Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

時計を作って逮捕された少年。

2015-09-23 17:29:34 | アメリカ生活雑感
お次は、一夜にして「全米一有名な14歳」になった少年のお話。



彼の名は、アーメッド・モハメド(Ahmed Mohamed)。
テキサス州、アービングという小さな町のマッカーサー高校(MacArthur High School)に通う高校1年生。

メカニックが得意だった彼はある日、時計を自作して学校に持って行った。
先生に見せて褒めてもらおうと思ったのだが、先生の反応は思ってもみないものだった。なんとその時計を時限爆弾だと勘違いし、警察に通報。警察は爆弾ではないとわかっていながら、この罪のない14歳の少年の後ろ手に手錠をかけ連行、逮捕した。
その後警察で検証した結果、この時計は爆弾ではないことが証明され彼は釈放されたのだが、彼が手錠をかけられ連行される画像は瞬く間にインターネット上に出回り、大騒ぎになった。

http://www.nytimes.com/2015/09/17/us/texas-student-is-under-police-investigation-for-building-a-clock.html?_r=0





彼の名前からもわかるように、彼の家族はモスラム。
モハメドという名字と、その日が9・11の同時多発テロの記念日などの理由で逮捕されたのではないかという憶測が出回り、
「前途ある14歳の子供に手錠をかけるとは何ごとだ」
「警察官を辞めさせろ!」
「教師を辞めさせろ!」
と、全米中から非難が寄せられた。

フェースブックで多くの友人がこのニュースをシェアしていたが、モハメッドくんのおびえるような視線が心に深く突き刺さった。
心ない大人たちのやったことが14歳の子供の心に一緒の傷を残したのだと思うといたたまれなかった。

しかし、この話にはアメリカらしいHappy Endストーリーが待っていた。
このニュースが出回るや否や、オバマ大統領がツィッターですぐさま助け船を出した。



「カッコいい時計じゃないか、アーメッド。ホワイトハウスに持って来ないかい?我々はもっともっと君のように科学好きな子どもたちを力づけたいんだ。アメリカがグレイトになるようにね。」

http://www.cnn.com/2015/09/16/politics/barack-obama-ahmed-texas/


この事件に心を痛めていたアーメッド支援者たちが、この大統領自らのツィートで一気に溜飲を下げたのは言うまでもない。
オバマ大統領から直接、ホワイトハウスへ招待状を受け取ったのだ。
奈落の底にいったん突き落とされた彼はいきなり時の人となり、ニュースでも一日中この一連の出来事が報道された。


Facebookの創始者、マーク・ザッケンバーグも自らのページにこう書き込んだ。



「彼のようにスキルと大志を持って素晴らしいものを作り上げた人間は、逮捕ではなく称賛されるべきだ。
アメリカの将来は彼のような人間にある。
アーメッド、Facebookに立ち寄ることがあれば、僕は喜んで君に会いたい。」

http://www.theverge.com/2015/9/16/9338747/mark-zuckerberg-facebook-ahmad-mohamed-clock

アーメッドには、MITをはじめとする多くの一流の大学から奨学金入学の話が持ち込まれているという。
こういうところはさすがアメリカだなと思う。
コンサバティブなどうしようもバカがいるかと思えば、両極にあるリベラルで正しい人たちがきちんと救いの手をさし伸べる。
こういうことが日常的に起こっているのがアメリカなのだ。




ところで、このアーメッドの家族はいったいどういう家族なのだろう、と興味が湧いて調べてみた。

彼の父、Mohamed Al Hassanは1980年代中ごろにスーダンからアメリカへやってきた。
当初はニューヨークで身を立てようとしたが、ビジネスチャンスがなくサンドイッチの屋台をして生活をやりくりしていた。
厳しい環境下で商売の目が出ず、いったんはアメリカでの生活を断念してスーダンへ戻ろうと決意したが、最後に思いとどまり南部テキサスに新天地を求めた。
テキサスでタクシー運転手の職を得、のちに車のパーツを販売する会社を設立。現在までに、多くのレンタカー会社を設立したほか、スーダンでもいくつかの旅行関連会社を設立して成功をおさめている。
俗にいう、「アメリカンドリーム」を達成した成功例か、と思っていたら、驚くことに実は彼はかつて「スーダン国家改革党(Sudanese National Reform Party)」に属し、2010年の選挙で現大統領と戦った闘士だったという。選挙では敗北したが、2020年の選挙では再び大統領選挙に打って出る野望があるそうだ。

