Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

アメリカの歴史。黒人の歴史。(2)

2012-03-30 17:16:46 | アメリカ生活雑感
2月26日、事件は起こった。


17歳の黒人高校生トレイボン・マーティンが、富裕層が暮らす住宅街に父親を訪ねて近所のコンビニにキャンディーを買いに出かけた帰りに、近所を巡回していた自称、自警団のジョージ・ジマーマン(28歳、父親は白人、母親はヒスパニック)に射殺された。
事件当時、マーティン少年は何の武器も持っていなかったにもかかわらず、「正当防衛」を主張したジマーマンは逮捕されずに無罪放免になった。
しかし、ジマーマンがマーティン射殺の前に自ら警察にかけた緊急用電話では「自分は今(マーティンを)つけているところだ」と伝えており、マーティンに後ろから攻撃されたという現場での証言と異なっていることがのちの調査で判明。
また、電話で黒人差別的な言葉を何度も発していることから、犯行には人種差別があったとして抗議運動が全米で起こり、司法省とFBIが再捜査に乗り出し警察署長は一時辞任を発表した。
この事件に関してはオバマ大統領も「If I had a son, he'd look like Trayvon.(自分に息子がいたら、トレイヴォン君みたいだろう)」とコメントし、「国・州も総力あげて原因を徹底究明したい」と語った。



John Minchillo / AP
New York City Council Member Jumaane D. Williams, of Brooklyn, speaks at a rally in New York for Trayvon Martin on Wednesday.
マーティンが着ていたフード付きのスゥエットシャツが抗議運動のユニフォームになった。


この事件には大きくふたつのポイントがあると思う。
ひとつめが、ヘイトクライム、つまり黒人差別問題。
正当防衛を主張して殺した側はもちろんのこと、携帯の履歴も確認せず身元不明のまま遺体を仮名で3日間署に保管し、現場保存も証拠品押収もしなかった警察の対応には、明らかに(黒人のひとりやふたり・・)という蔑視がみてとれる。

ふたつめは、警察がその場でジマーマン逮捕に踏み切れなかったある法律の存在だ。
フロリダ州の「Stand Your Ground(自分の身を守れ)」法、別名「shoot first(先に撃て)」法。これは、身の危険を感じたら相手を殺してでも“正当防衛”できると認めたもので、つまりフロリダでは自分が怪しいと感じればほかの誰かを殺してもいいというライセンスを与えられているわけだ。(フロリダを含めアメリカでは20州以上が同様の法令を定めている。)
マーティンは銃を持っていなかったにもかかわらず、あとをつけまわされて殺された。
黒人は歩くだけでも怪しく危険な存在であり、殺されても仕方がない存在ということになる。

「正当防衛」で思い出すのが、20年前の1992年10月、ルイジアナ州バトンルージュで日本人留学生、服部剛丈君(当時16歳)がハロウィンのパーティに出かけた際、間違えて敷地内に入った家人に侵入者と判断されて射殺された事件。
あのときも、バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名(白人10名、黒人2名)全員一致で無罪の評決を下した。
アメリカのような銃社会では、殺られる前に殺った者が正義なのである。

アメリカの銃規制問題は、憲法の解釈議論にまで発展する壮大な問題で、規制派、反対派の綱引きが今なお続いている。
過去には、短銃などの販売に5日間の猶予期間を設けることと販売店に購入希望者の犯歴を警察への照会の義務付けを定めた「ブレディ法」が制定された(1993年)こともあるが、この法律は当初5年間の時限立法として制定され、後に政権が銃規制に消極的なブッシュ共和党政権(ブッシュは全米ライフル協会の終身会員である)に移行したことなどから、2004年に延長されず失効となったという歴史がある。


何故、銃を持つのか?→怪しい奴から自分の身を守るため
怪しいやつの定義は?→黒人

アメリカから銃がなくならない限り、黒人の人権が守られることは決してないだろう。


※銃規制問題について以前に書いたブログ内容

暗闇に後退するアメリカ
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アメリカの歴史。黒人の歴史。(1)

