Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

Jazz Singer仲間たち。

2014-10-29 11:14:31 | アメリカ生活雑感
ここ数年、隣町にあるレストラン&バー「モーガンズ」に土曜日ともなるとJazzミュージシャンたちが集まり、熱いJamセッションを繰り広げていた。
私もしょっちゅう、その中に交じっていた。
ところが2年前のある日、このレストランが何の前触れもなくいきなり閉店。
従業員にも前もって告げられない突然のクローズに、出演していたミュージシャンたちもびっくり。うわさによると、「壊れた全館エアーコンディションシステムを修理するお金がなかったから」だとか。あまりにも、とほほな理由。
その後、行き場を失ったミュージシャンたちは別の店を見つけてJamを続けていたのだが、なんとここの店主の実の弟が宝くじで一発当て、あのつぶれた店を買って再びレストランをオープンするという噂が一気に広まった。
この展開も、いかにもアメリカ。

かくして、「クーパーズ・コーナー」と名を改めてあの店にまた灯りがともることになり、郊外のJazz好きは大喜び。
私のところへも歌いに来い!と昔の歌仲間たちから催促電話が毎週のようにかかってくるようになり、ここ最近毎週木曜日にはこの店で歌うようになった。

毎週木曜日は、ピアニストのジョニー・ガボァーによるピアノナイトだ。
ジョニーは、60~70年代のJazz全盛時代、シカゴで毎晩のように演奏をしていたベテランピアニスト。
フランク・シナトラがシカゴのBarに立ち寄って飛び入り演奏をするときなどは、必ず彼の伴奏をしていたというキャリアの持ち主。
シカゴにはこういうミュージシャンがそこらじゅうにゴロゴロしている。彼のように昔腕を鳴らしたプロたちが、シカゴのナイトクラブから引退して今は郊外あたりで趣味的に演奏をしているのだ。

初めてジョニーのピアノで歌ったとき、「ああ、この人はピアニストだな」と感じた。変な表現だが、ジョニーのピアノは歌い手をきちんと持ち上げてくれるのだ。
こちらに何も聞かずに自分勝手なテンポでイントロを弾きだしたかと思うとエンディングも自分で決めてしまう独りよがりなピアニストがたまにいるけれど、ジョニーはさすがにシンガー慣れ(それも超一流の)しているのを感じる。
こんなピアニストのバックで歌うといい勉強になるし、今まで歌ったことのない新しい歌にもどんどん挑戦しようという勇気が湧いてくるのだ。
かくして、ほぼ毎週木曜日は「歌う日」と決めて、どんなに気が向かない時でも鞭打って(?)でかけることを自分に課している。そのおかげで、この数か月でレパートリーがぐんと増えた。


もうひとつここに歌いに行く大きな理由、それは、素敵な歌仲間が待っていることだ。
仲間といっても平均年齢はゆうに75歳を超えでいる。彼らは元プロ、現在もノンプロで活躍する腕利きのシンガーたちだ。
彼らと知り合うきっかけは、5年ほど前。あの、前のつぶれた「モーガンズ」でのJamセッションで一度勇気をもって飛び入りで歌わせてもらったところ大層気入られ(一番若かった、しかも唯一の女性シンガーだったせいか?)それ以降、なにかというとPちゃんともどもよくお誘いを受けるようになったのだ。
その「重鎮」の方々も、決まって木曜日はちゃんと全員集合。
なにしろ皆さんハッピー・リタイア組、お金も時間もたっぷりある。たまに誰かが欠けていると「あの人は最近来ないから電話してみよう」などとサポートし合う、まるでちょっとした老人クラブのようなのだ。
もちろん、私は最年少。

