』にウクライナ 戦争の前半部分が記述されていた。

『世界哲学史8』

2023年09月19日 | 2.数学
『世界哲学史8』現代グローバル時代の知
「グローバルな哲学的知」とは何か

このように、この哲学史のシリーズはこれまでの巻で、東西思想世界の古代から中世、近世、近代と時代を追って進行してきたが、最後には地球規模の現代の思想情況を、逆に空間的な観点からパノラミックに展望させているともいえる。それゆえ、私たちの世界哲学史は最終的に、時間的な軸と空間的な軸の両方からなる世界哲学の広がりを縦横に提示してきたことになるが、こうした歴史的かつ地理的な知識の集積は、世界哲学という真にグローバルな哲学の形成のために、はたして積極的な役割を果たすことができるのかどうか。私たちの哲学史の旅は、世界哲学という新たな学問的企てにたいして、どのような教訓を与えることができるのか――。この終章では総論として、この問題をさらに少しだけ考えてみることにしよう。

ここで、現代におけるグローバル化ということを、もう一度哲学的な思索という側面から考え直してみよう。哲学のグローバル化ということはいうまでもなく、交通手段や経済活動の世界的な規模での共有ということとは、まったく別のことである。哲学のグローバル化とは何なのか。このことは当然、哲学とは何かということと結びついており、この問いはこのシリーズの全体で、繰り返し問われたことである。しかし、ここではとりあえず、私たちがとりわけシリーズ第1巻で、哲学の誕生の模様を確かめる際に、さまざまな文明における「世界と魂」への問いかけの様子を確かめることを通じて、世界における哲学の誕生を理解しようとしたことを思い起こしてみよう。

哲学とは古き古代の時代から現代まで、何よりもまず、世界ないし宇宙という存在者の包括的全体と、その中で生きて考える人間の魂とを、根本から問い直す作業として存在してきた。そうだとするならば、現代というグローバル時代において、世界規模での哲学が可能なのかと問うことは、まさしく、世界規模での「世界と魂」への問いはいかにして可能なのか、という問題になるはずである。

現代という時代において、世界規模で共有されている世界についての共通の理解や、人間の精神についての有力な見方とはどのようなものであろうか。このような問いは、ある意味では、現代における科学的知識として、世界や宇宙はどのように理解されているか、あるいは、人間精神の神経的メカニズムとその情報の伝達はどのように機能しているのか、という形でも説明できるであろう。しかし、これらは天文学や生理学、心理学や言語学という「世界に共通の学問的知識」のレベルでの説明であって、けっして、世界と魂とをめぐる「グローバルな哲学的世界哲学史1古代―知恵から愛知へ

・私たちに共通の基盤となっている西洋哲学を介して、それに対抗し、別の可能性を開く諸々の哲学を視野に収めることで、初めて世界哲学への可能性が開かれると考えている。世界哲学と世界哲学史の試みが今後どのような役割を果たすのか、本「世界哲学史」シリーズはその出発点となるはずである。

数学から哲学へという物語

ホメロスやヘシオドスを哲学者から除外し、初期ギリシアの哲学者を哲学者と見なせる理由は何か。初期ギリシアの哲学者の共通点を別の側面から見てみよう。

彼らの主張に着目する限り、彼らの語った内容は多様であり、探究の対象も多様である。それを見る限り、彼らが共有する特定の信念があるようには感じられない。しかし、彼らの伝記には数学や天文学上の業績が少なくないことは注目に値する。たとえば、タレスには「タレスの定理」というまさにその名を冠した定理が残っている。おそらく実際に発見したのはタレスではなかったであろうが、ピラミッドの高さを測定したエピソードや、天文観察をしていて井戸に落ちたエピソードは、彼に数学と天文学の素養があったことを示している。彼に続くミレトス派も、タレスから何らかの教授を受けたのであれば、その中に数学と天文学があったことは想像に難くない。実際に、タレスの弟子とされるアナクシマンドロスは日時計を発明して、夏至や冬至、春分や秋分を発見したと伝えられている。

ピュタゴラスとピュタゴラス派が数学を重視したことは言うまでもない。象徴的なことに、「数学」を意味する英語のマスマティックス(mathematics)は、「学ぶ」を意味する動詞マンタノーに由来する「学識」という語であり、ピュタゴラスを継承した一派はマテーマティコイ(学識派)と呼ばれていた。

また、パルメニデスがピュタゴラス派の人物と親交があったという伝承を信じるならば、彼にも数学の素養があったであろう。それを示すように、その弟子ゼノンが提示したパラドクスは無限分割など、数学に関わる。エンペドクレスもピュタゴラス派の一員とされ、アナクサゴラスも獄中で円の正方形化(円と同じ面積の正方形を作図すること)を達成したという逸話が伝わっている。

もちろん、この中には信憑性が薄い報告もある。また、そもそも数学は哲学と区分すべきであろう。しかし、数学や幾何学の実践を通じて、思考の方法を自らのものとすることは、哲学者と見なされるための必須の素養であったのではなかろうか。このことは、プラトンが『ポリティア(国家)』第七巻の哲学者の育成カリキュラムを数学的学科で構成していることにも示唆される。

ただし、哲学者には数学的素養という共通点があったというだけでは、ギリシア哲学の展開を説明できないだろう。そもそも、もし数学が哲学の基盤となっているのであれば、ギリシアの植民地よりはるかに発展していたメソポタミア地域やエジプトにおいて哲学が萌芽してもよかったはずである。事実、少なくない初期ギリシアの哲学者たちが数学を学ぶためにエジプトに赴いていると伝わっている。

この問いに関しては、これらの地域の数学には証明がなかったのではないかという、いささか衝撃的な事実が手がかりになる。つまり、すでに知られた公理や定理から、新たな数学的事実を発見する営みは、古代ギリシアに独自のものだった、ということである。このようにみれば、哲学者として持つべき数学的素養とは、単純な前提から別の事柄を導き出すことや、その導出のプロセスを検証する、というわれわれがよく知る数学的思考のプロセスであったと考えられる。

民主政ポリスの哲学者ソクラテス

+ソクラテスのセミパブリックな生き方

本章の主人公であるソクラテスはそんな時代に生きた。石工の父と助産師の母の子と伝わるソクラテスは、貧乏ゆえに友人らの世話になりながらも、上層市民として一応は食うに困らない生活をしていたと想像される。政治的には、彼は壮年期に三度重装歩兵として国外に出征したことと、前四〇六五年に一度だけ民会の準備機関である評議会の議員を務めたこと以外、公的仕事に積極的な姿勢を示さなかった。とは言え、政治嫌いの人に見られるように、私的世界である自分の「家」を豊かにすべく経済活動に精を出したわけでもない。彼は、自身が訴えられた裁判の冒頭で弁明するように、政治的な公的空間でも経済的な私的空間でもない、半公的、つまり「セミパブリック」とも言うべき公共広場の「アゴラ」で専ら話をして時を過ごしていたのである(ブラトン『ソクラテスの弁明』一七C、以下『弁明』と略)。ソクラテスは通常二分法的に理解される公と私の間に政治と生活が接して混じり合う閾的空間を見出し、そこを哲学の舞台としたと言える。では、ソクラテスが生きたセミパブリック世界・アゴラとはどのような空間だったのか。アクロポリスの麓にあるアゴラは、人々が集まって商取引したり議論に興じたりする開かれた世界だった。ソクラテスはそこで「年少でも年長でも、外国人でも町の者でも」、「金持ちでも貧乏人でも」構わず、「一人一人」と対話を繰り広げる。こうした一対一の対話活動がきわめて政治的意味をもつことは明らかだろう。一人が多くの人に向けて説得を試みる民会・法廷・劇場といった公的世界では、市民なら自由に登壇して言葉を発する平等は保たれていても、現実には、説得の言葉をもつか否かで能力差が存在し、説得力を欠く意見は受け入れられない。文化の担い手という「知者」が大衆に教えを垂れるという一対多の人間関係が支配する世界だった。

それに対して、アゴラでは年齢も国籍も経済状態も問われない。そこでは、商品が通貨と引き換えられるように、当人に備わる属性とは無関係に交わる言葉と意見の交換のみに価値があり、一方的に注入するのではない言葉・意見のやり取りが新たに自由と平等を定義する。ソクラテスが作りあげる一対一の人間関係は、対話者の身分や属性を参加資格としないという意味で平等であり、自分の意見や思想、つまりはドクサの表明に制限がないという意味で自由(パレーシア)なのである。民主政の原理である自由と平等はアゴラという政治空間において真に実現する。

だが、なぜソクラテスは自由で平等な対話を実践したのか。彼は政治家としてポリスの変革を企てたわけでは決してない。否、哲学に徹したことが、彼を民主政の哲学者かつ政治家にしたのだ。前三九九年に不敬神の罪状で訴えられた裁判で彼が語る言葉に耳を傾けることで、その次第を明らかにしよう。

+「デルフォイの神託事件」と不知の自覚

プラトンがソクラテス裁判を主題にして著した『ソクラテスの弁明』の記述(二〇C~二三C)に従いたい。ソクラテス自身はなにも書き著さず、弟子たちの作品で言行が伝えられるからである。

アゴラでのソクラテスの対話はなぜか彼に「知者」との評判をもたらした。友人の一人カイレフォンがその真偽を確かめるべくデルフォイへ赴き、かの地で祀られている神アポロンから「ソクラテスより知恵ある者はいない」との神託を授かると、ソクラテスはそれに驚きいぶかしみ、神の言葉を「謎」として受けとめる。神託によれば、ソクラテスは人々の間で最高の知者となるが、彼は自分が知恵をもつなどちっとも思っていないからである。知者でないと自覚する彼が、信頼する神から知者であると認定される。ここに自己のアイデンティティをめぐる問いが生じる。「私は何者か。知者なのか、知者でないのか」――この問いとの格闘が彼を哲学者にする。「汝自身を知れ」という箴言と通ずる、デルフォイの神託との出会いは、彼にとって決定的な「事件」となったのだ。

ソクラテスの場合、「私は何者か」という問いは決して人間に備わる年齢、国籍、経済状態などを問題としない。性差もディオティマやアスパシアといった女性に学ぶ彼はこだわらない。自由と平等の世界アゴラでの対話はそうした属性をすべて無化する。むしろ、諸属性が備わる自己自身、すなわち、魂において「私とはそもそも誰なのか」が、知恵をめぐって問われているのである。魂の同一性を保証し「私が私である」と言える根拠となる知恵とは何なのか。

ソクラテスは知者を探してアテナイ中を歩き回る。知恵があると自他共に認める人々と対話をして、より知恵のある人を発見できたなら、神に反例を突きつけ、自身が最高の知者ではないと回答できると考えたからだ。だが知者とはいったい誰か。彼は、公的なドクサの世界で知者との評判を得る政治家や悲劇詩人をセミパブリック世界へと導き入れ、一対一の対話を試みる。判明したのは、皮肉にも神託のただしさだった。

文化の担い手が知者だと思われる理由は、善や美といった大切なことについて知っているからだろう。知っているなら、善とは何か、美とは何かについて説明できるはずだ。ところがどうだ。政治家はポリスのための善である国益を口にし、詩人は美しい詩句を紡ぎ出すが、どちらもその政策がなぜよいのか、その詩句がなぜ美しいのかを、善や美の定義まで加えて説明することができず、自身の矛盾した信念を露呈する始末だった。善や美について、彼らは公的世界では大衆を説得し意見を注入することで知者の評判を得ても、ソクラテスの吟味により自らの不知を曝け出したのである。

一方、ソクラテスはどうか。彼自身、善・美について知らないことは認めており、不知という点で文化の担い手と大差ない。しかし重大な違いが存在する。文化の担い手は、知らないのに知っていると思っているのに対し、自分は知らないから、その通り知らないと思っている、言い換えれば、自己のあり方について、彼らは知者でないのに知者だと間違った思いをもっているのに対し、ソクラテスの方は自分が知者でないから知者でないとただしい思いをもっている、という一点で大いに異なっているのだ。ソクラテスは「不知の自覚」(一般に「無知の知」という表現が流布するが誤り)、より厳密には「知者でない」とのただしい自己理解をもつ点で、誰よりもまさって知恵があると言えるのである。

知恵と哲学(愛知)

ソクラテスは、善・美についての知、つまりは真の意味での「知恵」を神のみに可能とする一方で、知者でないとの自己理解を「人間並みの知恵」と呼ぶ。こうして、彼のアイデンティティをめぐる謎は、真の知恵に関して「知者ではない」が、人間並みの知恵に関して「知者である」と矛盾のない形で解き明かされた。確かに、この世に専門家は数多く、専門領域に属する大切なことを知ってはいるが、善・美という重大事を知る者は誰一人おらず、オピニオンリ―ダーと大衆にもてはやされる文化の担い手とその例外ではない。人は皆、神の知恵をもたない点で平等なのだ。アゴラでの対話の平等性は、神の知恵という絶対的基準と比べると人間の意見・ドクサは知恵でない点でどれも変わりがないという事実による。善・美の対話をめぐっては、語り手の属性がどうであれ、意見の多様性が尊重されねばならない。

