古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

23日はウオーキング

2015-10-24 | 旅行
 23日は絶好のウオーキング日和。住宅のシニアクラブのウオーキングに出掛けました。
総勢9名(男2、女7)で、9時半出発。歩き始めたら、コンチャン「足が痛いの?」と私に言う。実は、暫く前から左足の裏が腫れて、歩くと痛いので気づかれないよう気をつけて歩いていたのだが、少し足をひきづっていたらしい。彼女にすぐ見抜かれた。
「ええ、左足を痛めてね」
地下鉄大曽根駅の3番出口を出て、南へ。さわやかなお天気で風も快い。名古屋銀行の角で左折。間もなくルーテル復活協会の前に来た。
建物の前の机にボランテイアのスタッフが2名座って受付をしている。今日は特別公開日で、教会のパンフレットと、アンケート用紙をくれた。ルーテル復活教会は、徳川園のすぐ北側に位置する。戦後のヴォーリズ(アメリカに生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家)の教会建築に共通した簡素な建物です。この頃の日本経済は高度成長以前で戦後しばらく続いた財政や物資、建築資材の欠乏が反映されているようです。同じ教会建築でも戦前の作品の方が華麗で凝ったものになっているのは、戦前の方がこの頃よりずっと豊かだったことを示している。 しかし、この教会を見てわかるように、こじんまりして質素ですが、可愛く親しみやすい感じを受けます。木造塔屋付。2012年に新たに文化庁の国登録有形文化財に指定されました。登録有形文化財、10月23日のみ公開
靴を抜いて上がらせてもらう。1Fに、礼拝室。

2Fに小さな部屋があり、牧師さんがいた。

吃驚したのは、建屋の芯柱が2Fの天井から顔を出している。2fから上の塔屋をこの芯柱が支えている。


30分ほど見てから教会をでて南隣の徳川園に行く。武家屋敷のような塀沿いに黒門口に回る。入場券(シニア料金100円)を買い、中に入る。
 庭園内は、ここが街の真ん中かと思われる樹々の中に滝があり、小鳥の声が快い。

ここで弁当を広げようかと思ったが、入場券に

「飲食はご遠慮ください」とあるので、外に出て、美術館前の広場のベンチに腰を下ろし、昼食をとる。12時徳川園を出て、南の交差点の南西にある徳源寺に行く。ここも今日は特別公開。ボランテイアが受付にいた。
ここは妙心寺派の禅寺で、修行寺として有名。禅堂には、全国から雲水が集まり座禅の修行をするそうだ。

川合玉堂の龍の天井画も公開していた。ただしレプリカで、本物は県美術館に「保存しているという。
「特別公開ってどうして知っていたの?」と聞くので、「10月の名古屋市の広報に載っていたよ」。
文禄元年(1592)織田信長の次男信雄が、熱田に 徳源寺の前身である「清涼山宝泉寺」を開創したのが始まり。寛文2年(1662)に昭和区石仏へ移り、「蓬莱山徳源寺」と改称した。寛保4年(1744)現在の地に移り、文久2年(1862)京都府八幡市(やわたし)円福寺の蘇山(そざん) 大和尚を請じて雲水修行の専門道場が創建。
禅堂は開単当時の建物で、戦禍から免れ、徳源寺最古の建物。平成10年解体修理ということだ。寺を出てから西へ歩き、赤塚交差点に出た。東北の角に赤塚神明社があった。
ここの特別公開は、古田織部作の織部灯篭、別名キリシタン灯篭。


庭に大楠公の銅像があったが、何故ここにあるのかわからない。湊川神社と関係があるのかな?


 
その後、西へ歩き、文化の道二葉館。
我国代書の女優と言われる川上音奴の邸宅を保存したもの。ステントグラスは当時としてはハイカラであったろう。

見終わってから、白壁のバス停に歩き、基幹バスに市役所に出る。住宅までわずかなのでみなさん歩くという。小生は左足が痛くなったので、みなさんに断わり地下鉄で帰った。5~6㎞歩いたと思う。2時20分帰宅しました。