もし本気で自分の腕を試したいのなら、シカゴあたりの有名クラブに出張っていくのがいいのだけれど、たまにそんなところに行くとJazzミュージシャンの卵たちが目をぎらつかせて黙々とセッションしているのに出くわす。演奏のクオリティーは素晴らしいのだが、私のような“ハッピー素人”にとってはそのギラギラぶりが痛いことがある。
その点、この静かな郊外の小さなBarでは人生経験豊富な仲間たちが集まってわいわいおしゃべりしながらお互いの歌を聴かせ合う。批評も批判もしない。
歌は、歌い手の年齢(人生経験)によって意味や深みや説得力が違ってくるものだから、彼らの解釈を聞くことで私自身も大いに勉強になるし、この雰囲気が今の私にとてもしっくりくる気がするのだ。



いつもの仲間たち。

一番右は、ハーヴィー。私は密かに「植木等」と呼んでいる。
いつもみんなを沸かせる明るいミュージカルナンバーを足取りも軽くステップを踏みながら披露してくれる。
昨年の今頃、娘さん(49歳)を突然亡くし、傷心のためしばらく姿を見せなかったが、仲間たちが電話をして励まし続けやっと明るい顔を見せてくれるようになった。
彼にとってこの仲間たちはどれほど心強かったろうと思う。

前列中央は、シルビア(80)とリチャード(86)ご夫婦。
お互いに40歳を過ぎての子持ち再婚同士で、結婚35年以上のおしどり夫婦。リチャードがメル・トーメのような甘い声を聞かせてくれ、それをシルビアがいつも見守っている。
シルビアはいつも私に「聞くたびによくなっていくわね。あなたの歌には心があるわ。その調子でどんどん歌い続けなさいね」と励ましてくれる。


後ろにいるのはブルース(左)とゲーリー(右)、共にセミプロ。
70歳を過ぎているゲーリーは、老人訪問に慰問して歌っている。

私の横は、このあたりに君臨する“ボス”、パット。
昔はNYあたりで歌っていたらしく、今もよくギグをやっていてそのたびに「歌いにおいで」と誘ってくれるとってもいい人。



90歳をこえているというピアニスト。
毎回素敵なJazzピアノを聞かせてくれ、その音色にじーんとするときがある。


彼の奥様はオペラのようにJazzを歌ってくれる。
私の顔を見るたび、「私の義理の娘はチャイニーズなの。あなたを見るたびに彼女のことを思い出すのよ」といってハグしてくれる人。


リチャードは歌うバイブルのような人。
この歌は何年に誰が初めて歌った、という歴史解説をいつも聞かせてくれる。



たまにやってくるポーレット。黒人独特のパンチの利いた声が彼女の魅力。
正反対の互いの歌声にいい刺激を受け合っている私たち。


 
私もリラックスして歌わせてもらっています♪

 リラックスしすぎ・・・


先日はジョニーの誕生日だったので、みんなでお祝い。

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踊るインタビュー

2014-10-18 15:05:11 | アメリカ生活雑感
先週のこと。シカゴ取材に訪れていた日本の某新聞社のアテンド役を急きょ頼まれた。
彼らがシカゴに滞在するのは3日間。そのうちどこかでぜひともシカゴの「音楽シーン」を取材したいという。
JazzやBluesなどいろいろご提案したが、「シカゴと言えばブルースですよね」ということで、ブルースシーンを取材したいとのこと。
なんと、私にうってつけのありがたいお話。

しかし、正式に取材の依頼を受けたのが3日前というどたばたぶり、そのうえ「ブルースマンにインタビューをしたい」という依頼内容だった。
そこで、友人の音楽イベントプロデューサー、リンに連絡をとり、彼女がかねてからプロモートしていてシカゴの重鎮ブルースマン、エディー・クリアウォーター氏にインタビュー&撮影をたのんでみたところすぐにOKの返事をもらうことができた。
エディーは日曜日にNYでライブを終え、月曜日にシカゴに戻ったばかりだった。

以前、彼のおうちにお招きいただいたことがあったが、そのときに聞いた昔話や数々の逸話がとても面白かったことや、気さくで温かい彼の性格が印象深かったこともあって、話を聞くには彼しかいない、この取材は絶対にいいものになると確信していた。

エディーは御年79歳。いわゆるブルース第一世代と呼ばれ、ブルースの生き字引のような人。
昨今はこの第一世代がだんだんとこの世を去りつつあり、このタイミングで彼にお話を聞けるのはとても貴重なチャンスだった。