しかし、このことは知に関して人間の生き方に差異がないことを意味しない。「知者であるない」との自己理解は魂のあり方として常に人生全体につきまとう。知者でないのに知者だと勘違いして生きる人は、明らかに、人間並みの知恵の観点から、知者でないことを自覚している人よりも劣った生き方をしている。自らが知者だと誤った思いをもつ文化の担い手はその思いが妨げとなって真の知恵を愛し求めず、知恵に背を向けた学びのない人生を送るだろう。学びを欠く状態を単なる不知と区別して「無知」と呼べば、無知からの解放が惹起する学びは、真の知恵に接近するだけ、人生の価値をリアルに高めていく。そして神のような知者ではないが無知でもない、知恵と無知の中間にいる人が、知ることを愛し求める愛知者、つまり哲学者となって、学びに生きる道を歩み続けるのだ。

ソクラテスが身をもって示した哲学者の生は多くの若者を惹きつけた。彼への告訴状の一部に「若者を堕落させた」とあるが、これは、よく指摘されるように、若い頃に彼と交わり政治家に成長したクリティアスやアルキビアデスがポリスを崩壊寸前に導いたためだろう。残念ながら、彼らはソクラテスと哲学から離れて無知にまみれた人生を送ったが、アテナイの公的世界で文化の担い手と大衆が演じるドクサの猿芝居に嫌気がさした若者が、風通しのよいアゴラで神ならぬ人間の自覚をもち、善とは何か、美とは何かといった大切なことを自由に語り合う生き方に新鮮な魅力を覚えたのは十分ありそうだ。知識注入的ではない何か新しい教育と文化の香りがするからだ。常識ある大人からは、政治を軽視した「堕落」した生き方と断罪されても、哲学はソクラテスの生と死を介して民主政下での人間の一つの生き方として誕生したのである。

 209『世界の歴史⑥』

ギリシアとローマ

ギリシアはなぜ勝ったのか

ペルシアから見たギリシアの特性

ふりかえって見れば、ギリシア人が自分たちの築いた世界に外敵の侵入を受けたのは、これが初めてであった。たしかに、ミケーネ時代の末に外敵の襲撃を受けた可能性はある。しかし、それは一過性の海賊の襲来のようなものだったようだ。ギリシア人にとっては先進の地であるオリエントの大国が侵攻してくるという事態は、この前五世紀初めまでなかった。ギリシア世界は遠征してまで支配下におさめようとするほど、魅力に富む地域ではなかったのだろう。なにしろ土地が肥沃ではない。とくに、穀物栽培に適していない。資源が乏しく、広大な平野もないから、大規模な農業経営もありえない。

そのようなギリシアがペルシアの遠征の目標となったのは、ひとつには、ペルシア帝国のいまだ衰えない支配欲のため、イオニア反乱の際にアテナイとエレトリアがイオニア諸国を支援したことへの報復として、ということもあっただろうが、やはりギリシアの評価が高まり、征服するだけの、大軍を派遣するだけの価値ある地域と思われはじめたからなのであろう。ギリシア人はそれだけ、この地域の価値を高めたのである。

ギリシア人は土地を開墾し、雨水で表土が流されやすい斜面を段々畑状に整備して農地にし、また、穀物栽培に不適な土地をオリーブやブドウの果樹園に開発する、など勤勉な労働によって痩せた土地を可能なかぎり効率よい農業用地にした。人口増加による必要に迫られてのことであったにしても、それはギリシア人の勤勉さを物語るものである。また、すぐれた形状の土器とそれに描いた創造性豊かな図像、巧妙に精緻な金細工、優美で堅固な神殿などの建造物をあげることもできよう。それらの多くはオリエントに学びながら、しかもギリシアの独自性を開花させた成果である。さらに、ホメロスの叙事詩をはじめとする詩歌を生み出し、しかも、祭典や集会においてそれらを披露し、競い合う慣習もある。競い合いを通して自己を高めていく様子を見れば、貧弱な土壌の上に豊かな社会生活を営む才覚をもった人間像が鮮明に浮かび上がってくる。アゴーン好きの、対等な立場で多様な能力を競い合うことの好きな人間たちが築き上げたギリシアの社会は、オリエントの支配者の目にもとても興味ある社会として映ったのであろう。

ペルシアの王がギリシアをどのように見ていたかについては、ヘロドトスが語っている。話は前五四六年、キュロス大王がリュディアを征服したときに戻る。スパルタはサルディスのペルシア王のもとに自国の使節を送り、ギリシア領土内のいかなる町にも手を出すな、という決議をキュロスに伝えた。キュロスは側近のギリシア人からスパルタについて情報を得ると、こう言ったという。

町の真中に場所を設け、そこへ集まって誓言しながらだまし合うような人間どもを、わしは今まで恐ろしいと思ったことなどないのだ。もしわしに寿命があったら、イオニア人どもの受けた苦しみ(ペルシアの攻撃を受け、服属した苦しみ)を、あの奴ばら(スパルタ人)の暇つぶしの談義のたねなどにせず、あいつら自身そのような目に遭わしてやろう。

ヘロドトスはこのエピソードに解説を加えて、こう述べている。

キュロスのこの言葉はギリシア人全体にあてていったもので、ギリシア人が市を立てて売買することによるのである。実際ペルシア人自身は市を立てて売り買いする習慣をもたず、第一市場なるものがペルシアには全くないのである。

このような記述は、ヘロドトスの考えるギリシアとペルシアの違いを明示することにより、ペルシア戦争のもつ意味を作品の冒頭において暗示する、という意図に基づくものであるのかもしれない。それでも、ペルシアから見たギリシアの特徴あるいは特異性がどのようなものだったのかを、ここから推し量ることができる。アゴラでの政治的議論や商取引は、ギリシア独自のもので、相互に相手の独立を尊重してこそ成り立つものであった。キュロス大王のもとにはすでにギリシア人の側近がいて、彼らからも情報が入ってきていた。ペルシアにとっては異質でありながら、独自の世界を構築しているギリシア人に関心を向けた結果が、ダレイオス、クセルクセスによるギリシアへの遠征となったのであろう。

アテナイ民主政と海軍力

ペルシアと戦ったギリシア人中のギリシア人として、アテナイルテミストクレスの場合を次にとりあげておこう。テミストクレスは前四八〇年のペルシア大軍襲来の際、サラミスの海戦でギリシア側に勝利をもたらした立て役者というべき男である。

前五二四年ごろの生まれのテミストクレスは、前四九三/二年に行政職としてもっとも重要な筆頭のアルコンを務めているが、このとき彼はアテナイの外港ペイライエウスの建設工事を始めている。ペイライエウス港工事は、ペルシア軍のギリシア侵攻で中断されながらも、前四七七年に完成した。のちにペイライエウスは、商港も整備され、首都アテナイと二つの長城壁で結ばれもして、アテナイの外港としてその繁栄に大きく寄与した。そう考えれば、テミストクレスが始めたペイライエウス港開発がアテナイの将来に与えた影響ははかりしれないほど大きい。

だが、テミストクレスの政治家としての最大の功績はアテナイ海軍の拡充だった。前四八三/二年にアッティカのラウレイオン銀山で豊かな鉱脈が発見され、その使用法をめぐって議論が生じたとき、彼は軍船の建造に充当するよう提案し、その提案が民会を通って、アテナイの軍船は七〇隻から二〇〇隻に増加した。その軍船によってアテナイは前四八〇年にアルテミシオンで、つづいてサラミスでペルシア海軍と対決するとき、ギリシア連合艦隊の主力となり、ペルシアを敗退させている。

ここで、その軍船について説明しておこう。それは三段櫂船というもので、乗員二〇〇名中一八〇名までが上下三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせていっせいに櫂を漕いだ。漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民でも漕ぎ手として戦争に参加し、勝利を国にもたらすことができる。

軍船についてこのような理解を得たうえでマラトンの戦いとサラミスの海戦とを比較するならば、二つの戦闘はその主要な担い手にずれがあったことが見えてくる。マラトンの戦いは重装歩兵の密集隊戦術によって戦われたから、戦闘の中心にいたのは武器・武具を自分で調達できる程度の経済力のある市民たちである。ところが、サラミスの海戦では貧しい市民でも健康ならば漕ぎ手として戦闘に参加し、ペルシア海軍撃退に貢献できた。海戦を勝利に導くにあたって、漕ぎ手として軍船に乗り込んだ下層市民の功績は大きかった。二〇〇隻の三段櫂船に必要なのは四万人であるが、それはアテナイの市民全員が乗り組んでも欠員が出る数だった。アテナイ居住の外人(メトイコイと呼ばれた)や他国からの応援で、全船が充当されたのだろう。

以後のアテナイがギリシア世界の覇者となるのは、の海軍があってこそ可能だった。その海軍は、漕ぎ手である下層市民なくしては成り立たない。こうして下層市民の発言権も高まったのである。アテナイ民主政は、前五世紀の半ばまでには市民であれば誰でもほとんどの要職に就けるような徹底的な民主政へと移行していくが、それは、このような軍事力の主体の変化と関連があったのである。また、アテナイの前五、四世紀の経済的繁栄は、ペイライエウス港がエーゲ海交易の中心として機能したことにも困っている。このように見てくると、テミストクレスの功績が甚大であったことがよくわかる。

時代が躍進するときの人間

さらに、前四八〇年のペルシア軍侵攻に対し、第一次防衛線での応戦、つづくサラミス海峡での海戦の作戦もテミストクレスが立案し、婦女子のトロイゼンへの疎開も彼の提案によるものであった。彼はまた、ペルシア軍撤退後、アテナイ市の城壁再建を警戒するスパルタに乗り込んで、言を左右にして時間稼ぎをした。その間に本国アテナイで工事は急ピッチで進み、城壁再建は完了したのだった。このときの急ごしらえの城壁の一部は、いまも見ることができる。

それほどの功績をあげたテミストクレスであったが、前四七〇年代末には陶片追放に処せられてしまう。ペロポネソス半島から西部ギリシア、マケドニアを経て小アジアへと移り、前四六五年に即位したペルシア王アルタクセルクセスによってマグネシア長官に任命され、その地で波乱に満ちた一生を終えたらしい。

『対比列伝』のなかでテミストクレス伝を著したプルタルコスは、テミストクレスを生まれつき競争心の強い人だった、と述べ、関連するいくつかのエピソードを紹介している。そのひとつはこうである。

(ペルシア軍の)死体が海辺に打ち上げられたのを検分した折には、それらが黄金の腕輪や首飾りをつけているのを見ると、自分はそのまま通り過ぎたが、後に従う友人にはそれを指し示して、「くすねておき給え。きみはテミストクレスではないのだから」と言った。

テミストクレスはつねに他者に優越することを目指し、栄誉を尊ぶ人物であったらしい。そのような、国の存立と繁栄に貢献したテミストクレスが、権力を掌握するおそれがあるからと陶片追放された事実は、当時、アテナイ国内で有力者たちの勢力が拮抗していたことを示している。さらに、クレイステネスの改革により成立した民主政の効果を、マラトンの戦いとサラミスの海戦で身をもって具体的に証明してみせた市民たちが、たとえ慧眼をもって国に多大の貢献をした人物であっても、突出した存在に対してはこれを容認しようとしなかったわけで、そこに時代の熱気をはらんだ潮流に乗った市民全体の、意識的な決意を感じとることもできるだろう。

なお、テミストクレスが陶片追放に遭うと、ペルシア遠征軍を撃退するにもっとも功績のあった彼を受け入れたのがペルシアであったことも、注目に値する。ペルシア帝国の寛大さ、懐の深さをそこに見ることができるからである。実際、政争に敗れてペルシアへ身を寄せた者は少なくない。前六世紀末のアテナイの僭主ヒッピアス、スパルタ王デマラトス、前五世紀末のアルキビアデスらの名が浮かぶ。ペルシアは再びギリシア本土への遠征を企てることはなかったが、以後、前四世紀の後半までギリシア世界の動静に応じて陰に陽に介入しつづける。

テミストクレスの去った後のアテナイには、彼の政策を支持し協力していたアリスティデスやキモンがいて、アテナイの発展のために個人の利害を超えて尽力した。当時のアテナイがすぐれた人材に恵まれていたというよりも、時代が大きく躍進するとき、普通であれば潜在したままの個性も開花するということなのかもしれない。

アレクサンドロスの夢

マケドニアの台頭

ギリシア北部ピエリア山脈の山麓ヴェルギナは、古代マケドニア王国の古都アイガイがあったところと推定されているが、そのヴェルギナで一九七六年に発見された墳墓から見事な黄金の副葬品が多数出土して、世界をわかせた。副葬品のなかの陶器から墳墓の年代は前四世紀半ばとみられる。被葬者はフィリッポス二世であろうと推定されていて、この推定を疑問視する見解もあるが、それを否定する材料はいまのところ現れていない。

フィリッポス二世は前三五九年に即位したマケドニア王国の名君で、かのアレクサンドロス大王の父である。前三三六年に暗殺されるまでの二十数年のあいだに、ギリシア北部の後進国であったマケドニア王国をギリシア世界に君臨する大国にしてしまった。

