Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

田宮プロジェクト② 遺物の行先。

2024-06-12 21:58:25 | がんばろう、日本。
(つづき)

一番苦労したのは、言わずもがなの遺産整理。
住まなくなって久しい家の中に取り残された、埃だらけの昭和の遺物の数々。
家の中に入るだけで、むっとする埃とカビの匂いにまずやる気が失せる。そしてビンビンと漂う霊気との闘い。
ほんまにつらかった
家と共につぶしてしまえば一瞬の出来事なのだろうけど、物には物の使命があり寿命がある(と私は思う)。
このSDG’sの時代になんでも簡単に廃棄してはいけない、と気力を振り絞って嫁入り先探しが始まった。

        

まず、意外と場所をとるリネン類。
来客用にと買ったのだろう、まだ新しいリネン類多数。コロナ禍で使う機会を逸したと思われる。

①きれいな布団、毛布
②食器類
③電気ストーブなどの暖房器具

→ご近所に住むのインド人ご夫婦に寄付。ご主人は地元の大学の教授で、インド人留学生のお世話をしているため生活雑貨が必要だという。来日がちょうど寒い時期に重なったので、布団や暖房類はとても助かったといってもらえた。


④ 生活用品(アイロン、こたつなど)

→ 徳島大学の学生寮へ寄付。


⑤ 生活家電(洗濯機、シングルベッド2つ)

→「つながりグループ」(徳島在住の外国人を支援するグループ)を通じて在住外国人家族に寄付。


⑥ 引き取り手のなかった昭和の遺物(古箪笥、無垢板座卓、飾り棚、照明器具、リクライニングチェアなど)

→ 知り合いの古民家民宿に寄付。「こんな時代物の良い品は最近手に入らないんですよ!」と大いに喜ばれ、あとからわざわざ写真を送ってきてくれた。








⑦ 巨大全身マッサージチェア(医療用機器のため始末に困っていた)

→ 今回お世話になる建築事務所の顧客で、日帰り入浴デイケアに寄付。利用者さんから大いに喜ばれているそうだ。


⑧ 仏壇(魂は抜いてあるけれど貰い手が見つからず、結局最後まで残ってどうしようかと諦めかけていた・・・)

→ 地元の寄付サイトに掲載したところ、仏壇業者さんが引き取ってくれた。きっとリセールするのだろう。
「質の良いものをありがとうございました」と感謝された。


⑨ 歴史的に価値のある書物や文書類

→ 徳島県立文書館に寄付。県庁に勤務していた叔父が持ち帰ったと思われる県の重要文書(コンプライアンス皆無)や書物が段ボールに10箱分。徳島の歴史にかかわる重要な資料と思われたので問い合わせたところ喜んで引き取ってくれた。


⑩ 使用済みのタオル類や古い毛布などどっさり

→ お世話になっている動物病院に寄付。動物の入院時などに快適に使ってもらうため。すごく喜んでいただけた。


⑪ その他(衣類、着物類、書籍、カーテン、おもちゃ、花瓶、新し目の靴、洋服、ゴルフ用品、装飾品など)

→ 「太陽と緑の会」(障がい者自立支援施設)へ寄付。大きなトラックで通算4回も取りに来てくれた。これらをリセールすることで自立支援になる。


⑫ 堅牢な本棚、大量のカラーボックス、大型テレビ(古い型)、コートハンガー

→ 相棒の職場(英語教室&サロン)に寄付。教材類が散らかって絶望的だった部屋が一気に片付いた(片付けたのは潔癖症の相棒)と感謝された。テレビは子供たちに英語を教える際タブレットと連動させて使えると、先生たちに大好評!教室が見違えたという。


⑬ ブランドもののコーヒーカップ&ソーサー 多量

→ 懇意にしている老舗の珈琲店に寄付。昭和レトロなお店の雰囲気にぴったり。


⑭ まだ新し目のエアコン3基。業者さんが壁から取り外して室外機とともにセットで

→ もったいないので地元のサイトに出してみたら、すぐに隣町から引き取りたいとお兄ちゃんがやってきて軽トラに積んで帰った。
ついでに、まだ使える照明器具もその場で外して軽トラへ 見事に部屋がスッカラカン


全てのモノたちが捨てられずに第2の人生を歩むと思うと、それだけで気持ちが晴れ晴れする。
成仏するんだよ。

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田宮プロジェクト、始動!

