Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

モダニズム建築家、増田友也が手掛けた廃校小学校が蘇る。

2024-05-29 17:01:05 | ニッポン生活編
6月1日にグランドオープンする鳴門市の新観光施設、Tonaru(トナル)のプレオープンイベントへ。
Tonaru(鳴門をもじってトナルとは・・www)は、いずれも今は廃校となった旧瀬戸小学校・幼稚園と、旧島田小学校・幼稚園を利用した施設で、前者は「トナル瀬戸」、後者「トナル島田」という名称だ。(混乱ポイント①)

「トナル瀬戸」では、土日祝日に2回、阿波踊りのライブ公演が行われる。料金は大人2,200円。
また、イカダでのフィッシング体験(インストラクター付き、レンタル道具付き)もできる。料金は大人9,900円。
ただ、このイカダにはボートで行くため、事務所で受付をしたのち各自で乗り場までいかなければならない。送迎はなし。(混乱ポイント②)

「トナル島田」ではキャンプ体験ができる。トイレ、シャワールーム、共同炊事場が備わっている。
土日祝日、サイト料金は1区画 1,100円~6,050円
区画貸しのみなのでテントなどのレンタルはなし(混乱ポイント③)


「トナル瀬戸」のプレイベントでは、徳島県阿波踊り協会の合同連による演舞を見ることができた。
約1時間の演舞で、内容は「阿波踊り会館」でやっている流れとまったく同じ。
軽い演舞→阿波踊りの説明→鳴り物説明→観客への阿波踊り指導とみんなで踊ろうコーナー→「素人さん表彰」コーナーと続き、最後はプロの演舞をたっぷり楽しむというもの。




大きく違うのは、ステージが円形になっているので360度のフォーメーションが楽しめることと、踊り子との距離が近いこと。

 



実際、一番前に座って見ていたけれどすぐそこに男踊りが飛んできて、きゃ~っと軽く声を上げてしまったほど。




踊りを見たことのない人、観光客、外国人はさぞびっくりすることだろう。
もちろんすぐそばで見る女踊りも美しく、会館のようなキラキラしたスポットではなく、軽いライトと自然光なのでそこがまたいい。
2,200円払って地元の人は(多分)行かないけれど、県外のお客さんをもてなすにはいいかも。
とはいえ、わざわざあそこまで行くか~?という疑問は残る。
京阪神から徳島に入るまでの時間を過ごすには良いのかもしれない。が、いつも観客で満員というわけにはいかなさそうだし、そのために有名連を一日拘束する余裕があるのか?
いずれにせよ、個人客よりはツアー客を見込んでどんどんパッケージで売っていくイメージなのだろう。


う~む、しかし。
つくづく思うのだけれど、徳島県はいいかげん「阿波踊り依存」から脱却したらどうだ?
せっかく増田友也という素晴らしい建築家のモダニズム建築が鳴門市だけで19か所もあるというのに、それをなぜ観光資源として生かさないのか、もったいない。

旧瀬戸小学校の校舎も、じっくり建築物として見ると実に興味深いのだ。




幼稚園の校舎は鳥が羽を広げたような形。窓からの光の取り入れ方もすばらしい。


「職員室」からウチノ海が一望できる

昨今、神戸や大阪でも「建築ラリー」が好評で、多くの建築ファンが訪れているし、
海外でも建築は立派な観光資源として成功している。
なのに、結局はこの場所でのメインは「阿波踊り」。増田友也の資料館は横に追いやられてしまっている感じだ。

せっかく鳴門に足を運んでくれたのであれば、「増田建築ラリー」をすればいいと思うのだが。
開放できるものは日程を決めて開放してみればどうだろう。

鳴門市民会館(1961):解体:現存せず
鳴門市役所本庁舎(1963)
北灘東小学校(1972)
北灘東幼稚園(1972)
鳴門中学校(1972)
市職員共済会館(1973)
北灘西幼稚園(1974)
瀬戸幼稚園(1975)[2][3]
木津保育所(1975)
勤労青少年ホーム(1975)
桑島幼稚園(1976)
瀬戸小学校体育館(1977)
老人福祉センター(1977)
北灘西小学校(1977)
鳴門第二中学校(1978)
鳴門東小学校(1979)
鳴門東幼稚園(1980)
島田小学校・幼稚園(1981)
鳴門市文化会館(1982):耐震工事中(27年完成予定)


