1月21日(日本時間1月22日)は、母が亡くなってちょうど1か月の月命日。・・と、さらりと書いている今も全く実感なし。
去年の今頃は、よもやこんなことになるなんて全く予想だにしていなかったから。
でもこれが、人間という個体の命の不思議なんだな、とつくづく思う。
その1月21日、アメリカでは歴史を揺るがすような大変なことが起こっていた。
トランプの大統領就任に反対する大規模デモが全米各地で繰り広げられ、その動きが世界にも広がり約300万人もの人たちが参加。
「Women's March」と名付けられたこの抗議デモに参加した80%は女性だった。女性への性的なハラスメント、差別発言を繰り返す品性のかけらもないトランプへの怒りが全世界で爆発した。
シカゴでも15万人の人たちがグラントパークを埋め尽くした。
8年前、オバマ大統領誕生の瞬間、10万人以上の人たちが押し寄せて歓喜した同じ場所で、今度は「トランプ許すまじ」の叫びがあがった。
実はトランプは大統領選挙のPopular Vote、つまり「国民による実際の投票数」では100万票以上の差をつけられてヒラリー・クリントンに大敗していた。にもかかわらず、アメリカ大統領選挙の複雑かつトリッキーな仕組み(選挙人総取りシステム)によって、国民の意思に反して大統領を勝ち取ってしまった。
このことに人民は黙っていられなかったわけだ。
今から思えば、日本に帰っていた昨年の9月からの3か月、この「世にも醜い大統領選挙」を見ずにすんだ、というのが私にとって一番の安らぎだったかもしれない。(Pちゃんはこの間、テレビと新聞をキャンセルしてメディアをシャットアウトしていたそうだ。それほど、大統領選というのは見ているほうを憂鬱な気持ちにさせるのだ。)
母のことに話を戻そう・・。
母の出身は、北海道・函館。
その函館の女が、50年も前に徳島に遠路はるばる嫁に来た。
当時は、徳島なんてまるで異国だったに違いない。いや、いっそのこと異国のほうが言葉も文化も違うからまだ諦めがつくが、「どこの馬の骨ともしらん、蝦夷(えぞ)の女が長男の嫁とは!」と風当たりも相当強かったそうだ。
しかし、そこを黙っちゃいないのが、うちの母。函館(ハマ)の女は、気が強いのである(笑)。
若かりし母は、祖父母(つまり舅や姑)とも相当やりあったらしい。(らしい、というのは私がまだ小さすぎてあまり覚えていないため全て本人、または姉からの又聞き)
そんな経験からだろう、いつの頃からか母は娘たちに「ここ(田舎)にいちゃだめだ。どんどん外に出なさい」と言ってきかせるようになった。外に出て、リベラルな目を持ちなさい、「どこそこの出身だから」とか「女だから」というだけで人間を見下すような小さな世界に留まっていてはいけない、そう言いたかったのだろう。
女の子は県内の大学(または腰かけ就職)を出て、そのうちお嫁に行けばいい、というのがまだまだ田舎の風潮だった時代、娘をふたりとも大学からさっさと県外に送り出した母の勇気もすごい、と当時の母の年齢になってつくづく思うのだ。
そのおかげで、私たち姉妹は大学を卒業してからは、それぞれの道を思い切り進むことができ、自立することができた。
娘への激励ともとれる叱咤は、差別されて悔しい思いをしてきた彼女なりの最大のリベンジだったのかもしれない。
眠っている母の顔には、なんだかそんな達成感が漂っていた気がする(笑)
以前、オバマ大統領が、亡き母の思い出をテレビで語っていた。
「やさしく温厚で、ほとんど怒ることのなかった母が唯一怒りをあらわにしたのは、肌の色など生まれならの違いによって人が人を差別したときだった」と。
白人(アメリカ人)の母とケニア人の父の間に生まれたオバマ氏は、小さいころから白人でも黒人でもない自分のアイデンティティーにもがき苦しんでいた。
当時、黒人と結婚した母への世間の風当たりも相当だったにちがいない。
幼心に深く刻み込まれた母の怒り。それがその後の彼の原動力となり、“アメリカの縮図”ともいえるシカゴ・サウスサイドへと彼を向かわせ、アメリカで暮らす全ての人が、差別なく暮らせる社会をつくる夢を抱いて、大統領へと向かわせたのかもしれない。
もし私の母がアメリカへの日系移民だったら。
もし、オバマ氏の母親がこの時代にここに生きていたら、
ふたりは絶対このマーチに参加していただろう。
