Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

Art is a permanent accusation

2007-01-30 12:45:07 | アメリカ生活雑感

"A Conversation With The Artist"

Fernando Botero
Robert Hass, Professor of English, UC Berkeley
Poet Laureate of the United States (1995-1997)


世界的に有名な南米コロンビア出身の画家Fernando Botero(フェルナンド・ボテロ)の作品展示会が、日からUCバークレーのメインライブラリーで始まり、そのオープニング“対談”セミナーを聞きに行った。
UCバークレー・ラテンアメリカ研究センターの招聘によって実現したこの展示会は、ある意味歴史的な快挙でもあった。

その理由のひとつは、ボテロ氏の展示作品“Abu Ghraib”にある。
アブ・グレイブとは、一昨年イラク戦争の捕虜に対するアメリカ兵による虐待・拷問が明るみになったあの悪名高き捕虜拘置所の名前である。無抵抗のイラク人捕虜たちをいたぶり、あざけるようにして撮られた写真の数々は、国内外に強いショックを与え世界中から怒りと批判を浴びた。
もともと、反戦・反暴力・反人道主義の作風で知られるボテロ氏はこの事件にショックを受け、87の“Abu Ghraibシリーズ”を一気に描き上げたという。
このシリーズの始まりを、ボテロ氏はこう回顧する。

“The whole world and myself were very shocked that the Americans were torturing prisoners in the same prison as the tyrant they came to remove.”“The United States presents itself as a defender of human rights and of course as an artist I was very shocked with this and angry. The more I read, the more I was motivated. ... I think Seymour Hersh's article was the first one I read. I was on a plane and I took a pencil and paper and started drawing. Then I got to my studio and continued with oil paintings. I studied all the material I could. It didn't make sense to copy, I was just trying to visualize what was really happening there.”

しかし、実際彼の作品を進んで展示しようとする美術館は、アメリカ国内では氏自らが運営するMarlborough Gallery(NY)以外にはなかった。いくつかの美術館からは、いずれもセキュリティー上の理由から展示を断られている。(サンフランシスコのCopadianco Galleryがボテロ氏の作品を展示した直後に心無い人々からの嫌がらせにより建物が破壊され、2004年に閉館に追い込まれた。)
これとは対照的に、ヨーロッパではPalazzo Venezia(ローマ)ほか何の問題もなく展示を成功させている。

そんな状況の中で、今回ボテロ氏の作品展示に尽力したのが、UCバークレーのラテンアメリカ研究センターだった。
もともと反戦運動発祥の地、リベラルかつコントロバーシャルなレクチャーには定評があるのがUCバークレー。ラテンアメリカ研究センター長のHarley Shailen氏は今回の招聘をこう語る。

“You may noto like the art, you may not like the message, but it is something worth discussing.”“A library is a place which has enormously controversial and provocative idea at its core.”

かくして、今日は“Abu Ghraib”シリーズが西海岸で初展示されるという、歴史的な日となったわけである。


さて、前段が長くなったが本日のセミナー。
会場となったInternational House前は、開演1時間前にすでに何百人という長蛇の列。
列に並んでいる30分の間に、いかにもアクティビスト(活動家)と思しき人たちから「イラク戦争反対」「ブッシュ政権を糾弾せよ!」という内容のビラを何枚も渡された。リベラルな土地柄は結構なのだが、この手のレクチャーがあるたびにどこからともなくこういう活動家たちがやってきては、本来の目的を叩き壊していくのには閉口する。
ボテロ氏は芸術家であり反戦運動化ではないのだ。ピカソが“ゲルニカ”を描いたように、彼の内なる怒りを描かずにはいられなかったのだ。決して人々の記憶から失われないように。

“People would forget about Guernica were it not for Picasso's masterpiece...Art is a permanent accusation”
(ゲルニカがピカソの傑作でなければ、人々はその事件(1937年 スペイン・ゲルニカにおいてフランコ軍を支援するドイツ軍が町を空爆し罪のない多くの市民の命を奪った事件)を忘れてしまうだろう。・・・芸術とは、永遠の告発である。~Botero~

