古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

知多半島の旅

2006-10-30 | 旅行
 27,28日と南知多の旅に出かけました。D社OB会のバス旅行です。
 10時、集合場所の旧D社本社前に行くと、旧本社は住宅展示場に変身していた。
 「何時から開業したの?」、「今月からみたいよ」、「じゃ、開業したばかり」。 30年余通った本社も工場も跡を止めない。時代の変遷を今更ながら思った。

 出発して、一路セントレア(中部國際空港)を目ざす。途中一度休憩したが11時過ぎ空港につく。「トヨタ空港」とも陰口をいわれる空港だが、一昨年2月万博前の竣工で、私は、初めて。
 最近は空の旅はすっかりご無沙汰でした。展望する伊勢湾のかなたに志摩半島がかすむ。目に沁みるような青空だった。
 セントレアホテルで昼食。その後、半田の「ミッカン酢の里」という酢作りの博物館を見学。
 ミッカンとは、勿論有名な酢のメーカーだが、社章が丸の上の三本線(創業家の
家紋、丸に三本線の三本線を丸の外に出したもの)であることから「三ツ環」の意味だそう。創業203年、創業以来「7万4千余日」の表示がでていた。
 工場は今も昔の外観をとどめるように、電線などは外部から見えないようにしている。工場の外の運河は昔は酢の運び出しに使ったもので、「黒澤明が『姿三四郎』の撮影でロケしました」と案内嬢が言う。
 ロケした昔には、この案内嬢はまだ影も形もなかったろうにと思った。
 酢というものは、案内嬢の説明によると、酒粕を3年寝かせて、その後各種の工程を経て出来るのだが、それぞれの工程に、また寝かせる期間があるから完成まで3年半かかるそうだ。
 見学後、今度は「野間大坊」に向かう。
 この辺りは、数年前、町村合併で「南セントレア市」になる筈だったが、このカタカナ市名に反対が噴出、住民投票にかけたら、反対が多くて名前どころか合併もご破算になった。
 そもそも「南セントレア」は「セントレアの南部」の意味で「セントレアの南に隣接する」の意味はないから、日本語の使い方として間違っていた。
 「野間大坊」に着く。源平の昔、源義朝が入浴中を襲われこの地で死んだと言う。「我に一本の木太刀もあればむざむざ殺されまいに」と最期の言葉を残したとの言い伝えがあり、彼の廟所の前には、木太刀を模した木片が山のように積み重ねられている。
 また戦国時代、信長の三男織田信孝が、柴田勝家と連合して秀吉に抗したが、遂に破れここで自刃したと伝えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%96%93%E5%A4%A7%E5%9D%8A
 4時過ぎホテル。ホテルは野間大坊の近くだった。
 「夕陽」と「料理」が売りの宿。展望風呂から見た落日は圧巻だった。対岸の志摩半島の島影に、真っ赤な火の玉がかかったと思うと、見る見るうちに沈んでしまった。「秋の陽は釣瓶落し」を実感する。
 「地球の自転のスピードってすごく速さだ!」因みに計算したら、地球の円周は
4万Km、一日で一回転だから、周速は40000/24=1667Km(時速)だ。新幹線の8倍のスピードです。

 翌28日。バイキングの朝食の後、部屋にもどると、皆 薬を飲んでいる。
「クスリ、たべてるんじゃない!」。まァ相部屋の6人は70代が4人だからしゃあないか!
. 午前は「えびせんべいの里」、「魚太郎」、岩屋観音を見てホテルに戻り昼食。昨夜の夕食もこの昼食も豪勢だった。午後は「国盛」の「酒の文化館」を見る。 岩屋観音以外はまるきり買物ツアー、田舎者の買物に徹して、リュックいっぱいでは足りなくて、手に大きなビニール袋を抱えての帰宅になりました。