2024-06-12 00:23:17 | がんばろう、日本。
我が家とはほぼ縁切れ状態だった叔母が亡くなって丸2年。
子どもがいなかったので、結局は遺産の半分(半分は従妹)は我が家(父)が相続。
それが私の大仕事の始まりになろうとは、その時には知る由もなかった(苦笑)。
つまるところ、彼女の不動産は私が責任をもって引き継ぎ管理をしていくことになった。
少なくとも、不動産業に通じている人がやった方がよいでしょうという話だ。

この、長年手入れもされていない昭和の遺産(家)をどうしたらよいものか。
今はやりの民泊にしようか、近くの会社の外国人従業員のためのシェアハウスにしようか、いっそのこと取り壊すか・・と様々思いあぐね、各方面のセミナーに出かけて行ったり、知り合いに話を聞きに行ったり、物件を見てもらって助言をもらったりという日々が続いた。
それでもピンとくる活用法は見つからないまま、これから降りかかってくる税金の心配だけが頭をよぎる。

そんなときに出会ったのが、「テナント契約先行型・空き家活用」という新しい方法。
地元の銀行のセミナーを聞きに行ったときに、地元の不動産会社がこの方式を始め市内にも成功事例があるというので、個別にアポイントを取って物件の資料と共にじっくり話を聞きに行った。
一言でいうと、空き家のテナント募集&契約を、取り壊しやリフオームの前に行ってしまうというもの。
テナントにとっては入居までに幾分時間は要するが、大家にとっては建物を取り壊したもののテナントが決まらない、という一番のリスクを回避することができる。
さらに、不動産会社と建築事務所が組んでいるため、デザインを含めてその後のテナント工事への移行がスムーズにいき、テナント&オーナー双方にとってもいらない出費が免れるというメリットがある。

昨年秋に不動産情報をネットに流しテナント募集を開始。
何件か下見はあったものの、時間がかかることやサイズなどで話はぽしゃり、そろそろ次の手を打ちましょうかと話し合っているところへ、この物件が気に入ったという某業種の方から熱烈なオファーがあった。
こちらが希望した賃料にもOKしてもらい、多少時間がかかってもじっくり待って店舗設計に備えますと言ってくれた。

かくして4月に賃貸借無事契約を結び、あとは一部建物の取り壊しとリフォームにかかるローンが下りてGOサインだ。
今まで一度も個人で銀行ローンを組んだことのなかった私が、この年齢になって・・と一抹の不安もあったが
計画通りいけば繰り上げ返済できそうだし、なんといっても空き家で木や草が生い茂っていた”不良物件”がきれいな更地になって、道路も拡張でき、コミュニティーのためにもなるということが何よりうれしい。

2年間、こつこつと家の中のものを整理してきた苦労が報われるときがきた。

(つづく)
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モダニズム建築家、増田友也が手掛けた廃校小学校が蘇る。

2024-05-29 17:01:05 | ニッポン生活編
6月1日にグランドオープンする鳴門市の新観光施設、Tonaru(トナル)のプレオープンイベントへ。
Tonaru(鳴門をもじってトナルとは・・www)は、いずれも今は廃校となった旧瀬戸小学校・幼稚園と、旧島田小学校・幼稚園を利用した施設で、前者は「トナル瀬戸」、後者「トナル島田」という名称だ。(混乱ポイント①)

「トナル瀬戸」では、土日祝日に2回、阿波踊りのライブ公演が行われる。料金は大人2,200円。
また、イカダでのフィッシング体験(インストラクター付き、レンタル道具付き)もできる。料金は大人9,900円。
ただ、このイカダにはボートで行くため、事務所で受付をしたのち各自で乗り場までいかなければならない。送迎はなし。(混乱ポイント②)

「トナル島田」ではキャンプ体験ができる。トイレ、シャワールーム、共同炊事場が備わっている。
土日祝日、サイト料金は1区画 1,100円~6,050円
区画貸しのみなのでテントなどのレンタルはなし(混乱ポイント③)


「トナル瀬戸」のプレイベントでは、徳島県阿波踊り協会の合同連による演舞を見ることができた。
約1時間の演舞で、内容は「阿波踊り会館」でやっている流れとまったく同じ。
軽い演舞→阿波踊りの説明→鳴り物説明→観客への阿波踊り指導とみんなで踊ろうコーナー→「素人さん表彰」コーナーと続き、最後はプロの演舞をたっぷり楽しむというもの。




大きく違うのは、ステージが円形になっているので360度のフォーメーションが楽しめることと、踊り子との距離が近いこと。

 