ここでマケドニア王国について少し説明しておこう。前五、四世紀のギリシア人にはマケドニアの生活習慣は粗野で遅れていると見えたようだが、このマケドニア人がドーリス系ギリシア人であったことは、ほぼまちがいない。前二〇〇〇年前後からの原ギリシア人の移動の過程で北部山岳地帯に定住した一派だったのだろう。以来、北方のイリュリア人、トラキア人との接触が多かったマケドニア人は、バルカン半島を南下していち早く先進文明に出会ったドーリス人とは異質の社会を形成していた。

残存する文献史料のなかで、ギリシア人と交渉のあったマケドニア王として最初に言及されているのは、アミュンタス王である。彼は、前五一〇年に僭主政倒壊とともにアテナイを離れて国外にいたペイシストラトスの子ヒッピアスに、アンテムスという町を提供すると申し出たと、ヘロドトスは伝えている。この話が事実とすれば、前六世紀後半にペイシストラトスがエーゲ海北岸パンガイオン山付近とストリュモン川流域に亡命し、金・銀を豊富に産出するこの地域の権益を獲得したころに、マケドニア王家と接触したことがあったのかもしれない。

アミュンタスの後を襲った息子のアレクサンドロス一世は、オリュンピアの競技への参加を希望した。他の参加者から異邦人であるアレクサンドロスに参加資格はないという反対意見が出されると、アレクサンドロスは自分がアルゴスの名家の出身であることを証明してみせたため、ギリシア人と判定され参加を認められたと、これもヘロドトスが伝えている。マケドニア王家がアルゴス出身であるというのは神話にすぎない。だが、これ以後、マケドニア王家一族はギリシア人として容認されることとなった。

王国の首都をアイガイからペラに移したのは、前四一三年に即位したアルケラオスだった。彼は歴代の王のなかでもとりわけギリシアの文化を愛好し、その宮廷に多くの芸術家を招いたが、なかでも有名なのがあの大悲劇詩人エウリピデスで、彼は前四〇六年に世を去るまで、晩年の一、二年をマケドニアで過ごし、名作『バッカイ(バッコスの信女たち)』を完成させている。さらにまた、エウリピデスはパトロンである王のために『アルケラオス』という芝居を書いたが、これは現存していない。

フィリッポス二世の進撃

アルケラオスの死(前三九九年)後、マケドニアはスパルタ、テーベ、アテナイなどのあいだの錯綜した対立抗争のなかに参入し、また、国内でも内乱のすえの王位をめぐる争いが展開する。そのなかでのちにマケドニア王となるフィリッポス二世は、前三六九年から約二年間、人質としてテーベに滞在した。テーベを勃興させたペロビダスとエバミノンダスに身近に接触できたことは、十三、四歳のフィリッポスにとって幸運このうえないことだった。彼はこの二人から政治について、軍事について多くを学びとったにちがいない。前三五九年に二十三歳の若さで王位に就いたフィリッボス二世は、財政を整備し、軍制改革に成功した。農民・遊牧民を動員して強力な歩兵軍を作り上げ、マケドニアの国力を高めたが、やはりもっとも戦力として頼りになったのは、ヘタイロイ(仲間という意味)と呼ばれるマケドニア貴族出身の騎兵だった。即位するとただちに北方のイリュリア人を平定したフィリッポスが、次に目指すはギリシアへの進出だった。

彼は前三五七年にアンフィポリスを攻撃する。アンフィポリスは前五世紀にアテナイが中心になって建設した植民市で、戦略的にも、トラキアなど後背地の物資の集散地としても重要な都市だったため、アテナイはフィリッポスに宣戦するが、ちょうど「同盟市戦争」が起こっていて、ケルソネソスやビザンティオン、キオス方面での軍事活動に専念せざるをえなかったため、実際の行動に出ることができず、フィリッポスは難なくアンフィポリスを、ついでピュドナを掌握した。

フィリッポスの進撃はとどまるところを知らない。ポテイダイアを占領し、メトネを掌握する。獲得した土地は、これを支給するという条件で広くギリシア各地から新貴族をリクルートするために用いられた。こうしてクレタのネアルコス、ミュティレネのラオメドン、タソスのアンドロステネスがフィリッポスの臣下となり、アンフィポリスに居を構えた。三人はのちにフィリッポスの子アレクサンドロスの戦友としてその東征を援けることになる。フィリッポスはまたパンガイオン山西麓のトラキア人居住地クレニデスを占領し、その名をフィリッピと改めた。周辺から産出する大量の金が以後、フィリッポスの大事な軍資金となったのだから、マケドニア王国におけるフィリッピの意義は大きい。いまその地を訪ねれば、遺跡を見ながらいかにも壮麗な町だったろうと納得できるのである。

フィリッポス二世を攻撃するデモステネス

フィリッポスによってアンフィポリスが占領されるのをアテナイは阻止できず、また「同盟市戦争」でビザンティオンやキオスなどがつぎつぎに離反していくのを防ぐこともできず、第二海上同盟は解体同然となった。このような事態にいたったアテナイは、対外的にいったん平和政策をとり、国内政策として財政の再建をはかった。祭祀財務委員になったエウブロスが国の全財政を管掌し、傭兵への支出削減、ラウレイオン銀山の再開発、国内居住の外人(メトイコイ)数を増加させるための優遇策、公共建造物建築計画の推進などを実施した。こうして、エウブロスは前三五四年から二期八年のあいだに歳入の増大に成功した。

アテナイ国内はこのようにひとまず安定したが、目をギリシア全体に向けるならば、中央ギリシアでもペロポネソス半島でも諸国間の対立抗争は繰り返されている。フィリッポスは、前三五六年から始まったデルフォイの管理をめぐる周辺諸国の長期にわたる争い(第三次神聖戦争)への救援要請をテッサリアから受けたのを契機に、ギリシア内部の問題に介入しはじめる。他方で、前三五一年にはエーゲ海北部やプロポンティスに遠征し、ビザンティオンやペリントスなどと友好関係を結び、この方面への影響力を強めていた。これを脅威と感じたのがアテナイのデモステネスである。前四世紀ギリシアを代表する弁論作者であるデモステネスは、フィリッポスを攻撃する多数の弁論を残しているが、その最初の弁論『フィリッポス攻撃弁論』第一番を弁じたのはこのときであった。彼はアテナイ市民にこう呼びかける。

あの男(フィリッポスのこと)とても神ならぬ身であります。現在の順調さがいつまでも変わらないでいるなどと考えてやる必要はありません。それどころか、アテナイ人諸君、現在ではきわめて彼に友好的であると見える者たちのなかにさえ、彼を憎み、恐れ、嫉視する者は多いのであります。そして、彼の側についている者たちのなかにも、他の者たちにあるのと同じこれらの感情のすべてが存在するものと思わねばなりません。ただ、そのすべてが、いまは逃げ場を持たないためにちぢこまっているだけであります――これも諸君の怠慢と投げやりとのせいにほかなりません。そして、そういう態度を、いますぐ捨て去るべきであるとわたくしは言いたいのであります。この弁論からは、フィリッポスの破竹の勢いにアテナイ市民が恐れをなしている様子がうかがえる。はたしてこの時点でフィリッポスがギリシア世界制圧を考えていたのかどうか疑わしいが、デモステネスは以後、つぎつぎにフィリッポスを攻撃し、アテナイ市民に奮起を促す弁論を発表する。前三四八年にはカルキディケ半島のオリュントスがフィリッボスによって徹底的に破壊され、市民たちが奴隷化された。デモステネスはこのとき、オリュントス救援の派兵を民会で提案したが、アテナイ市民は動かなかった。

その後もアテナイ国内では、アイスキネスのようにマケドニアとの共存を現実的と考える立場とデモステネスらのようにマケドニアをあくまでも敵と見る立場とのあいだの論争が続いた。前三四六年に九十歳のイソクラテスはフィリッポスへの手紙を発表し、ギリシア諸国を結集させて共通の敵ペルシアを討伐するよう進言する。自分の国アテナイにギリシアをまとめるだけの力量がもはやないと判断し、また、ギリシア諸国のあいだの対立抗争の連続に絶望したイソクラテスの進言だった。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

2023年09月14日 | 2.数学
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

下から見たロスアラモス

「下から見たロスアラモス」とは文字通り下っ端の目で見たロスアラモスという意味だ。なるほど今では僕もこの分野で少しは名を知られるようになったが、あの頃はまだペイペイの駆け出しで、マンハッタン計画の仕事を始めた頃は、まだ博士号さえ持っていなかった。ロスアラモスの想い出話をする人達は、ほとんど高い地位にあって重大な決断を下さなくてはならない立場で苦悩した人々だが、下っ端だった僕はそんな重大責任を負わされることもなく、いつも下の方でフワフワとび歩いていたのだ。

一九七五年カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校で行われた「科学と社会」サンタバーバラ年次講演シリーズ第一回からとったもの。「下から見たロスアラモス」は、Lバダッシュ他編『ロスアラモスの思い出。一九四三年~一九四五年』として出版された九回にわたる講演シリ―ズのうちの一篇である。版権所有者は一九八〇年、オランダ、ドルドレヒト市、D・ライデル出版社。

そもそもことはプリンストン大学院の研究室に始まる。ある日僕が部屋で仕事をしていると、ボブ・ウィルソンが入ってきた。実は極秘の仕事をする金が出たという。ほんとうは誰にも口外してはいけないのだが、内容さえ聞けば君だって即座に参加すべきだと思うはずだ。だからあえて説明する、と言うのだ。そしてウランのさまざまな同位体を分離して、ゆくゆくはそれで爆弾を作る計画をうちあけた。ウィルソンは、ウランの同位体の分離過程をすでに考えだしており(結局最終的に使ったのは、彼のとは異なる分離法だったが)、これを発展させたいという話をした。話しおえると彼は「それで実は会議があるんだが………」と言いかけた。

僕は彼に皆まで言わせず、そんな仕事はまっぴらだと断わった。すると彼は「まあいい。とにかく三時に会議をやるから、そこで会おう」と言う。

「君の機密は人にもらしやしないが、僕はそんな仕事はやりたくないね。」

ボブが出ていったあと僕はまた自分の論文にとりかかったが、ものの三分もしないうちにさっきの話が頭に浮かんできて、仕事が手につかなくなってしまった。僕は部屋の中を行ったり来たりしながら考えはじめた。ドイツにはヒットラーがいて、原子爆弾を開発するおそれは大いにある。しかも向うが僕らより先にそんな爆弾を作るという可能性は、考えただけで身の毛がよだつ。結局僕は三時の会議に出席することにした。そして四時をまわる頃には、早くも一部屋に据えられた僕用のデスクに向って、この同位体分離法が、イオンビームから得られる全電流量によって限定されることがあるかどうか、などの計算に熱中していた。計算内容の詳細はさておき、僕はその場でデスクと紙をもらい、その装置を作る連中がすぐさま実験にとりかかれるよう、できるだけ早く結果を出すため、計算に大わらわだったわけだ。

まるで映画のトリック撮影で見る機械が目の前でパッパッパッとみるみるできあがっていくようなもので、僕が目をあげるたびにこの計画は雪だるま式にふくれあがっていく。というのもみんながそれぞれの研究を中止して、この課題にとりくむことになったからだ。だから戦争中の科学的研究といえばこのロスアラモスで進められた研究以外は皆ストップしてしまったわけだが、ロスアラモスの研究にしたって、科学というよりむしろ工学といった方がよかった。

それまでさまざまな研究に使われていた装置は今や一ヵ所に集められ、ウランの同位体分離実験の新しい装置を作るために使われることになった。この共通目的のため僕も自分の研究をしばらくあきらめることになったわけだ。(もっともしばらくしてから六週間休暇をとって博士論文だけは書きおえたが…….。)結局ロスアラモスに行く直前、学位だけはもらったからそれほどの「下っ端」ではなかったのかもしれない。

プリンストンでのこの計画に参加してまず面白かったことは、いろいろな偉大な研究者に会えたことだろう。それまで僕はあまり大物に会う機会がなかった。マンハッタン計画が始まると、研究の進展を助け、ウランから同位体を分離する方法の最終的方針をうちだすに当って、僕たちに助言協力するため作られた評定委員会というものができた。この委員会にはコンプトン、トルマン、スミス、ユーリー、ラービ、オッペンハイマーという面々が顔を揃えていた。僕は同位体分離過程を理論的に理解している人間として、説明を求められたり質問を受けたりしたときのため、この委員会を傍聴することになっていた。

さてその会議では、誰か一人が意見を述べると、今度はちがう者(例えばコンプトン)がそれに対し異なる意向を説明する、という形で進行する。コンプトンが「これはこうあるべきだ。自分の言っていることは正しい」と言うとすると、また別な男が「うん、まあそうかもしれん。しかしそれに反するこのような可能性もあるぞ」などと言う。

こういう風にして卓を囲む連中が、てんでに一致しないような意見を述べたてる。聞いていて僕は、コンプトンがさっき言った自分の意見をもう一回繰り返して強調しないのが気になっている。ところが終りに議長のトルマンが「まあこうしてみんなの意見を聞いてみると、コンプトン君の意見が一番よさそうだから、この線でいこう」と言う。

