Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

えっとぶり。4日間フルの阿波踊り

2024-08-27 14:40:38 | アメリカ生活雑感
Sくん夫妻がさっそうとダイヤモンドプリンセス号で帰った後、
今度は14日から前職の同期4人が入れ替わりにやってきた。
このうち3人は3月にも一度徳島に遊びに来てくれたことがあり、
「今度は阿波踊り見に行くよ」と言っていたのだけれど、
そういいながら実際にやってくる人はあまりいなかったので半分聞き流していたら、本当に来てくれたという・・。
さすがの行動力だ。

空路、鉄道、バス、とばらばらに徳島入りしたあとは、
奇跡的に空いていた近所の民泊にチェックイン。
2泊ゆっくりと一軒家でステイしてもらえた。


14日の夜は私が久々に阿波踊りで出陣

みなさんは有料桟敷でゆっくりと総踊りを堪能。
初めて間近で見る阿波踊りに驚きと共に感動した様子。



翌15日は午後から十郎兵衛屋敷で人形浄瑠璃を鑑賞してもらい、終演後は水上タクシーに乗って吉野川を横断して帰るというプラン。
なかなか徳島県人でも経験したことのない秘策だったけれど、ただひとつだけ難点が・・

「暑い!」


凪状態の吉野川を横断するので、灼熱地獄を味わったそうだ。
(まぁ、これも経験ということで

夕方からは、阿波踊りの起源ともされている津田の奇祭、「津田の盆(ぼに)踊り」へご案内。




海で亡くなった家人の霊を慰め、阿波踊りを踊り狂う。
最後は藁人形を海に投げ捨て「お父ちゃ~~ん、もんてこいよ~(帰ってこいよ)」と叫び、お陽を唱えておしまい。
この日も外国人を含むカメラマンが大勢詰めかけていた。

ただ、これも数年前と違ってすっかり様が変わっていた。
年配の方が多いため、熱中症対策のためこれまでのように長距離をゆっくり練り踊ることを中止して、ルート上の数か所で踊ったあとは直接最終地点へ直行するのだと。
「どこでどう始まり終わるのかわからない、探すのが難しいお祭りは初めて。謎だね」とは、友人の弁(笑)。

どこに行ってもそれらしき人を見かけけない、なんともミステリアスな祭りになっていた。
そもそも観光向けにやっていないものだから仕方がないっちゃぁないけれど。


その夜は徳島在住の同期と合流して、焼き鳥屋で夕食&ミニ同期会。
阿波踊り最終夜、街は熱気に包まれていた。
ここ数年、台風やらコロナやらで4日間フルで開催されたことのなかった阿波踊り。今年は晴天に恵まれ最後まで楽しむことができた。
最後の30分だけにわか雨が降ったそうだが(その時は店で飲んでいたので気が付かず)、
そんなもん、昨年の台風下で踊ったことを考えるとへのようなもんです。

いやぁ、楽しかったなぁ。
30年前はこの面子でのこんな絵面を想像だにしていなかった。
持つべきものは気のおける、そしてすべてが頼りになる同期。

今度はどこで会えるかな。

友、豪華客船で来る。

2024-08-22 19:30:21 | アメリカ生活雑感
ちょっと前、同級生とランチしていたとき。
かの豪華客船「ダイヤモンドプリンセス号」が話題にのぼった。
私たち庶民からは想像つかないけれど「いったいどういう人たちが乗ってるんだろうねぇ」という下世話なはなし。
多分(というか絶対)お金を持って死ねないから気持ちよく短期間に使ってしえる手はないかと考えた億万長者がたどり着いた一つの方法なのかも、という結論に達した。

そういえば、亡くなった叔母も「〇千万円使うこと!」と書きなぐったメモが壁に貼ってあり、その決意の強さに驚愕したものだが(苦笑) 
(寄付すればいいのに・・)
要するに高齢、独り身、相続で預貯金が使い切れないほどあって・・・と、そういう人が手っ取り早く大金を短期間で使える手段のひとつが豪華客船なのかもね、などと、本当にどうでもいい話でちょっと盛り上がっていた。

そんなとき、前職の同期から
「今度徳島に行くんだ。ダイヤモンドプリンセスで」
と連絡がきたから、もうびっくり!
(ここにもおったわ!しかも同い年かよ。)

