母の四十九日法要を無事終えて、やっと長い1年が終わったようなほっとした気持ちでシカゴに戻った。
アメリカではお葬式のことをよく「セレブレーション」と呼ぶけれど、まさに私たちは母の人生を祝福できた、そんな満足感でいっぱい。
仏教的には、もっと厳かに静粛に進めなければならないのだろうけれど、普段そんなに信心深くしていたわけではないのにこの期に及んで急に神仏にお願いするのもなんだか虫がよすぎる気がして、儀式自体は「真言宗的」にとりしきりつつ、全体的にはいたってオープンに母の好みを汲んで執り行った。
このことが家全体を明るくしてくれた気がする。
それもこれも、全て母が導いたのだと思う。
もともと辛気臭いことが嫌いだった母。
自分のことよりも、人一倍家族の心配ばかりしていた母。
だからなおさら、私たちがくよくよしようものなら「なにやってんの、ちゃんとしなさい。辛気臭いわね」と怒られるようで、みんなで普段通りの日々を過ごした。
お葬式の日も、父と姉夫妻と私の4人でお寿司を食べながらテレビを見ていたし、四十九日の日も、神戸から駆けつけてくれた大切な友人ふたりを交えて5人で昼間から飲んで食べて、夜は焼き肉。さんざん母の暴露話をして盛り上がった。
「本来なら精進料理だろー?」と笑いながら。
私の中では「なにを信仰するか」なんかもはやどうでもよいこと。
今回つくづくそう思わせてくれたひとつは、Pちゃんの両親の温かい心遣いだった。
Pちゃんの両親は、敬虔なクリスチャン。さらに彼らの長年の友人であるカトリック神父、マニュエルとはここ数十年3人で一緒に暮らす仲だ。
母が亡くなったことを義母に伝えたら、さっそくスペインの両親とマニュエルはクリスマスのミサのなかで、母のために特別の祈りを捧げてくれ、そのときの写真を送ってくれた。
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母の親戚や親しい友人は皆、遠方(北海道)にいるため、母は元気なときにすでに彼らを訪ねて「これからはお互い年なので、もし何かあっても行き来はなしにしましょうね」という約束をしてたらしい。
こういう準備だけは異常にいい母なのだ。
会ったこともない人たちから形式的な弔問を受けるより、家族だけでゆっくりと愛にあふれるお別れをしたいと望んでいたという母の遺志をくんでのお葬式。それでもやっぱり少数で見送るのは心細くさびしかったのだけれど、同じ日に地球の反対側で、こんなにも多くの人たちが母の人生を祝福してくれているということが私たちにとってどれほどの慰めになったことだろう。
この愛のかたちには、仏教もキリスト教もないのだ。
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さらに四十九日当日にも、マニュエル神父が教会を借りて母だけのために特別なお祈りをしてくれた。
また、四十九日の法要の際には、スペインの叔母家族(マリベルー叔母さん、その娘のネカネ、ネカネのご主人クリスチァン)と、Pちゃん両親とマニュエル神父から我が家に素敵な花束が届いた。
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母が丹精込めて育てていた庭の梅を借景にして。
お花を届けてくれた宅配の人は、「確か“お悔やみ”、ということだったのですが華やかにしてほしいと言うご注文でしたから・・」と少々戸惑っていて、なんともおかしかった。
「仏前花」は白を基調にしんみりと、というのが慣わしだろうけれど、母のことをよく知るスペインの家族は母のイメージに合う明るいカラーの花束を注文してくれた、その心が痛いほどうれしかった。
せっかくなので、私もシカゴの友人から頂いたお香典で、器にいっぱいの桜の枝をお花屋さんに頼んでおいた。
新しい命が芽吹くこの季節を何よりも楽しみにしていた母にとって、このカラフルな花に包まれたセレブレーションはさぞううれしかったことだろう。
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2月11日
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2月23日現在 八分咲き
さらに忘れられない思い出は、私が日本語の個人教授をしているアメリカ人の友人、ローレルからのお見舞いの品。
長い間日本に帰ったままの私を心配して、彼女はPちゃんに連絡をしてわざわざこの美しい手編みのショールを届けてくれた。
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このショールは、彼女が通う教会のメンバーが母の回復を祈ってひと針ひと針編んでくれたもの。
いわゆる、アメリカ版の「千人針」だ。
アメリカのクリスチャンコミュニティにはこういうトラディションがあるらしい。
このショールを、Pちゃんが父と私の待つ徳島にわざわざ持ってきてくれたのだが、そのとき私たちはどれほど救われただろう。
見ず知らずの者のためにひと針ひと針編んでくれたこの気持ちのこもったショールで、母は生きる力をいただけたのだと思う。
翌日病院に行って、母にこの話を聞かせ、胸元にこのショールをかけてあげた。
どんな宗教のどんな言葉よりもパワフルな究極の愛だったと思う。
こうしなきゃいけない(さもなくば・・・)、と言われると宗教はもはや恐怖でしかないけれど、
自分の心の中にしっかりとした柱(信念)を持ち続けている限り、宗教をうまく取り入れると人は平和に過ごせるのかもしれない。
信じる者は救われる。
(でも)信じない者はもっと平穏でいられる。
これが宗教?