Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

スペイン語クラス、打ち上げ。

2008-06-12 13:32:12 | アメリカ生活雑感
地元でお友達を増やしたい、勉強途中になっていたスペイン語をまた復活したいという気持ちから、1月に行き始めた“スペイン語ー英語・Exchangeクラス”。
地元に住む、英語をもっとうまくなりたいスペイン語スピーカーと、スペイン語を練習したい英語スピーカーが集まって、気軽に会話を楽しもうという試みで、毎週火曜日の夜に近所の教会に場所を借りて集まっていた。

ここに来ているスパニッシュはほとんどがメキシカン。中には夫婦で参加している人もいる。仕事先で英語を使うので、ご主人(男性)のほうが英語には慣れ親しんでいるようだが、奥さんはなかなかつらい場合が多い。子どもたちは学校に行き始めるとどんどん英語を身につけるので、親も追いつかなくなるらしい。スペイン語で話しかけても英語で返ってくる、その速さについていけずに聞き返すと「もうええわ!」と言われる、とある奥さんがしょげていた。
アメリカで暮らす外国人共通の悩みだ。

途中、帰国で3回休んだ以外は休まずに根性で通い続け、今週でひとまず最後。
おかげで地元に多くの友人ができ、なんといってもスペイン語がさらに身近になり、最近はPちゃんママとメールをやりとりする(といってもほとんど辞書頼りだけど)のがすっかり楽しくなった。

今日は、このクラスに来ているアメリカ人のスティーブのおうち(というより土地)で盛大な打ち上げパーティー。
いつものように、サラダやフルーツ、手作りのデザートを持ち寄ってのポトラック形式。
アメリカのパーティーのいいところは、こういうときにはみんな気軽に家族を連れて来ることだ。普段はあんまり出席率がよくないクラスだけれど、この日はわいわいがやがやにぎやかしい。
前回の打ち上げに参加したPちゃんも、このパーティーのために早く帰ってきた。
普段は滅多にしゃべらないスペイン語を嬉々としてしゃべるPちゃんは、ドイツ語や英語をしゃべるときとは全く違うキャラクターになる。メキシカンのスペイン語は、Pちゃんママのしゃべる早口の本場スペイン語とちがって親しみやすく、会話がしやすいんだそうだ。
ひとりだとなかなか会話に入りにくいときも、配偶者が一緒だと倍の人たちと知り合いになれるから便利。




裏庭には馬もいてビックリ。


子どもたちは、キャンディーのいっぱい詰まった紙製の人形を叩き割る「ピニャータ」というゲームで大騒ぎ。


フェイ(左)とリディア(右)
リディアは英語も上手で、スペイン語を教えるのが上手。
家もすぐ近所なので、これからはたびたび遊びに行こうっと。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだまだ続く、ブルース・フェスティバル。熱いぜ!

2008-06-10 04:11:16 | music/festival
夕べはふたり揃って知り合いのバースデー・パーティーにお呼ばれし、帰宅は午前様。
土曜日の今日は例のごとく昼頃までだらだらモード。今日はどこへも出かけずに英気を養うかと思っていたけれど、しばらくダウンタウンに行っていないPちゃんの虫が夕方になってうずきだした。
「ねーシカゴ行こうよ。ブルース・フェス見に行こうよ。」
今日行くんだったら午後の“Chick Rogers”をこそ見に行きたかったのに、それを逃してしまった私はいまひとつ気分が乗らない。今から行っても最後のほうちょろっとしか見られないんだもん・・。
でも、いつも私のやりたいようにやらせてくれるPちゃんの気持ちを尊重して出かけることにした。
途中の高速は大嵐。こんな状態で野外鑑賞は無理だな。今日はどっかのブルースBarでも流すか・・などと考えながらシカゴに着くと、奇跡的に雨はピタリとやんだ。
運よく近くに路駐できたので、ささっと腹ごしらえをしてメインステージへ向かう。





