Life in America ~JAPAN編

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イリノイ南下の旅 その2~アーミッシュの町。Arcola(アルコラ)&Arthur(アーサー)

2008-06-04 07:18:20 | 旅行
翌土曜日、6月1日。
昨日の天気がウソのようにピーカンのばかっ晴れ。
この蒸しっと空気が肌にすいつく感じは、まるでニューオリンズのよう。わずか2時間南下しただけで、ここはもうすっかり南部という気分になる。




今日の目的は「Amishを知りつくす」。
朝一番に訪れたのは、「Illionis Amish Interpreter Center」。
1994年に設立されたこのセンターでは、アーミッシュに関するさまざまな資料展示と20分ほどのビデオ上映をしている。ここでまずひととおりアーミッシュのことを学んでおくと、いろんな意味でその後の行動がとりやすい。




■ Amishの歴史
アーミッシュの歴史は16世紀のヨーロッパ、ルターによる宗教改革にまでさかのぼる。
1525年以降スイスでは一部の教徒がローマ・カトリック教会から分離しプロテスタント(新教徒)教会を立ち上げる。彼らは自ら“再洗礼(rebaptized)”を行い“再洗礼派教徒(Anabaptists)”と呼ばれるようになるが、従来のカトリック教会から異端とされきびしい迫害を受け、ヨーロッパ各地、とりわけドイツやオランダに逃れていった。
1536年、メンノ・シモンズ(Menno Simons)というオランダ人神父が彼らの指導者になり、信者たちは“メンノナイト派(Mennonites)”と呼ばれるようになる。
1660年代から90年代にかけて、スイスで再び迫害が始まる。1690年代にスイスの再洗礼派のリーダーになったヤコブ・アマン(Jakob Ammann)は、メンノナイト派から分離独立してより規律の厳しい宗派を立ち上げた。これが“Amish”の始まりだ。

1710年、断続的な迫害から逃れるためにメンノナイト派の信者たちは“新大陸”アメリカ、ペンシルベニアに移住、それに伴いアーミッシュたちも移住を開始する。
30年代にはさらに多くのアーミッシュたちが移り住み1800年までにはその数は500人に達した。

イリノイにアーミッシュがやってきたのは1865年。Moses Yoder、Daniel P. Miller、Daniel Ottoという3家族が、肥沃な農地を求めてアルコラに移住したのが始まり。そして現在、アーサー&アルコラ併せて4500人のアーミッシュが定住している。


アメリカにおけるAmishの分布図



最初にラテン語からドイツ語に翻訳されたした聖書も展示されている/




■ Amishの暮らし
自らの規律に基づいた質素で穏やかな生活がアーミッシュのモットー。
個よりも共同体を重んじ、従順、素直、謙虚な生活を何百年もひたすら守り続けている。
移動手段は車ではなく馬(車)、農耕にはトラクターではなく馬力を使い、華美なドレスではなく質素な服装で身を包み、男性は結婚後はひげを生やす。
家では電気は一切使わず、個々の家庭に電話はなく、ラジオ・テレビなどの現代テクノロジーも一切使用しない。電気の代わりの動力源は主にガス。(ガス式の冷蔵庫、扇風機なども前述のセンターで見ることができる。)壁には絵画などの装飾品は一切なく、ただひとつカレンダーだけは宗教上許されている。
アーミッシュの子どもたちはアーミッシュコミュニティの学校に8年生まで通い、その後ハイスクールへは行かない。(16歳になると“外界”を見に行くことを許され、数年“武者修行”に出ることもあるが、ほとんどはアーミッシュのコミュニティーに戻ってくるという。)
コミュニティ内での共通語はペンシルベニア・ダッチと呼ばれる古いドイツ語。

そんな彼らの暮らしも、ここ数十年の間に激変する。
農地の拡小や土地の値段の高騰、穀物価格の値下がりによって農場経営が難しくなったアーミッシュは次々に他のビジネスにも手を広げ始め、中には多くの従業員を雇うほど家内工業を拡大する人々も見られるようになった。
それまでは非アーミッシュとの接触を極力避けてストイックな暮らしをしていた彼らも、観光客が彼らの重要な顧客になるにしたがって外の世界とも交わることを余儀なくされ始めた。それにより、ビジネスに限っては電化製品の使用、たとえば携帯電話やコピー機、車の使用も一部認められるようになった。

Illionis Amish Interpreter CenterWebサイトより。)


センターの受付をしていた女子大学生(彼女はAmishではないという)に話を聞くと、現在アルコラ市内にはいわゆるアーミッシュはほとんど住んでおらず、みな郊外で暮らしているそうだ。
この町は、いわゆる“観光地としてのアーミッシュ村の玄関”として機能しているように思われる。それは、そのあと隣町のアーサーに移動してからはっきりとわかった。アーサーは、アルコラに比べるとアーミッシュ度100%。展示も説明もいらない、町そのものがすっぽりアーミッシュの世界だったのだ。