実際、対談形式によって進められたセミナーのあとの質疑応答場面でも恐れていたことが起こった。
場をわきまえないアクティビストたちが質問のマイクを奪い取るや、ボテロ氏を「イラク反戦の神様」のように崇め奉り、「あなたを作品こそ道路添いに展示されて戦争反対の士気を高めるにふさわしい」などとぶちあげた。500人ははるかに超すと思われる聴衆もこれにはうんざり。
一緒に見に行っていたDedeも「これ以上の質問には耐えられないわ。気分が悪いからもう帰りましょう」とその場を離れてしまった。

それにしても、74歳にして今なおど迫力のボテロ氏に、芸術のバクハツを見た日だった。




Fernando Botero with paintings from his Abu Ghraib series, 2005.
(photo: AP Wide World)

Fernando Botero, the most famous living Latin American artist, will display his Abu Ghraib paintings at the University of California, Berkeley.
These 47 paintings and drawings belong to a long tradition of artistic statements against war and violence that include Goya's Caprichos and Picasso's Guernica.
Organized by the Center for Latin American Studies, these paintings have never been displayed in a public institution in the United States. The exhibit was "proposed to many museums in the U.S," according to the artist, but all declined to show it.
The New York Times said the images "do something the harrowing photographs of the naked, blindfolded and tormented prisoners do not: they restore their dignity and humanity without diminishing their agony or the absolute injustice of their situation."
The Financial Times reported, "Full of vivid primary colours, they [the oil paintings and drawings] are reminiscent of the work of socially conscious Mexican muralists such as Jose Clemente Orozco and Diego Rivera, artists who fascinated the young Botero in Medellin."


Abu Ghraib 67 Abu Ghraib 74

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ヨシオさんの魂。

2007-01-28 09:38:17 | アメリカ生活雑感
1月21日(Sun)

先月亡くなったヨシオさんのおうちの後片付けを有志で行う。
ヨシオさんの住んでいたアパートは、ROSE通りの坂を上ったところ。引越し後の私たちのアパートからは歩いて10分ほどという近さだった。ご近所になったよしみで、これからはちょくちょく鍋でもやりましょうね、と言っていたのに、こんな形で再びここを訪れることになろうとは運命とはむごいものだ。

スシ・カルフォルニアのオーナーでヨシオさんとは20年来の友人であるリョウジさん、スシカルで一緒にライブをしていたブルースマン・ヒデオさん、セイヤさん、ギター職人のミチさんと私の5人でそれぞれの思いを胸に、捨てるもの、ドネイションに引き渡すものに分別しながら黙々と整理に取りかかる。
壁にかけられた古い写真や大好きだった飛行機の模型など、ときどき手を止めて見入ってしまう。どれも簡単には捨てられないものばかり・・。
残された楽器類は、使う機会の多い音楽仲間で引き取ることになった。私はヨシオさんが練習用に使っていたカシオのキーボードと、残された3つのギターのうち一番古い愛用のギターを形見としていただいた。(あと、木刀も・・・)
家に持ち帰ってきれいに汚れをふきとり、リビングにセッティング。なぜか、ずっと昔からそこにあったかのようにしっくり空間になじんだ。
今年はがんばってまたピアノを練習しよう。


大切に大切に、使わせていただきます。
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ソファーのある生活

2007-01-28 08:42:45 | アメリカ生活雑感
年末にいきなり引越しを決行した後ばたばたと旅行に出かけたため、我が家はまだ未完成状態、足りないものがけっこうある。
そのひとつがソファー。今度の家はフローリングではなくカーペットなので、日本人の私としては床でごろごろできてうれしいのだけれど、Pちゃんにとってはソファーのない生活は耐えられないらしい。椅子状のものに座らないと部屋に居場所がないのだそうだ。
そこで御用達のリサイクル・売りたし買いたしサイト“craigslist”で早速ソファーを探したところ、これがちょうどうってつけのIKEAのソファーが売りに出ていた。購入10ヶ月というがまだまだ新品に近い。定価349ドルのところを175ドルで早速購入することにし、隣町Albanyに住む売り主お兄ちゃんのアパートにふたりで受け取りに行くことに。
受け取るといってもなにせ普通の車では持ち運べない大物だが、そこは便利なCar Share制度、いろんな車種を場合に応じて選べるようになっているので今日はトラック(TOYOTA Tacoma)を予約し私がPちゃんを職場近くで拾っていざ出陣。