野外ライブの必需品は“ござ”でござい。
ここから前方の巨大スクリーンを見るのが一番。



7:15-8:25のTheodis Ealeyの最後のほうを見ることができた。
他のステージがすべて終わったあと、人が一気に流れ込んできて大混雑。
でも、まだましかも。


日が暮れていくにつれ、バックの高層ビルが雨上がりの夜空にキラキラと輝いて幻想的。


今日のトリは Buckwheat Zydeco。
懐かしいニューオリンズサウンドに酔いしれる。



帰り道で。
スペイン人アーチスト、Jaume Plensaがデザインした、ミレニアム・パーク名物の"Crown Fountain"ではで子どもたちが水浴びをしながらおおはしゃぎ。
すぐ横で大人たちはブルースに熱狂し、子どもたちはここで水遊びに興じる。
この“老若男女・人類みな隣り合わせ”の開かれた雰囲気は、まさしく公園のお手本。
それにしても午後10時過ぎにこんなに多くの子どもたちが遊んでいるなんて。日本じゃまずない光景だな。


暑がりのPちゃんもここで水遊びをしてほっと一息


**  **  **  **  **  **  **  **

で、翌日曜日。
またしても夕方から行動を開始した私たちは、車を出したついでに「ええい、行ってしまえ!」と再びダウンタウンへ。
今日は朝からストーム警報が出っ放しのシカゴ、着いてみるとやはりあちこち水びたしだ。
でもアメリカ人はそんなことぐらいではひるまない。昔、ニューオリンズのジャズフェスに行っていたときも、必ず一度は土砂降りになるのをもうみんな知っていて、靴を手に持ってどろどろになって歩いていたもんな。身なりなどかまっていられないのが野外フェスの掟なのだ。(そんなこともあろうかと、泥んこになってもいい格好をしてきた私であった。)


今日は反対側から入ってみました

なんといっても今日の目玉は、オオトリのB.B.King。
泣く子も黙る、キング・オブ・ブルースだ。
こんな豪華なブルースの祭典が、無料で楽しみ放題なんてもうどうにかしているぜ、シカゴ!!


7時を過ぎたころからもう、どんどんどんどんと人が集まってくる。


7:35-8:05  Little Willie Littlefieldのブギウギピアノが冴えわたる。



スクリーンのよく見える場所に場所取り完了。
今日は“一番絞り”を完備。


日が暮れて、ビルが瞬き始める


さすがのキング!出てくるだけでもう貫禄が違う。
高齢と巨体(?)のためか、椅子に座って体を揺すぶらす御大。
お肉がゆらっゆらっとグルーブするのがなんともお茶目でかわいらしい。
実際に演奏していた時間は全体の半分ほどだったが、シカゴの夜景と夜風と生のキング・オブ・ブルースというこのシチュエーションだけで、もうたっぷりでございます(感涙)
Mercy,Mercy.....


あ~やっぱり来てよかった!!
Pちゃんも昨日よりはるかにテンションがあがっている。調子に乗って飲みすぎ(隣のおっさんが帰りがけにビールをくれたのでそれも飲み干し)これじゃ運転は無理なので帰りは私が運転手。
帰宅したとたん、ものすごい雷雨に。
なんちゅう一日や!!
どうにかしてるぜ、シカゴ!!

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Blues, Blues,ブルース!!!

