古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

前立腺がんの再診

2017-02-23 | Weblog・人生・その他
前立腺がんの再診に西部医療センターに自転車を転がしました。22日9時です。
相変わらず混んでいて、受付、尿・血液の採取に10時までかかりました。その後、泌尿器科の窓口で再診申込みで、診察は12時頃だろうと、待合室で持参した新書本を読み始めました。このところ馴れてきて、待ち時間の過ごし方が上達しています。11時になって、受付表を窓口に預け、レストランに行き、昼食を済ませました。戻ってきて12時前に順番がきました。診察室に入ると、
「PSAは0.004です」、予想していた通りで大幅に減少している。でも「今の治療を続けましょう。薬を処方します。次は3月29にしましょう。この日に注射をします」。
これだけ、PSAが減っても、治癒したわけではない。前立腺がん細胞の活動が低下しているだけで、がん細胞がなくなったわけではないということらしい。
「薬の効果は確かで、尿検査の結果から見ても、副作用はないみたいなので、今の薬でいきましょう。」。
「薬が効かなくなることってあるのですか?」
「もちろんあります。そうなると、もっと強い薬に切り替えねばならないし、その結果、副作用の恐れがでてきます。まだ、その心配はないので、今のままでいきます」。
ということで、再診が終わりました。清算を済ませ帰宅したら、12時半でした。
西部医療センターの医師が言っていたが、前立腺がんを手術で除去するのは75歳以上は無理。放射線治療も80歳以上は無理。ということは、がん細胞の除去は出来ない。やれることは、がん細胞があっても活動しないようにすることで、それが薬治療ということらしい。
この調子では、死ぬまでのみつづけなければならないみたいです。


仏教について勉強しました

2017-02-21 | Weblog・人生・その他
。19日午前、姪のご主人の49日法要で半田市亀崎の姪の宅に行ったのです。10時半、真宗大谷派のお坊さんがきて始まりましたが、式次第のパンフをくれました。法事では、参列者が導師と一緒にお経をあげられるように経を載せた台本を配り、式終了後、和尚さんが集めて持ち帰るというのはよくあるのですが、その台本とは別にパンフレットです。表紙に故人の法名と今日の日付が記載されていますので、今日の法事のためのもので、持ち帰っても他では使えない。中身は式次第と忌明け法要の説明です。式次第を見ると、
総礼(そうらい) ご本尊・阿弥陀如来を仰ぎみて「ナムアミダブツ」のお念仏を称えます。
表白(ひょうはく)この法事の意味、私たちがどんな思いで勤めるかを宣言する。
和讃(わさん)漢文でかかれている「教行信証」に述べられている要の思想が、日本語の七五調で綴られる。親鸞聖人が晩年まで作成し続けられたものとか。
総礼
休憩
総礼
仏説観無量壽経
仏説
(ぶっせつ)お釈迦様がインドで説かれた説法を中国語訳したものがお経です。「仏説無量壽経」、「仏説観無量壽経」、「仏説阿弥陀経」を浄土三部経といいます。
二重念仏「勤行集」
二重和讃 煩悩にまなこ
伝説阿弥陀経
三重念仏 勤行集
三重和讃 仏恵功徳を
正信偈
(しょうしんげ)親鸞聖人の主著「教行信証」のエキスでm親鸞聖人の教えのすべてがここに集約されている。
同朋奉賛式
 念仏・和讃・
回向
(えこう) お勤めを通して聴聞した「私に南無阿弥陀仏が回向されている」という教えを、私だけでなく、すべての生きるものと共有し、ともに助かっていくことを、お勤めの最後に確認します。
お文(おふみ) 蓮如上人が書かれたお手紙。遠方の御門徒を当時の言葉でお手紙で用かされた。
こういう風に書いてあると、今何をやっているかわかります。
忌明け法要とは
 生きとし生けるものに必ずある日でありながら自分で知ることの出来ない日、それは誕生日と命日です。誕生日も分娩というように命日と同じく別れです。分かれて成長するのが生き物の常です。
 今日、誕生日を重くし、命日を軽くする傾向がありますが、かつての日本には、命日を重んじて誕生日を祝う風習はありませんでした。碑とはどう生きたかに重きを置いたことからきている。真宗僧侶の清沢満之は「生のみがわれらにあらず、死もまたわれら也。我らは生死併有するものなり」と言いました。亡き人との別れを通して、私の生き方を問い直す。それが七七日(49日)をお勤めする意味です。
親鸞上人は、「親鸞は父母の孝養のためとて一返にも念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』)と言われる。救われなければならないのは、亡き人ではなく、すべての生きとし生けるものを、世々生々の父母兄弟なりとうなずけないわが身です。

