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『世界哲学史7』

『世界哲学史7』―近代自由と歴史的発展

一九世紀はその前の世紀とに満の意味で、世界の多くの場所で、大規模な変革へ向けた力が発揮された時代である。哲学はそうしたエネルギーを吸収しつつ、それまでの思想的な旧制度の種から、自らを解放しようともがいていた。哲学を近代的段階から現代的段階へと引き上げ、移行させようとしていた。

代数方程式論からガロア理論へ

+ラグランジュからガウス、アーベルを経てガロアへ

ラグランジュ(一七三六~一八一三)以前に、四次以下の下の代数方程式の代数的な一般解、すなわち加減乗除と冪根によって表現される解の公式は見つかっていたが、五次以上の代数方程式については見つかっていなかった。ラグランジュも同様に五次以上の代数方程式の代数的な一般解を見つけることに成功しなかったが、彼は、四次以下の方程式の解法を分析し、なぜ五次以上の方程式でそれがうまくいかないかを考えた。その結果、解の入れ替えによる対称性に方程式の解法の本質があることを見抜いた。ラグランジュの代数方程式の理論は『方程式の代数的解法についての省察』(一七七〇)という著作の中で展開されている。

この著作の第一のプロセスでは、与えられた代数方程式から出発して、その解を探そうとするのに対し、第二のプロセスでは、与えられた解から出発してその解を持つような代数方程式を探す。第三のプロセスでは、解の入れ替えによる対称性を探究することによって、代数方程式の代数的な一般解が求められる仕組みを顕わにする。すなわち、第一、第二のプロセスにおいて、代数方程式という対象が扱われているのに対し、第三のプロセスでは、それが捨象され、解の入れ替えという操作による対称性自身を主題化する方向に向かうのである。

代数方式の代数的な一般解が探される中で、n次代数方程式は重複を含めてn個の解を複素数の中に持つことがガウスによって証明された。C・F・ガウス(一七七七~一八五五)は著書『アリトメチカ研究』(一八〇一年)において、数論や代数学の問題について、幾何学(作図に基づく構成的な幾何学)によって証明を与える。そして、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことが、ガウスの平方剰余相互法則や定規とコンパスによる作図可能問題とも関わる円分方程式論に発想を得ながら、アーベル、続いてガロアによって証明された。

N・Hアーベル(一八〇二~一八二九)は、ガウス、ヤコビ(一八〇四~一八五一)と共に一九世紀を通して数学的発見の大きな源泉となっていく楕円関数論に大きな業績を残した数学者である。楕円関数とは、楕円や双曲線、レムニスト(二点からの距離の積が一定の曲線の特別な場合)の弧長の計算に由来する楕円積分の逆関数である。アーベルは、この楕円関数を代数方程式論と結びつけながら、五次以上の代数方程式は代数的な一般解を持たないことを証明したのである。次いで、ガロアは、ラグランジュによる解の入れ替えによる対称性を明確にしながら五次以上の代数方程式が代数的な一般解を持たないことを証明した。ガロアはえによって変わらない、今日〈体〉と呼ばれる加減乗除の四則演算で閉じた数の体系を顕わにすることで、代数方程式の代数的な可解性についての問題を解決に導くのである。解の入れ替えによる対称性の分解の仕方と、元々の代数方程式の係数の生成する数の体系に冪根を添加することによって生み出される数の生成する数の体系との間に正確な対応関係があることをガロアは示した。入れ替えの操作の分解の列と、その操作によって不変になる冪根の添加による数の体系の拡大の列の間には包含関係を逆にして正確な対応関係があるのである。四つ以下のものの入れ替えの操作はある単純な規則性をもって分解されるが、五つ以上の入れ替えの操作にはそのような分解は存在しない。そのことをもってガロアは五次以上の代数方程式には、代数的な一般解が存在しないことを示したのである。

ガロア理論が成立するまでの方法的変遷

代数方程式の冪根を用いた一般解の探究についてのラグランジュ以前の方法からラグランジの方法への移行と、カント哲学からフィヒテ哲学への移行との間には一種の類似性が見出せる。ラグランジュもフィヒテも、カントのように対象の構成の可能性を経験の可能性と同一視しない。ラグランジュは数学の方法を、フィヒテは哲学の方法を感性から、さらにそれらを対象からも解放する方向へと向かう。すなわち、二人とも、存在と対象を純粋に知性において主題化するだけでなく、形式と操作を主題化する構造的方法へと向かっていくのである。