2008-06-07 04:26:41 | music/festival
一日一度どかんとストームがやってきて、外に一歩出ると肌に湿った空気が肌にじっとりと吸い付く。
いよいよシカゴの夏到来だ。
この間までときたま雪さえちらつくような天気だったのに、まったくアメリカちゅうところは天気までおおざっぱや。

夏といえば屋外イベント。屋外イベントといえば、音楽。音楽といえば、Blues!
というわけで、今年もやってきた「シカゴ・ブルース・フェスティバル」(6月5日~8日まで)
今年は25周年のくぎりの年でもあり、出演陣も超魅力的だ。4日間ここで寝泊まりしたい気分だ。

先日、数少ない日本人のお友達のひとりであるクニコさんから「一緒に行かない?」とお誘いを受け、初日の木曜日に彼女のママ友達も募って“日本人駐妻(私を除く)ブルースフェスツアー”を決行した。
夜半まではイリノイ各地にストーム警報がでていて大嵐が吹き荒れていたが、朝には雨は止みお昼ごろには太陽が照りつけて蒸し蒸しねっとりとした空気が肌を包む。

午前11時(←自分だけだとありえない時間帯!)にシカゴ美術館前に日本人駐妻ママさん(私以外)総勢5人が大集合。
この方たち、日ごろは子どもたちの学校の行事やら送迎やらご主人の世話やらなんだかんだで一人の時間を持つこともおろか、滅多にシカゴダウンタウンに来る機会もないんだそうだ。みなさん私よりシカゴ暦はうんと長いのに、中には「(いつもは車で通り過ぎるだけなので)ミシガン通りを歩いたことがない」という方も。もちろん、ブルース・フェスティバルも初めての経験らしい。ああ、もったいなや。
そんなお母さんたちを、この遊びにだけは抜かりのない“不良主婦”が不肖ながらご案内させていただくとこになったわけ。
とはいっても、彼女たちに与えられているのはたったの2時間ぽっきり。1時にはここを出て再び子どもたちをお迎えに行かなければならないんだって・・。
私って、相当自由だったのね。
かくして私は2年ぶりとなるブルース・フェスに胸を躍らせていざゆかん!


今日の“ツアー”メンバー 

さて、初日の一発目に見にいったのは、日本人ブルースギタリストでアメリカ在住22年目のSHUNこと菊田俊介氏が出演する、ギブソン・ステージの「パトシリア・スコット&J.W.ウィリアムス」のステージ。
SHUNさんを初めて見たのは昨年6月のカリフォルニア“Russianriver Blues Festival”。
“ブルースの女王”ココ・テイラーバンドの専属ギタリストが日本人だったことをはじめて知り、演奏後にさっそくごあいさつにうかがったのが1年前。シカゴに来てから早く生演奏を見たいと思いつつもなかなか実現できなかったので、今日はその夢がやっとかなうというわけだ。

平日の昼間ということもあって最初こそ人もまばらだったが、途中から熱いサウンドに誘われてどんどんと観客が集まってきた。初日のスターターとして申し分のない重すぎず軽すぎずの心地よいブルースサウンドが、グランドパークを吹き抜ける風に運ばれていく。私たちはステージ正面の道路で踊りながら声援を送る。
ふと後ろを振り返るとそこはシカゴの高層ビル群がそびえ立ち、太陽の光できらきらと輝いている。「あ~シカゴやな~」と感じる一瞬だ。
サンフランシスコでもなくNYでもなく。日常とビジネスが隣り合わせになって融合しているのがシカゴなのだ。

(撮影/クニコさん)

(画像)
(画像)


SHUNさんたちのステージの途中で、早くもお母さんたちはもう帰る時間。
ひとりになったあとは再びギブソンステージに戻りさっきのバンドを最後まで楽しみ、そのあとはMississippi Juke Jointステージで“A Day with Jimmy Burns featuring the Chicago's Round Robin”、U.S.Cellular Porchステージで“Professor Fernando Jones Columbia College Blues Ensemble”“David “HoneyBoy”Edwards and Friends (Billy Branch, Louisiana Red, Paul Kaye, Aron Burton, and Johnny Yard Dog Jones) ”
Maxwell Street Cornerで“ Piano C. Red”と続けて見る。

