古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

サブプライム問題

2007-11-25 | 経済と世相
 21日の中日朝刊に、浜矩子さん(同志社大教授)が、サブプライム問題を論じて寄稿していた。
【どうも納得がいかない。・・・「米国の低所得者向け高金利住宅ローン」あるいは「米国の信用力の低い人向け住宅ローン」がことの本質だとは考えられないからである。
 確かに、明らかに信用力不足の低所得者に対して、無理やり住宅ローンを押し付けるような融資行動には問題がある。】
【だが、今回、この問題を巡ってグローバル金融市場がこれだけ揺さぶられているについては、サブプライムローンそのものとは別の真犯人が存在する。その真犯人の名は「証券化」である。フルネームでいえば、「債権の証券化」。そは何か。要するに、これは請求書がたまり過ぎた飲み屋によるツケの切り売りのようなものである。・・・ツケの福袋を作って売り出す。飲み屋による新手の現金収入獲得術である。ついでに、貸し倒れのリスクも福袋の買い手に転嫁できる。これを世界の金融機関がやりだした。】
【だが、よくよく考えてみれば、一つの金融機関にとってのリスク分散は、世界の金融市場にとってはリスク拡散に通ずる。・・・かくして、一人にとっての福の種が、全体にとっては災いのパンドラの箱と化していく。ここに一つの合成の誤謬がある。ここにこそ、いわゆる「サブプライム問題」の本質がある。】というのです。

 私が思うことは二つ。
 一つは、こんないかがわしい福袋を買い込んだ日本のメガバンクの責任は問われないのか?サブプライムローンに投資した資金は、日本の預金者の金利を引き下げて集めた資金なのだ。
 もう一つ、世の中。損した人がいる時は、たいてい得した人がいる。誰が得したか?ローンを借りて家を建てた米国の低所得者は、借金のかたに建てた住宅を取り上げられる。その住宅を金融機関は処分するだろう。処分価格で安く住宅を手に入れる人が、最終的には得をすることになる。多分、それは米国人だろう。
 つまり、米国の金融機関は損をしても、最終的には、米国の誰かが得をするしかけ、それが「サブプライムローンの証券化」であり、そうした「証券化」を可能にするのが、金融のグローバル化だった。