●エディー関して過去に書いた記事 ↓↓
http://www.usshimbun.com/Music-Series/music-vol.4-EddyClearwaterBDLive


かくして、アポイントの火曜日当日。
女性記者さん(このとき初対面)をホテルに車で迎えに行き、シカゴのこと、ブルースの歴史のこと、エディーのことなどを怒涛のようにレクチャーしながらエディーのお宅に向かった。
彼女曰はく「ブルースのこと、ほとんど何も知らないんですよ。だから通訳とフォローをお願いします」
いやいや、だからいいのである。
オタクしか読まないブルース雑誌のための知ったかぶりした小難しいインタビューではなく、彼女のような“一般人”にインタビューしてもらうこと、その中で彼女が感じたこと、発見したこと、伝えたいことをナマの言葉にしてもらうことにこそ意味があるのだ。


★★

午後3時、家のチャイムを鳴らすとリンがうれしそうに出迎えてくれた。
今日のインタビューを、きっと本人よりも楽しみにしていたにちがいないというような満面の笑顔で、挨拶もそこそこにエディーの過去の写真やグラミーノミネートの時の記事などを次々に見せてくれた。
奥のリクライニングチェアーにゆったりと座っていたエディーも、やぁやぁいらっしゃいと出迎えてくれ、そのままカジュアルなインタビューが始まった。


インタビューの内容はネタバレになってしまうのでここでは言えないが、とても印象的だったのは彼の真摯な姿勢だった。
どんな「素人質問」にも丁寧にかつ簡潔に答えてくれ、その素晴らしい受け答えに彼のインテリジェンスを感じることができた。
記者さんが「ブルースっていうと、まだまだマイナーなジャンルであり、しかも悲しいマイナートーンの歌ばかりだという印象があります」
と話すと、最新のCDの中から、“ド・ブルース”(いわゆる“ド演歌”のようなマイナートーンのスローブルース)と、対照的に明るい“踊れるブルース”(いわゆるRock)を聞かせてくれた。

最初に聞いたのは、彼の書いたオリジナル曲でド・ブルースの“Came UP The Hard Way”。
エディーはやおらギターを持って、目の前で弾き語りを始めた。





続いて、一転して明るい曲調の“ 'Good Times Are Coming' ”が流れると、エディーは今度はギターを置いて立ち上がり、軽くステップを踏み始めた。

予想外のエディーの生演奏を目の前で聴きながらふたつの曲を比べ、記者さんの顔色が変わっていくのがわかった。
「悲しいだけがブルースじゃない、どちらもブルースなんですね。ブルースはいろんな形に進化をしている音楽なんですね!」
そうして、エディーを真ん中にはさんで何故か一緒に私たちも踊り始めていた。

それを見てリンが「あなたたち、まるで“ダンシング・ジャーナリスト”ね!」というので、
「これは私にとって産まれて初めての“ダンシング・インタビュー”だわ」、と私が言うとエディーも大笑い。

そんなこんなで初めは硬い表情だった記者さんもすっかり打ち解けて、私たちの踊るインタビューは和やかに終了した。
女性3人に囲まれたエディーは旅疲れた様子もなくいたってご機嫌のようすだった。




最後に一緒に記念写真 

このインタビューは、私にとってももちろんとても意味深い、貴重なものとなったことは言うまでもない。
ありがとう、チーフ!



ギターを弾き始めるともう何も見えなくなる人。これほど絵になるブルースマンもそうそう存在しない



エディー宅を後にした私たちが向かったのは、シカゴのブルースライブハウス「Kingston Mines」。
今日はロニー・ヒックス(この日は彼が病欠のためピンチヒッター)と、マイク・ウィーラーのふたつのバンドが演奏する日。
あらかじめマイクに私たちが取材に行くことを伝えておき、ステージの合間にインタビューさせてもらった。
第一世代であるエディーの話をじっくり聞いたあと、第二世代の先鋒であるマイクのライブを聴けたのはとてもいい流れだった。