実際、一番前に座って見ていたけれどすぐそこに男踊りが飛んできて、きゃ~っと軽く声を上げてしまったほど。




踊りを見たことのない人、観光客、外国人はさぞびっくりすることだろう。
もちろんすぐそばで見る女踊りも美しく、会館のようなキラキラしたスポットではなく、軽いライトと自然光なのでそこがまたいい。
2,200円払って地元の人は(多分)行かないけれど、県外のお客さんをもてなすにはいいかも。
とはいえ、わざわざあそこまで行くか~?という疑問は残る。
京阪神から徳島に入るまでの時間を過ごすには良いのかもしれない。が、いつも観客で満員というわけにはいかなさそうだし、そのために有名連を一日拘束する余裕があるのか?
いずれにせよ、個人客よりはツアー客を見込んでどんどんパッケージで売っていくイメージなのだろう。


う~む、しかし。
つくづく思うのだけれど、徳島県はいいかげん「阿波踊り依存」から脱却したらどうだ?
せっかく増田友也という素晴らしい建築家のモダニズム建築が鳴門市だけで19か所もあるというのに、それをなぜ観光資源として生かさないのか、もったいない。

旧瀬戸小学校の校舎も、じっくり建築物として見ると実に興味深いのだ。




幼稚園の校舎は鳥が羽を広げたような形。窓からの光の取り入れ方もすばらしい。


「職員室」からウチノ海が一望できる

昨今、神戸や大阪でも「建築ラリー」が好評で、多くの建築ファンが訪れているし、
海外でも建築は立派な観光資源として成功している。
なのに、結局はこの場所でのメインは「阿波踊り」。増田友也の資料館は横に追いやられてしまっている感じだ。

せっかく鳴門に足を運んでくれたのであれば、「増田建築ラリー」をすればいいと思うのだが。
開放できるものは日程を決めて開放してみればどうだろう。

鳴門市民会館(1961):解体:現存せず
鳴門市役所本庁舎(1963)
北灘東小学校(1972)
北灘東幼稚園(1972)
鳴門中学校(1972)
市職員共済会館(1973)
北灘西幼稚園(1974)
瀬戸幼稚園(1975)[2][3]
木津保育所(1975)
勤労青少年ホーム(1975)
桑島幼稚園(1976)
瀬戸小学校体育館(1977)
老人福祉センター(1977)
北灘西小学校(1977)
鳴門第二中学校(1978)
鳴門東小学校(1979)
鳴門東幼稚園(1980)
島田小学校・幼稚園(1981)
鳴門市文化会館(1982):耐震工事中(27年完成予定)


★参考にしてもらいたい建築祭

神戸モダン建築祭:https://kobe-kenchikusai.jp/
イケフェス大阪(生きた建築ミュージアム大阪):https://ikenchiku.jp/
オープンハウスシカゴ:https://openhousechicago.org/
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6月1日は「第九の日」

2024-05-28 10:25:42 | ニッポン生活編
5月19日

ベートーヴェン「第九」を聞きに鳴門へ。


今年は初演から200周年の年。




”鳴門「第九」を歌う会”が毎年演奏会を開催しているもので、ご夫婦で出演予定の相棒のお友達(ドイツ人のご主人と日本人の奥様)のご招待。



実は鳴門は「第九」がアジアで初めて演奏された地。
第1次世界大戦中、鳴門市板東の捕虜収容所には約千人のドイツ兵が収容されており、彼らは音楽や演劇をなど様々な文化活動を行った。
大正7年6月、ドイツ兵たちによって「第九」が初演されたのを記念して、鳴門市では6月1日を「第九の日」と定め、毎年6月第一日曜日に全国から仲間を募り歌い続けている。



実は第九を生で聞くのはこれが初めての私。
例年コンサートを行っている鳴門文化会館は現在改装中のため、演奏は大学の体育館で行われた。音響は最悪だったけれど、「今日の演奏は、世界平和のために捧げます」とおっしゃったコンダクターの言葉を演奏中何度も思い出し、皆さんのパワーに思わず涙ぐむ。
相棒は「来年は一緒に歌う」とはりきっている。こりゃぁ楽しみだ(笑)


家に帰って相棒が持っていたベートーベンの本を開くと、1824年の初演(ウィーン)のプログラムが載っていて興味深かった。
総監督はもちろん、ベートーベン。しかしこの時すでに、彼は聴力を失っていたという。

初演から200周年のこの年に聴くことができて、感無量。
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第2の里帰り ベイエリアでの48時間~締めくくりは