聞けば、「各地の祭りを見て回る船の旅」で、横浜を出港後、青森でねぶた祭、韓国釜山で現地の祭り、高知でよさこい祭りを見た後、最後の寄港地の徳島で阿波踊りを見るというツアーだという。
8月13日の朝、小松島港に着岸。その日の夜中に出港するため、正味12時間ほど徳島で自由に遊べるらしい。
しかし驚くことに、港から市内まではシャトルバスが出るわけでもなく、この暑いなかお客が勝手に公共のバスやJRを利用していかねばならないのだと。
なんだかケチ臭いなぁ・・。₈

ついコロナ前までは、ダイヤモンドプリンセス号といえばおそろいの法被をきた何百人もの客が「連」を組んで阿波踊りの桟敷に踊り込んでいたのに。
やはりコロナからすっかり印象が悪くなってしまって地味になったらしい。

1時間かけて徳島市内にたどり着き、城博物館でプチ観光をした友人夫婦は、午後6時からの有料桟敷席チケットを購入して阿波踊りを堪能。
そのあと私が合流して、踊り広場や無料の演舞場などを案内し、一緒に踊りを楽しんだ。


初日よりは少し少な目。それでも歩けないほどの人出。






そしてシンデレラタイムが近づく。
問題は、船までの足だ。
午後11時までには戻っていないといけないので午後9時半のJRに乗らないと、とせわしない。
それはいくらなんでも時間がもったいないので、私がアルコールをがまんして車を出して彼らを船まで送っていくことにした。
(案の定、9時半のJRは東京の朝のラッシュアワーのようだったという他客からの証言。演舞が10時に終わるのだから、10時半にチャーターバスを出せば悠々間に合うのに。
なんだかすべてが世知辛いなぁ・・・。

かくして涼しい車で港に送っていき、目の前にいきなり登場したのがこの巨大物体。



はじめてみたダイヤモンドプリンセス。海の上に浮かぶ大型ホテル。おったまげるほどでかい。客員数は2800人。
遠くからでも空が煌々ときらめいていた。
一目見ようと見物客もちらほら。

それにしても、短くも楽しい宵だった。
こんなところで同期に再会できるなんて。
そして翌日、さらに4人の同期がやってくるのであった。

(つづく)

第2の里帰り ベイエリアでの48時間~締めくくりは

2024-05-23 21:07:27 | アメリカ生活雑感
昼間から飲んでいい気分になったあと、今度はもう片方の大切な人たちとDinnerの約束。
バークレー・アダルトスクール時代のクラスの先生だったAnne(アン)、クラスメートでウズベキスタン出身のニゴラ、彼女のご主人のフェルースと子供たち(ニゴラにうり二つ11歳のカミーラ、5歳のAJ)が加わった。

ニゴラたちは二人ともバリバリ働いていて、その上バークレーから1時間ほど離れた街に住んでいるにもかかわらず、
「9時間かかったSHOKOに比べたら近いものよ!」
と、渋滞をいとわず仕事を終えたあと子供たちをピックアップし、車を飛ばしてやってきてくれた。
その気持ちだけでうれしい。

Anneが予約してくれたバークレー駅すぐ近くの、イタリアンレストラン。
そのテラス席でみんなの顔を見たとき、
「なんじゃこりゃ~」と心の声。
だって17年ぶりに会うというのに、この人たちちっとも変わってないんだもん。
ニゴラは初めて会った18歳の頃のまま。



その面影と利発そうなまなざしが、そのまんまそっくりカミーラに映し出されていた。
AJは初対面だというのに私に絡みついてきて、もうお人形のようにかわいい。

2時間、怒涛のようにしゃべり続け、少しだけ夜の街ブラをして
この上なく嬉しい再会の時間が暮れていった。

今度はまた近いうちに会おうね!と誓いながら。。。




第2の里帰り ベイエリアでの48時間その3

2024-05-22 10:28:46 | アメリカ生活雑感
バークレーでゆっくり過ごせるのは、正味一日、24時間。
その間、いかに「今会いたい人に会うか」が最大のトピックだった。

二日目(にして最終日)の午後は、私のバークレー生活になくてはならない存在だった日本食レストラン「スシ・カリフォルニア(通称:スシカル)」のオーナーで、つい先日店を売却してリタイアしたリョウジさんに会うと決めていた。
ここで過ごした数年間、毎週金曜日になると閉店後に怪しげなミュージシャンたちが集まって
飲んで歌って笑って、大騒ぎしたものだった。
日本人社会とあえて距離を置いていた私はその輪に入るのが少し遅かったのだが、そんな私を快く受け入れてくれて、初日の晩にはもう阿波踊りを踊って大騒ぎした記憶がある(笑)
おおらかで、ウェルカムで、優しくて。
全てはリョウジさんの人柄が引き寄せたものだったのだと思う。