ブルースはあらゆる音楽のルーツであり、絶えず進化をし続けている音楽なのだ。

これを実感できたとても素晴らしい日だった。


急な取材にも快く対応してくれたエディー、マイク、ありがとう!
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Not-Great Chicago Fire Festival ~悲劇の結末、シカゴ大火記念フェスティバル

2014-10-08 17:48:56 | music/festival
冬にはいって凍りついてしまう前に観光客を呼び込もうと、シカゴ市はあの手この手。
10月はまだ野外で耐えられる最後の月なので、そこに目を付けた(かどうかは知らないが)シカゴ市が新たに生み出したお祭りが、「ザ・グレート・シカゴファイヤー・フェスティバル(シカゴ大火祭り)」
その名の通り、シカゴの大火を記念したお祭りだ。

1871年、ある郊外の馬小屋から出火して強風に煽られて瞬く間に燃え広がった大火事で、シカゴ市内は焼き尽くされた。
その大火のあとシカゴはすさまじい復興をとげ、摩天楼を中心とした今の近代的なシカゴが出来上がったのだ。
シカゴの歴史上もっとも重要な惨事であり、近代都市建設のきっかけにもなったこのシカゴ大火をイメージした初のお祭りということで、これにかけるシカゴ市の意気込みはすさまいじものがあった。

メディアにも何度も取り上げられ、総額2億円をかけたといわれる「大スペクタクル」。
さていったい何が登場するのかと、市民だけでなく観光客も注目していた。もちろん私も取材の用意をし、Pちゃんも一緒に出かける段取りを組んでGOROをもお泊りに出した。



この川に浮かんだ家の模型(3か所)が闇の中炎に包まれる、ということなのだが・・・


会場となったのは、シカゴ川流域、ステート通りからコロンバス通りまでの3ブロック。
リバーウォークには手作りアートやポップコーンなどの地元の屋台が立ち並んで、午後4時過ぎにはそれなりに賑わっていた。

  

不運だったのは、この週末は体感気温がマイナスというほどの一番の冷え込みになったこと。歩いているだけでも体がしんしんと冷え込んでくるのがわかる。
私もこの日はユニクロヒートテックを2枚着込んだ上にセーター、その上にダウンジャケット。下はこれまたヒートテックのレギンズに皮パンツ、長ブーツという真冬並みのいでたち。




トランプホテルの最上階Sixteenからシカゴ側を見下ろした夜景は素晴らしい


10月は乳がん撲滅月間ということで、ビルのネオンもピンク色に


さて、午後8時すぎいよいよメインイベントの「スペクタクルショー」が始まった。
エマニュエル市長らによる点火式、チルドレンクワイヤーの歌声が響き、水面にうかぶ船が幻想的な雰囲気。

 


そして、あの模型に火が灯された。
パチパチパチ・・・と燃え盛る炎の音がスピーカーから流れ・・
家が燃え初め・・・あれ?




燃え始めたかと思ったらすぐに消えちゃったよ。
そして再度点火



目の前の模型はいったんは勢いよく燃え始めたものの、どうも3分の1が燃えたところでまた消えちゃった。
ん?なんかおかしいな、と思いつつ待つこと約1時間。

「電気系統の故障のため点火が遅れています。しばしお待ちください」とアナウンス。
やっぱり。
それを聞いて盛り上がりかけた気持ちが一気にトーンダウン。
そのあとうんともすんとも火が着く気配はなく、沿道を埋め尽くした何千人と言う人たちは寒いやら退屈やらで「燃やせー、燃やせ―」とやけくその叫び声を上げ始めていた(らしい。)


立ちっぱなしの人々


で、40分くらししたところでようやく、「故障が治りませんのでマニュアルで点火します」とアナウンス。
これには笑った。
マニュアルって、要するに人の手によって着火するということですよね?
「今頃マッチでも探してんのちゃう?」とPちゃんと冗談を言って笑っていたら、私の前に固定カメラを設置していたどこぞのメディアのカメラマンも私たちを振り返って、「ライター貸してあげようかな」と苦笑い。

これは翌日の新聞で知ったことだけれど、どうやらこのお祭りの主催者はもしもの事態に対するバックアップ策を何一つとっていなかったというのだ。
これには呆れた。これだけ大騒ぎして2億円もかけてシカゴの代表的なお祭りのひとつにしようというのに、バックアップ対策ひとつとれていなかったなんて。
そのせいで寒風のなか市民を何時間も立ちっぱなしにさせてしまうというお粗末くんぶり。なんと楽観的かつ初歩的な大ミス・・・つうか、普通はありえんでしょう?