★参考にしてもらいたい建築祭

神戸モダン建築祭:https://kobe-kenchikusai.jp/
イケフェス大阪(生きた建築ミュージアム大阪):https://ikenchiku.jp/
オープンハウスシカゴ:https://openhousechicago.org/
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6月1日は「第九の日」

2024-05-28 10:25:42 | ニッポン生活編
5月19日

ベートーヴェン「第九」を聞きに鳴門へ。


今年は初演から200周年の年。




”鳴門「第九」を歌う会”が毎年演奏会を開催しているもので、ご夫婦で出演予定の相棒のお友達(ドイツ人のご主人と日本人の奥様)のご招待。



実は鳴門は「第九」がアジアで初めて演奏された地。
第1次世界大戦中、鳴門市板東の捕虜収容所には約千人のドイツ兵が収容されており、彼らは音楽や演劇をなど様々な文化活動を行った。
大正7年6月、ドイツ兵たちによって「第九」が初演されたのを記念して、鳴門市では6月1日を「第九の日」と定め、毎年6月第一日曜日に全国から仲間を募り歌い続けている。



実は第九を生で聞くのはこれが初めての私。
例年コンサートを行っている鳴門文化会館は現在改装中のため、演奏は大学の体育館で行われた。音響は最悪だったけれど、「今日の演奏は、世界平和のために捧げます」とおっしゃったコンダクターの言葉を演奏中何度も思い出し、皆さんのパワーに思わず涙ぐむ。
相棒は「来年は一緒に歌う」とはりきっている。こりゃぁ楽しみだ(笑)


家に帰って相棒が持っていたベートーベンの本を開くと、1824年の初演(ウィーン)のプログラムが載っていて興味深かった。
総監督はもちろん、ベートーベン。しかしこの時すでに、彼は聴力を失っていたという。

初演から200周年のこの年に聴くことができて、感無量。
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豊竹若太夫 襲名を祝う会

2024-03-25 23:26:21 | ニッポン生活編


人形浄瑠璃「文楽」で途絶えていた大名跡、豊竹若太夫(わかたゆう)が57年ぶりに復活する。
文楽太夫の第一人者で御年77歳の豊竹呂太夫さんが、祖父で人間国宝だった先代、十代目豊竹若太夫から300年以上継承されてきた若太夫を受け継ぐ。
「豊竹若太夫」は、文楽界においては「竹本義太夫」に次ぐ大名跡だ。

その襲名を祝うパーティーが、大阪のホテルニューオータニで盛大に開かれ私も末席に加えていただいた。
私のようなものが何故出席したかというと、毎年淡路で行われている「浄瑠璃素義大会」に呂太夫さんが審査員として来てくださっているというご縁からだ。
私はその素義にコロナが明けてから3年間、ださせていただいている。
誰にでも気さくなお人柄で知られる呂太夫さんは、嫌 な 顔 一つせず2日間朝から夕方まで私たち素人の語りを真剣に聞いてくださり、 アドバイスもくださる。
ぶっ続けで聴かされるのは正直たまったもんじゃないだろうとお気の毒に思うのだが、それでも毎年、素敵なお帽子をお召しになって淡路にお出ましくださるのだ。





3月24日
大阪のホテルニューオオタニに集まったのは、そうそうたる顔ぶれの発起人を入れて約350人。
お着物姿の女性が場をおおいに華やげていた。
私もこの日はお着物。
母が残してくれた付下げをこの日とばかりに箪笥から引っ張り出し、帯、帯揚げ、帯締めを選んで朝からスタンバイ。
淡路と徳島からは総勢30人が呂太夫さんの晴れ姿を一目見ようと、バスをチャーターして駆け付けた。

  








会場を埋め尽くす大勢のお客様


発起人の一人、コシノヒロコさんはさすがの目力。
小さいころから伝統芸能に親しまれてきたというコシノさん。名前を継承することが意味すること、その意義を熱く語っておられた。