全体的に今年の演奏は「熱い」。で、音が「厚い」。
どのステージに行ってもその場を立ち去りがたいくらいの熱気が迫ってくる。
特に、1915年生まれ御年92歳(まもなく93歳)のギタリスト、David “HoneyBoy” Edwards
椅子に埋もれるように腰掛け、思いのままに口ずさむブルースにバンドのメンバーも合わせるのに必死。急にリズムが変わったり終わったりするのも、なんだかこの人なればこそ許されるという感じ。「自宅の玄関先の階段に腰掛けて、一人でギターを爪弾いて歌っているじいさん」という風情がいい。ここまでくればもう無形文化財の域だ。そんな彼に、観客も惜しみないスタンディングオベーションを送るのだった。

(画像)


1933年生まれのPiano "C" Redは、昼間はタクシードライバー、夜はブルースピアニストとして、Muddy Waters, B.B. King, KoKo Taylor, Buddy Guy, Little Walter, and Junior Wellsなどのシカゴのミュージシャンらと40数年競演を続けてきた。(彼のキャブに乗ってみたい!)2006年3月、ガソリンスタンドで銃撃されて麻痺が残りしばらくの間彼の演奏を見ることができなかったが2007年のブルースフェスから復活を遂げたという。

(画像)


ここまで見たところで急にさっき飲んだビールがふんわりと回ってきて睡魔に襲われた。よっこいしょっと木の陰に腰を下ろしたらそのまんま爆眠。
心地よいミシガンからの風にそよがれ、ブルースサウンドを聴きながら意識が遠のいていく・・・まさに極楽だ。

1時間近くも昼寝したあとで、Mississippi Juke Jointステージで“ Jimmy Burns Blues Band ”を聴く。
決めのきいたブルース・ロックのリズムが、起きぬけの体の五臓六腑に染みわたる。


さぁ、今日はここまでとしよう。
とにかく初日をたっぷり楽しんだし、週末にまたふたりで来ようっと!

(おまけ)
午後8時すぎ、家に帰るとPちゃんが汗だくになりながら玄関前の芝刈りをしていた。
「楽しかったあ?」
「うん。楽しかった。さぁ、ごはんだごはんだ!」

Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イリノイ南下の旅 その3~リンカーンの町へ。州都スプリングフィールド

2008-06-05 03:34:50 | 旅行
アーミッシュの町を名残惜しく後にし、次に向かうは州都、Springfield(スプリングフィールド)。



ダウンタウンに入り、市内のホテル9時過ぎにやっとチェックイン。
さて夕食を、と町に出たはいいが午後10時前にはもうどこの店も次々と閉店。予定外のレストラン難民と化す。

「え?ここって州都ちゃうのん?」

結局この晩は、ただ一軒あいていたスポーツ・バーで若者たちの絶叫を聞きながらビールとチキンウィングでおしまい。とほほ。


**  **  **  **  **  **  **  **  **

6月2日、日曜日。

今日の目的は、「リンカーンを知り尽くす」。
スプリングフィールドはリンカーンが大統領になるまで弁護士としてキャリアを積んでいた町。当時の住まいもそのまま残されている。
とにかくどこへ行っても、リンカーン一色。本当にアメリカ人はリンカーンがお好き。

さて、今日一番に訪れたのは、もちろんここ。「リンカーン・ミュージアム(Abraham Lincoln Presidential Museum)」




あなどるなかれ、この博物館、見所満載、仕掛けいっぱいで時間がいくらあっても足りないほどの充実ぶり。
館内を大きく分けると、リンカーンの歴史を展示物で追った「歴史の旅」コーナー、(ここはさらに「幼少期から大統領になるまでの時代」と、「ホワイトハウス時代~暗殺されるまで」の二つのブースに分かれている)、リンカーンの人物像を紹介する映像シアター「The Union Theater」、リンカーン・ライブラリーを舞台に、ここに住みつくさまざまな“亡霊たち”が次々と現れる「Ghosts of the Library」、リンカーンに関しての一問一答コーナー「Ask Mr. Lincoln」などで構成されている。