真宗大谷派では、忌明け法要とは追善供養の仏事ではなく、命の尊さをかみしめつつ故人をしのびそれを縁として仏恩報謝の心を深める、皆様方一人一人が主役の仏事です。
これを読んで清沢満之って聴いたことがある、確か司馬遼太郎さんが激賞していたっけ。
その後、図書館で、週刊朝日(2月24日号)を見ていたら、「親鸞に新たな光を当てた思想家・清沢満之への思い」という記事があった。
 歴史の流れに浮き沈みしている膨大な人々から司馬さんが救い上げたことで、私たちが知るようになった人物は数多い。そのうちもっとも一般に知られざる人物は清沢満之だと私は思う。
この人を司馬さんが表に出したんは、「中央公論」昭和40年4月号の「近代日本を創った宗教人10人を選ぶ」。宗教学や近代日本思想史、日本近世近代史の方々を選考する場だった。神道の千家尊福、仏教の島地黙雷や大谷光瑞、キリスト教の上村正久や新島襄、大本教の出口王仁三郎など明治以降の宗教者の中で、司馬さんが誰よりも強く推したのが、清沢満之。
<明治後期では清沢満之の存在が大きい。それまであった浄土真宗という民間に根差した、比較的高級な信仰が、彼によって近代思想に耐えうるようになった。>
清沢満之は10人のうちに選ばれ、司馬さんが「清沢満之と明治の知識人」の欄で紹介している。(『司馬遼太郎歴史歓談.Ⅱ』(中公文庫所収)
幕末の尾張藩の足軽組頭の家に生まれた清沢がどうして東本願寺と関わるようになったか。東大文学部哲学科で最優秀な成績をあげながら東本願寺の僧に何故なったか。結核を発病し、長男、三男と夫人に先立たれ明治36年、41歳で逝った清沢の生涯と性格、その<驚くべき発見>とそれが及ぼした影響を、司馬さんは熱を込めて書いている(山形)
パンフの裏には真宗大谷派の最重要とみているらしい4人が紹介されていた。
ご本尊 阿弥陀如来。どんな者でも、選ばず嫌わず見捨てず、仏法の働きそのもの
お釈迦様 仏教の教祖。インドでブツダ(悟った者)となられその悟りの内容の阿弥陀如来の働きを説いている。
親鸞上人 真宗の宗祖お釈迦様の教えを聞き開き、阿弥陀如来の救いを自らの上に証かされその救いの内容を私たちに明らかにした。
蓮如上人
 本願寺第8代留守職 親鸞聖人没後見失われていた真宗を再興された。

