Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

フジコ・ヘミング式音楽の感じ方。

2016-04-04 17:09:34 | アメリカ生活雑感



先月末、ピアニストのフジコ・ヘミングさんのコンサートがシカゴで開催された。

私がフジコさんのことを知ったのは、1999年に放映されたあのNHKのドキュメンタリー、「フジコ~あるピアニストの軌跡~」。
当時私はまだ、東京で昼夜なく働いていた。
そんなとき、あの放送を見てものすごい衝撃を受けたのは言うまでもない。
彼女の演奏を生で聴いてみたいとは思いつつも、その放送の反響で一気に「フジコ・ブーム」が巻き起こってしまったため、しばらくほとぼりが冷めるのを待とうと思っているうちにアメリカに来てしまい、その機会は失われてしまった。

そんなときにフジコさんが5年ぶりにシカゴでコンサートをするという朗報、しかも取材までさせていただく機会に恵まれた。

記事はこちらから↓
“魂のピアニスト”フジコ・ヘミング・ピアノコンサート&特別インタビュー


インタビューをするにあたって、日本での衝撃的なブレークから現在までのフジコさんのことをいろいろネットで調べているうちに、なんとも複雑な気分になった。
なんでも、フジコさんの演奏には「賛否両論」があるらしい。
これがまたいかにも日本人らしいところなのだが、“クラシック筋”の方々から言わせれば、彼女の演奏は自由すぎるのだとか。自由すぎる、は個人の感想だからまぁいいが、下手とまで言い切る人までいて、なんじゃこりゃ、だ。
だから日本のクラシックはいつまでたっても一般の民にとって敷居が高いんじゃないの?

思えば日本の場合、クラシックに限らず、何でもそうだ。
「●●はこうあるべき論」をしたり顔でプリーチする人が文化そのものを腐らせている。
ブルースも。ジャズも。
好きでしょうがないオタクな人たちが、グループを作ってあたかも自分たちだけの世界の音楽ようにふるまい、素人が踏み込んじゃいけないんだよ、というような壁を作る。
ときには、「素人がワシラに挨拶もなく楽しむんじゃねえよ」というような、威嚇すら放つ。

そんなことをしているのは日本人くらいなものだ。
島国根性か、縄張り意識か?
小さい島国で小さいテリトリーを取り合いながらギュウギュウ暮らしてきたからこうなってしまったのかも。これも一種の文化なのか?

フジコさんもインタビューで言っていたが、「テクニックの上手な人はほかにいくらでもいる。でも私の演奏は魂が湧き出してできあがっている。機械みたいに弾くなんてつまらないし必要ない。ショパンやリストの曲だって、作曲された当時はいろんな解釈でみな弾いていたにちがいないから、当時のように弾いてもいいじゃない」と。

きちんと「クラシック教育」を受けた彼女でさえああだこうだと世間様から言われる。
いわんや、素人上がりをや、である。

そこで思い出したのが、あのジャズシンガーの綾戸(智恵)さん。

彼女が日本のJazz界に現れたときは、多くの“一般People”が歓迎した。
彼女の歌が確実に一般市民のハートをつかんだからだ。
キレイなドレスをきて、セクシーメークで変な英語で歌うのがそれまでのJazzシンガーだった。
でも彼女は顔をぐちゃぐちゃにして、魂を絞り出すように歌い、そこに人生を重ね合わせた人たちが心を奪われた。

17歳で単身アメリカへ、教会で歌いながらJazzを習得、黒人男性との結婚と離婚、息子と母子家庭、がんで声を失う・・・といった、日本人好みのドラマだけがクローズアップされ、人気に火を注いた。
人気が出たら今度は、あれやこれやと文句をつけて「あれはJazzじゃない」「素人だ」と潰しにかかる人たちが現れた。
後ろで歌っているクワイヤーはいったい何だ?出演料を払わなくていい素人を都合よく集めただけじゃないのか。
(彼女のクワイヤー1期生だった私は、当時批判をまともに受けた一人だった。)
歌が純粋に好きで、一緒に皆で歌いたい、と気持ちをひとつにして集まった仲間のいったい何がいけなかったのか、今でも理解に苦しむ。

だいたい素人って何よ?
有名音大学を出ていないこと?
「なんとか賞」を受賞していないこと?

かの某有名Jazz雑誌は綾戸さんを「Jazzシンガー」と認めずしばらくシカトを決め込んだし、Blue Note Tokyoは彼女をJazzアーティストとしてステージに立たせることを見せしめのようにしなかった。
業界による集団いじめである。

フジコさんもこの15年間、多分そんなクリティシズムの矢面に立たされたのでは、と容易に想像がつく。
デビューCDがクラシック界で「異例の」ヒットを飛ばした。それも癪に障るのか?
人の成功を妬む、その卑しさよ。

音楽は心。奏でるほうも、聴くほうも、頭ではなく心で聴き、感じるものだ。
グラミー賞受賞、バークリー音大卒業、チャイコフスキー・コンクール優勝、ショパン・コンクールのファイナリスト・・・だから素晴らしんじゃない。
そんな彼らより、場末のバーで聴いたピアノに震えるほど心を動かされることだってある。
肩書きがなければ音楽を聴けないのなら、それは人間として悲しすぎるんじゃないか?


それから、フジコさんも言っていたけれど日本のクラシック教育にも罪がある気がしてならない。
私も小さい頃ピアノを習っていたし、楽器としてのピアノが大好きだった。
でもあるとき、幼いながらも自分で曲に味付けしてリズムをグルーブしたら、先生にきっちり正された。
それからなんだか急激につまらなくなってしまい、クラシックは私の音楽じゃないと思ってやめてしまった。
本当はずっとずっと奥が深いんだろうけれど、その「型にはめられた」感が耐えられなかったのは事実だ。


基礎があってこその熟練。でもウキウキ感を外してはやる気が失せる。
アートというのは、学ぶ側も教える側も難しいものだな、とつくづく思う。


  







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