2012-03-27 18:33:07 | アメリカ生活雑感

PBS(アメリカでも希少な公共放送局)で毎週日曜日に放映している「Finding Your Roots」という番組が大好きで、楽しみにしている。
毎回あるゲストを迎え、その人物のルーツを検証していくという内容なのだが、
その徹底したリサーチ力ももちろんのこと、「アメリカ人のルーツ」ということ自体がまずとても興味深い。
アメリカ人の祖先は所詮、よその国から来た人々。その彼らがどういういきさつでアメリカにたどり着き、どうやってその地に根を下ろしてきたのかを知ることによって、アメリカ全体の歴史を垣間見る気がするのだ。
白人の先祖はヨーロッパからの移民、そして黒人のルーツは大概の場合アフリカ奴隷にたどり着く。



先週のゲストは、その黒人奴隷をルーツにもつアフリカ系下院議員のジョン・ルイス(72)。
若き日にルーサー牧師と行動を共にし、「60年代公民権運動・ビッグ6の最後の生き残り」と呼ばれる人物だ。

1940年、南部アラバマ州の小作人の子として産まれ、文字通り差別の真っ只中で育った彼は、同州で55年に起こったあの“ローザ・パークス事件”(黒人女性ローザ・パークスがバスの白人専用座席に乗って逮捕された事件)を身近で体験。
バスのボイコット運動を指導したキング牧師の演説をラジオで聞いて、公民権運動に身を投じる決心をする。
61年には、バスの人種隔離座席を撤廃させるための「フリーダム・ライド」運動に参加し、その後も数々の“非暴力”公民権運動の先頭に立つ。


John Lewis (far right) with Dr. Martin Luther King, Jr. (center) leading a civil rights march in Alabama from Selma to Montgomery to protest restrictive voting rights for African Americans in 1965. (© Steve Schapiro/Corbis)

63年、20万人以上が参加して人種差別撤廃を訴えた「ワシントン大行進」の立案者の一人でもあり、キング牧師が行ったあの伝説の「I Have A Dream」演説に先立ち基調演説を行った23歳のルイス氏は「公民権運動が生んだ最も勇敢な人間の一人」と呼ばれている。


John Lewis, age 23, Chairman of the Student Non-Violent Coordinating Committee, speaks at the Lincoln Memorial during the historic March on Washington, August 28, 1963. (© Bettmann/CORBIS)


そしてついに64年、「公民権法」(Civil Rights Act)が制定され、法の上での人種差別は終わりを告げた。
それでも有権者登録に消極的であった黒人たちに、ルイス氏は「選挙こそが我々が持てる最高の武器である」と訴え、60代後半には黒人参政権運動を指導し400万人以上の黒人有権者登録を成し遂げた。
81年、アトランタ市議会議員。86年、ジョージア州下院議員に選出される。


In February 2010, President Barack Obama presented the Medal of Freedom, the nation's highest civilian honor, to Representative John Lewis of Georgia, a hero of the Civil Rights Movement. (AP Photo/Carolyn Kaster)

★ ★

このルイス氏のルーツを遡っていくと、彼の曽々祖父母(4代先祖)であるトビア&エリザベス・カーター夫妻にたどりついた。
彼らは言わずもがなの南部の黒人奴隷。1830年頃といえば、黒人奴隷には人権のかけらも与えられていない時代だ。
もちろん男女の関係はおろか家族を持つことも許されず、肉親であっても市場でバラバラに引き離されるのが常だった。
しかし、記録をたどっていくうちにこのカーター夫妻が硬い絆で結ばれていたことが判明する。
トビアとエリザベスの「婚姻届」が見つかったのだ。
その日付は、1865年12月16日。
これは、合衆国憲法修正第13条、いわゆる「公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を継続することおよび制限のある例外(犯罪を犯した者)付きで、自発的ではない隷属を禁じた法」(adopted on December 6, 1865)が施行されてからわずか10日後のことだった。
つまり、ふたりは奴隷解放のこの瞬間を待ちわびたかのように、そのわずか10日後に晴れて法の下に人間として「夫婦」となったのである。
このときのふたりの推定年齢は、45歳だった。