そんなことをふと思いながら、今宵も母と一献。
去年の今頃は、よもやこんなことになるなんて全く予想だにしていなかったから。
でもこれが、人間という個体の命の不思議なんだな、とつくづく思う。
その1月21日、アメリカでは歴史を揺るがすような大変なことが起こっていた。
トランプの大統領就任に反対する大規模デモが全米各地で繰り広げられ、その動きが世界にも広がり約300万人もの人たちが参加。
「Women's March」と名付けられたこの抗議デモに参加した80%は女性だった。女性への性的なハラスメント、差別発言を繰り返す品性のかけらもないトランプへの怒りが全世界で爆発した。
シカゴでも15万人の人たちがグラントパークを埋め尽くした。
8年前、オバマ大統領誕生の瞬間、10万人以上の人たちが押し寄せて歓喜した同じ場所で、今度は「トランプ許すまじ」の叫びがあがった。
実はトランプは大統領選挙のPopular Vote、つまり「国民による実際の投票数」では100万票以上の差をつけられてヒラリー・クリントンに大敗していた。にもかかわらず、アメリカ大統領選挙の複雑かつトリッキーな仕組み(選挙人総取りシステム)によって、国民の意思に反して大統領を勝ち取ってしまった。
このことに人民は黙っていられなかったわけだ。
今から思えば、日本に帰っていた昨年の9月からの3か月、この「世にも醜い大統領選挙」を見ずにすんだ、というのが私にとって一番の安らぎだったかもしれない。(Pちゃんはこの間、テレビと新聞をキャンセルしてメディアをシャットアウトしていたそうだ。それほど、大統領選というのは見ているほうを憂鬱な気持ちにさせるのだ。)
母のことに話を戻そう・・。
母の出身は、北海道・函館。
その函館の女が、50年も前に徳島に遠路はるばる嫁に来た。
当時は、徳島なんてまるで異国だったに違いない。いや、いっそのこと異国のほうが言葉も文化も違うからまだ諦めがつくが、「どこの馬の骨ともしらん、蝦夷(えぞ)の女が長男の嫁とは!」と風当たりも相当強かったそうだ。
しかし、そこを黙っちゃいないのが、うちの母。函館(ハマ)の女は、気が強いのである(笑)。
若かりし母は、祖父母(つまり舅や姑)とも相当やりあったらしい。(らしい、というのは私がまだ小さすぎてあまり覚えていないため全て本人、または姉からの又聞き)
そんな経験からだろう、いつの頃からか母は娘たちに「ここ(田舎)にいちゃだめだ。どんどん外に出なさい」と言ってきかせるようになった。外に出て、リベラルな目を持ちなさい、「どこそこの出身だから」とか「女だから」というだけで人間を見下すような小さな世界に留まっていてはいけない、そう言いたかったのだろう。
女の子は県内の大学(または腰かけ就職)を出て、そのうちお嫁に行けばいい、というのがまだまだ田舎の風潮だった時代、娘をふたりとも大学からさっさと県外に送り出した母の勇気もすごい、と当時の母の年齢になってつくづく思うのだ。
そのおかげで、私たち姉妹は大学を卒業してからは、それぞれの道を思い切り進むことができ、自立することができた。
娘への激励ともとれる叱咤は、差別されて悔しい思いをしてきた彼女なりの最大のリベンジだったのかもしれない。
眠っている母の顔には、なんだかそんな達成感が漂っていた気がする(笑)
以前、オバマ大統領が、亡き母の思い出をテレビで語っていた。
「やさしく温厚で、ほとんど怒ることのなかった母が唯一怒りをあらわにしたのは、肌の色など生まれならの違いによって人が人を差別したときだった」と。
白人(アメリカ人)の母とケニア人の父の間に生まれたオバマ氏は、小さいころから白人でも黒人でもない自分のアイデンティティーにもがき苦しんでいた。
当時、黒人と結婚した母への世間の風当たりも相当だったにちがいない。
幼心に深く刻み込まれた母の怒り。それがその後の彼の原動力となり、“アメリカの縮図”ともいえるシカゴ・サウスサイドへと彼を向かわせ、アメリカで暮らす全ての人が、差別なく暮らせる社会をつくる夢を抱いて、大統領へと向かわせたのかもしれない。
もし私の母がアメリカへの日系移民だったら。
もし、オバマ氏の母親がこの時代にここに生きていたら、
ふたりは絶対このマーチに参加していただろう。
そんなことをふと思いながら、今宵も母と一献。