お昼おごちそうになった後、弟の車で大府駅に送ってもらい4時過ぎ帰宅した。
仏教を勉強した一日になりました。


続・私の松の内

2017-01-10 | Weblog・人生・その他
6日昼12時、ホームプールの東区市営プールに出掛けました。ホームプールの初泳ぎです。個人メドレーの順で4種目を25mずつの100mを10セット泳いできました。
一応泳げましたが、1週間休んだためもあるだろうか、25m泳ぐと息がはずみますから、まだまだ本調子には戻っていません。
7日は姪のご主人がなくなって葬儀に行きました。8:40JRの大府駅に、弟に車で迎えに来てもらいました。妹も一緒です。30分のドライブで、知多市亀崎の公民館に着きました。ここが葬儀会場。ふと思ったのは、私が同一人の結婚式と葬式に出席するのは初めてです。
 会場には小さな折りたたみ椅子が並んでいました。今日は足が楽だ。
 9;45、司会者の本日の予定の説明、「享年63」という。10時から葬儀が始まりました。真宗大谷派の住職ということで、多分ありがたいお経なのだろうが、私には最後の「ナムアミダブツ」以外全然意味が分からない。11時、出棺。マイクロバスで、霊きゅう車の後をついて知多市の斎場に着く。周辺の山茶花の赤い花が満開でした。大きな斎場で、本日は3名の火葬予定が記されている。窯の前で最後のお別れ。喪主が故人のメガネをはずした。12時から火葬が始まった。別室で食事を供され故人をしのぶ話が交わされた。
「どこがわるかったの?」
「肺らしいよ」
余りに急の死亡だったから、脳溢血かな?と想像していたが、肺だという。
「肺結核?それとも肺がん?」
「知らないけど前から病院に入ったり出たりはしてたみたい」。
1時20分から納骨。弟と一緒に箸で骨を拾いました。
 2時、またマイクロバスに乗って公民館へ。もう一度お坊さんが来て、仏様になった故人にありがたいお経をあげてもらいました。
 3時に終わり、大府駅まで送ってもらい、4時半帰宅しました。
 以上、私の松の内でした。

私の松の内

2017-01-07 | Weblog・人生・その他
三が日は無事に終わりました。
元旦は午前中、八事の菓子屋に行き手土産のカステラを買い、帰途なごやドームのイーオンの書店で小説本1冊を買いました。伊東潤著、「江戸を作った男」、河村瑞賢の伝記です。二日までに読み終わりました。3日、弟の家に集まり兄弟会をやる予定で、兄弟共に歴史小説が好きですので、読み終えて弟にプレゼントするつもりでした。兄には同じく伊東潤の「天下人の茶」(千利休と秀吉の葛藤についての新説を題材にした小説)をプレゼントするつもりでした。
 伊東潤はこの10年、歴史小説を書き続けて、史料の解釈が面白いので愛読しています。
信玄の死から長篠合戦までを描く「天地雷同」、それに村田新八を軸に西南戦争を描く「武士の礎」などが面白かった。
3日11時に東浦町の弟の家に行く。例年大府の妹の家でやっている兄弟会、今年は弟の家に変更した。妹が脚立から転倒して背骨を骨折したから、今年は出来ないというからです。
 もう77歳になる。骨粗しょう症がでる年頃だから骨折しても不思議はないが、
「いったいどうしたの?」顔を見て聞くと、
「脚立に乗ってガラスを葺いていて転倒した」という。「何時?」、「昨年の10月21日」
「もう2か月も経つ。どうして転倒?」
「地震よ。鳥取で大きな地震があったでしょう」
「鳥取の地震で愛知県で転ぶの?」
名古屋でも震度3とTVのニュースで言ってたわ」
「そう?10月21日、記憶ないなぁ」
3時半ごろまでいろいろ話して今年の兄弟会は終わった。
最後に「Tさん(兄の長女のご主人で電器店経営)、今日急に具合悪くなって入院したって」という。
「Tさん、まだ60にはなっていない』と思うが・・・妹は言う。
『うちの電気製品は全部Tさんから買っているから、何かあったらすぐTさんに来てもらうことにしてる。「貴方に生きていてもらわないと困る」といったら「大丈夫!まだ生きてる」って言ってた』。
 ところが二日後Tさんが急逝。土曜日葬儀になった。自分たちは無事に終わったお正月だが、周辺では無事でない人もいる。
4日は仕事始め。私の仕事始めは病院通いです。
 朝、自転車で西部医療センターに行きました。。
待ち時間で「ドアホノミクスの招待(浜矩子・佐高信共著、講談社α新書)を読み終える。。
いつも通りの手順で、12時診察でした
「PSAは0.006とまた下がっています」と先生は言う。しかし、
「前回チェックした肺の影もあるので(放射線治療に切り替えず)注射と投薬を続けるのがいいと思います。次回は2月22日にしましょう」。お腹に注射します。(転移を防ぐ注射)。
「一寸痛いけど辛抱してください」
痛いのはお腹でなく財布の方だった。
帰り際に先生が言った。
「今日は夕方風呂に入ってもいいですよ」。聞き返しました。
「これから泳ぎに行こうと思いますが、プールに入ってもいいですか」。
「今日は止めておいて。注射の傷口から水が入るから。」
水泳事始めは明日に延しました。
会計で7800円ほどの請求。1割負担ですよ。ちくっと打つだけで8万円近い注射だ。
この日は12時半帰宅できました。
あくる日、家の前の薬局で薬を貰いました。
「今年もよろしく。お元気でしたか。」と薬剤師が言う。
「なんとか生きてます。生きていくことが仕事ですから。生きてないと年金が貰えないのです」。
薬代が2300円。前日の注射代と合せて1万円札が飛んで行ったことになる。
午後、プールで初泳ぎ。
「どうしたの?」と仲間に聞かれて気づきました。お腹の注射の痕が5㎝ぐらいの円の範囲、紫色に変色していた。(続く)