17年前のある夜。毎週こんな感じ(笑)

スシカル最後の日には残念ながら間に合わなかったけれど、どうしても会ってお礼を言っておかねばと連絡をとったところ無事に会うことができた。
38年間、時間に縛られていた生活から解放されたリョウジさんは、なんだかほっとした表情で「行きたいところに連れて行ってあげますよ」と笑顔。
なんと偶然にもこの日はリョウジさんの誕生日。 徳島から持ってきた「鳴門金時焼酎」お土産は、図らずもお誕生祝になった。

近くでデザインTシャツ工房を営んでいるもう一人の大切な仲間、ナオさんのところに行こう!と車を走らせる。
「やぁ~やぁ~」
と工房の奥から現れたナオさんは、昔のまま。

ナオさんとは「ロシアンリバー・ジャズフェスティバル」に一緒に行ったり、

毎年恒例、お庭での独立記念日BBQに乱入したり

Jamセッションで飲めや歌えやの大騒ぎをしたり

と、数えられないほど、(いつもお互い酔っぱらって)時間をご一緒させていただいた。
お会いするのは2012年にシカゴに訪れたナオさんを、Jazz Festにご案内して以来、かも。


もう、この二人との再会がうれしくて。





で、やっぱり同じメンツでまた昼間っから飲んじゃった。


第2の里帰り ベイエリアでの48時間その2

2024-05-19 19:43:45 | アメリカ生活雑感
おしゃべりしてゆっくりしすぎたせいか、めずらしくDedeも、そして当然私も寝坊。
そのおかげで、久々に仕事のプレッシャーのない朝を気持ちよくむかえられた。
夕べは風が強かったので一晩中窓の外では木々の音がざわざわと聞こえてきて、それもなんだか子守唄のような心地よさだっだ。


Berkeleyの高台にあるDedeのおうち。毎年ここでThanksgivingのテーブルを囲んだっけ。

朝食後は、Dedeと昔のようにキャンパス付近をぶらぶらしてみる。
数年間住んでいたアパートはそのままだったが、大学前のメイン通りのテレグラフアベニューはすっかり様変わりしていた。
コロナ禍で閉店したままの飲食店や、空きスペースにペンキで描かれた落書きが悲しく見苦しい。
趣味の悪いビルが出現したり、学生用のアパートが林立する無機質な街並みには虚無感が漂う。


昔住んでいた学生アパート。毎晩近所で暴れる学生がうるさくてたまらず引っ越したけど、キャンパスに近くて便利だった。

 
悪趣味・・


落書きだらけの空きビル


レコードを買いあさったなじみの古レコード屋さんはつぶれずにまだあった。めちゃうれしい!


バークレーの学生たちの集会に歴史的に使われたPeople’s Parkにはバリケードが築かれ、四隅には警官の姿。
何事かと聞くと、こともあろうにここに学生アパートを建設する予定(表向きは)で、よからぬデモなどを起こされないように見張っているのだという。




もちろん、デモなど起こる気配もないので、ポリスも暇を持て余している様子。
まったく天下のUCBが予算をこんなことに無駄遣いしているのか、と情けなくなる。

あきれ返りつつ学内に入ると、見慣れた場所で見慣れた景色が広がっていた。
今全米の大学に広がりつつある、イスラエルによるガザ侵攻、ガザの人たちに対する虐殺行為に対するデモ。
大学がイスラエルの企業に資本援助をすることに対する抗議チラシも多くみられた。
2001年の9月、9・11の直後も同じような光景が広がっていたっけ。





他大学とは違い、UCBではあくまでも平和な形でデモが行われていて、ゴミひとつない整然とした運動だったのが印象的。
卒業式を中止するほどの大学もあったそうだが、ここではそんな暴力は一切見られなかった。


卒業式のシーズンでもあり、すぐ横の正門前では卒業セレモニーを終えた学生たちが誇らしげに記念撮影をしていた。



近くのカフェではいつもと変わらず学生たちが勉強をしている。
この対比もいかにもバークレーらしい。

コロナですっかり留学生が減ってしまったUCBはその遅れを必死で取り戻そうと、最近では学部・学科を乱立させているらしい。それもあって、学生や教授陣の住むアパートが急激に必要になり、市内各所で高層アパートの建設が始まっているのだとか。
中には(失礼だが)成績が良くなくても簡単に入れる学科もあり、”UCB卒業”のネーミングほしさに主にアジアの学生が殺到しているとかで、大学のレベル低下が懸念されている。