こんな“アンビシャスな”一家を生み出した大元は、アーメッドの祖父(父モハメドの父親)にあるとアーメッドの叔父Moussaは回顧する。
祖父がアーメッドと同じ14歳の頃のこと。科学へ情熱を燃やす少年だった彼は、当時イギリス統括下にあった学校に通いたい余り村を抜け出して6マイル(約10キロ)の道のりを歩いてその学校がある町へと向かった。しかし途中で村人に見つかり、家族のもとに連れ戻され、スーダンの伝統的な地元の学校に通わされたという。

「私の父から始まって、家族はみな教育に執着心が高いんです。父も(18人の)子どもたちにより良い教育の機会をあたえよう、大学に行かせようと必死でした。父は私たちみなの道徳モデルでした。それを私たちがさらに子どもたちに伝えてきたのです」


http://www.huffingtonpost.com/2015/09/22/ahmed-mohamed-texas-sudan-family_n_8176702.html

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フランク・シナトラ 100年祭

2015-09-16 13:04:42 | アメリカ生活雑感
9月4日

出張やらなんやらで、気がつきゃあっという間に9月になってしまっていた。
このまま秋になり、またあの極寒の冬がくるのか?
いや、そうはさせじ! 外に出て楽しめるうちに満喫しておかなきゃ。

というわけで、大きな仕事がひとまず終わってやっと落ち着き、今年最後のRavinia Festivalに行ってきた。

今日は「フランク・シナトラ100年祭」
今年は。シナトラ生誕100周年。実は地味ながらいろいろなイベントが行われていて、今日もそのひとつ。
シナトラの息子(歌手であるという事さえ知らなかった)が、父をトリビュートするショーだった。

市内で無料のJazz Festが行われているせいか、会場はいつもよりがらんとしていて、
でもそのせいか目立った交通渋滞もなくすんなりと会場入り。


いつもながら用意万端でピクニックを楽しむ人たち。いつもよりガランとしている。


今日のお弁当は、豚生姜焼き定食



  
ステージ後方のパネルでは、シナトラの波乱の生涯が映像で映し出されていた。
華々しい人生の陰に、マフィアとの黒いウワサも絶えなかった。
そして、懲りもせず(?)4度の結婚・・・と、生き方もスターそのものだったシナトラ。


シナトラ・ジュニア。驚くほど声がそっくり。
彼が歌った「マイ・ウェイ」を聞いていたらなんだか自然と涙が出てきた。



Pちゃんはこの時代の歌が大好きなので、大感激だった様子。
ま、遅ればせながら私からの誕生日プレゼントという事にしておこう。


ありがとう、Ravinia!
今年もたっぷりと楽しませてもらいました。
また来年!

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第7回シカゴ寄席~柳家さん喬 独演会

2015-09-13 15:32:52 | アメリカ生活雑感


8月にシカゴで行われた、落語家、柳家さん喬師匠の独演会の模様を記事にしました



聞く者が自由に思い描く、情景の美。「第7回シカゴ寄席~柳家さん喬 独演会」 
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そして、Sweet Home Chicago!

2015-09-12 21:03:15 | アメリカ生活雑感
3泊のダラス出張で大きな成果を得た私たちは、9月1日の夕方の便でシカゴへ。
空港に向かうまでの高速で渋滞に巻き込まれ、レンタカーを返してぎりぎりセーフでチェックイン。
シカゴ・オヘア到着は午後10時前だった。

誕生日男のPちゃんが迎えに来てくれて、レンタカーなどいろいろ手続きを手伝って家に帰ったのは12時ごろ。
ああ、やっと温かいベッドでGOROと一緒に眠れる....ZZZ

そして翌日は、夕方からIちゃんとクライアントのHさんが我が家に訪問。
うちも一応、シカゴでのサンプル家庭となっているため、Pちゃんに3人がいろいろとインタビュー。
普段公共料金のことなど、家の支払い関係の何もかもを彼にお任せにしているせいか、知らない話がいっぱい出てきて冷や汗 

取材といいながらも、一緒に飲んで食べて、とても楽しい時間をすごさせてもらった。
こんな狭苦しい家に来てくれて、感謝感謝! 





翌9月4日は、一日オフ日ということで、私が車で市内をご案内。
あまり観光客がいかないような場所に行って、まったりと過ごした。


ホールフーズマーケットで


トランプタワーの最上階で絶景を見る

夕方、この日から始まったジャズ・フェスティバルをミレニアムパークで見て、

 


そのあとシーフードが食べたいというリクエストにお応えして、「Shaw's」へ。
ミシシッピ・によるブルースの生演奏もやっていて一石二鳥。




こうして、8月29日から始まった3人の7日間の珍道中が無事終了。


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ダラス・テキサス出張の旅。

2015-09-07 23:59:45 | アメリカ生活雑感
リクルート時代の同期で、マーケティング会社を経営しているIちゃんから、アメリカでのマーケティング調査のお仕事をいただいた。
ダラスに住む一般家庭へのアンケート調査に加えて、実際にその中から3件に実際に取材に行くというスケジュール。
かくして、人生初めてテキサス州・ダラスへ、いざ3泊4日の出張へ。