館内を一歩入ると、まず広場にはリンカーン一家が。


頼んでもいないのに、カメラを持ってここにいるだけで「撮りましょうか?」と係りのおばちゃんに声をかけられた。
断るのもなんなので、観光写真を一枚。


リンカーンの身長はPちゃんよりも高かった、というのがまず新鮮な驚き。
リンカーンには4人の息子がいたが、次男のエドワードは5歳のときに病死。ここにいるのは長男ロバート、三男ウィリアム、四男トーマス。
しかし、ウィリアムはリンカーンが大統領就任後すぐ、ホワイトハウスで病死(11歳)、トーマスも1871年に18歳で亡くなっている。
これを知ってここに立つと、一見“肝っ玉母さん”の妻、メアリー・トッドにこの後訪れる運命が切なく胸をしめつける。



リンカーンが幼少期を過ごした家が再現。ここからリンカーンの歴史ツアーその1がスタートする。


独学で読み書きを学んだ幼少期、ミシシッピ川をいかだ船で下ったときに始めてかいま見た奴隷売買の衝撃、初恋の女性を亡くして絶望のどん底をさまよった日々、その後ふたりの女性との婚約、そしてメアリー・トッドとの結婚。
弁護士としてのキャリアを着実に築いたのち、州議会議員へ、そして大統領への立候補とドラマは続いていく。
1860年、4候補がしのぎを削った大統領戦の様子が、現代のニュース風に再現されていて、アンカーが選挙戦の行方を「What a mess!」と締めくくるのもいかにもアメリカらしい仕掛けで笑えた。

「ホワイトハウス時代」は、南北戦争時代そのものでもあった。
大統領就任後は自らの政策(信念)の遂行と戦争との間でもがき苦しむことになる。61年と65年(亡くなる前)当時のマスクが展示されていたが、一見しただけでわずか4年間での疲労困憊ぶりがわかる。65年のマスクを見た彫刻家は「これは紛れもなくデスマスクだ」と語ったという逸話も紹介されている。
「奴隷解放宣言をした偉大で尊敬すべき大統領」としてアメリカの子どもたちは教科書でリンカーンを学ぶけれど、奴隷は真に解放されたわけではなかった。第2次大戦を超える戦死者を出した壮絶な戦いを招いたのもまた、リンカーンなのだ。
“ヒーロー”には必ず裏と表がある。
リンカーン礼賛度100%に脚色された館内には黒人の姿はひとりもなかった。今も変わらないアメリカの「白人の正義化・ご都合主義」に少し辟易として浮かんだ言葉は、「勝てば官軍」。

とはいえ、多くのことを学んだ。
特にPちゃんは博物館や美術館に行くと必ず一日仕事になるくらいのめりこんでしまうので、結局閉館近くまで時間をたっぷりつかってしまったが・・。

そのあとは走るようにあとの観光名所に駆け込む。


旧州議事堂(Old State Capitol)とその内部



で、これが現在の州議事堂


この人が「リンカーンとのディベートで」有名になったダグラス。
政治家としてのキャリアは彼の方が長かったが、リンカーンのカリスマ的演説にはかなわなかった。
それを見て思い浮かぶのがオバマ氏。彼も初めは劣勢だったのに神がかり的ともいえる演説で逆転劇を演じた。
アメリカで奴隷開放の歴史的一歩をふみだした15代大統領リンカーンは、44代に初の黒人大統領になるかもしれないオバマ氏をあの世から見守っているだろうか。




旅の最後の観光ポイントは「リンカーンの家」。
このあたりは「リンカーン・ネイバーズ」といって当時のご近所の様子がそのまま保存されている。
大統領になりこの町を華々しく出て行ったリンカーンが再び戻ったのは、暗殺後の長い長い葬儀の最後だった。