さらに驚くことに、その後ふたりは1869年に$400で土地を購入していたという記録が残っていた。
奴隷解放後たった4年後に、どうやって当時としては大金の$400を蓄えていたのか? 
1870年頃には、解放された奴隷たちが財産を持ち始めたことがあらゆる資料で明らかになっているが、これは、奴隷たちの主人が彼らの働きにこたえて資産の一部を与えたことが始まりだろうと言われている。
記録によると、カーター夫妻の雇用主は白人のジョー・カーターという人物であることが判明。幸運にもそのジョーの孫娘が一家の歴史を記した詳細な日記を残していた。
その日記には、当時としては極めて珍しいことにトビアとエリザベスという二人の奴隷の名がしっかりと刻まれていた。

「・・・(祖父のジョー・カーターは)今まで忠義を尽くして働いてくれたトビアとエリザベスの働きに報いるために、土地と建物の一部を譲った」(日記より)

夫婦の固い絆と主人への忠実な働きぶりがうかがえる。
ふたりはその後も5回にわたって、財産の売買をしていた。懸命に働き、財を築き次代へとつなげていこうという気迫が見て取れる。

そしてさらに驚愕の事実が明らかになる。
1867年、つまり奴隷解放2年後に、トビアはアトランタ州で黒人としては2番目の参政権登録をしていたのだ。
黒人参政権がいまのように保障されるようになったのは、それから100年以上後のこと。キング牧師やルイス氏などによる公民権運動を経て1964年に公民権法が成立してからである。
トビアはいつか政治に参加できるその日を夢見つつ、参政権登録へと先頭を走った人物だった。
その4代後の子孫が、その偉業を成し遂げるとは知らずに・・・。


これらの記録を目の前にしたルイス氏は、静かに涙をぬぐった。

「私の中には彼らの血や魂が宿っているのですね」



★ ★


では、アメリカで黒人の地位は確立されたのか?
答えは残念ながら「NO」である。
つい先日、フロリダで17歳の黒人少年が帰宅途中に射殺された。撃った犯人は何の罪に問われずその場で放免され、その対応を巡って全米で大きなデモが起こっている。
悲しいかな、このような事件は毎日どこかでおこっている。
共和党の大統領候補は、堂々と自分がレイシスト(白人至上主義)であることを宣伝文句にしているような人間だ。
本当に腹が立つ。

これに関しては次回につづく・・・。



※なお、「Finding Your Roots」はオンラインでも見ることができます。是非ご覧ください。
 http://www.pbs.org/wnet/finding-your-roots/

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貧乏ゆすりのススメ。

2012-03-23 16:10:12 | アメリカ生活雑感
物心ついたときから“腰痛持ち”の私。
マッサージ、鍼、ヨガ、なんでもやったがなんだかいまひとつ決定的にはよくならぬままだましだましやってきた。
それが、最近になって耐えられないほどの痛みにかわってきた。
これはどうしてもおかしい。
で、ある日ちょっとした立ち座りのときに股関節に激痛が走った。

ひょっとしてこれ、この間「ためしてガッテン」で見たあれじゃないだろうか?

「40代から特にキケン!とれない足腰ヒザ痛の真犯人」

あわててレントゲンをとって専門医に診てもらったらビンゴだった。
右の股関節が炎症を起こしているらしい。
人間の股関節は、ボール状の足の骨が、おわん状の骨盤のくぼみにはまりこみ、それが骨盤から斜め横にはり出すという独特の形をしている。
女性はこの「おわん」部分が男性よりも浅いので、ボールとおわんの間の軟骨がすり減りやすいのだそうだ。
昔から足に負担のかかる激しいスポーツばかりやっていることもあって、自覚症状がないだけで実はかなり前から炎症を起こしていたにちがいない。
でも股関節という自覚症状がないため、「慢性的な腰痛」と思いこんでいた。

一応、数週間は薬を飲んで様子をみることになった(これしか方法がない)。
でもこの間走れもしないし、大好きなZUMBAにも行けない。
もっと早くよくなる方法はないのだろうか??