呂太夫さんに語りを習って15年、噺家の桂南光さんが楽しい乾杯の音頭
「私はちゃんと太夫について習っています。米朝師匠は芸者さんに教えてもらっただけ」と笑いをとる。


記念撮影


ご挨拶で思わず感極まる呂太夫さん。
その傍で、ビシッっときめて微動だにしない素敵な奥様の姿が。
高校の同窓生とのこと。この奥様あっての呂太夫さんなのだと納得。





会の最後には会場内をごあさつしながらぐるりと歩く呂太夫さんと奥様。


NHK大阪放送局長林理恵さんの、この帯は注目の的!
「壇浦兜軍記」から阿古屋の頭を大胆にあしらったデザイン。見台まであって素晴らしい。(黙って撮ってすみません。)

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二月逃げる。

2024-03-05 17:36:14 | ニッポン生活編
「一月往ぬる二月逃げる三月去る」とはよく言ったもので、
2月はまさに走って逃げた月だった。
でも、短い期間にさまざまなことを達成した感のある良き月でもあった。

月初は父の1回忌の準備もろもろ。
もう1年もたつのか・・・と去年の今ごろの、いつブザーでたたき起こされるかわからない不安な夜間同居生活を思い出す。
もう少し長生きしてれば、WBCも、38年ぶりのタイガース優勝も一緒に盛り上がることができたのにね。
・・・と言うてもせんないこと。
これからはただ、体に気を付けて両親の残してくれた心やものを大切に人生を生きていこうと思うのみ。

そして。

父の命日当日には、もうひとつビッグイベントがあった。



師匠が続けてきた義太夫節の会「阿波路会」の10周年記念公演。
この公演に向けて、昨年末からツールを用意したり、特別配布用の「10年史」を編さんしたり、公演の宣伝・広報をやったりともう大忙し。
その効果もあってか、2月11日の徳島公演は超大入り満員、立ち見も出るほどの盛況だった。







ぶっ続けで約80分の演目の始まり。


いつもは語りと三味線だけの素浄瑠璃形式なのだが、今回は特別に人形がつき、舞台も華やか。
(注)許可を得て撮影しています。



この準備とほぼ平行して夜中はシカゴと仕事のやり取りが続き、自分の舞台なども重なり結構ハードな月だった。
さぁ、3月は「去る」というが、うまく去ってくれるだろうか。 
どうなる!どうなる!?



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おばあちゃん

2024-01-21 18:55:01 | ニッポン生活編
祖母の13回忌を自宅で。
もう13年なんだ・・と感慨深い。

祖母の死をめぐっては、我が家的には嫌な思い出しかなく、書くのもはばかれるのだが一応備忘録。
バリバリ元気で一人暮らしをしていた祖母だは、100歳を過ぎて風邪をこじらせ、一人暮らしは限界になった。
その介護方針をめぐって、叔母(祖母の次女、私からすると父の姉)と母が激突。
叔母は祖母を「自分で面倒みるけん、一切かかわるな!」と自宅に連れて行ってしまった。
いわゆる”囲い込み”というやつ。

とはいえ老人を介護するというのは大変なことで、これまで自由奔放に一人暮らしをしていた叔母は早々にギブアップ。
預かっていた祖母のお金を使ってなんと、祖母の新居を建てるという暴挙にでた。

祖母は100歳で家を建てちゃったのだ!

でもその新しく住み心地の良い家で、ヘルパーさんたちに支えられて完全介護の老後を送った祖母は、しばし平穏な日々を送っていたに違いなく、たまに帰省して遊びに行くときちんとした身なりで私を迎えてくれた。
祖母にとって、最後の平穏な時間だったはずだ。

103歳を迎える直前の1月31日、静かに息を引き取った祖母。
歌を愛し、私たち孫をいつも気にかけてくれた最強の明治女の大往生だった。



祖母の最期のとき、私はアメリカにいた。
あとから顛末を知ったのだが、普段から長男の父(というか我が家)に恨みを抱いていた叔母は、父にさとられまいと祖母の死を隠してさっさと通夜・告別式を執り行ってしまったという。
そんなこともあり、わだかまった姉弟の間でもめにもめた相続・・・。