2024-05-23 21:07:27 | アメリカ生活雑感
昼間から飲んでいい気分になったあと、今度はもう片方の大切な人たちとDinnerの約束。
バークレー・アダルトスクール時代のクラスの先生だったAnne(アン)、クラスメートでウズベキスタン出身のニゴラ、彼女のご主人のフェルースと子供たち(ニゴラにうり二つ11歳のカミーラ、5歳のAJ)が加わった。

ニゴラたちは二人ともバリバリ働いていて、その上バークレーから1時間ほど離れた街に住んでいるにもかかわらず、
「9時間かかったSHOKOに比べたら近いものよ!」
と、渋滞をいとわず仕事を終えたあと子供たちをピックアップし、車を飛ばしてやってきてくれた。
その気持ちだけでうれしい。

Anneが予約してくれたバークレー駅すぐ近くの、イタリアンレストラン。
そのテラス席でみんなの顔を見たとき、
「なんじゃこりゃ~」と心の声。
だって17年ぶりに会うというのに、この人たちちっとも変わってないんだもん。
ニゴラは初めて会った18歳の頃のまま。



その面影と利発そうなまなざしが、そのまんまそっくりカミーラに映し出されていた。
AJは初対面だというのに私に絡みついてきて、もうお人形のようにかわいい。

2時間、怒涛のようにしゃべり続け、少しだけ夜の街ブラをして
この上なく嬉しい再会の時間が暮れていった。

今度はまた近いうちに会おうね!と誓いながら。。。



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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その3

2024-05-22 10:28:46 | アメリカ生活雑感
バークレーでゆっくり過ごせるのは、正味一日、24時間。
その間、いかに「今会いたい人に会うか」が最大のトピックだった。

二日目(にして最終日)の午後は、私のバークレー生活になくてはならない存在だった日本食レストラン「スシ・カリフォルニア(通称:スシカル)」のオーナーで、つい先日店を売却してリタイアしたリョウジさんに会うと決めていた。
ここで過ごした数年間、毎週金曜日になると閉店後に怪しげなミュージシャンたちが集まって
飲んで歌って笑って、大騒ぎしたものだった。
日本人社会とあえて距離を置いていた私はその輪に入るのが少し遅かったのだが、そんな私を快く受け入れてくれて、初日の晩にはもう阿波踊りを踊って大騒ぎした記憶がある(笑)
おおらかで、ウェルカムで、優しくて。
全てはリョウジさんの人柄が引き寄せたものだったのだと思う。


17年前のある夜。毎週こんな感じ(笑)

スシカル最後の日には残念ながら間に合わなかったけれど、どうしても会ってお礼を言っておかねばと連絡をとったところ無事に会うことができた。
38年間、時間に縛られていた生活から解放されたリョウジさんは、なんだかほっとした表情で「行きたいところに連れて行ってあげますよ」と笑顔。
なんと偶然にもこの日はリョウジさんの誕生日。 徳島から持ってきた「鳴門金時焼酎」お土産は、図らずもお誕生祝になった。

近くでデザインTシャツ工房を営んでいるもう一人の大切な仲間、ナオさんのところに行こう!と車を走らせる。
「やぁ~やぁ~」
と工房の奥から現れたナオさんは、昔のまま。

ナオさんとは「ロシアンリバー・ジャズフェスティバル」に一緒に行ったり、

毎年恒例、お庭での独立記念日BBQに乱入したり

Jamセッションで飲めや歌えやの大騒ぎをしたり

と、数えられないほど、(いつもお互い酔っぱらって)時間をご一緒させていただいた。
お会いするのは2012年にシカゴに訪れたナオさんを、Jazz Festにご案内して以来、かも。


もう、この二人との再会がうれしくて。





で、やっぱり同じメンツでまた昼間っから飲んじゃった。

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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その2

2024-05-19 19:43:45 | アメリカ生活雑感
おしゃべりしてゆっくりしすぎたせいか、めずらしくDedeも、そして当然私も寝坊。
そのおかげで、久々に仕事のプレッシャーのない朝を気持ちよくむかえられた。
夕べは風が強かったので一晩中窓の外では木々の音がざわざわと聞こえてきて、それもなんだか子守唄のような心地よさだっだ。


Berkeleyの高台にあるDedeのおうち。毎年ここでThanksgivingのテーブルを囲んだっけ。

朝食後は、Dedeと昔のようにキャンパス付近をぶらぶらしてみる。
数年間住んでいたアパートはそのままだったが、大学前のメイン通りのテレグラフアベニューはすっかり様変わりしていた。
コロナ禍で閉店したままの飲食店や、空きスペースにペンキで描かれた落書きが悲しく見苦しい。
趣味の悪いビルが出現したり、学生用のアパートが林立する無機質な街並みには虚無感が漂う。


昔住んでいた学生アパート。毎晩近所で暴れる学生がうるさくてたまらず引っ越したけど、キャンパスに近くて便利だった。

 
悪趣味・・


落書きだらけの空きビル


レコードを買いあさったなじみの古レコード屋さんはつぶれずにまだあった。めちゃうれしい!