「ガッテン」によると、貧乏ゆすりでこの軟骨を再生することができるという。
さっそく昨日から貧乏ゆすりを励行している。なんだか格好悪いけれど、誰も見ていないからいいや。
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ワイルド誕生日

2012-03-19 12:54:28 | アメリカ生活雑感
3月17日はアイリッシュの祭日、St. Patrick's Day。
この日は町中が緑一色になる。
ここ2年ばかりは、テリーのうちにお呼ばれされて伝統的なアイリッシュのDinnerをごちそうになっていたけれど、
今年は一緒にBarに繰り出すことにした。
夜お出かけすることなんて本当に久しぶり、っつーか今年初めて。

午後9時過ぎ、サウス・エルジンのスポーツバーに行ってみると、もうそこはどんちゃんお祭り騒ぎ。
アイリッシュをルーツに持つ人もそうでない人も、とにかく飲んで踊って大騒ぎしている。
ロックバンドが耳をつんざくような音で生演奏するなか、酔っぱらった人たちがステージ前で踊りまくり。
何をしゃべっても聞こえないわ、冷房で体は冷えるわで、1時間くらいですっかり飽きた。
けど彼らの車で行っているから帰りたくても帰れない・・・トホホ。

結局この大騒ぎがおさまったのは、バンドの演奏が終了した午前2時過ぎ。



 ラブラブのテリーとビル

★ ★

明けて、まぁうれしくもない誕生日の18日。
前の晩、Billが「明日誕生日のお祝いにハーレーでツーリングに連れて行ってあげるよ」と言うので
やんわりと断ろうとしたが(家でのんびりしたかった)、あんまり誘ってくれたしせっかくだから行ってみることにした。

午前11時、この日も最高気温が25℃という真夏並みの快晴。
Tシャツ一枚でも汗ばむほどの、絶好のツーリング日和だ。
ビルのハーレーでうちを出発し、隣町を抜けそのお隣のセント・チャールズへ。
ここで生まれ育った彼にとっては庭同然、川と緑に囲まれたとっておきのスポットに連れて行ってくれた。


 
このさわやかな初夏の風を浴びながら、ハーレーでブッ飛ばすひとときは最高だ。


禁酒法時代にアル・カポネが潜りで経営していたBarがいまもこっそりとある。

 
ビルがつけてくれたポーズで記念撮影。なにやってんだか(笑)

 
最後はSt. CharlesのBarで一杯。快晴とあって駐車場にはハーレーがごまんと停車中。


こんなかっこえーしゃれこうべデコのハーレーも。

 
ここで友達と合流して、昼間っからでビールをひっかけてツーリング終了。
ありがとう、ビル!!

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震災1年メモリアル

2012-03-17 14:25:10 | アメリカ生活雑感
震災からちょうど1年がすぎた今週は、シカゴでも様々な記念イベントが開かれ、取材で駆け回っていた。

12日月曜日は、二つの写真展のオープニングに出席。
日系企業関係者、各国大使、日系諸団体など多くの人が出席し、盛大なセレモニーが行われた。


トンプソンセンター・ロビーで行われた震災写真展「絆」のオープニングセレモニー
 







領事館内で開かれた写真展のオープニング・レセプションには200人もの人が出席。




地元の学校から寄せられた千羽鶴


東北のお酒もふるまわれた。


※この様子はUS新聞.COMにもUPしました。是非ご覧ください。
あの日を忘れない。~大震災1周年メモリアル写真展
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春、そして夏?

2012-03-15 16:04:02 | アメリカ生活雑感
2週間ほどブログをさぼっているうちに、季節はすっかり変わってしまった。
3月の頭には雪が積もっていたというのに、今週は記録的な暑さ。
今日も最高気温は25℃を超え、ランニング1枚でもちょうどいいくらいだ。
どうなってるんだ、シカゴよ!
あのマイナス20℃の世界はいったいどこへいってしまったのか?

★ ★



まだ寒かった頃、はるばる神戸から春を告げる贈り物が届いた。
「いかなごの釘煮」。
瀬戸内名物のこのお魚、このシーズンにしか獲れない。
しかも、毎年水温などの影響で漁の具合も違うので、非常にタイミングを見計らうのが難しいという。
今年は去年よりも1週間早く店頭に稚魚が並び、大きさも比較的小ぶり。
この小ぶりでぷりぷりしたのが私は大好き!
これがやってくると、ご飯も一段とおいしく感じる。

本当にありがとうございました!
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事故-- その後(もう2か月!)