かくして家にやっとソファーがやってきてPちゃんはもうご満悦。小さな豆型のテーブルが付いているので、ごろごろしながらの読書やお茶タイムにもぴったり。座面も広いので私なら十分ごろ寝ができる。
リビングがやっとリビングらしくなってきてちょっとうれしい。
次はこれに合うテーブル・・というところだがこれはおいおい手に入れるとしよう。


大好きな「スタートレック」をお楽しみ中。 今日のワインはスペインをしのんでRIOJAワイン。
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神に召されて~Japanese Elvisよ永遠に~

2007-01-27 10:02:04 | アメリカ生活雑感
私たちがその悲報を受け取ったのは、2回目のマドリッド到着の夜だった。

スシカル仲間でもあり4年来の友人でもある、あの“ジャパニーズ・プレスリー”ことヨシオさんが亡くなったという知らせだった。
亡くなったのは昨年末のクリスマス直後らしいが、ずっとメールをあけることができなかった私はこの日になってはじめてこのことを知ったのだった。
覚悟はできていたとはいえ、突然の知らせに私は頭の中が真っ白になり、ペドロはその場で子どものように泣きじゃくった。

体の芯から湧き出るような力強く深い歌声と、なりきりペルベス(腰つき)で、いつもいつもオーディエンスを魅了し続けた真のエンターティメント・ヨシオさんの実生活は、長年にわたる病魔との戦いの日々だった。
週3回の透析生活に加え、最近になって骨に移転したがんの激しい痛みに悩まされていた。けれど、ヨシオさんは人には決して弱気なところを見せなかった。

クリスマスには、ナオさん宅のパーティーでいつもの歌声をたっぷり聞かせてくれたという。その夜いつもと変わらぬ様子でみんなに手を振り帰宅したあと、苦しむことなくそっと神に召されたのだ。最後の最後まで大好きなプレスリーを歌い、そしてたった一人で旅立ったヨシオさん。

1月7日、アメリカでのHOMEだったあのスシカルで盛大にメモリアルが開かれ、100人を超す友人・知人たちがヨシオさんをしのんで集い、歌い見送ったそうだ。奇しくもその日はエルビスの命日(日本時間)だった。


1月10日
ちゃんとお別れもできなかった私は、スシカルにお花を手向けに行った。

スペインに行く直前、ふたりで年末のご挨拶にスシカルに行った際、「来年にはスシカルの仲間たちでまたCD録音しましょうね!」と堅く握手したのがヨシオさんとの最後だった。
昨年夏に、スシカルでヨシオさんのライブ録音が行われたときには遅れて参加することができなかったことがどうしても悔やまれる。あのときせめて一曲、一緒に歌いたかった・・。思えばあのCDを作るときにはヨシオさんは死期を悟っていたのかもしれない。
先日そのときのCDが完成し、店内にはヨシオさんの歌声が流れていた。このとき、彼は本当にいなくなってしまったのだと初めて気づかされた。

この日はたまたまナオさんのサプライズお誕生会をする企画があり、私もそのままサプライズに参加させてもらうことにした。
明日、日本に帰国されるヨシオさんのご兄弟(ヨシオブラザーズはアメリカでも3人でよくライブをやっていた。私も参加させてもらったことがあった)とナオさんを囲み、飲み、語り、和やかなひとときが流れた。
今日は水曜日。ヨシオさんがいつもここでライブをする日だ。「ヨシオさん、ここにいるよね」とみんなで明るく飲んだ。