ガソリンまいて命がけで人手で点火したものの、やっぱり炎はしょぼしょぼと消えていき、さえない結末に。




The Great Chicago Fireどころか、「Not-Great Chicago Fire」になっちまった。

最後はあきらめて、花火大会。
本当は焼け落ちた家の中から、何かシカゴの復興を象徴するような仕掛けが出てくるはずだったらしい。トホホ。




やけくその花火がおわって、群衆が一斉に家路に向かい始めたその頃、実は川面では“第2部”が始まっていた。
シカゴの復興をイメージした、幻想的なカヌーのラリー。
せっかく美しかったこの演出も、ほとんどの人に無視されてしまい、最後までまったくあーあ、なフェスティバルだった。





来年はないな・・・。
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今年もやっぱり、Hyde Park Jazz Festival

2014-10-06 18:34:02 | music/festival
9月は本当に仕事に遊びに忙しく、ばたばたしているうちにあっという間に30日が過ぎ去っていった。
とにかく外で温かく過ごせるうちはどこかに出かけよう、と半分ムキになって週末のイベントを探していた気がする。

そして多分、これが最後の外でのイベントというのが、恒例の“ハイドパーク・ジャズフェスティバル”。
これは私もPちゃんも楽しみにしているJazzイベントだ。
観光客向けのJazzフェスとは違い、これは地元の人たちを対象にしているので雰囲気も運営ものんびりしている。
シカゴ大学の広大な緑に囲まれたキャンパスや付近の公園など数か所がステージになっており、スケジュールをみながらお目当てのバンドを求めて散歩がてらぷらぷらするのも楽しい。
数年前までは「ハイドパーク」と聞いただけで、そんなサウスは危なくて行けないと思い込んでいたのだけれど、いざ1回行ってみるとそんな思い込みはふっとんでしまった。
大勢の人たちが一緒に音楽を求めて歩き回っているので、キケンという感覚はまったくなかったのだ。


9月27日・土曜日
外をぶらぶらするにはちょうど良い、暑くも寒くもない絶好の野外Jazz日和にめぐまれ、夕方過ぎにハイドパーク目指していざ出発。
ナビゲーション通りに行くととんでもない道に迷い込み、ついたらすっかりお目当てのバンドが終わっていてガックリ。


でもこんなきれいな夕焼けが見られたし、まぁいいか。


着いた頃にはこんな具合だったのが・・


どっぷりと日が暮れると・・

こんな感じに。
観客はサウスということもあって90%が黒人。ノリが違う。だからこのFestは私のお気に入り。


  

外で久々にジャンキーなものを食べるのも悪くない。



NICOLE MITCHELL’S ICE CRYSTAL

 
このバンド、超カッコよかったー!

 
最後はHOUSTON PERSON QUARTET
ヒューストン、さすがの貫禄。スタンダードの名曲をたっぷりと余裕で聴かせてくれた。
バックのトリオも素晴らしかった。

 
ステージ前にはダンシングフロアが設置されていて、踊り狂う人たち・・。


短い間だったけれど十分堪能した私たちだった。
やっぱりこうやって外に出て文化に触れるのが一番の刺激になる。

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近隣戦争。

2014-10-02 14:47:59 | アメリカ生活雑感
全てがそうとは言わないが、研究職の人というものは少しだけ世間ずれしているところがある。
人よりも数字やデータと仲良くしている時間のほうが長いせいかもしれない。