前立腺がんの診察の日

2016-11-17 | Weblog・人生・その他
今日は前立腺がんの診察の日だ。6週間ぶりに11月16日朝、西部医療センターに自転車を走らせました。いつものように受付、血液検査・尿検査の検体採取、泌尿器科受付を済ませ、待合室で本を読み始めました。
池内了著『科学者と戦争』、2016年6月刊の岩波新書です。11時過ぎに、まだ大分時間がかかりそう、とレストランに行き30分ほどで昼食を済ませました。名前を呼ばれたのは12時5分、ほぼ新書を読み終えた頃です。
「PSAは0.007です」。入室すると先生がまず言いました。「経過は良好ですね」。
「CTの画像診断ですが、肺のかげは依然としてありますが、面積はかなり小さくなっている。ちいさくなっているということは、薬が効いているということ。薬が効いているということは、このかげは前立腺がんが肺に跳んだものと判断されます。今の治療を続けましょう」。
「今日は注射の日でないから」。「えっ注射の日でない?」
「前回の注射が10月5日、次の注射は3か月後ですから、1月4日に来てください」。
来年か!今年は、前立腺がんに振り回された1年だった。
検査結果と薬の処方箋を貰って終わりました。来年も1年間薬を飲み続けないといけないようですが、これも自分の運命とあきらめなくてはいけないでしょう。

前立腺がんのチェック

2016-10-05 | Weblog・人生・その他
10月5日、「前立腺がんのチェックの日だ」と自転車を転がして出掛けました。
雨は降ってないが、今にも泣きだしそうな空模様です。「台風が近づいているらしいから早くかえってこないと」。
 9時半に西部医療センターについて、いつも通り受付、保険証チェック、尿・血液の採取と進む。
採血順は121番だったが、10時には終わり再診の受付をすませた。
これからが長いんだ。今日は「大栗先生の超絃理論入門(ブルーバック)を持参して読み始めた。
この本はなかなか面白い。読み応えのある本ダ。
11時にカフテリヤに行きランチを取る。戻って来てもなかなか順番が来なくて、結局、診察室に入ったのは13時。
3時間待たされた。
「PSAは前回と同じ0.009です」と先生が言う。
「それだけ低くなっても薬を飲み続けないといけないですか」と聞いてみた。
「そうです。」一息ついてこういう。
「薬を止めて良いというためには、放射線でがん細胞を叩いてしまわないといけない。
最初の画像診断でがんの転移かも?というところが肺に見つかった。
他の臓器にすでに転移していたら、前立せんがんをたたいても意味がない。もう一度肺のCTを見て放射線治療の可否をみます。今日、帰りにCTを撮ってください」。「次回は11月16日にしましょう。その時CTの結果もお話しします」
「あれっ、80歳を超えたら放射線はやらないといっていおたが、気分がかわったかな?」と思ったが、異論は唱えないことにした。
「グロブリン注射をやります」。傍らのベドに寝かされ、お腹に筋肉注射して診断を終えた。
 その後、画像診断室に行きCT撮影の指示書を提出したら、「若いですねー」と受付の看護婦が言う。
「若い?もう80歳だよ」。「ですから、若い!そんな年に見えない」
CT撮影は直ぐ終り、会計を済ませたら2時近い。
「雨の降る前に帰ろう」と急いで帰宅したら2時でした。

