Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

母は強し。女は強し。

2017-01-22 15:40:41 | アメリカ生活雑感
1月21日(日本時間1月22日)は、母が亡くなってちょうど1か月の月命日。・・と、さらりと書いている今も全く実感なし。
去年の今頃は、よもやこんなことになるなんて全く予想だにしていなかったから。
でもこれが、人間という個体の命の不思議なんだな、とつくづく思う。

その1月21日、アメリカでは歴史を揺るがすような大変なことが起こっていた。
トランプの大統領就任に反対する大規模デモが全米各地で繰り広げられ、その動きが世界にも広がり約300万人もの人たちが参加。
「Women's March」と名付けられたこの抗議デモに参加した80%は女性だった。女性への性的なハラスメント、差別発言を繰り返す品性のかけらもないトランプへの怒りが全世界で爆発した。

シカゴでも15万人の人たちがグラントパークを埋め尽くした。
8年前、オバマ大統領誕生の瞬間、10万人以上の人たちが押し寄せて歓喜した同じ場所で、今度は「トランプ許すまじ」の叫びがあがった。

実はトランプは大統領選挙のPopular Vote、つまり「国民による実際の投票数」では100万票以上の差をつけられてヒラリー・クリントンに大敗していた。にもかかわらず、アメリカ大統領選挙の複雑かつトリッキーな仕組み(選挙人総取りシステム)によって、国民の意思に反して大統領を勝ち取ってしまった。
このことに人民は黙っていられなかったわけだ。

今から思えば、日本に帰っていた昨年の9月からの3か月、この「世にも醜い大統領選挙」を見ずにすんだ、というのが私にとって一番の安らぎだったかもしれない。(Pちゃんはこの間、テレビと新聞をキャンセルしてメディアをシャットアウトしていたそうだ。それほど、大統領選というのは見ているほうを憂鬱な気持ちにさせるのだ。)


母のことに話を戻そう・・。


母の出身は、北海道・函館。
その函館の女が、50年も前に徳島に遠路はるばる嫁に来た。
当時は、徳島なんてまるで異国だったに違いない。いや、いっそのこと異国のほうが言葉も文化も違うからまだ諦めがつくが、「どこの馬の骨ともしらん、蝦夷(えぞ)の女が長男の嫁とは!」と風当たりも相当強かったそうだ。
しかし、そこを黙っちゃいないのが、うちの母。函館(ハマ)の女は、気が強いのである(笑)。
若かりし母は、祖父母(つまり舅や姑)とも相当やりあったらしい。(らしい、というのは私がまだ小さすぎてあまり覚えていないため全て本人、または姉からの又聞き)

そんな経験からだろう、いつの頃からか母は娘たちに「ここ(田舎)にいちゃだめだ。どんどん外に出なさい」と言ってきかせるようになった。外に出て、リベラルな目を持ちなさい、「どこそこの出身だから」とか「女だから」というだけで人間を見下すような小さな世界に留まっていてはいけない、そう言いたかったのだろう。
女の子は県内の大学(または腰かけ就職)を出て、そのうちお嫁に行けばいい、というのがまだまだ田舎の風潮だった時代、娘をふたりとも大学からさっさと県外に送り出した母の勇気もすごい、と当時の母の年齢になってつくづく思うのだ。
そのおかげで、私たち姉妹は大学を卒業してからは、それぞれの道を思い切り進むことができ、自立することができた。
娘への激励ともとれる叱咤は、差別されて悔しい思いをしてきた彼女なりの最大のリベンジだったのかもしれない。

眠っている母の顔には、なんだかそんな達成感が漂っていた気がする(笑)