Pちゃんは、そのバカ正直でまっすぐな性格のせいで、人から誤解されることが多い。本人には悪気はなくても、つい“ごもっとも”なことを、言っても仕方のない人に言ってしまうクセがある。そのため、思わぬ敵を作ることがある。


そらが積もり積もって今、お隣さんのとの間でかなりの冷戦が勃発している。

そもそものきっかけは「タバコ」。
マイケル(隣人。40代半ば)は大のチェーンスモーカー。タバコのアレルギーがあるPちゃんにとってはそれだけで天敵なのだが、自分の敷地で吸う分にはこちらは何も文句は言えない。
ところが、マイケルはしばしば我が家の敷地内(芝生)でくわえ煙草をふかし、その吸殻をそのあたりに捨てていくのでさすがにPちゃんが注意。
そのときは、わかったよ、というようなそぶりで特に何も言わずにその場を立ち去ったらしい。
しかし、その後も一向に態度を改めない。どころか、以前にもまして嫌がらせのようにうちの前で煙草をぷかぷか吸うようになってしまった。

そして第2の原因は、犬のふん。
マイケルは2匹の小型犬を飼っているのだが、この2匹を裏庭にしばらく放し飼いにして好き放題おしっことウンチをさせるのである。後始末をすればいいが、こちらが見ていないと平気でそのまま放置するのだ。
これに怒ったPちゃん、もちろん厳重注意した。
それでも、もちろん無視。

「ああいうタイプは口で言われると腹が立つだろうから、ひとことメモを残せば?」と私。
ほんのメモでよかったのに、あのくそまじめでKYなPちゃんは、2枚にもわたる手紙を朗々と書いてしまったから、それがよけいにマイケルを怒らせることになってしまった。

ある日、犬のうんちを我が家の芝生の前に置き去りにしたところを目撃してしまったPちゃん、(よせばいいのに)マイケルのうちのドアをノック。奥さんのペギーが恐る恐る出てきたら、うしろからマイケルの怒号が。

「Fuck You! 今食事中だ。帰らんかいこのドアホ!」

何を言われるよりも侮蔑の言葉を浴びせられることを嫌うPちゃん、ここで完全にプッツリ。
「君がそのような態度に出るのなら、こちらはポリスを呼ぶからそのつもりで」

あー始まっちゃったよ。。。(つまり、どっちもどっちなのよねー)
そして、こんなつまらんことで呼ばれたポリスが到着した時には、マイケル夫妻はそそくさと車で逃走してしまった後だった。

これが決定的となって、それからはもうマイケルは完全に私たち血と顔を合わせても完全無視状態になってしまった。
奥さんのペギーも、まるで死人のように目の前を通り過ぎるだけ・・・不気味。
この夫婦、もともと非常に不気味なので私もなるべく付き合わないでいたのだ。
それでもPちゃんは、顔を合わせると普通に「Hi」とか「Hello」とか挨拶をしていたというから(もちろんマイケルは無視)、何ともお気楽な話。

それでもって、私が留守にしていた3週間の間にことはもっと深刻になっていった。
マイケルの吸ったタバコの煙が直接我が家の窓から入ってくるので、Pちゃんができるだけ怒らせないように丁寧に「悪いがもうちょっと離れて吸ってくれないか。家の中にタバコの煙が入ってくるんだ」と注意。
すると何と、マイケルは中指を立てて
「Fuck You!お前なんか死んで地獄に落ちればいいんだ!」とわめいたらしい。

あまりのことにPちゃんはブチ切れ、「いったいアンタは毎週教会に熱心に通って何を学んでいるんだ?なにがクリスチャンバリューだ!」と言い返したんだそうだ。
あっらー、それって彼らにとっては一番言われたくないセリフだわね。
宗教のことに触れたらおしめーよ。もちろん、私は心の中では同じことを思っていたんだけれども。


しかしそれにしても、このマイケルという男。そこまで私たちのことなめまくりやがったのね。
それなら仕方あんめー。金輪際、おめーとはお隣だとは思わねーし人間とも思わないからそう思え!(と、私もプツン。実は切れると私のほうが数倍怖い)
だいたいこの男、昔はすごいアル中だったというから、それで頭が少しおかしくなってしまったんだろう。
仕事にも就かず、いや、就いたと思ったらすぐ首になる、の繰り返し。近所でも相当変人として煙たがられている。