がんと付き合う

2016-09-19 | Weblog・人生・その他
 14日「前立腺がんはどうなったかな」
自転車を転がして西部医療Cへ。9時に着いた。いつもより早かったが、採血室は超満員。受付機に並んで92版の番号札を貰う。今日は再診の前にレントゲ写真を撮るように指示されていたので、画像診断室で胸部X線写真を撮ってもらい、泌尿器科の再診受付に10時。いつもここからの待ち時間が長い。持参の「単純な脳、複雑な心」という池谷裕二さんの本を1時間ほど読んだ。11時に受付に断って食堂にランチを摂りに行く。結局診断は12時。
医師「PSAは0.009で、前回よりさらに低下しています。胸部写真の影は前回より大きくなっている様子はありません。治療の効果は上がっていると思われますから現在の治療をつづけましょう。」予想通りの話だったが、X線写真について聞いてみた。
「写真のどの部分が、転移が疑われるんですか」
パソコン画面に写る画像、右肺の上部を指して「ここです」と言うが、色が薄くなっているようにも見えるが、それ以外にも少し色の薄い部分があるようで、そちらが問題なくて、何故右肺上部が問題なのか、私にはわからない。
いつもの薬の処方箋を貰い、「今度は10月5日、血液検査と注射をやります」。
 これだけ、PSAが低くなっても治療を続ける必要があるのかな?
手術が出来れば患部を切り取ることが出来るのだが、75歳以上では手術ができない。放射線治療は80歳以上は出来ないし、転移を防止するために放射線をあてるのだから、既に転移していればやっても仕方がないので、転移を調べているうちに80歳になってしまう。薬療法を続けるだけでは根本的に治っているかはわからないので延々と薬を飲み続け、血液検査でチェックしつづけるということらしい。
「まぁ仕方ないな」再診を終え12時過ぎ帰途につきました。
翌日、かかりつけの若先生のところに行きました。ここには毎年健康診断の都度胸部写真を撮っているので、聞いてみた。
「以前の胸部写真で異常な箇所がみられますか?」
若先生は直ぐ昨年と6年前の胸部写真をパソコン画面に写し出した。「どちらもほとんど同じですね。どこが転移が疑われるというのですか?」。右肺上部を示すと、「若い時、肺炎など患うとその影が残っていることは良くありますが、がんの転移かどうか、私にはわからない」。
「そのうちにPSAは、0.001未満になると思いますが、それでも薬は飲み続けることになると思います」という。
結局、すべての動物はいずれは死ななくてはならない。何時までも生きていたら子や孫の食糧を奪う結果になるので、「死はプログラムされている。しかし、人間は医療の進歩、文明の進化で、病気を克服し、なかなか死ななくなった。そこで、どうしても死なないヒトに死んでもらうために神が用意した病が“がん”である。だから簡単には治らない。
 死ぬまで薬療法を続けることになるだろう。
 前立腺がんの報告は、病状の変化のない限り中断することにします。