ヨシオブラザーズとの共演(2004年5月)


これからもずっとずっと、私たちと一緒にいてくださいね、ヨシオさん。



Yoshio Nakagawa
April 20,1941~ December 26,2006






Yoshio Nakagawa was born in April 1941, in the midst of World War Ⅱ. Just a week after his birth, his father, Kenich Nakagawa, passed away. When the War ended in 1945, Yoshio's family was evacuated to Chiba prefecture. Following the war, Yohio's mother went to work in Tokyo, leaving yoshio, his brother and sister in the care of their aunt. Yoshio was later left in the care of his step-father's family. His childfood was difficult, to say the least.

When Yoshio was in high school, he was given his first guitar by a friend. He quickly learned the guitar and made his musical debut, performing Neil Sedaka's "One Way Ticket" at a school festival. At age 19, Yoshio formed a band with his brother, Tuneo. They turned professional and performed the latest hit tunes at US Army bases. In the 1970s, Yoshio left his music behind and began working for a computer company, but drawn by his music, later returned to performing, playing bass and keyboards for shows at US Army nases.

Yoshio came to the U.S. in 1982 and worked in a Bonsai shop in San Francisco Japantown. In 1994, Yoshio met Hideo Date in an English class at the Berkeley Adult School. They became friends and began playing music together, performing at many parties. In 1995, Sushi California began its live Monday night music session with Yoshio and Hideo performing. In the years since, Yoshio has shared his music with many throughout the Bay Area, touching our lives with his heartfelt renditions of our favorite songs, wonderful Elvis imitations, beautiful voice, and ever kind spirit.

Unbeknownst to many, Yoshio struggled with serious health problems for the past several years, including kidney failure which required ongoing dialysis, prostate cancer and other challenges. Despite this, Yoshio maintained his sweet disposition throughout. Cognizant of Yoshio's health challenges, several of his friends collaborated to document his music in a live recording session on August 20, 2006, when his first CD was recorded at Sushi California. Those who attended had the privilege of witnessing a special day for Yoshio, who seemed delighted to play for the many friedns who had gatherd to honor him and his music. In the months that followed, Yoshio was involved in the process of finalizing that CD as his photos were taken for the CD covers and the music from the session was edited and mixed. Although Yoshio did not live to see the CD fully completed, he no doubt felt the care and love of those who contributed to documenting his work as the process was underway. That CD will soon be finished and allow us to revisit many musical moments with Yoshio over the years.

On December 26, after performing enthusiastically at many holiday events in the days prior, Yoshio died suddenly of heart failure. His passing leaves one less twinkling star in our lives, but our memories of his humility, kindness, and sweet smile will keep him firmly etched in our hearts.




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Adios! Spain <いきなり最終回>

2007-01-25 06:28:52 | 旅行
というわけで、いろんなことがあった3週間のスペイン滞在も、ついに幕を閉じる日がやってきた。

ビザのやり直しを無事に終えマドリッドからビルバオに戻った私たちをバス乗り場で出迎えてくれたママは、寝起きでぼーっとした私の顔を見るなり全てを察知したかのように「フラストレーション、ネ」といってハグしてくれた。やっとホームに戻った安心感で、私は正直ほっとする。
明日、私たちはついにここを離れアメリカに戻る。1年ぐらいすごした感じだ。
「今日はお買い物(バーゲン)にでも行って、最後に楽しんできなさい」というママのお言葉に甘えて、Pちゃんと私はサンタンデールに気晴らしに行くことにし、お土産やら秘密のプレゼントやらを買い込んだ。

スペイン最後のディナーは、ママの得意のポークソテー特製ソース添え。
外食先のレストランではいつもタバコのせいでピリピリして楽しめなったので、久々に家族で囲んだ夕食はことさらにおいしく感じた。


まじで、めちゃうまかった。
“ザ・洋食”というかんじ。

ここで、私たちのサプライズ企画。
実は、明日はママのバースデー。旅立つ前に、私たちで一日早いバースデーのお祝いをしようともくろんでプレゼントを用意していたのだ。


私たちからのプレゼントは、毎晩手作りの食事を用意してくれたママへの感謝の気持ちをこめて、エプロン。
先日マドリッドで見つけたお店で「オリジナル刺繍」を入れてもらったもの。
「Marisa, La Reina de la Cucina besos, Pedro & Shoko」
(Marisa、キッチンの女王さま。 kiss, Pedro &Shoko)
このアイデアが大受け。ママ大喜び。


1月9日
朝3時半起床。4時にノハの家を出て、マヌエルにビルバオ空港まで送ってもらい別れを告げる。
今日でここを離れるのか・・と思うと、ようやくひと冬の合宿を終えたかのような感傷が沸いていてきた。

この3週間で、自分の伴侶がどんな環境で生まれ育ち、人間形成にどんな影響を受けてきたのか(大げさだけど)をいろんな意味で確かめることができた。これは私にとって大きな収穫だった。
家族との葛藤、人種差別によるいじめ、自分はいったい“何人(なにじん)”なのかという悶々とした自問・・平和な一日本人として屈託なく育った私には想像だにできない苦しみと、この人は兄弟もなしにひとりで戦ってきたのだろう。
これからはちょっとやさしくしてあげなけなきゃな。

午前9時半、フランクフルト空港に到着。ここで最後の大イベントが待っていた。
次の乗換えまでの4時間を利用して、フランクフルトに住む大親友HODAに再会することになっていたのだ。
3年前、Berkeleyの語学プログラムでクラスメートだった彼女と私は、そのときから言葉では言い表せない深い友情の絆で結ばれていた。HODAに会うのは、2003年に私がドイツを訪問して以来、実に3年ぶりだった。

ロビーで私たちを待ち受けていたHODAは、私の顔を見ると飛びついて窒息しそうなほどのハグとキスの嵐。そして目には涙。おいおい、泣くなよ~。
この日初めてHODAに会うPちゃんも、普段から話を聞かされているせいか昔からの友人のように打ち解けて久々のドイツ語トークを堪能していた。



同じチケットがとれなかったため、デンバー経由のフライトとなりひと足お先にチェックインしたPちゃんを見送り、そのあとはふたりで怒涛のおしゃべり。
お互いの近況やBerkeleyの人たちの近況、HODAとダンナのミシャエル(別居中)とのこと、将来の計画などなど・・。
話はとどまるところを知らず、気がつけばもうチェックインの時間。アメリカでの再会を誓い合い、別れのハグをして一路サンフランシスコへ向かうのであった。

私はサンフランシスコ直行便でPちゃんより2時間早くアメリカ上陸することになっていたのだが、飛行機内で急病人が出たため飛行機は急遽カナダに緊急着陸、病人を下ろすというハプニングに見舞われた。
離陸ですでに2時間遅れていたので、計4時間の大幅な遅れ。空港に着いたときはもうヨレヨレだった。
Pちゃんはとうの昔に上陸しているはず、先に家に戻ってるだろうなと思ってゲートを出ると、そこにPちゃんの姿が。私の遅れを知って待っていてくれたのだ。


しかもこんな紙持って(はずかし・・・・)
空港のレストランで、ふたりで長かった旅にビールで乾杯!
2007年も、よろしくね。


<完>
ご愛読ありがとうございました
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故郷・Santruse(サントルセ)へ。

2007-01-25 04:55:57 | 旅行
話は少しさかのぼるが、Pちゃんが幼少時代をすごしたというSantruse(サントルセ)という街に連れて行ってもらった。
NOJAから車で約40分、小さな田舎街サントルセは昔はイワシ漁で栄えた港町で、水深の深い入り江を利用した鉄鋼業の街としても有名。
Pちゃんのママは街の外に働きに行って留守がちだったため、Pちゃんは4歳でドイツに移るまでこの街に住むおばぁちゃんの家で過ごしたという。
それが彼の唯一の、スペインの遠い記憶。


あそこが、おばぁちゃんちだった


のどかな漁港。ここだけ見ると伊豆みたい


Pちゃんnの通った幼稚園“サン・フランシスコ・ザビエル”


NOJAに来るときにわたった、あの世界一古い移動橋。
Pちゃんは小さい頃、この橋を見るのが大好きだったそうだ。
そうだ。あの上を歩いてみよう・・


橋のてっぺんを歩いてみた。
生まれて初めて大好きな橋の上を歩いて、感無量のPちゃんは下りようとしない・・



橋の上から見たサントルセの夕景



ブリックの美しい街並みが夜のライトアップにとてもよく似合う
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マドリッドの誘惑

2007-01-24 06:00:45 | 旅行
ここのところの疲れとフラストレーションで、ついにダウン。私は昼まで起き上がることができず寝込んでしまった。
このまま風邪でもひいてしまったらあとあと大変、ということで今日はゆるゆると休養日にあてることにした。
というわけで、ここで2日間の<マドリッド観光編>を一挙に。

ええい、登ってしまえ!(王宮で)

王宮に隣接するパーク

 
メイン通りのグランビア(朝と夜)
この通り沿いには観光客向けのホテルが立ち並ぶ。観光客向けに禁煙のレストランなども多いエリア。もっと早くに気づいていればよかった。


夜のプラザマイヨールに現れた、流しのフラメンコ隊


マドリッドにくればここははずしてはいけない、「プラド美術館」。
ここで膨大な宗教画を見ているうち、私は何かに“haunted”されたようになり、何度も意識を失いかけ、休憩をとりながらやっとのことで見て回った。あれはなんだったんだろう?(単なる疲れか、それともゴヤのたたりか・・?)

「プラド美術館」 
世界屈指の美の殿堂として知られるプラド美術館は、16世紀以降のスペイン王家によって収集された、イタリア・ルネサンス、北ヨーロッパ、スペイン宮廷画家などの絵画に加え、修道院等が所有していた宗教画などをもとに1819年フェルナンド7世によって開設されました。7000点を越える絵画コレクションのなかには、宮廷画家であったベラスケス、ゴヤの生涯を網羅する代表作のほか、ティツィアーノ、ボッス、ルーベンスをはじめとするイタリアやフランドル絵画の一級のコレクションも含まれており、ハプスブルクとブルボンのスペイン王朝の栄華を今に伝えています。
◆ 芸術家による芸術家のための美術館
 プラド美術館は、スペイン絵画はもとより、16、17世紀を中心とするイタリア、フランドル絵画の比類無きコレクションで知られます。
 ボッス、ティツィアーノ、エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、リベーラ、ムリーリョ、ゴヤの作品については世界でもっとも豊かなコレクションを有し、特にティツィアーノやルーベンスについてはプラド抜きでは語れぬ程です。プラドならではの、こうした際立った強い”個性”をもつコレクションは、同時代の優れた画家たちに助言を受けた歴代スペイン国王の趣味嗜好を色濃く反映しているといえるでしょう。
 プラドはさらに、ラファエッロ、ファン・ダイク、プッサン、クロード・ロランら西洋絵画の巨匠たちの重要作品も所蔵しており、まさに世界屈指の絵画の殿堂といえます。
 一方で、プラドにある作品で巨匠たちの関係に思いを馳せることができます。例えば、ルーベンスはスペインを訪れた際、ティツィアーノの作品を多数模写しています。また反対に、宮廷画家であったベラスケスは、スペインを訪れていたルーベンスと出会い感化を受け、また王宮にあったティツィアーノの作品からも大きな影響を受けています。ゴヤの作品にはベラスケスへのはっきりとした敬意がうかがえますし、有名な《裸のマハ》には、ティツィアーノが描いた裸婦像とのつながりを見てとれます。
 その後もピカソが、ベラスケスの《ラス・メニーナス》に着想を得た作品シリーズを描くなどしています。巨匠たちが先達の描いた作品を熟視し、刺激を受けて新たな名作を生み出す。これがプラド美術館なのです。
(出典:http://event.yomiuri.co.jp/prado/)



プラザ・デルソル。このあたりはキュートなショップが多く歩くだけでも楽しいエリア。

1月は大バーゲン月、しかも最初の日曜日ということもあって街は買い物客であふれかえっていた。
日本でもアメリカでもバーゲンには興味はなかったけれど、マドリッドは別格。ウインドウショッピングだけでは物足りなくて欲求不満になりそうなくらいの“誘惑”に襲われる私。思わず、前から探していたバケツ型の皮のかばんを衝動買い。(ま、お正月ということで・・)
もしPちゃんが一緒じゃなかったら、一日バーゲンに没頭してしまったかもしれない。これもみな、スペインのファッションセンスの良さのせい。
加えてスペインの女性たちは皆、とても美しい。ここには厳しい“beauty standard”というものがあるのだろう、皆ほっそりとして足も長く、いろいろなタイプのジーンズやブーツを個性に合わせて颯爽と履きこなしている。さすがといった感じ。日本で見た、誰も皆同じのブーツ風景とはまったく“質”が違う。


「飯が食べた~い!!」という願いがやっとかない、グランビア通りの禁煙レストランでやっとありついたパエリア。


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やっとこさ、ビザ

2007-01-23 05:32:59 | 旅行
Pちゃんのビザやり直しアポイントのため再び領事館に。
私は近所をぶらぶらして時間をつぶすこと約30分、あっけなく全てが終了した。聞くところによると、領事館側の100%ミスだったらしくその場で期間を修正して再発行してくれたという。まだこの国にいたからいいようなものの、もしすでに国外に出ていたらどうなんってたんだ!やはり何をやらせてもいい加減な国アメリカ!


2回目、行きまぁ~す



あんなに気をもんだビザ事件も解決したところで、やっと気分も晴れて市内をぶらついてみる。古い建築物を見たり、美しく壮大な公園などを目的もなく歩くのもまた楽し。
街のところどころにはPlaza(英語でPlaceの意)と呼ばれる広場があり、人々であふれている。スペインの人たちは家の中よりもこうした公共の広場に出て集い、語り、交流を深めるのが日常なのだそうだ。


Museo Arqueologico


Puerta De Alcala


Parque Del Buen Retiroの一部




夕方からマドリッド市内の大通りで行われる大パレードを見に行く。
1月6日は東方の三賢士(スペイン語で「レイェス・マゴス」)の日。キリストの生誕を祝うため、東方から三賢士がラクダに乗って貢物を携え、ベツレヘムを訪れたのに因んだ伝統行事で、前日の1月5日には、「レイェス・マゴス」の華やかなパレードがスペイン各地で行われる。マドリッドはその中でも最大級ということだ。
しかし・・その混雑たるやもう想像を絶するもので、パレードというよりもむしろ、人の頭を見に行ったようなものだった。


パレードのクライマックス。3人の王様に手を振る沿道の人たち


午後8時半、パレード終了後、私たちはかねてからチェックしていた“禁煙”タパスレストランに夕食に出かけた。
口の中かがとろけおちそうな今回一番のお気に入りのワイン「Marques de Caceres(RIOJA) CRIANZA(2003)」を堪能していたのもつかの間、第2の事件は勃発した。
「タバコくさい!」。
なんとすぐうしろで堂々と喫煙しているやつを発見。ここは禁煙だよと注意したところ、何とそこは「喫煙OKゾーン」だった!そう、たとえ禁煙とうたっていても必ず「ここはいいのよ」ゾーンがあるのがまだスペインの現状。しかも壁も隔てずに。これじゃ、何の意味もない。
せっかくの激うまワインとまずまずおいしかったお料理も、なんだか一瞬にして気分台無しで楽しめないまま私たちはレストランをあとにした。

このオチ、もうあきた・・

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嗚呼、マドリッド。(1/4)

2007-01-23 03:58:03 | 旅行
5時間のバスの旅ののち再びマドリッドに入った私たち。
明日はキリスト誕生にまつわる大きなお祭りがあるらしく、前回来た時よりも観光客が多いようだ。このお祭り、“Cabalcata”と呼ばれるもので、キリスト誕生の日に東方の国から3人の王様がお祝いにかけつけたといういわれにのっとったもので、夕方から市内のメインストリートで大パレードが行われるという。マヌエルも「このお祭りは是非見てきたほうがいい」とオススメだったので、これは災い転じて何とやら、だ。
しか~し、マドリッドには大敵がいることを忘れてはならない・・・。

<ホテル喫煙事件>
前回の「禁煙」ホテルにもう一度チェックインしたのはいいが、今度の部屋は妙にタバコくさい。一度疑いだすどうにもとまらないPちゃん。シーツをくんくん、カーテンをくんくん、枕も机も・・・何もかもが煙りくさい。明らかに前の宿泊者がタバコを吸っている。フロントに文句をいうが、とにかく今晩は代わりの部屋が空いていないのでやむなくこの部屋で一晩寝ることになった。
しかし・・・タバコくささに耐えられずPちゃんが夜中に激しく咳き込み出した。枕を変えてもらおうとフロントに言うと、対応した兄ちゃんが最悪にも「あんたねぇ、いくら禁煙ったって誰が部屋でタバコ吸ったかなんてわかんねぇよ。こちとら」と開き直った。戦争勃発・・・。
翌朝私たちは見た。ベッドの下の山のような灰を!そう、私たちは「灰皿の上」に寝ていたようなもの。気分最悪。機嫌も最悪。

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やりなおしかよ!

2007-01-22 04:01:41 | 旅行
悪夢からさめて翌日の朝。Pちゃんをのぞく3人が、何もしゃべらない彼の様子をうかがいいながらの朝食。そして朝食後、意を決したかのようにPちゃんは領事館に電話をしはじめた。
「ビザの申請をして先日受け取ったのですが、日付が明らかに間違えています。同じ書類で申請をすませた妻はすでに2008年までのビザを受け取っており、書類に何の不備も見当たりません。私は来週にはアメリカに発つのでなんとかそれまでに修正をしたいのですが」
正直言って、私は領事館がこの手の間違いを簡単に認めるわけはないと思っていた。いくら自分たちのミスだと明白であっても、一度発行したビザをそう簡単には修正などするわけはない。それがアメリカという国だ。お国の仕事とはそういうものなのだと。
しばらく電話の会話を聞いていると、驚いたことにどうやらすぐに対処してくれそうな気配。郵送など悠長なことはやっていられないので、すぐ領事館に問題のビザを持ってきてください、という内容のようだ。(えっ?ってことはまたマドリッドまで行かんならんの?
そうと決まったらいてもたってもいられないのが彼の性格。さっそくあさってのマドリッド行きのバスの予約、この間泊まったホテルの予約にとりかかり始める。あげくのはてに調子に乗って、「せっかくマドリッドくんだりまで行くんだったら、何日か過ごすっていうのはどう?」と言い出した。
私はいいけれど、せっかく帰省した息子が家を何日もあけるとママががっかりするんじゃないかと気がかりになる。
「今朝までは全くネガティブにしか考えられなかったけれど、考えようによってはこれは退屈極まりないこの場所を離れるいい口実かもしれない」と、とたんに明るくなるPちゃん。彼にとってはこれ以上のママと同じ屋根の下での生活は耐えられなかったらしい。一方、(これは推測だけれど)ママのほうも気難しい息子の世話に辟易としていた様子だったし、マドリッド行きはお互いにとってよかったのかもしれない。わかるなぁ、両方の気持ち。
やり直しは面倒だけれど、このままインターネットも何もない環境で6日もここで過ごすのも飽きていたし、結果オーライということですべてはうまく行きそうだ。

さて、どうなることやら(つづく)
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