2012-03-05 14:55:38 | アメリカ生活雑感
事故処理、まだ続いています(・・笑うしかない)
でも、事態を忘れないためにも書いておこう。

結局相手の保険会社からはチェックが贈られてくることはなく、私たちは弁護士に相談することにした。
Pちゃんの勤務先の法務課から紹介してもらった某弁護士に、事の次第を報告し
これから私たちがとる手段について相談。
その結果、①事故を起こした女性を「保険未加入運転」で州警察に報告。②事故後に適切な処理をおこさなかったためにかかった費用(レンタカー)の支払いの支払い請求を、相手女性に文書で行ってもらうことに。
とりあえず、相手の保険会社はもう相手にせず修理代に関しては私たちの保険会社であるG社で対応することにした。

しかし、ここからがまたひと悶着。
弁護士にことを預けたことを知ったG社が「これからは別の部署での対応になります」といって今後のやり取りを専門部署と行うことを要求。
Pちゃんはやむなくこの部署のメラニーという女性に事の次第を一から説明してやり直すことになった。
そのメラニー、今度は「弁護士さんからこちらに連絡をいただけないとこちらは動くことができません」と意味不明なことを言ってきた。
あわてたPちゃんが弁護士にコンタクトをとるも、なかなか折り返しの電話がもらえない。
(ここまでは私がバークレーに行っている間のやりとり)

すると今度は弁護士から1通のレターが届く。開けてビックリ。
「あなたのこの案件にご対応することはできません」と一方的な断りの内容だったのだ。
その理由というのが「私どもに対する再三の電話での問い合わせ」にあるという。
ふざけんじゃねぇ!!
だいたい被害者が弁護士に不明な点を再三聞くのは当然のことでしょう?
それを「何度も電話してくるな!うざい」とはねつけ、あげくのはてに「他をあたってください」だと!?
そんな〇ss〇ole。こっちから願い下げだ。

信用していた相手からまたしても裏切られ、鬱がひどくなったPちゃんを必死でなだめすかし、
別の弁護士さんを紹介してもらって再び相談。
その結果、相手の女性に直接連絡を取り、彼女側の“保険会社”が支払いを拒否した修理代のうちの1000ドル(残りはG社が支払う)、及びレンタカー代金の支払い義務は本人にあるということ、その支払いをしない場合は州警察に「保険未加入運転」のレポートを彼女の名前ですぐさま行うこと、を伝えてプレッシャーをかけることに。
時間や費用を考えると、弁護士が介入するようなケースではないという。
そして言われたとおりに相手女性(もちろん留守電)にメッセージを残し、折り返しの電話を待つ。
かれこれ2週間、まだ返事はなし。


さて一方ガレージに入ったままのつぶれたプリウス。
とりあえず近距離なら走れるので、買い物に行くくらいならOKなのだが、事故でバッテリーがダメージを受けたらしく
1時間も駐車しておくとバッテリーが空っぽになるという爆弾を抱えたまま。
なので、おちおちドッグパークにも遊びに行けなくなってしまった。
外出がめっきり減ってしまった我が家はまるでひきこもり家族。
楽しいイベントも何もなくどんよりとした日々。

でもようやく修理に向けて動き出した。
G社の指定した修理会社で見積もりをしてもらったところ、私たちが事故後にとったトヨタ関連修理会社の見積もりとさほど変わらなかったため、2社の間でネゴシエーションが行われた結果、無事に修理会社に持ち込むことになった。
それが明日、3月6日(火)
事故から2か月と1週間たってようやく修理開始だ。
修理には2週間ほどかかるので、その間はまたレンタカーだ。

それにしても、なんでこんなに時間がかかるんだ!
要するに、初めから相手の保険会社なんか無視してさっさとG社で対応をして
お金の問題は車が治ってからゆっくりやればよかったのだ。
(・・・と私は初めから言っていたのに言うことを聞かなかったのはPちゃんだ。)

そんなこともあって、我が家は最近不穏な空気が立ち込めている。
仕事はいよいよ先行き不明。
車の問題は解決が着かない。
何をしても気持ちが落ち着かずざわざわしている。
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