バークレーの学生たちの集会に歴史的に使われたPeople’s Parkにはバリケードが築かれ、四隅には警官の姿。
何事かと聞くと、こともあろうにここに学生アパートを建設する予定(表向きは)で、よからぬデモなどを起こされないように見張っているのだという。




もちろん、デモなど起こる気配もないので、ポリスも暇を持て余している様子。
まったく天下のUCBが予算をこんなことに無駄遣いしているのか、と情けなくなる。

あきれ返りつつ学内に入ると、見慣れた場所で見慣れた景色が広がっていた。
今全米の大学に広がりつつある、イスラエルによるガザ侵攻、ガザの人たちに対する虐殺行為に対するデモ。
大学がイスラエルの企業に資本援助をすることに対する抗議チラシも多くみられた。
2001年の9月、9・11の直後も同じような光景が広がっていたっけ。





他大学とは違い、UCBではあくまでも平和な形でデモが行われていて、ゴミひとつない整然とした運動だったのが印象的。
卒業式を中止するほどの大学もあったそうだが、ここではそんな暴力は一切見られなかった。


卒業式のシーズンでもあり、すぐ横の正門前では卒業セレモニーを終えた学生たちが誇らしげに記念撮影をしていた。



近くのカフェではいつもと変わらず学生たちが勉強をしている。
この対比もいかにもバークレーらしい。

コロナですっかり留学生が減ってしまったUCBはその遅れを必死で取り戻そうと、最近では学部・学科を乱立させているらしい。それもあって、学生や教授陣の住むアパートが急激に必要になり、市内各所で高層アパートの建設が始まっているのだとか。
中には(失礼だが)成績が良くなくても簡単に入れる学科もあり、”UCB卒業”のネーミングほしさに主にアジアの学生が殺到しているとかで、大学のレベル低下が懸念されている。

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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その1

2024-05-19 17:33:57 | アメリカ生活雑感


LAへの出張帰り、今度こそベイエリアに寄ろうと決めていた。
昨年LAに来たときは団体行動だったので行けなかった、近くて遠い第2の故郷。
あのとき行っておけばよかった、
あのとき会っておけばよかった、
そう思うことがないように、思いついたら即行動、これからはこれで行こうと決めている。

LAから1時間半、ひとっ飛びでサンフランシスコへ。
この空港はLAXよりはるかにきれいで明るく洗練されている。すぐにBARTに乗り継げるし、タクシーやUberの列に並ばなくてもいい。
懐かしいロックリッジ駅までは、1.75ドル。
駅を出るとDedeが待っていてくれた。
彼女に会うのは、シカゴに訪ねてきてくれた時以来だからもうかれこれ6年?
私が初めてバークレーで生活を始めたときからずっと、私の人生を見守ってくれていた生き証人の彼女。
英語が喋れなくて四苦八苦していたときも、大学のプレゼンクラスで悩んでいた時も、助言しつつそっとそばで手を差し伸べてくれた。
彼女なしでは今の私はあり得なかっただろう。

彼女を紹介してくれたのが、当時クラスメートだった親友でエジプシャンのHODA。今はドイツに戻って、メディアに引っ張りだこの政治学者だ。
この地に降り立ち空気を吸うと、この20年間が走馬灯のようによみがえる。
青春の匂いだ。










アメリカ生活最初に住んだ家。一軒家の中で数人の留学生が部屋ごとに住んでいた。

何も変わっていないDedeの家で部屋に荷物を下ろし、さっそく昔暮らしたNeighborhoodを散歩。
二人でよくおしゃべりをしたカフェで、まるで昨日の続きのようにコーヒーを飲みながらおしゃべりに花が咲く。
寒かったロスとは違い、ここは陽差しが温かい。


アフガン料理の店でゆっくりと夕食を。


部屋からのベイエリアの眺めは何一つ変わらない。

ふかふかのベッドで、やっとビジネスモードからオフへと気持ちが切り替わった夜だった。
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豊竹若太夫 襲名を祝う会