この会議のメンバーは、皆それぞれ新しい事実を考えにいれて実にさまざまな意見を発表していながら、一方ではちゃんと他の連中の言ったことも覚えているのだ。しかも最後には一人一人の意見をもう一度繰り返してきかなくても、それをちゃんとまとめて誰の意見が一番良い、と決めることができるのである。これを目のあたりに見て僕は舌を巻いた。本当に偉い人とは、こういう連中のことを言うのに違いない。

最終的には、ウラン分離にウィルソンの方法は使わないことが決まった。このときになって僕たちは、ニューメキシコ州のロスアラモスで実際に原爆を作る計画が始まるので、今までここでやっていたことは中止し、全員ロスアラモスに集まってさっそくこの仕事にとりかかるよう指令を受けた。その現場では実験と理論的研究と二本立てで進めていく必要がある。僕はその理論的研究の方に入り、他の連中はみんな実験にまわることになった。さてロスアラモスの準備がととのうまでの間、何をすべきかがまず当面の問題だ。ボブ・ウィルソンはこの間の時間をむだにしないため、いろいろなことを計画したが、その一環として僕をシカゴに出張させた。例の爆弾とこれにまつわる諸問題について、シカゴのグループから学べることは全部学んでくるのが目的だ。そうすればさっそく僕たちの実験室で、ロスアラモスで使う装置や計数器などを作り始められるから、時間のむだがはぶけることになる。

シカゴ行きにあたり、僕は次のような指令を受けた。まずグループの研究に協力するというふれこみで、各グループに出むいては、僕自身その場で実際に仕事が始められるくらい詳しく問題を説明してもらう。そうしてそこまでいったら、また別のグループに行って別の問題を聞いてくるように、というのである。そうすればどのグループの研究についても詳しく理解できるというわけだ。

これはなかなか良い考えに違いなかったが、僕はどうも気がとがめてしかたがない。何しろみんな一所懸命にその問題を説明してくれるというのに、僕はそれをさんざん聞いておいて「はいさようなら」とばかり逃げだすのだ。だが運よく向うを助けることもできて少しは気がすんだこともあった。たとえばグループの一人が問題を説明してくれているときに、僕が「それなら積分記号の中で微分してみてはどうですか?」と言ったところ、今まで三ヶ月もかかって苦闘していた問題が三〇分ぐらいであっさり解けてしまった。例によって僕の「毛色の違った道具」が役に立ったのだ。

こうしてシカゴから帰ってきた僕は、この同位体分離によって放出されるエネルギーの量や、その爆弾のしくみの予想などについて現状報告をすることができた。この報告のあと、友人の数学者、ポール・オーラムが来て、「今に見てろ、これがあとで映画にでもなるとしたら、きっとりゅうとした背広を着こんで皮カバンか何かをさげた学者がシカゴから帰ってきて、もったいぶってプリンストンの学者の面々を前に原爆の報告をする、てなことをやるんだろうが、君ときた日にゃこの重大な画期的大計画を語ろうというのに、よれよれのワイシャツ姿で威厳もへったくれもないんだからなあ」となげいた。

計画はまた何かの理由で遅れ遅れになっていた。そこでとうとうウィルソン自らいったい何でこう渋滞しているのか調べるため、ロスアラモスに乗りこんでいった。行ってみると現場では建築業者が懸命に働いており、もう講堂など彼らの作れる建物はすでにできあがっているのに、実験室がまだだった。実験に必要なガス管や水道管の数などがはっきしていなかったため作りようがなかったのだ。ウィルソンは、すぐさまその場でガス管何本、水道管何本と決めていき、さっそく実験室の建築にとりかかるよう指示して帰ってきた。

ウィルソンが戻ってくる頃には、僕らはもうすっかり準備をすませて待ちくたびれていた。そこでもう準備なんかできていなくてもいいから、とにかくみんなでロスアラモスにおしかけようということに衆議一決した。

僕たちはオッペンハイマーその他の連中に引き抜かれたことになるのだが、オッペンハイマーは実に忍耐強い人で、僕たち一人一人の個人的問題にも深い思いやりを示してくれた。彼は結核で寝ている僕の家内のことをたいへん心配してくれて、ロスアラモスの近くに病院があるかどうかまで気を使ってくれた。僕は彼にそのような個人的立場で会ったのははじめてだったが、その親切さは身にしみた。

僕たちは何をするにも細心の注意を払って行動するようにとの指示を受けていた。たとえばプリンストンのような小さいところで、大勢の人間がニューメキシコ州のアルバカーキ行きの切符でも買おうものなら、さては何かあるらしい、とたちまち疑われることは必定だ。だからみんな汽車の切符でさえプリンストンで買わず、別の駅で買ったくらいだった。ほかの連中がよそで買うのなら、一人くらいプリンストンで買っても大事あるまいと思った僕だけは例外だったが……..。

僕がプリンストンの駅に行って「ニューメキシコのアルバカーキまで」と言ったとたん、駅員に「ああ、それではあのたくさんの荷はあなた行きだったんですか!」と言われた。もう何週間というもの、僕たちは計数器のいっぱいつまった荷箱をどんどん送り出していたのだ。だからアルバカーキに行く僕という人間があることで、やっとたくさんの荷物が送られるかっこうの理由が見つかったわけだ。

さてアルバカーキに着いてみると、寮だの家だのというものはまだ全然用意ができておらず、実験室さえまだ完全にはできあがっていなかった。実はこうしてスケジュールより早くおしかけて、作業を急がせようという魂胆だったのだ。当局は大慌てでそこいら一帯の農場の家などを借り占めたので、僕たちはしばらくの間そういう農家に泊っては朝出勤するという生活をすることになった。はじめて車で出勤した朝のことは特に印象に残っている。東海岸からやってきて、あんまりドライブなどしたことのない僕は、その雄大な光景に息をのんだ。絵や写真で見たような巨大な崖がある。下からドライブして上がってくると、いきなり高いメサ(周りが急な崖になっているテーブル状の台地―訳注)が現われて目を驚かせる。一番びっくりしたのは車で登ってくる途中、僕が「このあたりは昔インディアンが住んでいたところかも知れないな」と言ったときのことだ。運転していた男はやおら車をとめると、ちょっと角をまわったところへさっさと歩いていって、古い時代にインディアンの住んでいた洞穴を見せてくれたのである。それは忘れることのできない感動的な経験だった。

 209『世界の歴史①』

人類の起原と古代オリエント

アッシリアとフリ人の勢力-前二千年紀前半の北メソポタミア

アッシリアの黎明期

アッシリアとは何か

アッシリアは前二〇〇〇年ごろ、ティグリス川中流河岸の都市アッシュル(ニネヴェの南約一〇〇キロメートル)から興り、前六一二年まで、およそ一四〇〇年にわたって北メソポタミアを中心領域として盛衰を繰り返した国である。アッシリアには有利な立地条件があった。まずアッシュルあたりから北では、灌漑をせずに雨水だけによる農業が可能になる(年間降雨量二〇〇ミリメートル以上)。またアッシリア中心部は、肥沃な三日月地帯の真ん中にあり、常に交易の中継地でもあった。

アッシリアの歴史は、古アッシリア時代(前二千年紀前半)、中期アッシリア時代(前二千年紀後半)、新アッシリア時代(前一千年紀前半)の三つにわけられる。それぞれに歴史的にも政治的にも特徴があるが、この三区分は主として言語の発展段階に即してなされている。メソポタミアを中心に使用されたアッカド語と総称されるセム系言語は時代と地域によって少しずつ文法と字形が異なる多くの「方言」をもっていた。アッカド王朝時代には古アッカド語が用いられ、その後、アッシリアでは古アッシリア語、中期アッシリア語、新アッシリア語と発展した。南のバビロニアでもほぼ同様に、古バビロニア語、中期バビロニア語、新バビロニア語と発展した。都市アッシュル(現代のカルアト・シルカト)の発掘は一九〇三年から一三年までドイツの調査隊によって行われた。しかしいつから都市アッシュルが存在したのか、そこにどのような人びとが住んでいたのかなどについては明らかになっていない。少なくともアッカド王朝時代には、その支配下に置かれたセム系民族がアッシュルに居住していたこと、またアッシュルには、当時から女神イシュタルの神殿があったことが知られている。

一九七五年にエブラで発見された文書から、アッカド王朝時代までには、セム系民族の文化がアッカドの地だけでなく、ユ―フラテス川中流域のマリ、ティグリス川中流域のアッシュルを経て、ある程度の同質性をもってシリアにまで広がっていたことが窺える。ただし今のところエプラ文書のなかにアッシュル市への言及は確認されていない。

アッシリアの一貫性

都市アッシュルの発掘では、古アッシリア時代の層にはほとんど手がつけられなかったため、アッシリア建国当時の事情はあまりわかっていない。しかしアッシリアは当初から独特の国であったに違いない。諸民族の抗争と国々の興亡が繰り返された古代オリエント世界の真ん中で、一四〇〇年も続く長寿国が存在したこと自体、驚嘆に値する。その秘密はおそらくアッシリアの「一貫性」にあるように思われる。

アッシリアはまず第一に歴史的一貫性をもっていた。アッシリア歴代の王の名を記した文書資料(アッシリア王名表)を再構成すると、第一代から第百十七代まで連続する王名を数えあげることができる。これは決してアッシリアでは王朝が交替しなかったということではない。王位簒奪者も少なくなかった。またアッシリアの王名表にはその時々の政治的意図をもった数度の編纂作業の痕跡が残されている。いずれにしてもアッシリア王たちは、王権が古くから続いてきていることを重視して、その伝統に連なろうとしたのであろ

第二の一貫性は、神アッシュルを頂点とする国家宗教に見られる。神アッシュルは常に神々の序列の最高位を占め、バビロニアその他の神々が入ってきても神アッシュルの下に位置づけられた。

第三の、そして最も重要と思われる「アッシュル」という名の一貫性がある。アッシュルの語源は不明であるが、都市名であり、地名であり、もちろん神名でもあった。原語ではどれも「アッシュル」であるが、それぞれ「市/町」(ウル)、「土地」(キ)、「神」(ディンギル)を表す表意文字を限定詞として付けて区別した。ただし限定詞は発音されない。歴史的にも地理的にも古代オリエント世界の中心に位置しながら、また波瀾に富んだ約一四〇〇年の間、一時的に他国から圧迫されても、常に中央集権的国家にもどり、強いアイデンティティをもち続けた。それは、アッシュルが元来、土地でもあり、神でもあることによると考えられる。この第三の一貫性から、第一と第二の一貫性も生じたといえる。

アッシリア前史

アッシュルから出土した最も初期の文書として、アッカド時代のイシュタル神殿で発見された石板碑文がある。そこには「イニン・ラバの息子である施政者イティティは、ガスルの戦利品からこれ(石板)をイシュタルに奉納した」と書かれている。この施政者(ワクルム)とされるイティティがアッカド王朝の支配下にあったのか、あるいは独立性の強い支配者だったのかはわからない。しかしアッシュルの東方一〇〇キロメートルに位置する都市ガスル(後のヌジ)に攻め込んで得た戦利品の一つを奉納した事実から判断すると、後者の可能性もある。

同じくイシュタル神殿から発見された鋼の槍先には「キシュの王マニシュトゥシュの僕であるアズズ」による奉納文が刻まれている。これによって少なくともアッカド王朝のマニシュトゥシュの治世には、アズズという人物がアッシュルの統治を委任されていたことがわかる。

ウル第三王朝時代の文書としては、アマル・スエン(前二〇四六~三八年)の支配下にあったアッシュルの代官ザリクムの奉納石板に刻まれたアッカド語碑文が知られている。「ウルの王であり、四界の王であり、強壮な男であるアマル・スエンの長寿を願って、彼の僕であるアッシュルの代官(シャカナクム)ザリクムが、彼自身の長寿をも願って、その女主人であるベーラト・エカリム(イシュタルのこと)の神殿を再建した」と記されている。

このザリクムの奉納文で特に注目したいことは、彼の肩書きのなかの「アッシュル」に、神を示す限定詞ディンギル(前置)と土地を示す限定詞キ(後置)の両方が付されて、「(ディンギル)アッシュル(キ)の代官」と記されていることである。これはすでにこの時代にアッシュルの土地が神格化されていたことを暗示している。

いくつかのシュメール語の文書では、ザリクムの肩書きは「アッシュル(キ)のエンシ」とされている。エンシは小都市国家施政者の称号であったが、この時代までには、広域を支配する王(ルガル)に任命されて一都市を治める者の職名となっていた。その意味でエンシはアッカド語のシャカナクムと同意であるが、表意文字としてのエンシは、アッカド語でイシアクムと読まれた。後にアッシリア王の称号となる「アッシュルの副王」のなかでも、エンシが前十四世紀半ばまで表意文字として残る。しかしその後は別の表意文字(シド)が使われるようになる。

神アッシュルとアッシリア

都市とその神が同名であることは、メソポタミアでは他に例がなく、不可解なことであった。神アッシュルは決してシュメール語風に「ニン・アッシュル」あるいはアッカド語風に「ベル・アッシュル」(アッシュルの主)と言われたことはないのである。