そんな叔母も2年前に亡くなり、亡くなる前、介護の人に「弟にあやまらなければならないことがある」と漏らしていたそうだ。
それが何だったのか、今となってはわからない。
勝手に祖母の全財産を散財してしまったことなのか、
最期まで父を精神的に苦しめたことなのか、
長男としてのメンツをずたずたにしてしまったことなのか、
知る由もない。

祖母への私からのメッセージは、
「あなたが育てた子供たちは、あなたの財産をめぐって最後まで不毛な争いをして、和解せずにそちらに行きましたよ。
もう一度ちゃんと何が悪かったのか、話し合ってくださいね」だ(笑)。

おばあちゃん、あなたが残したものは私がきちんと引き継いでまいります。


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Do!(どう)機会

2023-12-05 20:10:56 | ニッポン生活編

忘れもしない38年前。

会社の内定式の途中で阪神タイガースが日本一になり、式がいきなり祝賀会と化した、あの日。

そして我々もすっかり大人になり、11月18日東京都内で5年ぶりの同期会が行われた。

もうこの機会を逃すと会えない人たちもいるかもしれない、との思いから、今年は初参加を決めて上京。

配属部署もばらばらな135名もの同期が一同に集まった。

大阪支社配属→東京転勤→大阪転勤→東京転勤→2001年退社というすさまじい移動をした私。

田舎にすっこんでいたので恐る恐るお上りさん状態で顔を出してみると、それはそれで結構”知った顔”から声をかけられたりして、楽しいひと時だった。

何よりみな、元気で第2の、第3の人生を歩んでいる。

刺激をもらった。

 

二次会は「大阪支社」しばり。

やっぱりこっちの方が楽しかったなぁ。みんなつっこみはげしい、うるさい

これぞ大阪!というノリで。

当時48歳だった(!)という支社長も、わざわざ鳥取から来てくださった。

もうそれだけで行ったかいがあった。

 

私たちにとってはいつまでたっても兄のような、父のような存在。今も温かく見守ってくださり、

FBには一番にイイネ!を押してくださる大切な上司。

わずかな滞在だったけれど、旧友と飲み交わし、今まで話したこともなかった同期とも話し込んだ。

やっぱりこの会社で過ごした日々は、私の血となり肉となっていることを実感。

ありがとう!

 

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13年ぶりと18年ぶりの再会。

2023-10-20 14:55:33 | ニッポン生活編

10月はうれしい再会の月。

まずは、相棒の両親。

2010年にシカゴの自宅に遊びに来てくれて以来。しかも初めての日本訪問とあって、ブッキングを完了した5月からお互いにそわそわ、わくわく、ドキドキしていた。

私はいわゆる”嫁”の立場なのだけれど多分、相棒よりもずっと気持ちは実の子供に近い。

あちらの親もそう思ってくれている。これにはいろいろ理由ありなのだけれどなかなか説明ができない問題なので省略。

とはいえ、久しぶりの再会でなかなか濃い1週間を一緒に過ごすことができて、少しだけでも親孝行できてほっとしている。

 

そしてもうひとつは、古い友人との再会。

職場をやめてバークレーに遊学していたころ、語学学校で席を並べたブラジルのパトリシア。

そのころ、彼女も自分のキャリアを捨ててご主人の仕事(うちと同じく研究者)に帯同してアメリカへ。とはいえ主婦に収まる人でもなく、何かを身につけたい、人と交わりたい、と語学学校へやってきた。

