アメリカに住んでいた頃、年上の友人がいた。
過去形なのは、一度嫌なことがあってからきれいさっぱりと付き合いをやめたからだ。
当時、彼女のブログを読んでいつもこう思っていた。
「この人はなんでいつも周りに牙をむいて怒っているのだろう」
「親との確執やら自分の老後のことやら、なんて辛気臭いことばかり書くんだろう」
何を書こうと人の勝手だが、読む側はネガティブなブラックホールに引きずり込まれそうになったものだ。
子どもの頃の体験やトラウマは人の性格をかくもねじ曲げてしまうものなのか、とつくづく思った。
でもまぁ、私自身も半世紀以上生きてきて、親の死も経験し、それなりに人生の”仕舞い方”なんぞをふと幼馴染と飲みながら話すことが増えて「なんだかなぁ」と人のことを言っていられない、と笑ってしまう。
私にとって、母の死が大きな転機になった気がする。
死生観や人生観などすべてに影響を及ぼした。というより、より現実的に見つめなおすことになったというべきか。
帰国してからしばらくいい感じの距離を保って”見守り”を続けてきた父が年末に体調を崩して入院し、年末年始はジェットコースターのような日々だった。
コロナ禍で病院に面会にも行けない。
口喧嘩したまま、このまま会えなかったらどうしよう、と心の中で後悔した。
喧嘩しているときは「このまま死んでも知るもんか!」と思っていたけど、やはりそうなってしまったら後味が悪い。
どうにかして元気で(生きて)家に戻してあげたい、いや、戻すのだ、と自分と闘い続けた。
あれほど病院嫌いの父も、家に帰りたい一心でよく頑張った。
おかげで、やっと転院をすすめる主治医を説得して退院させてもらえることになった。
(現状で町の病院に転院なんかしたら、絶対生きて帰れないに決まってる。←←これは、この非常時において世の中で今起こっているケースをたくさん見聞きしてきた私なりの結論だ)
かくして約2か月ぶりに父が自宅に戻ってくる。
私も、もう病院には戻さないという覚悟を決めての介護生活になる。
私の自由はこれでなくなり、そして以前にもまして喧嘩の日々が始まりそうだ。
2023年終わりには私は何をつぶやいているだろうか。