現在では、神アッシュルは都市アッシュルが神格化されたことによって生まれたとする学説が有力である。しかし厳密にいえば、神アッシュルは、都市アッシュルではなく、土地アッシュルの神格化であった。後に大帝国へと拡大するアッシリアは、神アッシュルの拡大でもあることになる。神アッシュルは元来系譜をもっていなかった。すなわちメソポタミアの他の古い神々のように配偶女神や子供たちとされる神々がいなかった。これもアッシュルが聖化された場所そのものであったためであろう。しかし後には神アッシュルの系譜が形成されていった。

シュメール人の時代から、都市はその主神(守護神)の所有物とされていた。ある都市の没落は、その守護神が守護を放棄して都市を離れることによって引き起こされると信じられていた。またバビロニアでも、首都バビロンの主神マルドゥクの像は、バビロンを陥落させた勝利者たちによって何度も略奪された。しかしアッシュルに関しては、神像略奪の記録はない。もっともアッシュル神像を造ったという確かな記録は後代になってからのものである。神アッシュルがアッシュルという土地と同一であるとすれば、神アッシュルはつれ去られることがない。いくら王朝が交替しようが、その場所がアッシュルである限り、アッシリア(アッシュル・キ)は続くのである。これがアッシリアが長寿を保った最大の根拠ではないだろうか。

古アッシリア時代

アッシリアの独立

古アッシリア時代についてのより多くの情報は、都市アッシュルよりも、中央アナトリアのカニシュのカールムⅡ層(前二十世紀中ごろから前十九世紀中ごろ。第三十三代エリシュム一世から第三十六代のプズル・アッシュル二世の時代にあたる)と、後のシャムシ・アダド一世(前一八一三~一七八一年)とほぼ同時代に始まる1層から出土した文書によって得ることができる(二四七ページ参照)。文書の多くはアッシリア本国とアナトリアの間で交易に従事していたアッシリア商人の活動を示すものであるが、アッシリア史に関する重要な情報も含まれている。

アッシリアはウル第三王朝が滅亡したことによって、その支配から解放されて独立したと考えられるが、その実在した最初期の王の一人がツィルル(アッシリア王名表ではスリリと記され、第二十七代王とされる)であった。

ツィルルの名は、カニシュで出土した九つの文書(アッシュルからカニシュに送られた書簡)に押されたツィルルの印章の銘文に見られる。もっともこの印章を使用したのは、アシリア王ツィルルよりも一〇〇年ほど後のツィルル(ウクの息子)という同名の別人である。当時のアッシリアでは印章はしばしば再利用されたのである

その銘文は「アッシュル(キ)は王、ツィルルはアッシュル(キ)の副王(イシアクム)、アッシュル市の伝令であるダキキの息子、……」」と読める。ここで「アッシュル(キ)は王」と宣言されていることは注目に値する。これはもちろんアッカド王朝やウル第三王朝の支配を脱したことを示すが、それ以上に重要なことは、土地アッシュルが王であり、そこで政治を行う者は、土地アッシュルに任命された副王もしくは代官という考えである。ここでは王と副王を示す表意文字として、それぞれシュメール語のルガルとエンシが使われている。シュメールの政治機構のなかで用いられたルガルとエンシの称号を借りてきてはいるものの、アッシリアでは土地アッシュルを王と宣言していることに、今後のアッシリア史を貫く理念の萌芽を見てとることができる。

またこの銘文から、ツィルルの父親ダキキがアッシュル市(ウル・アッシュル・キ)の「伝令」という役職にあったことがわかる。ここでも土地アッシュル(アッシリア)とアッシュル市は区別されていた。都市名も地名であるのでしばしば限定詞キも付される。またダキキの名は王名表にはない。

第三十三代のエリシュム一世の治世になると、碑文もアッシリア王のものとしては初めて一七点という多数になる。これらの碑文では、称号「アッシュルの副王」のアッシュルには、限定詞が省略されたもの、限定詞ディンギル(神)が付されたもの、限定詞キ(土地)が付されたものの三様があり、一定していない。たとえばカニシュ出土のエリシュム一世の碑文では、「(ディンギル)アッシュルは王である。エリシュムはアッシュル(限定詞なし)の副王である」と書かれている。アッシュルの限定詞についてはこの時期が過渡期であり、これ以後は、神アッシュルも、王の称号のなかのアッシュル(本来「土地アッシュル」も、ディンギル付き、もしくは限定詞なしで書かれることが一般的になってゆく。第三十四代イクヌムを継いでその息子サルゴン一世が第三十五代アッシリア王となった。「サルゴン」はアッカド語では「シャル(ム)キン」であり、「確固たる王」という意味を持つ。だからといってこの名をもつ王が必ずしも王位簒奪者であるとは限らない。この名はいずれにしても即位名である。「サルゴン」と表記されるのは、後の新アッシリア時代に出現したサルゴン二世(前七二一~七〇五年)が旧約聖書のなかで「サルゴン」(「イザヤ書」二十章一節)として言及されるからである。ちなみにアッカド王朝のサルゴンとアシリアのサルゴン一世が混同されてはならない。

シャムシ・アダド一世

古アッシリアに大きな変化をもたらしたのは、第三十九代アッシリア王となったシャムシ・アダド一世(前一八一三~一七八一年)である。彼の一族はハムラビ(前一七九二~五〇年)の一族と同様に、ウル第三王朝滅亡後にメソポタミアに広がったアモリ系民族の一つであった。シャムシ・アダド一世の父イラ・カブカブは、同じくアモリ系のマリ王国に接する小国を治めていた。しかし息子のほうが目覚ましい戦績をおさめた。彼はティグリス川左岸の要塞都市エカラトゥムを占領し、さらに、そのころ弱体化していたアッシリアに攻め込み、第三十八代エリシュム二世から難無く王位を奪うことに成功した。

ここでシャムシ・アダド一世はアッシリアに新王朝を打ち立てることもできたはずである。しかし彼は自分を由緒正しいアッシリア王として位置づける道を選んだ。現在知られているアッシリア王名表に対してなされた数度の編纂作業のなかで、最初のものはシャムシ・アダド一世によると考えられる。彼は実の父イラ・カブカブを自分よりはるか以前の第二十五代アッシリア王として組み入れ、それ以前の王たちとして彼の先祖たちの名を連ねたのである。そして王名表の最初には、テントに居住していたという一七人の王の名を記したが、そのなかには、アモリ系の部族名にちなんで創作されたものも含まれているようである。

アッシリア王となったシャムシ・アダド一世は領土を西へ広げていった。マリでは王ヤハドゥン・リムが家臣の一人に暗殺され、王位継承者のジムリ・リムはアレッポに亡命していた。これを好機とみて進軍したシャムシ・アダド一世はマリを併合することに成功した。マリの勢力はユーフラテス川中流域全体に及んでいたため、この併合は大きな収穫であった。

ザグロス山地からユーフラテス川に至る北メソポタミア全域を掌中に収めたシャムシ・アダド一世は、支配権を二人の息子とわけることにした。兄のイシュメ・ダガンをエカラトゥムの王として、エシュヌンナをはじめとする外敵に対する備えをさせた。そして弟のヤスマハ・アッドゥをマリの王として、シリアからの遊牧民の侵入を防ぐことに尽力させた。シャムシ・アダド一世自身はアッシリアの中央、特にシュバト・エンリル(テル・レイラン)で国全体の統治を行った。彼はアッシリア初の強大な君主であり、三〇年以上に及ぶ治世のなかで、アッシュル、マリ、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどの諸都市を支配下にもつ大国を築いた。

シャムシ・アダド一世によって、アッシリアに西と南の文化が持ち込まれ、多くの変化が引き起こされた。たとえば王の称号として、しばしば「(ディンギル)エンリルの代官」が「(ディンギル)アッシュルの副王」の前に付くようになり、またまれには「世界の王」という称号も用いられた。

しかし彼の没後はしばらくの間内政の混乱が続き、その後に再びアッシリア人が王位に就くようになった。そして領土は大幅に縮小し、王の称号も「アッシュルの副王」にもどった。

市民会とリンム制度

アッシュル市では、「アールム」すなわち「市」という語が市民会をも意味し、重要な事柄はそこで審議され、決定された。その決定はアナトリアのアッシリア商人たちにも伝えられた。

アッシリアのもうひとつの重要な制度はリンムであった。アッシリアでは毎年、おそらくアッシュル市の有力者たちのなかから、リンム職に就く役人が選ばれた。その人は、市民会の議長を務めたのかもしれない。市民会は「市の館」(別名「リンムの館」)と称される市役所のようなところで開催された。またそこはリンム職の執務の場所でもあったのだろう。中期アッシリア時代以降の慣例とは違い、古アッシリア時代には王がリンム職に就くことはなかった。少なくともシャムシ・アダド一世以前の時代には、市民会の力が強く、王の権力は制限されたものであった。

アッシリアでは、年代を表すには、その年のリンム役人の名が用いられた。たとえば文書の日付として「何月何日、某のリンム」と記載されたのである。リンム制度はしだいに形骸化され、市民会も力を失ったが、毎年リンム役人が選ばれて、その名によって年が表記されることはアッシリアが滅亡するまで続いた。

古アッシリア時代の印章(印影)として「神アッシュルのもの、市の館のもの」という銘文をもつものがある(この印章は一三〇〇年ほど後になって、新アッシリア時代のエサルハドンによって、誓約文書の調印に用いられたことで知られることになる)。この銘文から、神アッシュルと市役所は印章を共有していたことがわかる。この印章図像として、礼拝者ととりなしをする女神はあるが、礼拝される神の像があるはずの部分が空白になっている。それは、神アッシュルが土地の神格化であるために、その図像表現がまだ確定していなかったためであろう。

 奥さんへの買い物依頼
卵パック   148
お茶       148
海鮮ちらし  378
シャウエッセン     358
もも肉     298
野菜生活ぶどう     78
塩辛       258
海老フライ  299
中華まん   269
ピザ       219
食パン8枚  128

 2.4.4 部分に全体がある:個と超で全体を挟む数学
超から見れば全体は個になる
個は超から全体を把握する
個から作られる全体に意味がある
分化・統合で再編成させる
・全体を超えるもので全体は部分になる
・全体は分化・統合する
・全体を超えるものを想定する
・超の存在で全体は安定する
・個と超で全体を挟み込む
・超は個に隠されている

 2.5.2 個が目的をもつ:個の目的を達成するのが全体の目的
組織ピラミッドは個の目的で逆転する
個の目的を生かした組織の目的
個の目的は全体を超える
存在の意識は覚醒が前提となる
・個の目的を軸に社会構造を逆転させる
・個の有限から持続可能な社会につくる
・個の覚醒を引き出す条件
・個の目的の達成を目指す社会
・超の存在が絶対を作り出す

 2.6.2 個に目的:個の目的で空間を超える
個の目的として夢を設定する
夢を聞き、叶える役割を外す
存在を目的に入れ込む
個の未来を描く
・内なる世界を持つことで自由を得る
・社会の分化と統合が可能になる
・個の目的で空間を超えて覚醒する
・夢はないものは夢があるものを支援する
・目的達成は逆ピラミッドをなす
・上に行くほど広がる空間
・最上位が超の空間
・空間に目的を持たせる
・個の目的達成が組織の目的
・超の支援で目的を達成する

