古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

高村薫さんに同感

2004-06-18 | 経済と世相
尾張名古屋のNOZUEです。
 6月18日の朝日に、小説家の高村薫さんが、国政選挙の投票率に関し寄稿してい
た。
【近年の低投票率を特徴づけるのは、もはや「政治への無関心」や「政治不信」では
なく、国民国家という枠組みへの直観的な懐疑であろう。
 「国家という単位が効果的な機能を発揮しうる時代」の終わりを有権者が実感し始
めたという点で、事態は深刻である。こうした実感が生れてきた背景には、冷戦とい
う枠組みが消えた後に加速された自由主義経済の膨張やグローバル化があると思う。
 グローバル化には、主権国家という近代以降の基本的な枠組みを溶かしてしまう傾
向がある。たとえば「国境を越えた開かれた経済・金融体制」が広がる中、それぞれ
の国家が独力では自国経済をコントロールできない実情があらわになってきている。
・・・
 バブル崩壊後に進行した経済のグローバル化は、「市場原理に基づく自由競争」を
この国に広く浸透させた。小泉改革もこれに沿ったものだが、その結果、人々はこの
社会で生きていくことにひどく疲れているように見える。
 非常な競争が当然視され、老後の生活設計も含めた「未来」が自己責任とされ、経
済格差の広がりも放置されるような状況に、人は耐えられない。選挙へ行って社会を
変えようという能動的な発想が生れにくくなった内面的な要因は、この疲労感だろ
う。】

 一読し、小生が日頃思っていることと、全く同じ発想だと思った。これを、小説家
でなく、経済学者に言ってもらいたかった。

 首相の、最近の景気回復は「構造改革の成果だ」など、噴飯ものの言い草である。
昔は、政府が金を使えば、景気を刺激できた。今は、景気対策で金を使うと、その金
が国内を回らず(いくらかは回っても)中国や米国に行ってしまう。逆に、政府が金
を使わなくても、米国や中国が金を使うと、そのおこぼれが日本に回ってくる。ただ
し、国際競争力のある企業、ざっくばらんに言うと、中国や米国と取引のできる企業
にだけだ。だから、経済成長率が年6%であるとしても、昔は、国内すべてが6%成
長の恩恵に浴したが、今は、良い企業は10%も12%も成長するが、さっぱりの企
業はさっぱりである。
 従って、経済成長率と言う数字が、国民の経済的福祉を代表できなくなっていると
考えます。
 これが、経済のグローバル化であって止むを得ないという意見もあろうが、そうな
ら、経済のグローバル化は、喜んで推進すべきものだろうか?日本は、なるべくグ
ローバル化をサボタージュすべきだったのでは?百歩を譲って、サボタージュをしな
いとしても、その結果、不幸にして競争に勝てない人を救う社会保障網の整備に努め
るのが、政府の役割ではなかったか?
 そうした議論を、是非、経済学者にしてもらいたいのです。