お互いにそれなりに人生を積んだ年齢であったこともあってすぐに意気投合し、家を行き来して人生を語り合う親友になった。

一足先に私が日本へ帰国。そのあと彼女もブラジルに戻りしばらく音信が途絶えていた。

あるとき、彼女からのメールで彼女がジュエリーデザイナーになったことを知ってびっくり。

医療セラピストとしてのキャリアをバリバリこなしていた彼女が、フリーランスで仕事を始めるとは想像もつかなかった。

それでも大好きな道を選んだ彼女の勇気に、なみなみならぬ決意を感じ取った。

そしてコロナが明けた今年の春。彼女からメッセージが届いた。

「10月に日本に行くの。会いたい」

驚いたのはその理由。なんと「空手の世界大会(第10回KWF 世界大会)」に帯同するためだという。

地球の裏側の彼女とは、ここで会わなければもう会えないかもしれない。

2週間の滞在の間、1日だけ大阪フリー観光にやってくるという彼女に会いに、すぐに大阪行きのバスを手配した。

少しでも一緒の時間をもてるように同じホテルを予約し、その夜Barで14年ぶりの再会を果たした。

ふたりとも、涙目。。

あのときからちっとも変わらない、力強い目で彼女は思い切りハグしてきた。

 

本当に会いたかったの。どうしてたの?私はいろんなことがあったわ。

あれから、ブラジルに戻ったりまたアメリカに戻ったり4回も往復したの。そのたびに私は仕事をあきらめた。バークレーでは「子育てをしながら夫の帰りを待つ妻」を命じられたけど、それが私には耐えられなかった。

今こうしてジュエリー作家になったのは、もとはといえばバークレー時代に小さなワークショップに行ったのがきっかけだった。だって、私も人生で何かがしたかったのよ。

ブラジルに戻ってからも、夫は私が仕事を持つことに賛成しなかったわ。女はだまって子育てしていろ、と言わんばかりに。

「マッチョ」な考えを持つ彼とのことを、思えば私は何も知らなかったのね。

 

意を決して、1年前に離婚。

二人の男の子を引き取り、育てあげながら自らもジュエリー作家として仕事をしている。

その傍らで、次男の空手教室に送り迎えしているうちに自分も通い始め、「今では私だけが道場通いよ」と笑う。

 

「あんたは強いよ、強い!昔からそうだった。自分の道は自分で切り開く、そういう人だったじゃない」

私が言うと、

「Shokoから学んだのよ、私。一度しかない人生、自分で見つけなきゃって」

 

カウンターが閉まってひっそりとしたホテルのバーで、地ビールで乾杯しながらゆっくりとお互いの空白を埋めていく。

ありがとう、友よ。

18年前の私たち。

赤ちゃんだったペドロ坊やも、もう21歳。ジャーナリストを目指している。

UCバークレー前のカフェ。よくここでお茶しながら英語を鍛えたよね。

 

再会の夜。

 

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父の退院。

2023-01-21 17:41:43 | ニッポン生活編

アメリカに住んでいた頃、年上の友人がいた。

過去形なのは、一度嫌なことがあってからきれいさっぱりと付き合いをやめたからだ。

当時、彼女のブログを読んでいつもこう思っていた。

 

「この人はなんでいつも周りに牙をむいて怒っているのだろう」

「親との確執やら自分の老後のことやら、なんて辛気臭いことばかり書くんだろう」

 

何を書こうと人の勝手だが、読む側はネガティブなブラックホールに引きずり込まれそうになったものだ。

子どもの頃の体験やトラウマは人の性格をかくもねじ曲げてしまうものなのか、とつくづく思った。

でもまぁ、私自身も半世紀以上生きてきて、親の死も経験し、それなりに人生の”仕舞い方”なんぞをふと幼馴染と飲みながら話すことが増えて「なんだかなぁ」と人のことを言っていられない、と笑ってしまう。

私にとって、母の死が大きな転機になった気がする。

死生観や人生観などすべてに影響を及ぼした。というより、より現実的に見つめなおすことになったというべきか。

 

帰国してからしばらくいい感じの距離を保って”見守り”を続けてきた父が年末に体調を崩して入院し、年末年始はジェットコースターのような日々だった。

コロナ禍で病院に面会にも行けない。

口喧嘩したまま、このまま会えなかったらどうしよう、と心の中で後悔した。

喧嘩しているときは「このまま死んでも知るもんか!」と思っていたけど、やはりそうなってしまったら後味が悪い。

どうにかして元気で(生きて)家に戻してあげたい、いや、戻すのだ、と自分と闘い続けた。

あれほど病院嫌いの父も、家に帰りたい一心でよく頑張った。

おかげで、やっと転院をすすめる主治医を説得して退院させてもらえることになった。

(現状で町の病院に転院なんかしたら、絶対生きて帰れないに決まってる。←←これは、この非常時において世の中で今起こっているケースをたくさん見聞きしてきた私なりの結論だ)