池田晶子『人間自身考えることに終わりなく』

2023年09月04日 | 2.数学
生死は平等である

私には、本質的にしかものが考えられないという、どうしようもない癖がある。いか なる現実であれ、その現象における本質、これを捉えないことには気がすま る。これはもう若い頃からの癖なので、今や完全に病膏盲に入る。
一方で、世間とは、言ってみれば現象そのものである。 ャーナリズム、ある 多数の人のものの感じ方、現象を現象のままに受け取り、そのまま次の現象へ流されて ゆくといったていのものである。 平たく言うと、ものを考えるということをしない。 「考える」とは、現象における本質を捉えるということ以外でないから、ほとんどの人 は本質の何であるか、おそらく一生涯知らないのである。
ところで、本質的にしか考えられない私が、現象そのもののような週刊誌上で連載 を始めて三年になる。 本質的なことしか書きたくないから、 本質的なことしか書いてな い。その間、現象との距離を、反応を見ながら測りつつ、気がついたことがある。
「世間」 すなわち人間社会の現象の本質は、煎じ詰めればひとつだが、あえていくつか に分けてみることはできる。 それが「言葉」「自分」 「生死」といったものである。 私 はこれらを、その都度の出来事の本質はこれだぞという形で、何度も扱った。
「言葉」、この話題は、すんなり通じるか、全く通じていないか、どちらかのような感 じがする。 言葉は大事なものだという感性のある人なら同意するだろうし、そうでない 人には、そんなことはどうでもいい。
「自分」、この話題は、たぶんほとんど通じていない。本質問題のうちでは、これの唐 突さはダントツなので、たぶん何を言っているのかさっぱりわからないのではなかろう か。
「生死」、そして、この話題が、どうも一番厄介だということに私は気がついた。これ が大事な問題だということは、たぶん誰にも通じている。だからこそ、通じていない。 そういう感じである。完全に抽象的に述べたものではなく、具体的な医療や闘病に言及 して述べた際、 明らかな抵抗や反発が返ってくることがある。
要するに、人が死ぬという大事な問題なのに何だというものである。 生死事大。大事 な問題は決まっている。だから私は繰返し、生死こそが人間の最も本質的な問題だ、だ からこれを考えろと言っている。そして、まさにここが通じていないのだ。
多くの人は、生死を現象でしか捉えていない。死に方のあれこれをもって死だと思い、 本意だ不本意だ、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかしいかなる死に方であれ、 「死に 方」は死ではない。 現象は本質ではない。 本質とは、「死」そのもの、これの何である か。これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらできないではないか。
この当たり前が、とくにきょうびは通じない。 通じないのは、認め ないからであ る。生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いだと思っている。自然を忘却したか らである。そんなところへ、「人が死ぬのは当たり前だ」。これが不真面目に聞こえる のは、断じて私のせいではない。
生死の本質など、幼い子でも、勘がよければ直観している。年齢も経験も現在の状況 も関係ない。生死することにおいて、 人は完全に平等である。すなわち、生きている者 は必ず死ぬ。
癌だから死ぬのではない。 生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の 条件であっても、死の原因ではない。 すべての人間の死因は、生まれたことである。ど こか違いますかね。
「医者の口からは死んでも言えない」とは、医者をやっている友人の嘆きである。 物書きだから、「不真面目だ」ですむ。医者が言ったら訴訟ものだと。
最も大事なことについての、最も当たり前なことを、当たり前に言えない。イヤな時代だと思う。 「言葉」「自分」「生死」 と、 あえて三つに分けてみたが、もとはひとつで ある。ひとつの真理の違う側面である。自ら考え、納得する人生でなけりゃ、しょうが ないでしょうが。
(平成十八年九月七日号)

奇跡のほんとう

前回の続き。

生命は素晴らしい、生きていることは奇跡的だと礼讃するなら、死ぬことだって、 じく奇跡的なことのはずである。 どうして生きていることばかりを奇跡と言って、死ぬ ことの方を奇跡だとは言わないのか。

「生命の神秘」と、口では言うが、本当の神秘を感じているのではないからである。 そ ういう場合の生命礼讃の本意は、たんに、 生きていればいいことがある。 いろいろ楽し いことができるからといった類のものである。だから、楽しいことができなくなると、 「生きていてもしょうがない」 と、こう簡単に裏返る。 それでどうして生命の神秘なの だろうか。

以前、子供が事故か殺人かで亡くなった小学校の先生が、「生きていればいいことが あったのに」と、子供たちに話していた。こういう教育はよくない。生きていれば悪いこともあるじゃないかと反論されたら、どう答えるつもりだろう。

子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。 「なぜ」それが尊いのかを実感 していないからである。 尊いと実感できるのは、それが神秘なものだと気がつくことに よってでしかない。これは自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。こう 気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持になるのである。 畏怖の感覚と 神秘の感覚はきわめて近い。

大人が忘れているのだから仕方ない。 「生命」と言えば、生の側、そのあれこれのこ としか思わない。権利意識としての生命尊重である。 そうでなければ、科学主義が喧伝 する仕方での「生命の神秘」である。精子と卵子が結合する確率は何十億分の一である。 これは奇跡的な確率である。私の存在は奇跡的である。 あなたも私もかけがえのない存 在であるという、あのノリである。

しかし、いかに奇跡的な確率であれ、確率であるということは、可能であるというこ とだ。可能なことは、可能なのだから、奇跡的なことではない。確率は奇跡ではあり得 ないのだ。

本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところに ある。なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。その生命体であるところのこの自分は、どのようにして存 在したのか。

これはどう考えても理解できない。なぜこんなものが存在しているのかわからない。 だから、奇跡なのだ。 なぜ存在するのかわからないものが存在するから奇跡なのだ。 な ぜ存在しているのかわかるのなら、どうしてそれが奇跡であり得よう。存在するという このこと自体は、人間の理解を超えている。

だからこそ、存在する生命は奇跡であり神秘であると、正当に言うことができるのだ。 生きることが奇跡なら、死ぬことだって奇跡である。 花が散るのが無常なら、花が咲く のも無常である。 無常だ、はかないという嘆きではない。 何が起こっているのかという 驚きである。なぜ存在するのかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生 きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。 生き たり死んだりしているとは、(何が)何をしていることなのか。

とまあこんなふうに、「奇跡」 の意味を正確に追ってゆくと、とんでもないところに 出られる。 いやでも出てしまうのである。 人生というものを、生まれてから死ぬまでの 一定の期間と限定し、 しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人 である。これはあまりに貧しい。自分の人生だと思うから、不自由になる である。

しかし人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、 これは全て他力によるものである。 さっき自分しか存在しないと言ったのと逆のように聞こえるかもしれないが、逆では ない。いや逆かもしれないが、どっちでもいい。 本当の神秘、本当の奇跡を感じている なら、理屈の前後はどっちだっていいのである。

(平成十八年九月十四日号)

ご苦労さまでした

先月、父親が亡くなった。

前立腺癌の再発で予後が悪く、長い闘病生活を送っていたのだが、結局最後は心不全 による脳梗塞で、意識がなくなってから三日で逝った。現代の三大死因を勲章に、見事 な闘士ぶりだった。

最初から、そんな見事な闘病の士だったわけではない。闘病、それも長い闘病生活と いうのは、人を芯から疲れさせる。 肉体が疲れるだけではない。 肉体が疲れるのと同じ ぶんだけ、心の方も疲れる。むしろそのことの方が疲れるのだ。まして、治癒の見込み がないことはわかっている。まるで闘病するために生きてるみたいじゃないか。 こんな 生活に何の意味がある。

そう思い始めるのは当然である。彼が闘病生活に入ったのは六十九という「妙齢」で もあった。日常の起居も次第に不自由になり、治療でこのままだらだらと生き延びたところで、それはもとの寿命が尽きるのと、おそらくは同じことである。私は直には聞か

なかったが、母には時々愚痴をこぼしていたらしい。

辛いなあ。 他人事ながら、そう思う。しかし治療すれば、その都度それなりの効果は あるのだから、これを拒否する積極的な理由もない。現世に執着するタイプの人ではな かったから、かえって死ぬにも死ねないという状況が九年近く続くことになった。 この 心的ジレンマをじりじりと生き延びてゆく時間というのは、たいそう辛いものではない か。

しかし、

「死ぬのがこんな大変なことだとは思わなかったよ」

何度目かの入院で、そう言って笑うのを見た時、ああ少しふっ切れ なと感じた。 お迎えを待つと言ったって、「待つ」というのは文字通り待つことなんだから、いつに なるのかわからない。死ぬのは自力を超えている。人はそれまでは待つしかないのであ る。なりゆきにまかせて生きるしかないのである。

そういう言わば「おまかせモード」に入ってしまうというのは、じつは一つの知恵である。諦観もしくは達観と言ってもいいが、その都度のあれこれに一喜一憂しない平常 心は、なげやりとは違う。死ぬのを待つということと、明るく生きるということは、矛盾しないのである。 進行する病状に合わせて治療も複雑化していったけれども、文句も 言わずに淡々とそれらをこなすようになっていった。闘病は人を疲れさせる一方、それ は人をつくるとも確かに言えるのである

趣味らしい趣味を持たなかった父は、私の仕事の追っかけに最後の生きがいを見出し ていたらしい。それが私には多少うっとうしくはあったが、生きがいなんだからしょうがない。病床で母に週刊誌を買って来い、新刊を買って来いと注文し、本を手にしては 悦に入っていたようだ。

それが、心不全の発作で倒れてからは、本を読む気力もなくなった。 お見舞に行くと、 いつも、眼鏡をかけたまままっすぐ天井を見つめている。 声をかけると、「おー来たか」 と喜ぶのだが、何を考えていたのだか。リハビリすればまだ歩ける段階なんだから、が んばってよ。と励ますのだが、「しかし歩けるようになってもなあ」。 看護に疲れてき た母を気遣っているのである。「お母さんを責めるなよ」。

ああ辛いなあ、お父さん。思わずそう言ったら、 あははと笑って頷いた。 私は彼の真 意が把めなくなった。ひょっとしたら、本人にも「真意」などなくなっていたのかもし れない。ほとんど老師の風格である。

このまま寝たきりになって、お迎えもずっと来なかったら、もっと辛いでしょ。

だからここはまずリハビリをして、私の仕事をもっと見ててよ。

「よし、そうするか」 じじつ彼は一週間後、歩行器で歩けるまで回復した。 が、 脳梗 塞で再び倒れた。 動く方の手を握ると、ぎゅっと握り返してくる。 お父さん、まだ治療 してみる? 尋ねると、その手は躊躇を示した。 わからないよね、こんな難しいこと。 わかってるよ、お父さん。

最後まで優しく明晰な人だった。現代版大往生のひとつの形だと思う。

(平成十八年十二月十四日号)

銀河も我も

八十八億光年向こうの宇宙で、銀河の大集団が続々と生まれていることが判明したと、 新聞に出ていた。もくもくと湧き立ち輝く銀河と星雲の写真も一緒に出ていた。なんで も、太陽と同じくらいの恒星は、もう何千個も確認できるということだ。

宇宙と宇宙論好きの私にとって、このようなニュースは、おっと目を引くものである。 しかし、この記事の周囲の記事はと言えば、言うまでもなく景気と談合である。銀河誕 生のニュースと、景気と談合のニュースとが、新聞紙面では「同一次元」に並んでしま うということに、今さらながら意表を衝かれる感じがする。

「変じゃないか」と感じる人は、どれくらいいるものだろうか。 銀河の誕生と景気の話 とは、情報として「同じ」情報だと、普通は思うのだろうか。

普通はそう思っているはずである。 百五十億年前のビッグバンにより宇宙は誕生し、 以来、膨張しながら進化を続け、それが 「我々の銀河を生み、次に「我々の」 太陽系を生み、やがて地球の誕生、生命、人類、そしてかく存在する「我々」と、そういう 我々中心の進化論的宇宙論を、現代人のほとんどは信じ込んでいるからである。宇宙は 「我々」に向かって進化してきた、人は無意識にそう思っている。

だから、宇宙の誕生と地上の景気とは、タイムスパンこそ違うものであれ、質的に違 うことではない。出来事としてそこに質的な断絶はないのである。ビッグバンで宇宙が 誕生したその結果が、この地上で我々があれこれのことをするということなのである。 しかし、それは本当にそうなのだろうか。百五十億年前のビッグバンにより存在した 宇宙が、我々を生み出したのだろうか。

ここで、あっと気がついてみたいのは、ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み 出したというのは、それ自体が「考え」であるということである。いやそれは考えでは なくて科学的物証であるという人もいるだろう。しかし、それらの科学的物証を、ひと つの考えとして考える以外、我々は考えようがないはずである。すべての事象は、「考 えられて」、存在する。ここに、「ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み出した と考える我々を、ビッグバンにより存在した宇宙は生み出した」という、科学的物証を 超越する認識の入れ子構造が出現する。 考える限り、誰も考えの外には出られないのだ から、「宇宙」と「我々」とは、じつは同じものだったと気づくのである。当然のこと、この「我々」は、物理的のものではない。時間的存在者ではないことになる。

時間的存在者としての「我々」と、時間的存在者ではない「我々」との間には、決定的な断絶が存在する。一方は死ぬし、一方は死なないからである。時間的存在者ではな い我々は、ビッグバ の果てに出現したものではない。こんなものがどうして存在して いるのかわからない。存在するということは謎であると、いつも私の言うところである。 ビッグ ンの果てに自分は出現したと思って人生を生きている人にとっては、景気や 談合のニュースと銀河誕生のニュースとは同じものである。どれも自分の人生に起こる あれこれのことだと思っているのである。しかし、「自分の人生」だなんて、あな その「自分の人生」が存在するところのこの宇宙が、かくもわけのわからないものであ るというのに、どうして景気と談合なんですかね。

私には、あれらの宇宙や宇宙論の記事は、この地上にボコッと開いた異次元への穴ぼ こみたいに見える。穴ぼこの向こうは、底が抜けている。記事を読んでいる私の目もま た、底が抜けているはずである。

「宇宙の側から見てみれば」、地上の出来事は小さく見える、というのではない。 物理 的宇宙に比べて物理的人間が小さいのではないのである。 地上的な苦しみは、当人にと っては宇宙大に大きい。だからそうではな して、すべて謎であると知ることはひとつの救いであり得るということである。 お正月明け、半分妄想みたいな宇宙論でした。

(平成十九年一月十八日号)