上述したガウスの幾何学的直観に依存する数学的方法を、ガロアは純粋に代数学的なものに転換させながら、代数方程式の可解性についての問題を解く。ガロアの仕事の重要性は、代数方程式の可解性は解の入れ替えの対称性の問題に帰着され、代数方程式そのものは忘れてもよいことを示したことである。この入れ替えの操作そのものは数学的対象として主題化され、乗法と単位元に対する逆元で閉じた〈群〉として捉えられることになる。また、加減乗除の四則演算を満たす数の体系は後にデデキントによって〈体〉と名付けられることになるが、ガロアは、出発点となる体(基礎体)に冪根を添加して拡大された体(拡大体)を構成する方法を導入する。

4ガロア理論と群論の、関数論や幾何学、微分方程式論への拡がり

リーマン面の導入

一九世紀半ばまで、解析関数論は大きく発展していたが、複素関数(複素数を変数とする関数で、一般には関数値も複素数)の良い性質〈解析性〉をいかに正確に定義するのか、関数の多価性をいかに扱うべきかということなど大きな問題があった。B・リーマン(一八二六~一八六六)は、学位論文「複素一変数関数の一般論に対する基礎」(一八五一年)において、まず複素平面(複素数を実数の軸と虚数の軸からなる二次元の平面ととらえる描像)のどの方向から近づけても同じ微分係数をとる複素関数を解析関数と定義し、このような関数は今日コーシー=リーマンの方程式と呼ばれる方程式を満たすことを示した。

この解析性についての条件の下、リーマンは多価の複素関数を、後にリーマン面と呼ばれる幾何学的描像を用いて、一個の解析関数にすることを考える。リーマン面について本質的なことは、複素数上の多価関数であるということを、複素平面が複数枚重なり合っていることと解釈するということである。複素平面上の変数z点をα(通常は関数値がゼロになる点)の周りで連続的に回転移動させた際、同じ変数値に戻るごとに関数は異なる値をとるような場合、変数zが一回転するごとに別の複素平面に移っていくと解釈するのである。このような点を分岐点αと呼び、すべての分岐点の周りで同様なことを考える。このような解釈を基にして、変数の定義域のある一次元複素空間と関数の値域のある一次元複素空間から成る二次元の複素空間すなわち四次元の実空間に埋め込まれた二次元の実曲面を構成する。このような関数の幾何学的描像がリーマン面であり、多価関数は一個の関数として理解されるようになる。

このリーマン面の中でもっとも単純なものの一つが、すべての分岐点の周りにおいて、平方根の因子を持つ二価の関数についてのものである。その中で、平方因子を含まない一次、または二次の多項式の平方根を取った二価の関数のリーマン面は球面になる。また、平方因子を含まない三次、または四次の多項式の平方根をとった関数のリーマン面を楕円曲線と呼ぶ。楕円曲線は穴が一つ(種数一)のトーラス面(ドーナツ状の形の表面)となる。そして、楕円積分は、この楕円曲線すなわちトーラス面上の経路に沿った積分となる。この見方が、それまでの楕円積分の捉え方を大きく変えていくことになる。

しかし、K・ワイエルシュトラス(一八一五~一八九七)のような厳密性を数学の基礎に据えようとする数学者は、リーマンの用いる〈面〉といった曖昧な概念は数学において用いるべきでないと考える。そして、彼は、楕円積分の逆関数と等価である(ペー)関数と呼ばれる無限級数を用いて楕円積分の理論を展開していく。そして、後に、様々な関数と群論の関係がリ―マン面という概念を通じて明らかにされていく。

リーマン面の〈面〉とは何か。ガウスによる複素平面や三次元実空間内の曲面幾何学については、二次元ないし三次元の物理的空間とのアナロジーの下、感覚表象的に視覚化可能である。しかし、何重にも重なり合った複素平面、ないし四次元の実空間(複素二次元)に埋め込まれた二次元の面としてのリーマン面は、三次元の実空間の中において厳密な意味では視覚化不可能である。このような理由から、リーマン面の〈面〉という幾何学的対象を、数学的対象として基礎づけることの必要性にリーマンは迫られることになる。そのような文脈の中で、リーマンは曲面幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より大きくなる幾何学)や双曲幾何学(三角形の角度の和が一八〇度より小さくなる幾何学)といった非ユークリッド幾何学を一般化する微分幾何学を構築し始める「幾何学の基礎をなす仮説について」(一八五四年)というタイトルの教授資格取得講演の冒頭で、空間概念の基礎づけのために、現代の集合や位相に繋がる〈多様体〉の概念(現代数学の多様体の概念とは異なる)を導入する。