前立せんがんの再診

2016-08-19 | Weblog・人生・その他
17日は、前立せんがんの再診察のため西部医療センターに出掛けました。9時に家をでて、自転車で10分ぐらい、病院に着き、再診受付。保険証が更新されたのでその確認。いつもと同じように、機械からプリントされた指示を持って採血・採尿を済ませた。
その後、泌尿器科の窓口に行くと、2番の診察室前で待ってくださいという。
いつものことながら、それからの待ち時間が長い。毎回馴れているから、今回も文庫本を持参して読み始めた。
『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著、新潮文庫)で、先月刊行されたばかりの本である。
これは意外に面白かった。3分の1ほど読んだが、読了後、後日みなさんに紹介しようと思う。
あまり待たされるので、11時頃食堂に行きランチを採って戻ってきたが、それからも長く待たされて結局、診察してもらえたのは12時半、9時半から3時間の待ち時間だった。
診察室に入り、いつものように氏名を告げる。先生が今朝の検査の結果をプリントしてくれた。問題のPSA値は0.015で、前回(0.021)よりさらに下がっている。
「検査数値は良好ですから、このままの治療を進めましょう。来月はCTを採ります」と、薬の処方箋と9月14日の予約書をくれた。
結果が良くても延々と同じ治療が続くのだから厄介な病気。
痛くもかゆくもないから治療しなくてもいいのだが、「治療をしないと転移する」と脅されている。会計を済ませて帰宅すると1時。広島新庄の高校野球は終わっていた。

前立腺がんの再診

2016-07-06 | Weblog・人生・その他
7月6日は西部医療センターに前立腺がんの再診を予約していました。9時過ぎ自転車を転がして10分たらず、医療センターに着きました。
再診受付で保険証と診察カードを窓口に出します。毎月、保険証のチェックがあるので、窓口のお姉さんに提出します(チェックがなければ自分で受付機に診察券をインプットすればいいのだが、)。端末で保険証番号をチェックした後、当日の指示を印刷してくれます。
 ⑬窓口に行き、検体をとってくださいとある。⑬窓口の機会に診察券を入れると、採血の順番票と採尿のコップが自動で出てくる。いつも通りです。しかし、順番は111番になっている。採血室をのぞくと50番台が採血している。まだ60人くらい跡だ。まだ9時20分なのにもう100人以上来ている。今日も待たされそうだ。トイレに行き採尿し提出したのち、廊下の椅子に腰かけ読みかけの本「すべての疲労は脳が原因」を読み始めた。
『これまで
疲労の原因物質とされてきたのは「乳酸」でした。乳酸は、体内で糖質を代謝してエネルギー源として利用するときに生ずる物質ですが、長らくこの乳酸が疲労の原因だと医学界ではいわれてきました。が、現在では否定されています。
 乳酸=疲労物質説の源流になったのは、イギリスの著名な研究者アーチボルト・V・ヒル(1922年ノーベル生理学医学賞受賞)が1929年に行った実験の論文による。「カエルから取り出した筋肉に電気刺激を当たるとパフォーマンスが落ち、平行して乳酸値が上昇した」という報告です。
この説は近年、複数の実験で「反証」されました。ラットやマウス、ウマなどの実験で「乳酸を投与しても、なにごともなかったように運動し続ける」とう結果が次々に発表されたのです』
このあたりまで読んだとき順番が来て、採血してくれました。その後、泌尿器科窓口⑫に行くよう言われました。
「②診察室の前でお待ちください」と言われて待っていたが11時20分を過ぎても順番が来ない(予約は10時半~11時)。腹が減ったので「レストランで昼飯をとってきます」と断り4Fのレストランでランチを取りました。戻ってきて順番が来たのは12時15分ごろ。
再診室に入り名前を告げると先生が「PSAは0.021で、さらによくなっています」という。
「転移の画像診断をしますか?」、「いやこれだけPSAが低いと画像を見ても小さくてわからないでしょう。」
「ではどうしたらいいですか」、「薬あ効いているのですから今の治療を続けて結果を定期的にフォロウしましょう」ということに。
「転移を防ぐ注射はやるのですね、」、「そうです」
「その薬ですが、1月と4月に注射したところが、固くしこりになり皮膚の色もかわっているのですが・・・・」とお腹の皮下注射の痕を見せると、「駐車の痕に塗る薬を処方します。それと今回は注射を変えましょう。そこのベッドに寝てください」とその場で注射した。「一寸痛いですが、辛抱してください」。確かに痛かった。
 次回は8月17日とのこと。当分。投薬を続けるしかないようでした。
その薬!会計に行って請求書を受け取ったら、」1割負担なのに約7000円!
がんの薬って高いものですね。これではお腹の皮膚も痛いけど財布も痛い。
早く帰って、大リーグの前田の放送を見ようと急いで帰ってきたのですが、前田は4回0/3でノックアウトされたらしくマウンド上に見られませんでした。残念!