以前、オバマ大統領が、亡き母の思い出をテレビで語っていた。
「やさしく温厚で、ほとんど怒ることのなかった母が唯一怒りをあらわにしたのは、肌の色など生まれならの違いによって人が人を差別したときだった」と。
白人(アメリカ人)の母とケニア人の父の間に生まれたオバマ氏は、小さいころから白人でも黒人でもない自分のアイデンティティーにもがき苦しんでいた。
当時、黒人と結婚した母への世間の風当たりも相当だったにちがいない。
幼心に深く刻み込まれた母の怒り。それがその後の彼の原動力となり、“アメリカの縮図”ともいえるシカゴ・サウスサイドへと彼を向かわせ、アメリカで暮らす全ての人が、差別なく暮らせる社会をつくる夢を抱いて、大統領へと向かわせたのかもしれない。


もし私の母がアメリカへの日系移民だったら。
もし、オバマ氏の母親がこの時代にここに生きていたら、
ふたりは絶対このマーチに参加していただろう。


そんなことをふと思いながら、今宵も母と一献。







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お礼

2017-01-20 14:53:21 | アメリカ生活雑感

多くのお悔やみのメッセージ、ならびにお供物を送っていただいた方々には、この場を借りてお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

本人のかねてからの希望により、お香典はご遠慮させていただいております。
そのかわり(と言ってはなんですが)もしよろしければお花を送って下さるととてもうれしいです。
大好きな花々に包まれているほうが、きっと本人も喜びます。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

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私を救った言葉。

2017-01-14 17:49:55 | アメリカ生活雑感

日本にいた3か月半、本当にいろんなことを考えた。
これまで真剣に向き合ってこなかったこと、無意識に避けて通っていた様々なことにいやがおうにも対峙せざるをえなかった。

親の老い、病気、別離・・。
その恐怖の真っただ中に突然放り込まれ、毎日がたがたと震えていた。
しかし、自分でも驚いたことにその恐怖は時間と共に少しずつ和らいでいった。
同じ日本に住んでいてもすぐに親元に駆けつけられない人がいくらでもいる。それに比べて私はこうして毎日両親のそばで精いっぱいのことができる、温かい母の体に触れ、目を見てうなずく母と会話をすることができる、私にはこんなに素晴らしい時間が与えられているじゃないか。
それに感謝しないでどうするのだ?

そんなある夜、恐怖を紛らわすためになんとなくつけていたテレビ番組に、私は決定的に救われた。
今まで一度も見たことがない『金スマ』。ゲストは古館伊知郎。
正直私はこの人をあまり好きではなかったのだが、この日彼は「自分が喋り続ける理由」として、今まで多くを語ることがなかった姉の死について全てを吐露していた。

口下手でシャイだった古館と違い、6歳上の姉はアナウンサーを夢見るおしゃべりで快活な女性だった。
しかし、37歳の若さでスキルス性胃がんを発症、3度の手術を受けるも次々と転移が見つかり寝たきりの闘病生活を余儀なくされる。
当時はまだ本人に癌の宣告はおろか余命宣告などしなかった時代、家族は本人に本当の病状を告げずに「今によくなるよ」とウソの励ましをしつづけるほかなかった。
幼い二人の子供を残して死にゆくであろう姉を想うと、古館自身もこれでいいのかと無力感に胸をかきむしるような想いだったという。

そんなときのこと。普段は口数少ない父がある日、姉を見舞った帰り道一杯ひっかけたのか上機嫌で帰ってきた。
その理由に家族は言葉を失った。

「俺は毎日病院に行って、背中をさすりながらこう言い続けたんだよ。
『恵美子、お前はもう死ぬよ。だけど、お父さんも出来るだけ早めにいくから安心して待ってて。
今は分からないと思うけれど、死期が近づいて行けばだんだん楽になるよ。だから大丈夫だからね。
まだ経験はないけれど、いろいろ聞くところによると人は生きたいと思うエネルギーが低下するから死に向かうので、その時は怖がる自分はもういなくて、スーっと眠っていくようだって何回も聞いたよ。』

毎日毎日、昼休みに会社を抜けて病院に通っては娘の背中をさすりながら同じ話を聞かせつづけた父。それを、泣きながら聞く娘。
そしてやっと、この日娘は黙って父の話をすっと受け止めた、それがうれしかったのだ、と。