 数学と同様に 論理が自然に湧き上がるのを待ちましょう
 意図的ずる
 1.8.1 未唯宇宙:全てとは核から端まで知ること
心はどこにある という問いに対して 自分の中と宇宙の端にあると応えたことがある
やっと 全ての解釈でそれを回収できた
 1.8.2 無を知る:存在ゆえに無がある
無を知るために生まれてきた
存在ゆえの無に気づいた
無から存在を見ている
無しかないと知る
 はからずしも スターリン 毛沢東 マスードが読書家であったことの意味 読者は戦略を生む 戦術は生まない
 せーらはいなくなった スタバのリクエストネームはセーラのまま # 早川聖来
 組織から個に主体が移ることは無限から有限の世界に入り込む そういうから共有 資本主義は持ちこたえるか
 2.1.3 空間をつくる:点から空間を作るリーマン面
全体は点の揺らぎから作られる
点は不変から生まれる
不変は超から与えられる
不変とは社会の常識みたいなもの
 やはりいなくなった 去年とは異なり 写真集を残して見事にいなくなった #早川聖来
 2.2.1 トポロジー:点から近傍 そして全体
個から近傍、そして全体を規定
同じようなもので近傍は設定される
異質なものは特異点として別空間
位相を社会に展開する役割をもつ
・トポロジーは点ありき
・近傍に位相をつくり、空間に拡げていく
・エネルギーがあって全体を作り出す
・個々の点のエネルギーは膨大
・その点が集まった位相空間
・トポロジーを習っていて 正解です

 2.3.3 位相構造:位相で部分が全体へ伝播
基本空間を経由したつながり
部分からパスで全体をつくる
特異点は避けられた構成
基本空間で位相を保証
コンパクト性に境界は不要
・点から基本空間を経由して全体をカバーする
・全ての点が主役になることで境がなくなる
・位相は点から全体を作るものの総称
・組織の全体ありきとは逆の発想
・伝播は内部発火で行われる
・7世紀のイスラムの伝播速度

スーパームーン

2023年09月01日 | 2.数学
スーパームーン

『世界哲学史7』―近代自由と歴史的発展

代数方程式論からガロア理論へ

+ラグランジュからガウス、 アーベルを経てガロアへ

ラグランジュ(一七三六~一八一三)以前に、四次以下の 下の代数方程式の代数的な一般解、すなわち加減乗除と冪根によって表現される解の公式は見つかっていたが、五次以上の代 数方程式については見つかっていなかった。 ラグランジュも同様に五次以上の代数方程式の代 数的な一般解を見つけることに成功しなかったが、彼は、四次以下の方程式の解法を分析し、 なぜ五次以上の方程式でそれがうまくいかないかを考えた。その結果、解の入れ替えによる対称性に方程式の解法の本質があることを見抜いた。ラグランジュの代数方程式の理論は『方程式の代数的解法についての省察』 (一七七〇) という著作の中で展開されている。

この著作の第一のプロセスでは、与えられた代数方程式から出発して、その解を探そうとす るのに対し、第二のプロセスでは、与えられた解から出発してその解を持つような代数方程式 を探す。第三のプロセスでは、解の入れ替えによる対称性を探究することによって、 代数方程式の代数的な一般解が求められる仕組みを顕わにする。すなわち、第一、第二のプロセスにお いて、 代数方程式という対象が扱われているのに対し、第三のプロセスでは、それが捨象され、 解の入れ替えという操作による対称性自身を主題化する方向に向かうのである。

代数方式の代数的な一般解が探される中で、n次代数方程式は重複を含めてn個の解を複素数の中に持つことがガウスによって証明された。 C・F・ ガウス(一七七七~一八五五)は著書『アリトメチカ研究』 (一八〇一年) において、数論や代数学の問題について、幾何学(作図に基づく構成的な幾何学)によって証明を与える。そして、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことが、ガウスの平方剰余相互法則や定規とコンパスによる作図可能問題とも関わる円分方程式論に発想を得ながら、アーベル、続いてガロアによって証明された。

N・H アーベル(一八〇二~一八二九)は、ガウス、 ヤコビ(一八〇四~一八五一)と共に一九世紀を通して数学的発見の大きな源泉となっていく楕円関数論に大きな業績を残した数学者である。楕円関数とは、楕円や双曲線、レムニス ト(二点からの距離の積が一定の曲線の特別な場合)の 弧長の計算に由来する楕円積分の逆関数である。 アーベルは、この楕円関数を代数方程式論と結びつけながら、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことを証明したのである。次いで、ガロアは、ラグランジュによる解の入れ替えによる対称性を明確にしながら五次以 上の代数方程式が代数的な一般解を持たないことを証明した。ガロアはえによって変わらない、今日〈体〉と呼ばれる加減乗除の四則演算で閉じた数の体系を顕わにすることで、代数方程式の代数的な可解性についての問題を解決に導くのである。解の入れ替えによる対称性の分解の仕方と、元々の代数方程式の係数の生成する数の体系に冪根を添加することによって生み出される数の生成する数の体系との間に正確な対応関係があることをガロアは示した。入れ替えの操作の分解の列と、その操作によって不変になる冪根の添加による数の体系の拡大 の列の間には包含関係を逆にして正確な対応関係があるのである。四つ以下のものの入れ替えの操作はある単純な規則性をもって分解されるが、五つ以上の入れ替えの操作にはそのような 分解は存在しない。そのことをもってガロアは五次以上の代数方程式には、代数的な一般解が 存在しないことを示したのである。

ガロア理論が成立するまでの方法的変遷

代数方程式の冪根を用いた一般解の探究についてのラグランジュ以前の方法からラグランジ の方法への移行と、カント哲学からフィヒテ哲学への移行との間には一種の類似性が見出せ る。ラグランジュもフィヒテも、カントのように対象の構成の可能性を経験の可能性と同一視 しない。ラグランジュは数学の方法を、フィヒテは哲学の方法を感性から、さらにそれらを対 象からも解放する方向へと向かう。すなわち、二人とも、存在と対象を純粋に知性において主題化するだけでなく、形式と操作を主題化する構造的方法へと向かっていくのである。

上述したガウスの幾何学的直観に依存する数学的方法を、ガロアは純粋に代数学的なものに 転換させながら、代数方程式の可解性についての問題を解く。ガロアの仕事の重要性は、代数方程式の可解性は解の入れ替えの対称性の問題に帰着され、代数方程式そのものは忘れてもよいことを示したことである。この入れ替えの操作そのものは数学的対象として主題化され、乗 法と単位元に対する逆元で閉じた〈群〉として捉えられることになる。また、加減乗除の四則演算を満たす数の体系は後にデデキントによって 〈体〉と名付けられることになるが、ガロアは、出発点となる体(基礎体)に冪根を添加して拡大された体(拡大体)を構成する方法を導入 する。

4  ガロア理論と群論の、関数論や幾何学、微分方程式論への拡がり

リーマン面の導入

一九世紀半ばまで、解析関数論は大きく発展していたが、複素関数(複素数を変数とする関数で、 一般には関数値も複素数)の良い性質〈解析性〉をいかに正確に定義するのか、関数の多価性をいかに扱うべきかということなど大きな問題があった。B・リーマン(一八二六~一八六六)は、 学位論文「複素一変数関数の一般論に対する基礎」(一八五一年)において、まず複素平面(複素 数を実数の軸と虚数の軸からなる二次元の平面ととらえる描像) のどの方向から近づけても同じ微分係数をとる複素関数を解析関数と定義し、このような関数は今日コーシー=リーマンの方程式と呼ばれる方程式を満たすことを示した。

この解析性についての条件の下、リーマンは多価の複素関数を、後にリーマン面と呼ばれる 幾何学的描像を用いて、一個の解析関数にすることを考える。リーマン面について本質的なことは、複素数上の多価関数であるということを、複素平面が複数枚重なり合っていることと解釈するということである。複素平面上の変数z点をα(通常は関数値がゼロになる点)の周りで連 続的に回転移動させた際、同じ変数値に戻るごとに関数は異なる値をとるような場合、変数zが一回転するごとに別の複素平面に移っていくと解釈するのである。このような点を分岐点αと呼び、すべての分岐点の周りで同様なことを考える。このような解釈を基にして、変数の定義域のある一次元複素空間と関数の値域のある一次元複素空間から成る二次元の複素空間すな わち四次元の実空間に埋め込まれた二次元の実曲面を構成する。このような関数の幾何学的描像がリーマン面であり、多価関数は一個の関数として理解されるようになる。

このリーマン面の中でもっとも単純なものの一つが、すべての分岐点の周りにおいて、 平方根の因子を持つ二価の関数についてのものである。その中で、 平方因子を含まない一次、また は二次の多項式の平方根を取った二価の関数のリーマン面は球面になる。 また、平方因子を含 まない三次、または四次の多項式の平方根をとった関数のリーマン面を楕円曲線と呼ぶ。 楕円 曲線は穴が一つ(種数一)のトーラス面(ドーナツ状の形の表面)となる。 そして、楕円積分は、 この楕円曲線すなわちトーラス面上の経路に沿った積分となる。 この見方が、それまでの楕円 積分の捉え方を大きく変えていくことになる。

しかし、K・ワイエルシュトラス (一八一五~一八九七) のような厳密性を数学の基礎に据え ようとする数学者は、リーマンの用いる〈面〉といった曖昧な概念は数学において用いるべき でないと考える。 そして、彼は、楕円積分の逆関数と等価である (ペー) 関数と呼ばれる無 限級数を用いて楕円積分の理論を展開していく。 そして、後に、様々な関数と群論の関係がリ ―マン面という概念を通じて明らかにされていく。

リーマン面の〈面〉とは何か。ガウスによる複素平面や三次元実空間内の曲面幾何学につい ては、二次元ないし三次元の物理的空間とのアナロジーの下、感覚表象的に視覚化可能である。しかし、何重にも重なり合った複素平面、ないし四次元の実空間(複素二次元)に埋め込まれた 二次元の面としてのリーマン面は、三次元の実空間の中において厳密な意味では視覚化不可能 である。このような理由から、リーマン面の〈面〉という幾何学的対象を、数学的対象として基礎づけることの必要性にリーマンは迫られることになる。そのような文脈の中で、リーマン は曲面幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より大きくなる幾何学)や双曲幾何学(三角形の角度の和が 一八〇度より小さくなる幾何学)といった非ユークリ ッド幾何学を一般化する微分幾何学を構築し 始める「幾何学の基礎をなす仮説について」 (一八五四年)というタイトルの教授資格取得講演 の冒頭で、空間概念の基礎づけのために、現代の集合や位相に繋がる〈多様体〉の概念 (現代数学の多様体の概念とは異なる)を導入する。

+デデキントによる代数関数論と代数学の抽象化

代数関数とは、多項式関数を係数に持つ代数方程式の根として定義できる関数であり、楕円関数もそれに含まれるが、リーマンの弟子であるJ・W・R・デデキント(一八三一~一九一六) も、リーマン面による代数関数へのアプローチに満足しなかった。一方、一八七〇年代頃から ガロア理論が数学界で受容され始める。 デデキントは〈体〉という概念を導入しながら、ガロア理論にとって本質的な考え方、すなわち、〈体〉とは、有理数のように加減乗除の四則演算 で閉じた系であるが、ある体(基礎体)について、それ自身に含まれない元を添加することで 拡大体を生成することができるという考え方を表現した。 そして、このような体の拡大(ガロ ア拡大)に対応して、それを固定する群(ガロア群) が存在するとしたのである。

有理数と整数の概念が拡大され、数の集合が構成され、次第に大きくなっていく。ガロアが その理論を構築する中で導入したように、代数体(代数的数)とは、整数を係数とする代数方 程式の解として表せる複素数のことであり、その代数方程式の最高次の係数が一の場合に、そ れを代数的整数と言う。これらはそれぞれ、通常の有理数と整数の概念を拡大したものである。 デデキントとH・ウェーバー (一八四二~一九一三) は、 それをさらに拡張して代数関数体の理 論を、有理数体の拡大体である代数体の理論との類似性に導かれながら構築した。このように して、デデキントは代数関数論を代数的数論に導かれながら構築していくが、それを通して、 代数学は、任意の対象の集合上に定義された代数的な構造の科学へと変容していく。関数の集 合の生成する体系は、数の集合の生成する体系の拡張として理解されるようになる。 別の見方 をすると、代数関数論の中で、数概念が拡大されたともいえる。 そして、これらのことが大き な動機となって、デデキントは実数の基礎づけ、自然数の基礎づけ、さらに集合論の構築に向 かっていくことになる。

リーマン面は、類比的な意味にしかすぎないかもしれないが、関数の振る舞いを「目に見え る」ようにした。リーマンに続いて、ワイエルシュトラスが解析的な方法で、続いてデデキン トが代数的な方法でリーマン面を再構成した。 それによって、リーマン面に内在する構造が顕 わになった。ここで、構造とは、関数的対応関係に純化された同型性によってのみ定義されるものである。そして、この対応関係を顕わにすることこそ、数学的シンボルそして代数学の本質的役割である。ここには、カント哲学からフィヒテ哲学への移行と類似した移行が観察され る。また、それはカント哲学内部での直示的構成> から 〈記号的構成> へのフィヒテ哲学を 介した転換と理解することもできる。