さぁ。これから帰路は55号線をシカゴに向かって北上するのみ。
これがあの、旧“ルート66”だ。


帰りは私が3時間ぶっとおしで運転手。
あのRt.66をぶっ飛ばしているのかと思うとなんだか達成感がふつふつと沸いてくるのであった。

(おわり)
Comment (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イリノイ南下の旅 その2~アーミッシュの町。Arcola(アルコラ)&Arthur(アーサー)

2008-06-04 07:18:20 | 旅行
翌土曜日、6月1日。
昨日の天気がウソのようにピーカンのばかっ晴れ。
この蒸しっと空気が肌にすいつく感じは、まるでニューオリンズのよう。わずか2時間南下しただけで、ここはもうすっかり南部という気分になる。




今日の目的は「Amishを知りつくす」。
朝一番に訪れたのは、「Illionis Amish Interpreter Center」。
1994年に設立されたこのセンターでは、アーミッシュに関するさまざまな資料展示と20分ほどのビデオ上映をしている。ここでまずひととおりアーミッシュのことを学んでおくと、いろんな意味でその後の行動がとりやすい。




■ Amishの歴史
アーミッシュの歴史は16世紀のヨーロッパ、ルターによる宗教改革にまでさかのぼる。
1525年以降スイスでは一部の教徒がローマ・カトリック教会から分離しプロテスタント(新教徒)教会を立ち上げる。彼らは自ら“再洗礼(rebaptized)”を行い“再洗礼派教徒(Anabaptists)”と呼ばれるようになるが、従来のカトリック教会から異端とされきびしい迫害を受け、ヨーロッパ各地、とりわけドイツやオランダに逃れていった。
1536年、メンノ・シモンズ(Menno Simons)というオランダ人神父が彼らの指導者になり、信者たちは“メンノナイト派(Mennonites)”と呼ばれるようになる。
1660年代から90年代にかけて、スイスで再び迫害が始まる。1690年代にスイスの再洗礼派のリーダーになったヤコブ・アマン(Jakob Ammann)は、メンノナイト派から分離独立してより規律の厳しい宗派を立ち上げた。これが“Amish”の始まりだ。

1710年、断続的な迫害から逃れるためにメンノナイト派の信者たちは“新大陸”アメリカ、ペンシルベニアに移住、それに伴いアーミッシュたちも移住を開始する。
30年代にはさらに多くのアーミッシュたちが移り住み1800年までにはその数は500人に達した。

イリノイにアーミッシュがやってきたのは1865年。Moses Yoder、Daniel P. Miller、Daniel Ottoという3家族が、肥沃な農地を求めてアルコラに移住したのが始まり。そして現在、アーサー&アルコラ併せて4500人のアーミッシュが定住している。


アメリカにおけるAmishの分布図



最初にラテン語からドイツ語に翻訳されたした聖書も展示されている/




■ Amishの暮らし
自らの規律に基づいた質素で穏やかな生活がアーミッシュのモットー。
個よりも共同体を重んじ、従順、素直、謙虚な生活を何百年もひたすら守り続けている。
移動手段は車ではなく馬(車)、農耕にはトラクターではなく馬力を使い、華美なドレスではなく質素な服装で身を包み、男性は結婚後はひげを生やす。
家では電気は一切使わず、個々の家庭に電話はなく、ラジオ・テレビなどの現代テクノロジーも一切使用しない。電気の代わりの動力源は主にガス。(ガス式の冷蔵庫、扇風機なども前述のセンターで見ることができる。)壁には絵画などの装飾品は一切なく、ただひとつカレンダーだけは宗教上許されている。
アーミッシュの子どもたちはアーミッシュコミュニティの学校に8年生まで通い、その後ハイスクールへは行かない。(16歳になると“外界”を見に行くことを許され、数年“武者修行”に出ることもあるが、ほとんどはアーミッシュのコミュニティーに戻ってくるという。)
コミュニティ内での共通語はペンシルベニア・ダッチと呼ばれる古いドイツ語。