それを聞いた古館は当初、父を責めた。
しかしこれこそが本当に死にゆく姉に言わなければならなかったことだったのではないかと気づき、今ではとても感謝していると同時に、本当のことも告げられずにごまかし続けていた自分を恥じたという。
誰もやりたくなかった嫌な役どころを父はやった、その覚悟が自分にはなかった、と。

「少しでも生きていてほしい、化学療法を受けてほしいというのは全部身内のエゴだと思う。姉に生きていてほしいと思うのは俺の気持ちでしかない。でも、本当のところなにが正解なのかは誰にもわからないんです」


「その後悔の念と、アナウンサーになりたかった姉の分も生きねば、しゃべらねば、伝えねば、という気持ちこそが、自分の原動力になっている。なぜなら、俺は今生かされているから。死んだ姉や父や母と共に生きている、そう信じている」そう叫んだ古館を見て、私は奮い立った。
この言葉が私にどれだけの勇気をくれたか、計り知れない。
この夜、普段は絶対に見ることのないチャンネルをつけ、この番組を見たのは偶然ではなく必然だったのかもしれない。
そう思わざるをえなかった。

それ以来、私はひたすら前を向いて進んでいく勇気と覚悟ができ、強くなれた。

怖がりでさびしがり屋の母に「これから良くなることはないよ」とは絶対に言えなかったが、病院に見舞って毎日毎日きれいな顔をさすり、体をマッサージしながら耳元で繰り返した。
「私が家のことは全てちゃんとやってるから安心して。お庭も家の中も、ピカピカにしてるよ。家やパパのことはな~んにも心配しなくてもいいよ。私に任しとき。絶対に守って見せるからね」
自分のことよりも家族のことばかりを心配していた母の気持ちを安らかにさせてあげることが、私の役目だと確信していたから。


「金スマ」の最後、古館が昨年7月に亡くなった永六輔さんのこんなことばを紹介していた。


「人間は二度死ぬ。
一度目は個体がついえたとき。そこから先はまだ生きているんだ。
二度目の死がない限り、人はずっと生きている。
誰かが自分のことを思ってくれている、誰かが自分のことを記憶に残している、時折語ってくれる、これがある限りは生きつづけてている。
そしてこの世界中で誰一人として自分のことを覚えている人がいなくなったとき、二度目の死を迎えて人は死ぬんだよ。」



人間の死なんて、ただの個体でのことでしかないのだから悲しむことなんてないのだ。
だからもっともっと、語って笑って共に生きよう。


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女の一生 ~1

2017-01-06 18:50:33 | アメリカ生活雑感
気が付けば早や4か月。
怒涛の様な日々だった。

昨年暮れに、母が永眠。
急な知らせを受けてシカゴから駆けつけたのが9月だった。まだ汗ばむ陽気だったあの日から、母を見舞い、父を励まし、3か月以上を実家で過ごした。
この3か月は私にとってとても濃く、ある意味最高に幸せな日々だった。
今から思えば、遠く離れてずっと悶々として体調を崩しかけていた私を母が呼んだのだろうと思う。

3か月の想いをすべてここに吐露することは難しいけれど、少しずつ思い出と共に語っていこうと思う。
だって、母はこれからもずっと私の中にいるのであって決して死んではいないのだから。

7月7日に他界した永六輔氏は、こんな名言を残している。

人間は二度死にます。
まず死んだ時。
それから忘れられた時。

(『二度目の大往生』より)


死んだっていうからおかしんだよ。先に行っただけなんだから
(『大往生』より)


「家族のために死んで見せることが最後にできること。 その姿勢こそが一番大事」




人は皆、生まれ、死ぬ。
それが“自分”から見て先か後か、それだけのこと。

母は、自分の人生を楽しく生き抜いた。
それを皆に見せてくれた。
そして、自ら先に死んで見せた。
なんて勇敢で素晴らしいことだろう。
死とは、生き抜いたあとのリラックスタイムなんじゃないかな。
母は今頃、狭い病室から解放されて自由に行きたいところを飛び回っているのだ。
そう思うと、寂しいけれど悲しいなんて少しも思わない。



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