厄介な病気

2016-06-08 | Weblog・人生・その他
8日10時、自転車を転がして西部医療センターに行きました。先日(5月25日)にCT画像診断をやってもらったので、その結果を聞くためです。
大混雑していました。隣に座った人が12時頃「9時半の予約なのに。3時間またされることになる」とぼやいていました。私は10時半の予約ですから1時頃まで待たされそうです。覚悟していたので、「司馬遼太郎の言葉②」を持参して半分ほど読みました。
 なんためのCTか、というと、前立腺がんが他の臓器に転移するとたいへんなので、最初に前立腺がんが発見された時点でcTで全身を診断したのですが、その時、肺に転移がんが疑われる影が発見された。小さな影なので、がんと断定はできない。若い頃、肺の病をすると、影が残ることもあるそうです。3ヶ月間隔ぐらいでCT画像を観察しようということで、今回までに3回CT撮影をしました。回を重ねるごとに影がちいさくなっています。
3時間待たされて午後1時診察室に入った。
「前回は5mmぐらいでしたが、今回は4mm程度です。」結構な話に思えるのですが、そうでないらしい。「影がちいさくなること自体はよいことですが、小さくなった原因が薬の服用だとすると、薬が効くということは、この細胞はがんだ、すなわち、がんが既に転移していることになります。」
「がん細胞と断定はできるのですか?」
「小さすぎて断定することができません」。「小さすぎて組織を採取して検査することもできません」。
要するに分からないということらしいが、影が小さくなっても問題で、大きくなったら尚問題だということ。
「もし、がんが既に転移しているとしたら、放射線で前立腺のがんを叩いても意味がありません」。
「どうすればいいわけですか。」
「とりあえず現在の治療を継続しましょう。現実に効果が上がって順調ですから。10年、経過が順調なら治癒したことになります」。
『10年・・・』
一般に前立腺がんの治療は投薬、放射線照射、手術の三つがあるが、手術は75歳以上の患者に適用できない。放射線も80歳以上では無理だという。
放射線治療をすべきかどうか考えているうちに80歳を超えそうですから、現状の投薬と注射を続けるしかない。
「1月と4月に腹部に注射をしたのですが、その部分にしこりが出来て触ると硬くなっているのですが問題ないでしょうか」
「問題ありません。そういう注射です。しこりになった部分に薬が溜まっていて時間をかけて体内に回っていきます」。
「予定通り29日に次の注射をやりましょう」で診察を終わりました。
結局、時間ばかりかかったが、状況は以前と同じ。10年治療を続得ないとは、厄介な病気になったもの!
 ここは北スポーツセンターにちかいものですから、再診が終わったら、プールに行き泳ぐつもりで水着の支度をしてきたのですが、結果があまり面白くなく、待たされくたびれて泳ぐ気持ちにならず、昼飯を食べて2時帰宅しました。