そんな彼らの暮らしも、ここ数十年の間に激変する。
農地の拡小や土地の値段の高騰、穀物価格の値下がりによって農場経営が難しくなったアーミッシュは次々に他のビジネスにも手を広げ始め、中には多くの従業員を雇うほど家内工業を拡大する人々も見られるようになった。
それまでは非アーミッシュとの接触を極力避けてストイックな暮らしをしていた彼らも、観光客が彼らの重要な顧客になるにしたがって外の世界とも交わることを余儀なくされ始めた。それにより、ビジネスに限っては電化製品の使用、たとえば携帯電話やコピー機、車の使用も一部認められるようになった。

Illionis Amish Interpreter CenterWebサイトより。)


センターの受付をしていた女子大学生(彼女はAmishではないという)に話を聞くと、現在アルコラ市内にはいわゆるアーミッシュはほとんど住んでおらず、みな郊外で暮らしているそうだ。
この町は、いわゆる“観光地としてのアーミッシュ村の玄関”として機能しているように思われる。それは、そのあと隣町のアーサーに移動してからはっきりとわかった。アーサーは、アルコラに比べるとアーミッシュ度100%。展示も説明もいらない、町そのものがすっぽりアーミッシュの世界だったのだ。


アーサーへの道すがら見つけた“メンノナイト教会”。
うしろの駐車(?)場にずらりと並んでいるのは、バギー。



こうやって、馬たちはつなぎ停められている。




アーサーのダウンタウンには、車とバギーが同時に行き交う。
不思議な光景だ。



スーパーにも“駐馬車場”が完備。




お墓に刻まれた名前は、Miller、Otto、Yoderなどほとんどがドイツ姓



洗濯物を見れば一目瞭然のアーミッシュの家。
赤いのはバンダナ。きっと子どもたちのものだろう。
アーミッシュの家庭は一般的に7~9人という子だくさん。
それも、この広大な土地を守っていくためなのだと実感。
子どもたちは小さいときから親から職業訓練を受けて育ち、女の子は12歳で料理をマスターするそうだ。




これが典型的な女性の装い。ボタンは一切使用しない。



地元の観光案内で教えてもらったアーミッシュ経営のグロッサリーストアでは、まさに“産地直産物”が売られていて、地元の人たちはもちろん観光客も買出しに来ていた。
私たちはここで、蜂蜜、各種香辛料、シリアルなど100%ナチュラルなものを買い込む。



12~3歳くらいのお姉ちゃんが4~5歳の妹を連れて買い物に来ていた。
とっても愛らしかったのだが、アーミッシュは写真を撮られることを嫌うので顔を識別写真は撮ってはいけないのが掟。



“HOMESTEAD BAKERY”。ここのパン&パイはおいしいらしいが、残念ながら5時過ぎで閉まっていた。
アーミッシュの町では、すべてのお店は午後3時~5時には閉店、日曜日はお休みなので事前にチェックが必要。




見渡す限りの大平野。ため息の出るほど広大な農地。
ここを、文字通り“馬力”だけで耕す彼らの暮らしに脱帽する思い。
しかし、彼らからすればこれが何百年もの間続けてきた日常なのだ。
今回、ストームの真っ只中に放り込まれてあわてうろたえた私はつくづく彼らに畏敬の念を抱かざるをえない。
ラジオもなければ天気予報や避難警告放送もないこの平原の真っ只中で、彼らは大自然と対峙しながらこの生活を続けてきたのだ。
学校で科学を学ばなくとも、生活そのものが“科学と学習”の世界なのだ。

道で馬車とすれ違うたび、アーミッシュの人たちは必ず静かに片手をあげてにこやかに「ハイ」と挨拶してくれる。それがとても爽やかで心地よい。
アーミッシュはその質素な暮らしぶりから閉じられた世界をイメージされがちだが、実際はこちらがはっとするほど朴とつとして明るい。