+デデキントによる代数関数論と代数学の抽象化

代数関数とは、多項式関数を係数に持つ代数方程式の根として定義できる関数であり、楕円関数もそれに含まれるが、リーマンの弟子であるJ・W・R・デデキント(一八三一~一九一六)も、リーマン面による代数関数へのアプローチに満足しなかった。一方、一八七〇年代頃からガロア理論が数学界で受容され始める。デデキントは〈体〉という概念を導入しながら、ガロア理論にとって本質的な考え方、すなわち、〈体〉とは、有理数のように加減乗除の四則演算で閉じた系であるが、ある体(基礎体)について、それ自身に含まれない元を添加することで拡大体を生成することができるという考え方を表現した。そして、このような体の拡大(ガロア拡大)に対応して、それを固定する群(ガロア群)が存在するとしたのである。

有理数と整数の概念が拡大され、数の集合が構成され、次第に大きくなっていく。ガロアがその理論を構築する中で導入したように、代数体(代数的数)とは、整数を係数とする代数方程式の解として表せる複素数のことであり、その代数方程式の最高次の係数が一の場合に、それを代数的整数と言う。これらはそれぞれ、通常の有理数と整数の概念を拡大したものである。デデキントとH・ウェーバー(一八四二~一九一三)は、それをさらに拡張して代数関数体の理論を、有理数体の拡大体である代数体の理論との類似性に導かれながら構築した。このようにして、デデキントは代数関数論を代数的数論に導かれながら構築していくが、それを通して、代数学は、任意の対象の集合上に定義された代数的な構造の科学へと変容していく。関数の集合の生成する体系は、数の集合の生成する体系の拡張として理解されるようになる。別の見方をすると、代数関数論の中で、数概念が拡大されたともいえる。そして、これらのことが大きな動機となって、デデキントは実数の基礎づけ、自然数の基礎づけ、さらに集合論の構築に向かっていくことになる。

リーマン面は、類比的な意味にしかすぎないかもしれないが、関数の振る舞いを「目に見える」ようにした。リーマンに続いて、ワイエルシュトラスが解析的な方法で、続いてデデキントが代数的な方法でリーマン面を再構成した。それによって、リーマン面に内在する構造が顕わになった。ここで、構造とは、関数的対応関係に純化された同型性によってのみ定義されるものである。そして、この対応関係を顕わにすることこそ、数学的シンボルそして代数学の本質的役割である。ここには、カント哲学からフィヒテ哲学への移行と類似した移行が観察される。また、それはカント哲学内部での直示的構成>から〈記号的構成>へのフィヒテ哲学を介した転換と理解することもできる。

エルランゲン・プログラムとリー群の誕生

クライン(一八四九~一九二五)はそのエルランゲン・プログラム(一八七二年)の中で、変換群のもとでの不変量、すなわち群の顕わにする対称性こそが幾何学の基礎にあると主張し、その見方において、代数方程式論を正多面体の対称性と結びつける。例えば、四次の代数方程式の一般解は、鏡像を含む正四面体、ないし正六面体の対称性と結びついている。また、五次の代数方程式は代数的な一般解は持たないものの、その解の公式は正二〇面体の対称性と結びついて楕円積分によって書ける。クラインは、それらの研究によってガロア群の幾何学的意味を顕在化させ、保型変換関数を不変にする変数変換)によるリーマン面を構成し、その中で双曲幾何学との結びつきを明らかにする。一方、H・ポアンカレ(一八五四~一九一二)は、リーマン面に微分方程式論とガロア理論と結びついた群論(モノドロミー群)を結びつけながら、微分方程式論の幾何学的描像を得ていく。

S・リー(一八四二~一八九九)は、常微分方程式が解ける条件をガロア理論と類似な方法を用いて探究することを、一八七〇年代に自らに課した。リー自身はこの試みに成功しなかったが、有限次元連続群の概念を生みだした。リーは、微分方程式に現れる連続群についての一般理論から、今日リー群と呼ばれる幾何学的にも非常に重要な連続群を生み出したのである。そして、このことが、代数方程式の代数的解法と微分方程式のシステムの一般的積分の探究との間に完全な類似があることを示したC・E・ピカール(一八五六~一九四一)とE・ヴェシオ(一八六五~一九五二)の仕事に道を開いた。

さて、クラインは、「長さ」や空間の曲がり方の大きさを示す曲率を一定に保つ変換群の違いによって、幾何学的空間の違いが生じると考え、曲率正の曲面幾何学や曲率負の双曲幾何学といった非ュークリッド幾何学をエルランゲン・プログラムの中に包摂する。ちなみに、曲率ゼロの空間はユークリッド幾何学の空間である。それに対して、彼は、位置によって異なる曲率を持つ空間からは、そのような不変量は取り出せないとして、リーマンによって導入された微分幾何学を重要なものと認めなかった。しかし、微分幾何学は、物理学者アインシュタイン(一八七九~一九五五)によって一九一五年に見出された一般相対性理論という物理的時空の描像に用いられた。さらに、数学者Hワイル(一八八五~一九五五)やE・カルタン(一八六九~一九五一)が、微分幾何学に内在するリー群によってその空間の対称性を顕わにした。このように微分幾何学はエルランゲン・プログラムの変換群による幾何学という視点に包摂されていくのである。

 209『世界の歴史⑧』

イスラーム世界の興隆

預言者ムハンマド

預言者のプロフィール

イスラームの預言者ムハンマドは、五七〇年ころ、メッカのクライシュ族に属するハシム家に生まれた。誕生のときに父のアブド・アッラーフはすでになく、ハーシム家の長であった祖父のアブド・アルムッタリブの保護にたよって、母親のアーミナの手ひとつで育てられた。ほかに兄弟や姉妹はなく、ムハンマドは母と二人だけの寂しい子供時代を送らなければならなかった。しかもムハンマドが六歳になったころに母親も世を去り、さらに二年後には、保護者のアブド・アルムッタリブが死没するという不運に見舞われた。アブド・アルムッタリブの死後、ハーシム家の家長となった叔父のアブー・ターリブは、孤児となったムハンマドを引き取り、この甥をたいせつに育てあげた。ムハンマドをシリアへの隊商に同行させたのは、この人物である。

ムハンマドの少年時代について、これ以外の事実はほとんど知られていない。少年がおかれた環境はひどく苛酷であったが、近親者のあたたかい援助によって、何とかこの試練を乗り切ることができた。「コーラン」(第九三章)にいう。

彼(神)は孤児であるそなたを見出し、庇護を与えてくださらなかったか彼は迷っているそなたを見出し、正しい道に導いてくださらなかったか彼は貧しいそなたを見出し、富を与えてくださらなかったか

ムハンマドが二十五歳になったとき、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、その正直な人柄を見込んで彼にシリアへの隊商をまかせた。ムハンマドの誠実さにうたれたハディ―ジャは、人を介して結婚を申しこみ、その年から二人の結婚生活が開始された。伝承によれば、このときハディージャはすでに四十歳に達していたと伝えられる。二人のあいだには三男四女が生まれたが、三人の男の子はいずれも幼児のうちに夭折した。

アッバース朝時代の伝承学者イブン・サード(八四五年没)は、ムハンマドのプロフィ―ルをおよそ次のように伝えている。

ムハンマドの肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかであった。口ひげとあごひげはともに濃く、薄い毛が胸から腹のあたりまでのびていた。肩幅は広く、足どりはしっかりとしていて、その歩き方はまるで坂道を下るようであった。背丈は低くもなく、高くもない程度であった。いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好きであったが、トカゲは食べなかった。よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふけるときには、いつまでも黙っていた。人に対しては誠実であり、すすんで人助けを行い、常にやさしい言葉をかけるのを忘れなかった。(『大伝記集』)この伝承は、ムハンマドの没後二〇〇年以上をへてまとめられたものであり、預言者の実像をどれだけ正確に伝えているかとなると、いささか疑問である。没後になってから伝説化された部分も少なくないと思われる。しかし、後世のムスリムたちが、ムハンマドのプロフィールをこのように描いていたことは確かであり、その点に注目すれば、なかなか興味深い人物像であるといえよう。

最初の啓示

メッカのムハンマドは、毎年、ラマダーン月(第九月)になると、家族といっしょにヒラー山の洞窟にこもって祈り、集まってくる貧しい人びとに施しをするのを習慣にしていた。六一〇年、ムハンマドが四十歳になったころのラマダーン月、いつものようにヒラー山の洞窟にこもっていると、ある夜、うとうととまどろんでいたムハンマドのもとに大天使ガブリエルが現れ、次のような神(アッラーフ)の啓示をつたえた。

詠め、「凝血から人間を創造し給うた汝の主の御名において」

詠め、「汝の主はペンによって[書くことを教え給うたもっとも尊いお方]「人間に未知のことを教え給うたお方」であると(「コーラン」第九六章一~五節)

「詠め」とは、声に出して読むことである。コーラン、正しくはクルアーンも、元来は「声に出して読むもの」を意味している。このように最初から「読誦」を重視したのは、シリアのキリスト教会で聖書が読誦されていることを、ムハンマドがよく知っていたからであろうと推測されている。

いっぽう、最初に下された啓示は次の章句であるとする伝承も残されている。

マントにくるまる者よ

立て、そして警告せよ

汝の主をたたえよ

汝の衣を清めよ

不浄をさけよ

〔後で〕多くを得ようとして、施してはならない

汝の主のために堪え忍べ(「コーラン」第七四章一~七節)

現在のところ、どちらが最初の啓示であるのか、確かなことはわからない。いずれにせよ、最初の啓示をうけたムハンマドは、恐れおののき、マントにくるまって、ただふるえているだけであったという。これが神の言葉であることを信じることさえできず、何か悪い霊(ジン)にとりつかれたにちがいないと思いこんでいたのである。

預言者としての自覚

しかし、恐れおののくムハンマドをはげまし、断続的に下される言葉は神の啓示にほかならないと信じたのは、年上の妻ハディージャであった。彼女のはげましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。この意味で、ハディージャはイスラームに帰依した最初の人物としてきわめて重要な役割を果たしたといえよう。もっとも、神への絶対的な帰依を意味する「イスラーム」が宗教の名称として確立するのは、アッバース朝時代になってからのことである。ムハンマドは、必要に応じて、神への服従(イスラーム)、信仰(イーマーン)、宗教(ディーン)などの言葉を自在に使っていたらしい。

それでは、最初のイスラーム教徒(ムスリム)となった男性は誰だったのだろうか。ムハンマドの庇護者であった叔父アブー・ターリブの息子アリー(後の正統カリフ)だとする説もあるが、当時、十歳に満たないアリーが神の言葉を十分に理解できたとは思われない。むしろ奴隷としてムハンマドに仕え、後に解放されたザイドこそ最初の男性ムスリムであるとする考えが有力である。ムハンマドは、この解放奴隷をことのほか可愛がり、早世した息子たちのかわりとして育てていたのである。

同じメッカで細々とした商売をいとなむアブー・バクルは、ムハンマドの古い友人のひとりであった。彼もまた、ムハンマドに下された言葉を神の啓示として理解し、ごく早い段階でイスラームに改宗した。このような共鳴者が増えるにつれて、ムハンマドは「神の使徒」(ラスール・アッラーフ)としての自覚を深めていったように思われる。

「創造主である神は、ラクダと天と大地をつくり、人間に雨と穀物とナツメヤシを与えてくださった。また神は、最後の審判の日に、地獄へ落ちた人間には恐ろしい業火を用意し、善行ゆえに天国へ導かれた者には、従順にかしずく乙女と緑したたる楽園を準備してださる。地獄へ落ちるのは、他人の遺産をむさぼり、ただむやみに富を愛する者たちである」。つぎつぎと下される啓示によって、唯一なる創造主、最後の審判の主宰者、慈悲深い神と罰を下す恐ろしい神など、アッラーフについての具体的イメージがしだいに明らかにされていった。

こうして、ムハンマドがメッカの人びとに伝道をはじめるまでの間に、およそ五〇人ばかりがムスリムの仲間入りを果たした。彼らのなかには、有力な氏族に属する者もあれば、弱小の氏族に属する者もあったが、その多くが三十代半ばまでの若者であったことは注目に値する。また、ビザンツ帝国領やアビシニア(現在のエチオピア)生まれの奴隷、あるいは解放奴隷のほかに、同盟者(ハリーフ)として部族の保護下にあるよそ者も含まれていた。『ムハンマド』の著者ワットは、初期の改宗者はおちぶれ果てた人たちではなく、概して言えば、メッカ社会の最上層のちょうどひとつ下に属していたと述べている。これらの若者たちは、富の獲得にはしる富裕者を糾弾し、弱者への救済を説くムハンマドの教えに、おそらく新鮮な社会正義を見出したのであろうと思う。

伝道と迫害

「神の使徒」としての自信を深めたムハンマドは、六一四年ころから公の伝道を開始した。ムハンマドが活動の拠点に定めたのは、名門マフズーム家の青年アルカムが提供してくれた大きな屋敷であった。昼間、ムハンマドと三九名の弟子たちはこの家に集まり、説教と礼拝のときを過ごした。青年たちのなかには、そのままここで夜を過ごす者もあったらしい。評判を聞いて、この家を訪ねる人の数も徐々に増大していった。

しかし、メッカの人びとの多くは、この「若者宿」での活動にさしたる関心を示さなかった。彼らは、「神は唯一である」という教えをいぶかしく思うだけで、これまでどおりの信仰に疑いを抱く者はほとんどなかったといってよい。新しい教えを説くムハンマドは、名門ではあるが、さほど実力のないハーシム家の一青年にすぎなかったからである。

だが、ムハンマドへの共鳴者が少しずつ増えるにつれて、クライシュ族の指導者たちの間に消しがたい疑惑が生じはじめた。このままムハンマドが若者たちを集めて、勢力を拡大していけば、メッカ社会の伝統的な権威はそこなわれ、やがてはこの男がメッカの支配者になってしまうのではないか。「コーラン」(第二五章七~八節)に、

彼ら(不信仰者)はいう。「これは何とした使徒だ。食べ物をとり、市場を歩きまわるとは。〔本物の使徒なら〕どうして天使が遣わされ、彼といっしょに警告者とならないのか」。

