古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

返還交渉 沖縄・北方領土

2017-05-17 | 読書

5月15日は、沖縄が変換されて45年という。沖縄返還の歴史を勉強しようと『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』(東郷和彦著、PHP新書、2017年3月)を句入しました。筆者は代々外務官僚の家に生まれ、外務省局長。父文彦氏は、元外務省アメリカ局長として返還交渉にあたった。また祖父茂徳氏は東条内閣の外務大臣であった。
 この本は前半、父文彦氏と若泉敬氏の思想を中心に語る。若泉氏は、佐藤総理の密使として沖縄返還に関わり1994年『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を著し、96年7月死去(自栽)した。
 根本の考えは「核抜き本土並みは理想である。しかし、日本を取り巻く安全保障上の環境がどうしてもそれを許さないのなら、核付きなら返還は無い方がいいのか、それとも核つきでも、まず返還を実現した方がいい。のか、そこのところの原を決めねば、交渉に力が入らない。自分は、核付きでもまずは返還を実現しなければいけないという考えだった。核のある沖縄なら返還されない方がいいというのでは、あまりに本土は身勝手ではないか」と東郷は説く。
 これが二人に共通する考えだった。
浮かびあがったのは、沖縄返還時に一旦核を撤去する。しかし有事の際には、米政府が要求すれば日本政府は承認するという密約であった。
大田知事あての『嘆願状』と題する書簡に若泉氏は記す。
「拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に新たなご不安、御心痛、御憤怒を引き起こした事実を切々自覚しつつ、1969年日米首脳会談以来、歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自栽します。」
大田元知事は語っている。
「『結果責任』を執って自栽するとまで思いつめられた。その思いというのは、ひしひしと伝わってくる。そこまで普通はなかなかできない。日本の戦後の政治化でそういう人は一人でもいたか。密約を結んだこと自体は責められるべきところもあるが、人間的には非常に尊敬できる方です。」
「『結果責任』とは何を指すか、それは基地が減らないということですよ。復帰の時とほとんど代わり映えしない。若泉さん本人は、沖縄が変換された後は政府が基地を削減して、沖縄の負担を軽くすると思っていた。それを信じていたからこそ密約を結んでも、できるだけ早く返還させた。」
後半は[北方領土問題]です。交渉の経緯が詳しく記載されています。
1956年、鳩山総理がモスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。その第9項に
「日本国およびソヴィエト共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト共和国連邦は、日本国の要望に応えかつ日本国の利益を考慮し歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。これらの諸島は、日本国1とソヴィエト共和国連邦との平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」
日本はこれに同意しなかった。
56年1月から3月までロンドンで交渉再開したが溝は埋まらず、その直後、ソ連はサンフランシスコ平和条約発効後・息をふきかえしつつあった北洋サケ・マス漁業に対して、カムチャッカ半島の東西両側を「漁業制限区域」に指定して事実上日本漁船を締め出す方針を通告してきた。河野一郎農林大臣がモスクワを訪問、ブルガーニン首相と交渉した。漁業条約・海難条約が「平和条約が発効されるか、国交が回復されることを条件として」締結されることになった。
1960年、ソ連政府声明(グロムイコ声明)が、この年締結の新日米安保の性格にかんがみ「日本領土からの全外国軍の撤退」という追加条件が実現する場合のみ、歯舞・色丹を日本に引き渡すといってきた。70年代~80年代ソ連は「領土問題は存在しない」、日本は「4島一括返還」を主張し、膠着上京になった。
1985年のゴルバチョフの書記長就任まで事態は動かなかった。
1991年、小沢自民党書記長がソ連を訪問した。ポイントは4島返還と日本の経済支援であったが、事態は動かなかった。
 09年5月12日、訪日したプーチンは、麻生総理との会談で「問題解決に向けたあらゆるオプシヨンが議論される」と発言した。
 ところが、5月20日参院予算委員会で麻生総理は「北方領土」はロシヤに「不法占拠」されていると発言した。「戦争で進駐しその地に留まることは不法占拠ではない」とソ連は考える。日本人は8月15日の終戦後にソ連軍が入ってきたから「不法占拠」と考えますが、ソ連は、終戦したのは9月2日の降伏文書に調印した時で、それまでは戦争状態であったから、ソ連軍の進駐は「不法占拠」にあたらないというわけ。
29日の河野駐露大使の信任状奉呈式で、外交慣例を無視し、「このような発言は、一方的で法的な枠を越えた受けいけられないもの」と激しく批判した。
動きかけていた交渉はご破算になった。