アーサーの中心部には、アンティークショップやアーミッシュの特産物であるキルトの店が立ち並ぶ。
今度訪れる機会があれば、化学薬品を一切使用しないという手作りの木工家具を是非買いたいな。





*イリノイのアーミッシュに関するWebサイト : http://www.illinoisamishcountry.com/
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イリノイ南下の旅その1~波乱の幕開け

2008-06-04 00:46:48 | 旅行
Pちゃんのフォローウィークを利用して、先週の金曜日からイリノイ南下のミニ旅行をしてきた。
フォローウィークというのは、昨今の予算削減政策をもろに受けた職場(研究所)から「この週は働いてはいけません。給料も出ませんから~」と宣告されている週のこと。

さて、これが今回のルート。

B)アルコラ
C)アーサー
D)スプリングフィールド

アルコラとアーサーは、アーミッシュの町として有名。
“アーミッシュ”とは、スイスを原郷とするドイツ系の移民で、もともとは17世紀のヨーロッパの宗教弾圧から逃れ、自由を求めて新天地アメリカに移住した宗教一派をさす。
アーミッシュの人たちは、電気や現代テクノロジーを一切使わない質素な暮らしぶりで知られ、みな制服のように統一された黒・グレー・紺色の服をまとっているのも特徴だ。
彼らのことは映画や、ときどき町で見かけたりする程度でしか知らなかったのだが、イリノイにもアーミッシュの町があると知って、ふたりそろって是非訪ねようと即決したのだった。

そして、スプリングフィールドは実はイリノイの州都。
シカゴが州都だと思われがちだが、実はここ。「リンカーンの地元」としてアメリカ人にも人気の観光地のひとつ(らしい)。

この旅で、まだ知らぬイリノイのこと、アメリカのことをたっぷりと吸収してこよう!と意気揚々と出発したのはよかったが、のっけからとんでもない旅になるとは・・・・


ガソリンは日増しに高くなり、この日は4.25ドル/ガロン。
われらの心強い味方プリウスくん、がんばれ!

出発したのはいいけれど、折りしもこの日は夕方からイリノイ南部に雷雨とトルネード(竜巻)の警報がでていた。
57号線を下るにつれて雨足は異常に激しくなる一方、プリウスくんはずぶぬれ状態。






アルコラに到着した頃には、ラジオが一斉に警報を流し始めた。「安全なことろに非難してください」。
これにはかな~りビビった。
温暖化の真っ只中に自分がいるんだと実感。でもこれを招いた国でだけは犠牲になりたくない。

そのあたりで適当に飛び込んだ宿で今晩は一泊することに。
次の町のアーサーまで行きかかったところをいやな予感がして折り返し、アルコラに宿を見つけて大正解だった。アーサーにはモーテル、ホテルなど公共の宿らしきものが何もなかったのだから・・

(つづく)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Bo Diddley dies at age 79

2008-06-03 07:38:42 | アメリカ生活雑感
シカゴ育ちの偉大なるミュージシャンで“ロックの父”、“エレクトリックギターの教祖”、ボ・ディドリー氏が死去した。(本名はエラス・マクダニエル)
アイオワでのツアー中に持病の心臓発作を起こして以来、リハビリ中だった。79歳だった。
ストーンズやクラプトン、ザ・フー、ブルース・スプリングスティーンなど、影響を与えたミュージシャンは数え切れない。

今まで、ありがとう!
謹んでご冥福をお祈りします。
天国でどんととセッションしてね。


「Bo Diddley dead at 79」


Bo Diddley performs in New Hampshire in 2006. The rock and roll legend died Monday at 79. (The Keene Sentinel photo by Michael Moore / October 26, 2006)

Chicagotoribune.com:
http://www.chicagotribune.com/news/chi-ap-obit-diddley,0,7264344,full.story
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする