Life in America ~JAPAN編

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宗教はなんのため? ~その2

2017-02-24 16:55:29 | アメリカ生活雑感

母の四十九日法要を無事終えて、やっと長い1年が終わったようなほっとした気持ちでシカゴに戻った。
アメリカではお葬式のことをよく「セレブレーション」と呼ぶけれど、まさに私たちは母の人生を祝福できた、そんな満足感でいっぱい。
仏教的には、もっと厳かに静粛に進めなければならないのだろうけれど、普段そんなに信心深くしていたわけではないのにこの期に及んで急に神仏にお願いするのもなんだか虫がよすぎる気がして、儀式自体は「真言宗的」にとりしきりつつ、全体的にはいたってオープンに母の好みを汲んで執り行った。
このことが家全体を明るくしてくれた気がする。
それもこれも、全て母が導いたのだと思う。

もともと辛気臭いことが嫌いだった母。
自分のことよりも、人一倍家族の心配ばかりしていた母。
だからなおさら、私たちがくよくよしようものなら「なにやってんの、ちゃんとしなさい。辛気臭いわね」と怒られるようで、みんなで普段通りの日々を過ごした。

お葬式の日も、父と姉夫妻と私の4人でお寿司を食べながらテレビを見ていたし、四十九日の日も、神戸から駆けつけてくれた大切な友人ふたりを交えて5人で昼間から飲んで食べて、夜は焼き肉。さんざん母の暴露話をして盛り上がった。
「本来なら精進料理だろー?」と笑いながら。

私の中では「なにを信仰するか」なんかもはやどうでもよいこと。
今回つくづくそう思わせてくれたひとつは、Pちゃんの両親の温かい心遣いだった。


Pちゃんの両親は、敬虔なクリスチャン。さらに彼らの長年の友人であるカトリック神父、マニュエルとはここ数十年3人で一緒に暮らす仲だ。
母が亡くなったことを義母に伝えたら、さっそくスペインの両親とマニュエルはクリスマスのミサのなかで、母のために特別の祈りを捧げてくれ、そのときの写真を送ってくれた。




母の親戚や親しい友人は皆、遠方(北海道)にいるため、母は元気なときにすでに彼らを訪ねて「これからはお互い年なので、もし何かあっても行き来はなしにしましょうね」という約束をしてたらしい。
こういう準備だけは異常にいい母なのだ。
会ったこともない人たちから形式的な弔問を受けるより、家族だけでゆっくりと愛にあふれるお別れをしたいと望んでいたという母の遺志をくんでのお葬式。それでもやっぱり少数で見送るのは心細くさびしかったのだけれど、同じ日に地球の反対側で、こんなにも多くの人たちが母の人生を祝福してくれているということが私たちにとってどれほどの慰めになったことだろう。

この愛のかたちには、仏教もキリスト教もないのだ。

 
さらに四十九日当日にも、マニュエル神父が教会を借りて母だけのために特別なお祈りをしてくれた。


また、四十九日の法要の際には、スペインの叔母家族(マリベルー叔母さん、その娘のネカネ、ネカネのご主人クリスチァン)と、Pちゃん両親とマニュエル神父から我が家に素敵な花束が届いた。




母が丹精込めて育てていた庭の梅を借景にして。



お花を届けてくれた宅配の人は、「確か“お悔やみ”、ということだったのですが華やかにしてほしいと言うご注文でしたから・・」と少々戸惑っていて、なんともおかしかった。
「仏前花」は白を基調にしんみりと、というのが慣わしだろうけれど、母のことをよく知るスペインの家族は母のイメージに合う明るいカラーの花束を注文してくれた、その心が痛いほどうれしかった。

せっかくなので、私もシカゴの友人から頂いたお香典で、器にいっぱいの桜の枝をお花屋さんに頼んでおいた。
新しい命が芽吹くこの季節を何よりも楽しみにしていた母にとって、このカラフルな花に包まれたセレブレーションはさぞううれしかったことだろう。


2月11日


2月23日現在 八分咲き


さらに忘れられない思い出は、私が日本語の個人教授をしているアメリカ人の友人、ローレルからのお見舞いの品。

長い間日本に帰ったままの私を心配して、彼女はPちゃんに連絡をしてわざわざこの美しい手編みのショールを届けてくれた。




このショールは、彼女が通う教会のメンバーが母の回復を祈ってひと針ひと針編んでくれたもの。
いわゆる、アメリカ版の「千人針」だ。
アメリカのクリスチャンコミュニティにはこういうトラディションがあるらしい。
このショールを、Pちゃんが父と私の待つ徳島にわざわざ持ってきてくれたのだが、そのとき私たちはどれほど救われただろう。
見ず知らずの者のためにひと針ひと針編んでくれたこの気持ちのこもったショールで、母は生きる力をいただけたのだと思う。
翌日病院に行って、母にこの話を聞かせ、胸元にこのショールをかけてあげた。
どんな宗教のどんな言葉よりもパワフルな究極の愛だったと思う。

こうしなきゃいけない(さもなくば・・・)、と言われると宗教はもはや恐怖でしかないけれど、
自分の心の中にしっかりとした柱(信念)を持ち続けている限り、宗教をうまく取り入れると人は平和に過ごせるのかもしれない。

信じる者は救われる。

(でも)信じない者はもっと平穏でいられる。

これが宗教?
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宗教はなんのため? ~その1

2017-02-01 22:37:30 | アメリカ生活雑感
「テロ対策」の名のもとに中東7か国からの入国制限が始まり、アメリカは混乱を極めている。
いよいよ“あの時”のようにきなくささが漂い始めた。
つまるところ、人類は何千年も前から何も変わっちゃいないのかもしれない。自分たちが信じるものを信じない奴らは、いつでも敵となりうるのだ。
「宗教」という名の最終兵器である。

日本が“平和”なのは、国民が一方向を向くような強い宗教がないからかもしれないな、と海外暮らしをしているとつくづく思う。
神道、仏教、キリスト教、少数派だがイスラム教に儒教。もちろん多くの人は無宗教。すべて個人の自由であり、そのことで差別をしたり殺し合いに発展することはまずない。
裏を返せば、命を懸けて信仰するような人の割合が少ないということだろう。

かくいう私も、良くも悪くも何の宗教も信仰ない環境で育った「無宗教派」である。
厳密に言えば仏教(仏教は哲学であって宗教ではない、というのが一般説らしいが)と神道(こちらも宗教の範疇には非ず)のごちゃまぜだ。
お寺めぐりをしては仏像に手を合わせるし、初詣は神様に柏手を打って一年の安寧を祈る。
とにかく祈れる対象はなんでもいいから祈っておこう、というのが本音。
節操のない日本人的宗教観の代表選手だ。
だから、「あなたの宗教はなんですか?」と聞かれたら、相手によって返事を変えることにしている。
相手が外国人だったら、「特にありません。I'm agnostic(アグノスティック:どちらでもない人、もしくはこだわりのない人)」と答えるし、日本人同士なら、「決まったものはありませんが、我が家はお寺さんにお墓を管理してもらっているから仏教です」と、どうにでも逃げられるような返事をする。
お経の一つも読めないくせに仏教徒などと言ったら本当の信者さんの怒りを買うだろうけれど、趣味は「お墓参り」でご先祖様に手を合わせていると自分の心が穏やかになり安らぐのだから、全くのウソではないと思う。
要は、心のよりどころの問題。

そもそも、宗教って何ぞや?そして何のためにあるのだろうか?
この究極の問いかけを長い間ずっと頭のなかでぐるぐる続けてきたけれど、母のこともあって最近ようやくその結論らしきものが自分で整理できた気がする。

宗教とは、
所詮は死んでなくなってしまうちっぽけな人間の、慰めのツールである。

宗教とは、
「死」をうまく理解・納得し、それに向かうための「生」を心地よくするためのものである。

さらに言うなら、
信じることで死への怯えが薄まり、また、死んでいく人への悲しみを癒すことができる心のよりどころ。(これが極端になると「自爆テロ」のような悲劇が起こることになる。)


母が私にくれた最後の3か月という時間の中で、私はこんなことをいろいろ考えたし、そうせざるを得なかった。
もし母が今亡くなりでもしたら、私はどうしたらいいんだろう?という強迫観念がそうさせた。
変な話だが、何をどう準備すればいいのかわからなすぎて「無宗教」である私はとても狼狽し、途方にくれていた。
しかし、本人からの詳細な申し置きがない以上、家族(または友人)がその責任において本人の気持ちを汲みながら突き進んでいくしかないのだ。
それをできる人は他にいないのだから、多少間違ったところで許してくれるはずだ、と信じるほかない。

だから、3か月の間私はいつも母になりきって全てを切り盛りし、一日の終わりには母に「これでよかった?」と胸の中で対話をし続けた。
その時間のなかで、母なら絶対にして欲しいこと、私が母だったらしてもらいたいことを、私は何の後悔もなくやリ遂げるんだ、と心が決まっていった。


 手入れを怠らなかった庭の手入れを完璧にすること。
 家の中はいつも清潔に掃除すること。特にお玄関はいつ人が来ても恥ずかしくないようにピカピカにしておくこと。
 急ぎの時にあわてて探さなくてもいいように、家の中のモノを在りかを把握しておくこと。
 季節遅れのものはさっさと片付けておくこと。
 どの部屋もお花を絶やさず、明るくしておくこと。
 戸締りはきちんとすること。
 朝昼晩、気を抜かずに栄養のあるものを食べて笑顔を忘れないこと。
 普段通りの生活を、粛々とすること。
 めそめそしないこと。
 何が起こっても、大騒ぎせず質素かつ清く正しくふるまうこと。
 家族全員、いつまでも仲良く健康でいること。

形式や儀式や、ましてや準備なんかじゃない。
こうした日常のひとつひとつが、母の教え=私だけの宗教だと気付いた。
形式や儀式は、プロに任せればよいこと。
他人ができないことを粛々とやる、それが家族の仕事なのだから。

今から思えば、この時間は母の私に対する「試験」だったのだと思う。
自己採点では、まぁまぁ合格点もらえたかな?・・いやいや、もらえないと困る。
あたしゃ今まで精いっぱいの親孝行をしてきた自信はあるからね。
それに、今まで無駄にケンカしてきたわけじゃない。何が好きで何が嫌いか、許せないものは何か、母の価値観は痛いほどわかっているつもりだから。




おっと、日本人と宗教の話をしようとして、結局大きく脱線しちゃった。(苦笑)
というわけで、このテーマは「その2」に続く・・・。

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