アーサーへの道すがら見つけた“メンノナイト教会”。
うしろの駐車(?)場にずらりと並んでいるのは、バギー。



こうやって、馬たちはつなぎ停められている。




アーサーのダウンタウンには、車とバギーが同時に行き交う。
不思議な光景だ。



スーパーにも“駐馬車場”が完備。




お墓に刻まれた名前は、Miller、Otto、Yoderなどほとんどがドイツ姓



洗濯物を見れば一目瞭然のアーミッシュの家。
赤いのはバンダナ。きっと子どもたちのものだろう。
アーミッシュの家庭は一般的に7~9人という子だくさん。
それも、この広大な土地を守っていくためなのだと実感。
子どもたちは小さいときから親から職業訓練を受けて育ち、女の子は12歳で料理をマスターするそうだ。




これが典型的な女性の装い。ボタンは一切使用しない。



地元の観光案内で教えてもらったアーミッシュ経営のグロッサリーストアでは、まさに“産地直産物”が売られていて、地元の人たちはもちろん観光客も買出しに来ていた。
私たちはここで、蜂蜜、各種香辛料、シリアルなど100%ナチュラルなものを買い込む。



12~3歳くらいのお姉ちゃんが4~5歳の妹を連れて買い物に来ていた。
とっても愛らしかったのだが、アーミッシュは写真を撮られることを嫌うので顔を識別写真は撮ってはいけないのが掟。



“HOMESTEAD BAKERY”。ここのパン&パイはおいしいらしいが、残念ながら5時過ぎで閉まっていた。
アーミッシュの町では、すべてのお店は午後3時~5時には閉店、日曜日はお休みなので事前にチェックが必要。




見渡す限りの大平野。ため息の出るほど広大な農地。
ここを、文字通り“馬力”だけで耕す彼らの暮らしに脱帽する思い。
しかし、彼らからすればこれが何百年もの間続けてきた日常なのだ。
今回、ストームの真っ只中に放り込まれてあわてうろたえた私はつくづく彼らに畏敬の念を抱かざるをえない。
ラジオもなければ天気予報や避難警告放送もないこの平原の真っ只中で、彼らは大自然と対峙しながらこの生活を続けてきたのだ。
学校で科学を学ばなくとも、生活そのものが“科学と学習”の世界なのだ。

道で馬車とすれ違うたび、アーミッシュの人たちは必ず静かに片手をあげてにこやかに「ハイ」と挨拶してくれる。それがとても爽やかで心地よい。
アーミッシュはその質素な暮らしぶりから閉じられた世界をイメージされがちだが、実際はこちらがはっとするほど朴とつとして明るい。



アーサーの中心部には、アンティークショップやアーミッシュの特産物であるキルトの店が立ち並ぶ。
今度訪れる機会があれば、化学薬品を一切使用しないという手作りの木工家具を是非買いたいな。





*イリノイのアーミッシュに関するWebサイト : http://www.illinoisamishcountry.com/
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イリノイ南下の旅その1~波乱の幕開け

2008-06-04 00:46:48 | 旅行
Pちゃんのフォローウィークを利用して、先週の金曜日からイリノイ南下のミニ旅行をしてきた。
フォローウィークというのは、昨今の予算削減政策をもろに受けた職場(研究所)から「この週は働いてはいけません。給料も出ませんから~」と宣告されている週のこと。

さて、これが今回のルート。

B)アルコラ
C)アーサー
D)スプリングフィールド

アルコラとアーサーは、アーミッシュの町として有名。
“アーミッシュ”とは、スイスを原郷とするドイツ系の移民で、もともとは17世紀のヨーロッパの宗教弾圧から逃れ、自由を求めて新天地アメリカに移住した宗教一派をさす。
アーミッシュの人たちは、電気や現代テクノロジーを一切使わない質素な暮らしぶりで知られ、みな制服のように統一された黒・グレー・紺色の服をまとっているのも特徴だ。
彼らのことは映画や、ときどき町で見かけたりする程度でしか知らなかったのだが、イリノイにもアーミッシュの町があると知って、ふたりそろって是非訪ねようと即決したのだった。

そして、スプリングフィールドは実はイリノイの州都。
シカゴが州都だと思われがちだが、実はここ。「リンカーンの地元」としてアメリカ人にも人気の観光地のひとつ(らしい)。

この旅で、まだ知らぬイリノイのこと、アメリカのことをたっぷりと吸収してこよう!と意気揚々と出発したのはよかったが、のっけからとんでもない旅になるとは・・・・


ガソリンは日増しに高くなり、この日は4.25ドル/ガロン。
われらの心強い味方プリウスくん、がんばれ!

出発したのはいいけれど、折りしもこの日は夕方からイリノイ南部に雷雨とトルネード(竜巻)の警報がでていた。
57号線を下るにつれて雨足は異常に激しくなる一方、プリウスくんはずぶぬれ状態。






アルコラに到着した頃には、ラジオが一斉に警報を流し始めた。「安全なことろに非難してください」。
これにはかな~りビビった。
温暖化の真っ只中に自分がいるんだと実感。でもこれを招いた国でだけは犠牲になりたくない。

そのあたりで適当に飛び込んだ宿で今晩は一泊することに。
次の町のアーサーまで行きかかったところをいやな予感がして折り返し、アルコラに宿を見つけて大正解だった。アーサーにはモーテル、ホテルなど公共の宿らしきものが何もなかったのだから・・

(つづく)
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