8月29日
早朝の飛行機で約2時間半、ダラスへ。
そこでIちゃんと、今回のお仕事のご発注元でもあるクライアントさまと合流、3人での珍道中の始まり。

本格的なご家庭訪問は翌日からということで、この日は小手調べにダラス市内へ出て軽く市場調査開始。

まずは、話を聞きやすいカフェのウェイターさんに質問をして手ごたえをつかむ。
詳しい内容は言えないが、アメリカでも州が変われば生活形態も人の意識も違うものだと実感。


ダラス美術館



 


夕食は、ホテルから車で5分くらいのオススメのステーキハウスへ。
老舗らしく構えは高級レストランぽかったけれど、お値段はファミリー向けで安心。

 

 

食事の途中で、後ろ隣りの席の人が急に大声で「助けてくれ~、救急車呼んでくれ~」と叫ぶので驚いてみてみると、
その人の父親と思しき人ががっくりとしている。呼吸が止まっている、といってパニック状態の息子。
すぐに救急隊員がきて、何やら処置を施していたら20分後くらいに無事息を吹き返して歩き始めたのでほっとした。
どうやら心臓発作を起こしたらしい。
波乱の幕開け・・・。



8月30日

今日の取材アポは午後遅めだったため、街中突撃取材を試みて人の集まりそうな(しかも質問に答えてくれそうな)「ファーマーズマーケット」へ。
狙い通り、生活意識の高い人たちが多く、インタビューもうまくいった。
なかなか面白いサンプルが集まった。
ついでに、おいしそうなものをいろいろ購入できて一石二鳥。


オーガニックパスタを売っていた女性にインタビュー。ついでにお土産にパスタも購入。


日曜の朝とあって、地元の買い物客で賑わっていた。


あまりにも巨大なオーガニックのにんにく。名前は「エレファント・ガーリック」
ねぎとにんにくの中間の食べ物らしい。思わず購入。


そのままの勢いで、郊外のお宅訪問。
プールつきの豪邸、話もたいへんわかりやすくすべてが順調。

35℃超えの暑さで疲れ、一刻も早く冷たいもの(=ビール)が飲みたかった私たちは、ホテルに戻ってBarで軽食をつまみつつまずビール。
そこですでにおなか一杯になり、出かけることなく夕食終了。
翌朝早いので早々に解散。



8月31日

取材2日目。今日は朝10時から2件目のお宅へ。
こちらも郊外のお宅で、参考になるお話をたんまり伺えた。

お昼は、この町(Plano)にある日本食レストラン「Masami」へ。
郊外の和食というとたいがいが“なんちゃって和食”だったりするのであまり期待を膨らませずに行ったところ、
それがどっこい、オーナーもシェフも日本人の本格和食。居酒屋のような作りでそのまま飲みに突入したいくらいだった・・・がこのあともアポがあったのでそれはやめておいた 

 

 
ランチの「寿司セット」


「ダルビッシュ巻き」なるものを発見


午後からは、超有名コンサルティング会社で打ち合わせ。
冷や汗での通訳業務。
やはりいろんな専門用語や業界用語がでてくると、それを頭で理解して日本語に直す作業が大変で疲れた。




仕事が終わって外でクールダウン。


最後の夜は、テキサスということでメキシカン料理へ。
ホテルから勧められたこの店へ。サービスもよく、おいしかった。

 

3人で飲んでしゃべって・・楽しい時間だった。
お仕事なのになんだか古い友達同士みたいな会話。3人が同い年だったせい?



9月1日

最終日。午前は3件目の取材。
20代のアメリカ人の若奥様と、彼女の母親が対応してくださった。
はじめはちょっと硬かったけれど、だんだんと空気がほぐれてきて今までに聞けなかった新しい話もいろいろ聞けて、一同大満足。

これですべての取材予定が終了。
オフィシャルな仕事は完了、というわけで、シカゴまでの帰りのフライト時間までの自由時間を使ってダラス観光へ。

ダラス、といえばやはりここ。「J.F.ケネディー・メモリアル」



なんと、ケネディー狙撃現場となったビルがそのままの姿で博物館に。狙撃現場もそのまま。
いろんな展示物を見ていたら、胸が苦しくなってきた。
次から次へとやってくる人たちのなかにも、途中で涙している人もいた。
いまだにショッキングな歴史なのだろう。様々な陰謀説は語られているものの根拠はなく、“真実”は今もわからぬまま・・・。



 




そして一行はシカゴへ・・・・。(つづく)


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