エルランゲン・プログラムとリー群の誕生

クライン(一八四九~一九二五)はそのエルランゲン・プログラム(一八七二年)の中で、 変換群のもとでの不変量、すなわち群の顕わにする対称性こそが幾何学の基礎にあると主張し、 その見方において、 代数方程式論を正多面体の対称性と結びつける。例えば、四次の代数方程 式の一般解は、鏡像を含む正四面体、ないし正六面体の対称性と結びついている。また、五次 の代数方程式は代数的な一般解は持たないものの、その解の公式は正二〇面体の対称性と結び ついて楕円積分によって書ける。 クラインは、それらの研究によってガロア群の幾何学的意味 を顕在化させ、保型変換関数を不変にする変数変換) によるリーマン面を構成し、その中で双曲 幾何学との結びつきを明らかにする。一方、H・ポアンカレ (一八五四~一九一二)は、リーマ ン面に微分方程式論とガロア理論と結びついた群論(モノドロミー群)を結びつけながら、微分 方程式論の幾何学的描像を得ていく。

S・リー(一八四二~一八九九) は、常微分方程式が解ける条件をガロア理論と類似な方法を 用いて探究することを、一八七〇年代に自らに課した。リー自身はこの試みに成功しなかった が、有限次元連続群の概念を生みだした。リーは、微分方程式に現れる連続群についての一般 理論から、今日リー群と呼ばれる幾何学的にも非常に重要な連続群を生み出したのである。そ して、このことが、代数方程式の代数的解法と微分方程式のシステムの一般的積分の探究との 間に完全な類似があることを示したC・E・ピカール(一八五六~一九四一)とE・ヴェシオ(一 八六五~一九五二)の仕事に道を開いた。

さて、クラインは、「長さ」や空間の曲がり方の大きさを示す曲率を一定に保つ変換群の違 いによって、幾何学的空間の違いが生じると考え、曲率正の曲面幾何学や曲率負の双曲幾何学 といった非ュークリッド幾何学をエルランゲン・プログラムの中に包摂する。ちなみに、曲率 ゼロの空間はユークリッド幾何学の空間である。それに対して、彼は、位置によって異なる曲 率を持つ空間からは、そのような不変量は取り出せないとして、リーマンによって導入された 微分幾何学を重要なものと認めなかった。 しかし、微分幾何学は、物理学者アインシュタイン (一八七九~一九五五)によって一九一五年に見出された一般相対性理論という物理的時空の描像 に用いられた。さらに、数学者H ワイル(一八八五~一九五五)やE・カルタン(一八六九~一九五一)が、微分幾何学に内在するリー群によってその空間の対称性を顕わにした。このように微分幾何学はエルランゲン・プログラムの変換群による幾何学という視点に包摂されていくの である。

今日は「ローマの休日」の封切り日だけど 9時半には来れない だから スケジュールが変わるまで待ちます

 豊田市図書館の4冊
  302.27『シリア・レバノンを知るための64章』
301『戦略の世界史 上』戦争・政治・ビジネス
289.3『スターリンの図書室』 独裁者または読書家の横顔
104『人間自身 考えることに終わりなく』
104『残酷人生論』

『数学者たちの黒板』

2023年08月31日 | 2.数学
数学者は数学が何かを知っているが、 彼らにとって、それを説明 するのは難しい。 私が数学について見聞したことを挙げてみよう。 数字は、演繹法と抽象化を用い、古い知識から新しい知識を創造す る技術だ 形式的なパターンの理論」 「数学は数の学問」 「自然数や、 平面と立体の幾何学を含む分野」 「必要な結論を導き出す科学」 「記 論理学」 「構造に関する学問」 「時を超えた宇宙の構造を説明する 「論理的なアイデアの詩」 「公理の集合から、 命題あるいはそ れらの否定の集合までに至る、 演繹的な経路を探す手段」 「目に見え ない、想像の中にしか存在しないものに関する科学」 「正確な概念装 実在のものであるかのように扱うことができるアイデアの学問」 「明示的な構文規則に従い、一次言語の無意味な記号を操作すること」 「理想化された対象の性質とその相互作用を調べる分野」 「目的のた めに発明された概念と規則を用いた、巧みな演算の科学」 「何がおそらく正しいのかに関する予想、 問い 知的な推測、発見的な議論」 「多大な労力の上に作られた直観」 「我々の文明によって構築された、 貫性のある、 最大の人工物」 「完成に向かうにつれて、あらゆる科学 がそうなるもの」 「理想的な現実」 「たかだか形式的なゲームにすぎ 「ないもの」 「音楽家が演奏をするように、 数学者がすること」。
数学のことを、「何千年にもわたって書き綴られてきた物語で、常 に加筆され、決して完成することのないもの」と捉える数学者もいる。 これほど古い『経典』はないだろう。数学は、人類が自身について書き残している記録であり、歴史以上の長さを持つ。歴史には、修正さ れたり、改ざんされたり、消されたり、失われる可能性がある。でも、 数学はずっと変わらない。 A-B-Cは、ピタゴラスが彼の名前をつ ける以前から真であり、太陽がなくなっても、そのことを考える人 が誰もいなくなっても真だ。そのことを考えるかもしれない、いか なる地球外生命にとっても真であり、彼らがそれについて考えるか どうかに関係なく、真だ。数学を変えることはできない。上下左右、 空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在 であり、いかなるものよりも真だ。
バートランド・ラッセルは数学のことを、「私たちが何について話 しているのかも、私たちの言っていることが正しいのかどうかも、 「分からない学問」と言った。 他の科学者の言葉についても言及しよう。 ダーウィンは、「数学者とは、真っ暗な部屋で、 そこにいない黒猫を 「探している盲人だ」と言った。 ルイス・キャロルは、 四則演算(足し 算、引き算、掛け算、割り算) を、 打算、 注意散漫、醜怪化、 あざけりと 書いている。 状況を複雑にしているのは、 数学を、 特に高等な範囲で、 理解するのが難しいことだ。 それは、単純な共通言語 (数を数える ことは誰にでもできる)として始まったが、 専門化された方言に変わり、あまりにも難解になったため、世界で数人しか話せなくなってしまったのだ。
これらはいずれも、私自身の考えではなく、常套句のようなものだが、 そうだとしても私は数学に惹かれる。数学者たちは、確かな世界の 中で生きている。 他の分野の科学者も含め、残りの人が住んでいる 世界において、確実性とは、「自分の知る限り、ほとんどの場合は、こ のような結果が起こること」を示す。証明に対するユークリッドの 主張のお陰で、数学では、分かっている範囲内で、 毎回、何が起こる かが分かる。
数学は、謎を説明するために私たちが持っている、最も明示的な 言語だ。 物理学の言語としての数学は、 実際の謎 (自然界で、はっき りとは分からないが、 正しいと推測し、その後、正しいと確認される謎) 架空の謎 (数学者の心の中にのみ存在するもの) を記述するものだ。
では、これらの抽象的な謎はどこに存在するのだろう? その縄 張りはどこか? 人の心の中に住んでいると言う人もいるだろう。
つまり、数学的対象 (数字や、 方程式、 公式など、 数学の用語集や装置 全体を意味する) と呼ばれるものを思いつき、それらを存在せしめ ているのは、人の心であり、 それらの振る舞いは、私たちの心の構造 を反映したもの、ということだ。 私たちは、 自分の持っているツー ルと整合する形で、世界を検証するように導かれている (例えば、 私 たちに色が見えるのは、 表面からの光の反射をそう捉えるように脳 が構造化されているからだ)。 これは、確かな情報に基づいてはいる が、少数派の見方であり、神経科学者や、 根本原理に偏った一定数の 哲学者や数学者が、 主に持つ考えだ。 (ほんの少しかもしれないが) より広く支持されているのは、 数学がどこに存在するのかは、誰も 知らない、という見方だ。 どこかを指さして、「数学はそこから来た」、 と言える数学者や自然主義者はいない。 数学は、 私たちの内面以外 のどこかに存在し、 創造されるものではなく発見されるものだとい う信念は、プラトンの信念にちなんで、 プラトン主義と呼ばれる。 彼は、 時空を超えた、 完璧な形をとる領域が存在し、 地球上に存在するも のは、その不完全なコピーにすぎないと信じた。 定義上、時空を超え た領域は常に存在してきたもので、 時間と空間の外側にあり、いか なる神が創造したものでもない。 第3の見方は、 数学は神の心の中 に宿るというもので、歴史的にも現在においても、少数ではあるが 無視できない数の数学者がそう考えている。 集合論の創始者である ゲオルク・カントールは、「神の持つ最上の完璧さは、無限集合を創造する力にあり、それを可能たらしめるのは、その計り知れない高 「潔さだ」と述べている。 そしてシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、「神 の考えを表すものでなければ、 方程式は私にとって意味をなさない」 と言った。
芸術家のように、数学者はしばしば、 自分の知識の縁、 すなわち、 薄明かりしか差し込まない領域で研究する。 取り組む価値のある問題に到達することは、時に、内面の冒険であり、多くの努力を必要とし、 多くの領域を包括する。 すべての冒険が意識的なものではない。 古 くて、由緒ある問題に向き合うのは、 最後の砦に立ち、(それを試み た他の多くの人たちの報告によると)不可能に見える状況で、 攻撃 の計画を立てるのと少し似ている。
ワインの写真は、 複雑な数学的推論の領域から厳選されたものの 集まりだ。 人間の思考の最前線、すなわち、 まだ検討中で、 現在進行 形の問題を表した写真もある。 説明的な写真や、物語的な写真、推測 を含んだ写真もある。 数式や描画は、あたかもそれ自身が生きてい るかのように揺れている。 若い頃に LSDを服用し、 小さな木片に書 かれた、かろうじて読める文字を見て、「これが理解できれば、 すべ てが理解できるだろう」と考えたときの幻覚を思い出す。
これらの図を描き、公式や説明を書いた人々は、 すべてを理解し ているわけではないとしても、 新しい知識を追究している。 追究の 多くは、数学を拡張する以外に実用上の目的はないかもしれない。 とはいえ、控えめに言っても、彼らが研究していることは、これまで に誰も知らなかった何かである可能性がある。
黒板に書かれたものは、記号であり、これらの記号に残された指 針を辿れば、そのときの思考の結論に戻ることができるし、一連の 思考を再構築することもできる。 黒板に書かれた文書は、数学とい う普遍的な言語以外では互いに話すことができない人々によって、 世界中のどこででも再構築することができる。 黒板に書かれたもの を消してしまっても、それらは、 数学という大薯の中の項目として、 依然として存在するだろう。
これらの写真は、 何年にもわたる研鑽と思考を記録したものだ。 肖像画がそうであるように、そこには、心の状態や性格、内面の働き に関する何かが体現されている。 飾り気のないこれらの写真を見ると、20世紀初頭にディスファーマーがアーカンソー州のアトリエで撮 影した、農家と農作業員、 その家族の写真を思い起こす。 ワインの撮 影した、 これらの図表や方程式は、 ディスファーマーの写真のように、 あなたを見つめ返す。 まるで撮影されたものの本質を明らかにする かのように、余分なものを取り除いた質を帯びている。 あたかもワ インがダンスの流れを辿ったかのように、そこには、思考が行われた、 活気に満ちた様子が描かれている。 彼女は目を閉じて、1行1行を追っ ているようだ。 写真には、文書のような固定化された感覚があるが、 その文書を書いた手の動きも感じ取ることができる。 それらはすべ て、数学者が、 歴史的に、 美と関わりを持ってきたことを象徴している。 ある生き物と、そのホームグラウンドで遭遇したような臨場感もあ る。 あまりにも魅力的で、 ワインが最初に見たときに息を呑むほど だったであろうと思える黒板の写真もある。 彼女の関心は、 形式的 な外観だけでなく、それぞれの黒板が示唆する意味の層にも及んで いる。 それらの第一印象には、 はっきりした意味があるが、 消去され た跡や、描き直されたもの、推論が進展してゆく過程には、 さらなる 意味があり、時間の経過とともに明らかになってゆくかのようだ。
全体として、これらの写真はある種の証言であり、 人の思考がよ り高い能力を持つことを信じた記録だ。 ほとんどの抽象的な数学 がそうであるように、たとえ明確な形で役に立たなくても、そのよ らな推論的な思考には価値がある。 時に詩人が、 自分の文章を、 散 文よりも高尚なものと見なしたように、 純粋数学という呼び名には、 19世紀の俗物性の意味合いが (おそらく意図的に)含まれる。 そう は言っても、純粋な思考と実践的な思考は区別しなければならない。 それは、例えば、詩と簡単な報告書の間に存在する区別のようなも ので、プラトンも同様の区別をしたであろう。 数学が芸術なのか科 学なのか、あるいはその両方なのかを判断するのは難しい。
数学者のアラン・コンヌは、 数学において 「存在する」 という語は、 矛盾の対象とならないことを意味する、 と言った。 これらのエレガ ントな写真には、 人の厳密な思考というキャンバスに描かれた絵が、 詳細に保存されている。

 ダンボール なら レーザーには引っかかりにくい 武器がどんどん原始化していく

 せーらがなんか一般化してきている いい意味で! #早川聖来

 奥さんへの買い物依頼
ししゃもフライ     299
握り寿司   499
お茶       128
ジンジャエール     148
はごろも煮  328
レンジでごちそう3つ       998
玉子がゆ   98
ネーブルオレンジ7個       498
テリヤキチキン     358
ざるラーメン       198