そんな奴をまともに相手にした私たちが間違っていたのだ。
「馬の耳に念仏」とはこのこと。まるでテロリストに「人殺しはいけませんよ」と注意しているようなもの。
それなのにPちゃんは、何かあるたびにしつこく彼に注意するので、余計にマイケルを怒らせ偏屈にさせてしまっている。・・・ということに気づいていないPちゃんも、やはり相当おかしい。。。

ああ、世の中には狂った奴らが大勢いる。
アメリカで怖いのは、こういうやつらがいつでも銃を買えることだ。もう頼むから挑発しないでくれよー。

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Pちゃんの夏休み

2014-10-01 14:43:42 | アメリカ生活雑感
私が日本に帰っていた3週間、Pちゃんはそれは大忙しだったそうだ。
6月あたりから家の外観の修理にコツコツとりかかっていたのだが、やり始めるともうそれしか見えなくなるPちゃん、次から次へと家の傷みがみつかって修理が飛び火、毎日のようにホームセンタ通いだったという。
何かをみつけてしまったら最後、「明日やろう」という言葉はこの人の辞書にはない。どんなに遅くとも遠くともホームセンターまで買い物に出かける執念深さは、さすが研究者だと納得。
(このパワーを研究に向けてほしいものだが・・・)

どうしてそこまでして自分でやるの?プロに頼めばいいじゃない、と以前言ったところ、
「何千ドルも払ってまた中途半端な仕事されるのは余計にストレスになるからいやだ」とひとこと。
確かに、アメリカで今までプロの業者さんに頼んでまともな結果になった試しがない。

引っ越して間もないころ、壁(電気ジャック)から水が出てきてびっくり、業者さんを呼んで壁の一部を切り開いて見てもらったら、水道管の継ぎ目がきれいに外れていて壁の中が水浸しになっていた。
家を建てた時のいい加減な配管工事が原因だった。
一度嫌な予感がして大雨の後に屋根裏を調べてみたら、そこらここらが水浸しだったこともある。
それも手抜き工事のせいだった。
自分たちの仕事に「誇り」というものがあるのか?と怒りが湧いてくる仕事ばかりでいやになる。
プロフェッショナルな仕事をきちんとまじめにやる気質の日本、ドイツからきた私たちには、特にこのあたりが許せない。

そんなことが重なって、Pちゃんは完全に業者と言うものを信用しなくなってしまい、全て自分でやらなければ気が済まなくなってしまった。
もともとバカがつくくらい丁寧で完璧主義。これがまた、時間がかかりすぎて終わらないのだ。
別に働いているわけでもなく時間はたっぷりあるんだし、体を動かしていると気もまぎれるだろうから、私としてはどうぞおやりなさい、という達観した気持ちで見守っているのだが・・・・・・やはり、見ていていらいらする。


さて、夏休みの間、Pちゃんが最もやりたかったのはカーペットの水洗い。
私がいないのを利用して、リビングの家具を全部廊下に運びだしさっそく作業を開始。
まずホームセンターでカーペット用の洗浄&掃除機をレンタル。水の力でカーペットを根こそぎ洗浄するパワフルなマシンで、これを一度かけると瞬く間に水が真っ黒になったらしい。
それを水が濁らなくなるまで繰り返したあと、しばらく放置して乾燥。その後家具をまた運び込んだというのだ。
よくもこれだけの作業をひとりでやったもんだ、とこの人の執念に感心。


それだけではなく、かねてから修理を勧告されていたガレージの扉の凹み、ドア周りの腐った木の取り換えとペンキ塗り、と次々に新たな課題を見つけては修理を完了。

そんでもって今は、家根まわりの修理に没頭中。
昔ははしごに上るのも怖くてびびっていたのに、今は平気で屋根の上を走り回っている。


とにかく怪我だけはせずに、気のすむまでやってちょ。

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