とあるのは、指導者たちの疑惑があからさまな形をとりはじめたことを示している。クライシュ族の各家の間には、商売上の利益をまもり、社会の不正を正すために「有徳者同盟」がむすばれ、この当時はハーシム家にその指導権が与えられていた。しかし、ムハンマドの行動に危機感をおぼえた同盟者たちは、使徒の属するハーシム家をこの同盟から除外する行為にでた。そのうえで、同盟していた家長たちはムハンマドと会見し、もし偶像崇拝への攻撃をやめれば、彼に富と権力を保証し、彼らもいっしょにアッラーフへの礼拝をおこなおうと提案した。

ムハンマドは、彼らとの妥協の誘惑にかられた。しかし、いちじの迷いからさめたムハンマドは、「おまえたちにはおまえたちの宗教が、そして私には私の宗教がある」として、毅然たる態度を示した。これをみたクライシュ族の大商人たちは、ムハンマドとその仲間にたいして公然の迫害を開始するにいたった。マフズーム家のアブー・ジャフルは、ムハンマドと同世代であったが、新しい改宗者が出ると、「おまえは先祖の宗教を捨ててしまった。われわれは、きっとおまえたちの名誉を傷つけてやるぞ」といって脅したという。

このような迫害に耐えかねたムハンマドは、いちじ信徒の一部をキリスト教徒の国アビシニアへ避難させなければならなかった。大商人たちは、共謀してムハンマドのハーシム家とアブー・バクルのタイム家に対し、ムスリムへの保護(ズィンマ)を取り消すように圧力をかけた。この当時、氏族の保護を失うことは、生命の安全すら保障されないことを意味していた。六一九年には、このような圧力にもかかわらず、ムハンマドを断固として守ってくれた叔父のアブー・ターリブと最愛の妻ハディージャがあいついで世を去った。ムハンマドは絶望の淵に沈みこみ、ここに誕生まもないイスラームは最大の危機を迎えたのである。

西方イスラーム世界の輝き―コルドバ

ジブラルタルを越えて

トゥール・ポワティエ間の戦い

七一一年の春、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出した一万二〇〇〇のアラブ軍は、ベルベル人の将軍ターリク・ブン・ズィヤード(七二〇年没)の指揮のもとに破竹の進撃をつづけた。同年七月、ロドリゴの率いる西ゴート王国軍を一蹴すると、未来の首都コルドバを二ヵ月の包囲の後に陥落させた。タホ川の北岸にある西ゴート王国の首都トレドも、一部ユダヤ人の裏切りによって十月にはターリクの前に開城し、王国は事実上崩壊した。

部下として派遣した将軍ターリクの成功を知ったアラブの将軍ムーサー・ブン・ヌサイル(六四〇~七一六七年)は、翌年、みずから一万の軍を率いてイベリア半島に押し渡った。彼は半島最大の都市であり、学術の中心地としても名高いセビリアを落とすと、進軍の停止命令を無視したターリクを鞭打ったうえで鎖に拘束した。しかし皮肉なことに、ムーサー自身もカリフの承認を得ることなく行動したと非難され、まもなくダマスクスへの召還命令が下された。

ところが七一五年、ムーサーが四〇〇名の西ゴート諸侯と奴隷と財宝をともなってダマスクスに帰還すると、彼の非をとがめるどころか、ウマイヤ・モスクでは凱旋の将軍をむかえて盛大な祝典が催された。ムーサーによるイベリア半島の征服は、サラゴサを越えてアラゴンやレオンの高地にまで及んだが、アラブ人は北部の山岳地帯を除く半島の支配領域をアンダルスと名づけた。現在、南スペインの一帯をさして用いられるアンダルシアは、このアラビア名に由来している。

七一七年ころ、ピレネー山脈を越えたアラブ軍はフランク王国領に侵入すると、ナルボンヌを占領し、さらに北上して大西洋岸に近いボルドーを陥れた(七三二年)。アンダルス総督(アミール)のアブド・アッラフマーン(七三二年没)が率いるアラブ軍は、北進をつづけてトゥール近郊まで迫ったが、トゥールとポワティエの間でフランク王国の宰相カール・マルテル(六八九〜七四一年)の迎撃軍と遭遇した。七三二年十月、トゥール・ポワティエ間の戦いはフランク軍の勝利に帰し、戦闘で指揮官を失ったアラブ軍はピレネー山脈の南に引き返した。

しかし、この戦いの結果を過大に評価し、もしこのときアラブ・イスラーム軍が勝利を収めていたら、オックスフォード大学では聖書のかわりに「コーラン」が講義されていたであろうと考えるのはまちがっている。アラブ軍の補給路は伸びきっていたし、当時のアラブ軍にはヨーロッパ全土を征服するだけの士気の高さは残っていなかったからである。それにおおかたのアラブ人は、緑濃いオリーヴが繁らないような寒冷の土地には住むことができないと考えていた。彼らは、何よりもナツメヤシとオリーヴを好む民族であった。

