数年前から習っている、Jazzピアノの師匠のサプライズパーティに行ってきた。
2週間前、彼の一番上の娘さんから1通の招待状が届いた。
プロのメディアクリエーターである彼女が、2年の歳月をかけて製作していた父の半生を描いたドキュメンタリー映画がやっと完成し、親しい人たちだけで記念すべき初お披露目会をしようという企画だった。
彼女は秘密裏に父に近しい人たちにメールで招待状を送っていた。
私は彼女に会ったったこともなかったのだけれど、何故か私をその一人に選んで招待状を送ってくれたのだった。
このことを知らぬは、本人(師匠)だけだった。
郊外の大型映画館のひとつのスクリーンを貸切って行われた手作りのサプライズ。
館内にはシカゴのJazz関係者がズラリ。
そこにたった一人、何も知らない本人が場内に入ってきて・・・・約70人のゲストが拍手喝采。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/de/2f1fb0a69c924016d055b279fcdbd5dd.jpg)
「???」
サプライズ大成功の瞬間。
このあと、完成ほやほやのドキュメンタリーフィルムをみんなで見た。
幼い時からピアノの才能にあふれ、12歳でプロデビュー、アメリカ海軍バンドのピアニストとして活躍する傍ら、21歳のときにデューク・エリントンの誕生パーティでバンドのピアニストとしてホワイトハウスで演奏。
そのほかにもルチアーノ・パバロッティ、ビリー・ジョエル、カウント・ベイシー、バーバラ・ストライザンド・・・など共演したアーティストは数知れず。
そんな彼が音楽と同じように愛したのが家族だった。
家族だけは絶対に犠牲にしない、そう心に誓っていた彼はどんなツアーの誘いも断り、家族のそばから3日と離れる仕事は断り活動を続けてきた。
「欲のないやつ」と言う人もきっと多かったことだろう。それでも、彼は「家族を犠牲にするのは、音楽を犠牲にするのと同じ」とその姿勢を貫き通した。
この映画で初めて知ったのは、結婚してしばらくたった全盛期のとき、彼が10年ほどアリゾナで隠遁生活を送っていたということ。音楽から離れて何もない砂漠の町で、妻と二人きりでハウスクリーニングの仕事をしながら細々と暮らしていた時期があった、と。
その理由をあとで聞いてみると、ひとこと彼はこう答えた。
「音楽ビジネスに嫌気がさしたんだよ」と。
「そのとき奥さまは何も言わなかったのですか?”あなたは本当に大好きなピアノを捨ててもいいの?”って聞かなかったのですか?」
私の問いに彼は微笑んでこう言った。
「彼女は何も言わなかったよ。黙って静かに一緒に時を過ごしてくれたんだ」
このことばに、脳天をどつかれた。
私は自分の配偶者にこういう「見守る優しさ」を持って接していただろうか?と。自分の好きなものを捨ててどうするの!ってプッシュしてばかりいたんじゃないか、と。
1980年代、ふたたびシカゴに戻るや、彼のピアノは瞬く間に欲せられ、シカゴでも指折りのピアニストとしての地位を築き上げていく・・・。
40分の映画が終わって、涙で挨拶ができなかった師匠。
「私は幸せだ。7人の子供たちと4人の孫。こんなに素晴らしい家族に恵まれたんだから・・・」
私ももうボロ泣き。
素敵な夜をありがとうございました。これからもあなたのもとで牛歩ですが少しずつ進んでゆきます。
私は大好きなピアノを決してやめたりはしない、そう誓った夜。
映画の中のインタビューで、彼は最後にこう言って微笑んだ。
「7人の子供たちに4人の孫。That's a lot of songs.」