かくして約2か月ぶりに父が自宅に戻ってくる。

私も、もう病院には戻さないという覚悟を決めての介護生活になる。

私の自由はこれでなくなり、そして以前にもまして喧嘩の日々が始まりそうだ。

2023年終わりには私は何をつぶやいているだろうか。

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甦った母の食器棚

2022-12-29 23:08:05 | ニッポン生活編

ここ数年で、いや多分一生のうちでも一番短く感じた1年があと数日で終わろうとしている。

なんだかんだと不測の事態に巻き込まれ、自分自身のことに集中できないまま終わってしまった、と言うと体の良い言い訳になるけど。

前半は小学校の臨時英語教師と阿波踊り外国人連の練習に明け暮れ、後半は叔母の死去による相続手続きを父に代わってずっと引きずったまま今に至る。

嫌がおうにもまた、人の死と再び向き合った年でもあった。

 

「人は2度死ぬ。一度目は肉体の死。二度目は誰からも忘れ去られたとき」は良く言ったもので、

母が亡くなってからずっと母のことを考えない日はないから、きっと母は私が生きている間は絶対に死なないのだと思う。そこが叔母との大きな違いでもある。

その母がずっと大切にしてきた大きな”遺物”が、我が家のキッチンに鎮座まします巨大な食器棚。

物心ついたときにはすでにあったから、相当古い昭和の遺品なのだろう。

8年前に実家のキッチンをプチ・リフォームしたときと、3年前に家の全面リフォームをしたときには危うく処分されそうになったけれど、母が愛した大切なものだからとどうしても捨てきれず、ガラスの扉が壊れて外したままのみすぼらしい状態で使い続けてきた。

そんな折、偶然にも実家の仏壇のリフォーム工事をお願いした老舗の鏡台店さんについでに修理できるかどうか聞いてみたところ、

「これは古いけどええものやなぁ、やっておきます。年内がよろしいやろ?」

と、年配の大工さんがニッコリと笑って、引き受けてくれた。

 

しばらくたって、「ガラスがはまるかどうか一度見に行きます、と連絡が入った。

長い間に少しひずんだのか、元のサイズにカットしたガラスが収まらず4ミリほど切らないといけないことが判明。

翌日、サイズを調整したガラスを手に再びやってきた彼は、ゆっくりと時間をかけて取っ手部分にやすりをかけては少しずつ具合を確認。

 

 

「こういうもんはな、手が一番加減を知っとる。機械ではわからんのよ」

そういって、いとおしそうに何度も何度も調整してくれ、ついに10数年ぶりにガラス扉がきれいに収まった。

こびりついていた汚れはシンナーでふき取り、色がはげたところにはその場でマホガニーの塗装までしてくれた。

見違えるようによみがえった食器棚。

天国の母は見て喜んでくれているだろうか?

 

 

中学校を出てすぐに大工修行に入って70年。御年84歳の指物師(家具職人)の松田さん。

仏陀のような優しいほほえみをたたえながら私にこう言った。

「この食器棚を最初に見たとき、ええもんやなぁと思たんよ。これを今もこうやって残して使いよる、この家族はええ家族や、愛を感じた」と。

思わず泣きそうになった。

「あんたは古いものが好きでっしゃろ?話しとったらわかる。古いものを大切になさるのはいいこと。これも長く使えるよう直しといたけん、これからも大事に使うてくださいよ」

心に熱いものがじわ~っと広がった。

昔ながらの大工用具を一式詰め込んだ古いバッグを「よっこらせいっ」と真っ赤なAQUAに詰め込んで、「ほんならまた、お直しのいる時はいつでも呼んでくださいよ」と窓から手を振り振り帰っていった松田さん。

その後姿を見送りながら、嫌なニュースばかりが多かったこの年の最後に、こんな素敵な人に出会えただけでももうけもん、と思わずにはいられなかった。

 

テレビ番組の「和風総本家」で、「日本の再生職人」として取り上げられたこともある松田さん。

本当にチャーミングな方だった。

 