後ウマイヤ朝の成立

七五〇年、アッバース朝がイラク全土を制圧したとき、新政権の追及の手を辛くも逃れたウマイヤ家の青年がひとりいた。名前はアブド・アッラフマーン・ブン・ムアーウィヤ(七三一~七八八年)、俊敏で鷹のような風貌をもつ二十歳の若者であった。彼はユーフラテス川に飛び込んで追手をかわし、パレスティナで庇護者をみつけると、北アフリカに渡り、七五五年にはモロッコのセウタまでたどり着いた。

ジブラルタルを渡ってグラナダに上陸したアブド・アッラフマーンを、当地のムスリムは熱烈に歓迎した。アミール職にある総督が彼らの統率に当たっていたが、有能な人材を欠き、アンダルスは混沌とした状況におかれていた。これに引き替え、アブド・アッラフマーンはれっきとしたウマイヤ家の出身であり、新しい指導者としてまたとない人物とみなされたのである。

支持者を糾合したアブド・アッラフマーンは、緑の旗を押し立ててコルドバへと進軍し、七五六年五月、アミール・ユースフの抵抗を退けると、首都に入城して後ウマイヤ朝五六~一〇三一年)の樹立を宣言した。しかし、このアブド・アッラフマーン一世(在位七五六~七八八年)がアンダルスを完全に平定するのには、さらに一〇年の歳月を必要とした。アッバース朝からは領内に騒乱を引き起こすための密使が送られてきたし、アラブ人が漁夫の利を得ることに不満なベルベル人は各地で反乱をくり返したからである。

アブド・アッラフマーン一世は、アッバース朝と友好関係を樹立したフランク王国のカ―ル大帝(在位七六八〜八一四年)との軍事的対決も辞さなかった。七七八年、カール大帝が半島北東部のサラゴサへ進撃してくると、アブド・アッラフマーン一世はこれを迎え撃ち、ピレネー山脈の隘路を追撃してフランク軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いの模様を記した『ローランの歌』(十一~十二世紀ごろの成立)は、次のように歌いはじめる。

われらの大帝シャルル王は、
まる七年、スペインにありて、
高き土地を海まで征せり。
彼の前に支え得る城はなく、
城壁、城市、打ち毀つべきはのこらず。
ただサラゴスのみは、山上にありて、
マルシル王これを領す。彼、神を愛せず。(有永弘人訳)

さて、アブド・アッラフマーン一世は、アンダルスの平定後もアミール(総督、あるいは軍司令官)の称号に甘んじていたが、アッバース朝による内政の干渉には断固たる態度を示した。カリフ・マンスールから代わりのアンダルス総督が派遣されてくると、二年後にはその首を塩づけにして、メッカ巡礼の途上にあったマンスールに送り返したという。「クライシュ族の鷹」の異名はこのようにして生まれた。ヒッティの『アラブの歴史』によれば、マンスールは「余と、かような恐ろしい敵を、海でへだて給うた神に感謝し奉る」と叫んだと伝えられる。

名君アブド・アッラフマーン三世

賭博と酒におぼれたハカム(在位七九六~八二二年)の治世が、改宗した現地人ムスリムの反乱とそれへの苛酷な弾圧のうちに終わったあと、その子アブド・アッラフマーン二世(在位八二二~八五二年)がアミール位を継承した。

彼はマーリク派の法学に手厚い保護を与え、スンナ派による統治の実現をはかった。バグダードに対抗すべくイスラーム文化の振興にも熱心であったが、その治世も間断ない反乱に苦しめられた。イスラーム化とアラブ化が進むにつれて、急進的なキリスト教徒は反発を強め、自発的な殉教者を出すまでにいたった。彼らはムハンマドとイスラームを公然とののしり、逮捕されてもひるまず、すすんで死の刑に服したのである。

しかも半島北部のキリスト教諸侯は次々とアミールに反旗を翻し、南部地方でも、八八〇年、西ゴート伯の子孫でイスラームに改宗したイブン・ハフスーンが、現地人の改宗ムスリムを率いて反乱を起こした。イブン・ハフスーンは、ふたたびキリスト教に復帰し、北アフリカのアグラブ朝(八〇〇~九〇九年)と手を結んで、一時はコルドバを孤立化させるところまでアンダルス総督を追いつめた。