2024-03-25 23:26:21 | ニッポン生活編


人形浄瑠璃「文楽」で途絶えていた大名跡、豊竹若太夫(わかたゆう)が57年ぶりに復活する。
文楽太夫の第一人者で御年77歳の豊竹呂太夫さんが、祖父で人間国宝だった先代、十代目豊竹若太夫から300年以上継承されてきた若太夫を受け継ぐ。
「豊竹若太夫」は、文楽界においては「竹本義太夫」に次ぐ大名跡だ。

その襲名を祝うパーティーが、大阪のホテルニューオータニで盛大に開かれ私も末席に加えていただいた。
私のようなものが何故出席したかというと、毎年淡路で行われている「浄瑠璃素義大会」に呂太夫さんが審査員として来てくださっているというご縁からだ。
私はその素義にコロナが明けてから3年間、ださせていただいている。
誰にでも気さくなお人柄で知られる呂太夫さんは、嫌 な 顔 一つせず2日間朝から夕方まで私たち素人の語りを真剣に聞いてくださり、 アドバイスもくださる。
ぶっ続けで聴かされるのは正直たまったもんじゃないだろうとお気の毒に思うのだが、それでも毎年、素敵なお帽子をお召しになって淡路にお出ましくださるのだ。





3月24日
大阪のホテルニューオオタニに集まったのは、そうそうたる顔ぶれの発起人を入れて約350人。
お着物姿の女性が場をおおいに華やげていた。
私もこの日はお着物。
母が残してくれた付下げをこの日とばかりに箪笥から引っ張り出し、帯、帯揚げ、帯締めを選んで朝からスタンバイ。
淡路と徳島からは総勢30人が呂太夫さんの晴れ姿を一目見ようと、バスをチャーターして駆け付けた。

  








会場を埋め尽くす大勢のお客様


発起人の一人、コシノヒロコさんはさすがの目力。
小さいころから伝統芸能に親しまれてきたというコシノさん。名前を継承することが意味すること、その意義を熱く語っておられた。


呂太夫さんに語りを習って15年、噺家の桂南光さんが楽しい乾杯の音頭
「私はちゃんと太夫について習っています。米朝師匠は芸者さんに教えてもらっただけ」と笑いをとる。


記念撮影


ご挨拶で思わず感極まる呂太夫さん。
その傍で、ビシッっときめて微動だにしない素敵な奥様の姿が。
高校の同窓生とのこと。この奥様あっての呂太夫さんなのだと納得。





会の最後には会場内をごあさつしながらぐるりと歩く呂太夫さんと奥様。


NHK大阪放送局長林理恵さんの、この帯は注目の的!
「壇浦兜軍記」から阿古屋の頭を大胆にあしらったデザイン。見台まであって素晴らしい。(黙って撮ってすみません。)

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二月逃げる。

2024-03-05 17:36:14 | ニッポン生活編
「一月往ぬる二月逃げる三月去る」とはよく言ったもので、
2月はまさに走って逃げた月だった。
でも、短い期間にさまざまなことを達成した感のある良き月でもあった。

月初は父の1回忌の準備もろもろ。
もう1年もたつのか・・・と去年の今ごろの、いつブザーでたたき起こされるかわからない不安な夜間同居生活を思い出す。
もう少し長生きしてれば、WBCも、38年ぶりのタイガース優勝も一緒に盛り上がることができたのにね。
・・・と言うてもせんないこと。
これからはただ、体に気を付けて両親の残してくれた心やものを大切に人生を生きていこうと思うのみ。

そして。

父の命日当日には、もうひとつビッグイベントがあった。



師匠が続けてきた義太夫節の会「阿波路会」の10周年記念公演。
この公演に向けて、昨年末からツールを用意したり、特別配布用の「10年史」を編さんしたり、公演の宣伝・広報をやったりともう大忙し。
その効果もあってか、2月11日の徳島公演は超大入り満員、立ち見も出るほどの盛況だった。







ぶっ続けで約80分の演目の始まり。


いつもは語りと三味線だけの素浄瑠璃形式なのだが、今回は特別に人形がつき、舞台も華やか。
(注)許可を得て撮影しています。



この準備とほぼ平行して夜中はシカゴと仕事のやり取りが続き、自分の舞台なども重なり結構ハードな月だった。
さぁ、3月は「去る」というが、うまく去ってくれるだろうか。 
どうなる!どうなる!?



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