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女の一生~その3

2022-09-23 16:31:52 | ニッポン生活編

5月末に、伯母が亡くなった。

92歳だった。

彼女のことを書いておこうという気持ちになれなかったのは、彼女と我が家との間には全く付き合いがなかったことによる。

物理的にはすぐ近くに住んでいるのに、精神的には他人より遠い存在でしかなかった。

”我が家的”に言うと、ここ十数年の嫌な出来事は全て彼女がらみであり、彼女によってずっと苦しめられ続けた。

それは彼女の意図するところでもあったのも知っていたから、書くこともなく気が重かった。

 

92歳で逝ったのだから、世間的には大往生なのだろう。

しかし現実は、病院のベッドで、誰にもみとられず、誰にも泣いてもらえず、ひっそりと一人で逝った。

それがどうしてなのかは、たぶん本人が一番知っているだろうから多くは語らない。

せめてもの救いは、最後はもう良い記憶も悪い記憶もさっぱり忘れて苦しまずに逝けたことだろう。

 

子どものいない伯母にとって、唯一の生き残りのきょうだいである父(伯母にとっては長弟)に代わって、私が彼女の死後のあれこれを取り仕切らざるをえなかった。

あれだけ苦しめられた父も、彼女の死を伝えた瞬間は信じられないような、とても寂しそうな顔を見せ、私に「精一杯のこと」をするように頼んだ。私もそれに従い、粛々と事をすすめることにした。

病院への「お出迎え」から通夜~葬儀、四十九日、納骨までを、従妹(伯母にとっては末弟の娘)とふたりでなんとか悔いなくやり切った。

従妹もまた、身内が彼女に散々苦しめられた被害者の一人でもあったから、「なんだか変な感じ」と二人で顔を見合わせた。

人もうらやむような最高の戒名をいただき、亡くなった祖母の形見の着物を着せ、大好きだったイケメンプロゴルファーとの写真と寄せ書きを御棺に収めた。そして、大好きだったゴルフのボールの形の骨壺に遺骨はおさまった。

 

「どんな方でしたか?」

葬儀を前に、葬儀プランナーや、お坊さんに聞かれた。(そう聞かれても困るのだけれども・・)

「まぁ、一言でいうと”生まれてくる時代を間違えた人”でしょうね・・・」

あと10年後に生まれていたら、彼女はもっと自分の人生を生きられたかもしれない。

誰も恨まず、こんな孤独な最期を迎えずにすんだかもしれない。

そう考えると、人の一生などなんと無常なものだろうか。。。

 

とにかく派手な人だった。欲が深く、なんでも手に入れたい人だった。

18年前に夫を看取ってからは独り身を謳歌し、大好きなゴルフに明け暮れ、社交的な性格もあって若くイケメンのプロを家に招いてはパーティ三昧の日々を送っていた。

軽く一千万を超えるお金をひいきのイケメンプロたちに貢ぎたおした、結構な豪傑である。

しかし、悲しいかなさすがの豪傑もここ数年衰えが進み記憶を失い始めた。

時すでに遅く、その頃には手元に置いてあった札束が次々となくなっていたという。

”認知の老女”のたわごとと、警察も信じてくれなかったそうだ。

危険を察知した民生委員の計らいで弁護士が後見人につき、一切の財産を管理してくれるようになってからは、その「取り巻き」たちはピタリと姿すら見せなくなった。

「家族のような」つきあいをしていたくせに、所詮は金の切れ目が縁の切れ目。

たまに”正気”に戻ったとき、彼女はどれほど悲しかっただろう。

どうして誰も来てくれなくなったのか・・・とノートに書き殴る文字が切ない。

 

死去の知らせを送った某プロゴルファーの方たちからは、もちろんお悔やみの返信も何もない。

一人暮らしの田舎の老女に貢ぐだけ貢がせておいて、最後はこんなものなの?

マメな叔母はすべての金銭のやり取りを帳面に記録していた。落ち着いたらじっくりと金銭の出納を整理したい。

だって彼女が浪費した大金はみな、私の大切な祖母がこつこつためたお金だったのだから・・・。

 

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