このような状況のなかで八代目のアミール位に就いたのが、二十三歳のアブド・アッラフマーン三世(在位九一二~九六一年)であった。キリスト教徒の奴隷を母にもつこの青年の君主は、まず全国に広まっていた反乱の鎮圧に着手する。手はじめにエルビラとセビリアを占領すると、九一七年には強敵イブン・ハフスーンの勢力を壊滅させ、次いで九三二年、トレドを再征服してアンダルス全土の統一を回復した。北アフリカにおこったフアーティマ朝が秘密の宣教員をアンダルスに送り込み、アミール位を脅かしはじめたのを知ると、アブド・アッラフマーンは先手を打って対岸のマグリブ(モロッコ)に軍を進め、この地方を自国領に組み込むことに成功した。

九二九年一月、アブド・アッラフマーン三世は、みずから「カリフ・ナースィル」を名乗り、全国のモスクに対して、金曜日の集団礼拝にはこのカリフの名で説教をおこなうよう命令した。これによってイスラーム世界には、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが並び立つことになったのである。アッバース朝はあくまでも正統なカリフ位の継承権を主張したが、当時のアッバース朝カリフには、北アフリカのファーティマ朝やアンダルスの後ウマイヤ朝にその主張を認めさせるだけの実力はなかったといえよう。

アブド・アッラフマーン三世のときに、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えた。国内にイスラ―ム法による統治がゆきわたると、カリフは北の山岳地帯によるキリスト教国に対しても再三にわたって軍事的な圧力をくわえた。南方への略奪行為をくり返していたレオン王国に対してはみずから軍を率いて出陣し、キリスト教徒の連合軍に大きな打撃を与えた。コルドバの宮廷にはヨーロッパ諸国から次々と使節が送られてきたが、彼らは宮廷の豪華なたたずまいに驚異の目を見張ったことであろう。九六一年、半世紀におよぶ彼の長い治世は栄光のうちに幕を閉じたのである。

国家の運営

「アミール」は、東方イスラーム世界では、軍司令官や地方総督の意味に用いられた。しかし後ウマイヤ朝では、もっぱら国家の首長をしめす最高の称号であった。アブド・アッラフマーン三世がカリフを称してからも、公式の文書には「信徒の長」(アミール・アルムミニーン)と記したのは、東方イスラーム世界の場合と変わらない。「カリフ」(後継者)より「信徒の長」の方が、外部の異教徒に対して、より勇ましい響きをもつと考えられたのであろう。

事実、アミールあるいはカリフは、イスラーム法の執行に最後の責任をもち、軍隊の最高指揮権を有する国家の首長であった。カリフの第一の補佐役は侍従(ハージブ)であり、宮廷内の三官庁(ディーワーン・アッラサーイル)、租税庁(ディーワーン・文書庁アルハラージュ)、軍務庁(ディーワーン・アルジャイシュ)を統轄する宰相としての役割を果たした。アンダルスは、北部の辺境区をのぞいて二一余りの行政区(クーラ)に分割され、各行政区には中央官庁の支所がおかれていた。キリスト教徒やユダヤ教徒の庇護民(ズィンミー)が、人頭税の支払いを条件に信教の自由と一定の自治を与えられたことも、イスラーム国家に共通の特徴であった。

軍隊の主力はアラブ人とベルベル人によって構成されていたが、九世紀初頭からマムル―ク(奴隷軍人)の採用がはじまった。アブド・アッラフマーン三世の時代になると、ユダヤ商人の手をへて多数のフランク人、ブルガール人、あるいはスラヴ人奴隷が購入され、彼らの一部は宮殿を警護するエリートの護衛兵に抜擢された。こうして西方イスラーム世界は、東方イスラーム世界と同様に、奴隷出身のマムルークが軍事力を独占する時代を迎えたのである。

モンゴメリー・ワットは、「イスラーム・スペイン史」のなかで、ムスリムの君主は、「事実上、支配機構の面で西ゴートの伝統に範を求めることは何一つなかった」と述べている。後ウマイヤ朝は、政治的には東方のアッバース朝と対抗したが、官庁(ディーワーン)による行政機構をとり入れ、さらに古代イランの伝統をひくバグダードの宮廷儀式を採用した。後述するように、アンダルスのムスリムたちは東方イスラーム世界へ盛んに出かけて行き、カイロやバグダード、あるいはダマスクスでイスラーム諸学を学び、その成果を故郷にもち帰った。そのなかには、当然、カリフ政治の理論と行政の実態についての情報も含まれていたとみなければならない。コルドバのムスリムたちの顔は、北方のヨーロッパではなく、東方のイスラーム世界へと向けられていたのである。

 クルアーンというのは憲法じゃなく 民法の詳細な部分 ここまで規定するか そして アラーの恩を売るか
 これぞ スーパーアイドル ショールームで5万人はすごい #池田瑛紗
 そして戦いの書でもある
 シリーズ 近現代ヨーロッパ 70年史『分断と統合への試練 1950-2017』にウクライナ 戦争の前半部分が記述されていた。
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