第2の里帰り ベイエリアでの48時間その1

2024-05-19 17:33:57 | アメリカ生活雑感


LAへの出張帰り、今度こそベイエリアに寄ろうと決めていた。
昨年LAに来たときは団体行動だったので行けなかった、近くて遠い第2の故郷。
あのとき行っておけばよかった、
あのとき会っておけばよかった、
そう思うことがないように、思いついたら即行動、これからはこれで行こうと決めている。

LAから1時間半、ひとっ飛びでサンフランシスコへ。
この空港はLAXよりはるかにきれいで明るく洗練されている。すぐにBARTに乗り継げるし、タクシーやUberの列に並ばなくてもいい。
懐かしいロックリッジ駅までは、1.75ドル。
駅を出るとDedeが待っていてくれた。
彼女に会うのは、シカゴに訪ねてきてくれた時以来だからもうかれこれ6年?
私が初めてバークレーで生活を始めたときからずっと、私の人生を見守ってくれていた生き証人の彼女。
英語が喋れなくて四苦八苦していたときも、大学のプレゼンクラスで悩んでいた時も、助言しつつそっとそばで手を差し伸べてくれた。
彼女なしでは今の私はあり得なかっただろう。

彼女を紹介してくれたのが、当時クラスメートだった親友でエジプシャンのHODA。今はドイツに戻って、メディアに引っ張りだこの政治学者だ。
この地に降り立ち空気を吸うと、この20年間が走馬灯のようによみがえる。
青春の匂いだ。










アメリカ生活最初に住んだ家。一軒家の中で数人の留学生が部屋ごとに住んでいた。

何も変わっていないDedeの家で部屋に荷物を下ろし、さっそく昔暮らしたNeighborhoodを散歩。
二人でよくおしゃべりをしたカフェで、まるで昨日の続きのようにコーヒーを飲みながらおしゃべりに花が咲く。
寒かったロスとは違い、ここは陽差しが温かい。


アフガン料理の店でゆっくりと夕食を。


部屋からのベイエリアの眺めは何一つ変わらない。

ふかふかのベッドで、やっとビジネスモードからオフへと気持ちが切り替わった夜だった。

誰かのごみは誰かの宝。One man's junk is another man's treasure

2023-09-27 09:53:02 | アメリカ生活雑感

20年ほど前に亡くなった叔父の家の整理をコツコツと進めている。

こっちも年とるし、この夏場は特にきつかった。

長く県庁勤務をしていた叔父は、(私のかすかな記憶では)博識で、おしゃべりが好きで、多趣味で、蔵書が半端なく、収集癖のある人だった。

鉄道、切手、古銭、骨董・・・なんでも手を出していたことを今になって思い知った(涙)

自分で始末をせずに死なれたあと、どれほど大変なことか本人は知る由もないだろう。

 

普通ならば気にせずに古紙回収に出してしまえばよいのだけれど、それができないのが私の性。

地元の歴史を語るうえで残しておかなければならないような重要書類なども見つかり(昔はコンプライアンスなどなかったのか、自宅にいろんなものを持ち帰って保管している)でもまぁ今となってはそれも時効だし、地域のために役立ててもらう方法を周囲にいろいろと相談してみたところ、県立の文書館がそのような歴史的印刷物を引き取ってくれる(かもしれない)と助言をいただく。

 

重い腰を上げて、ひたすら整理にかかる。

町史、古い地図、古い賃貸借契約書、写真、はがき、・・・すきまから際限なく現れるものたちと悪戦苦闘数か月。

バカ重い「町史」だけでもいったいどれほどあったろう。

ひとまず、段ボールに10箱を運び込んだ。

 

恐縮がる私に文書館の方は「県でもきっちり保管されていないものもありますから、こういう個人の方から寄贈されるものは本当に価値があってありがたいです」と言ってくださり、それだけでも労力が報われた。

とはいえ、まだそれでも半分ほどか

 

没後20年たって、何の付き合いもなかった姪っ子がこうやって遺物を掘り出しているとはよもや知るまい。

叔父よ、あなたはいったい何がしたかったのか?

これだけ一生懸命ガラクタ集めても、最後は一人。持って死ねないのよ。

 

自分が死ぬときは、きちんと整理して誰にも迷惑をかけないようにしてから死のう、とつくづく思う。

最善の方法は、

「焼けるものはすべて焼却してください。それ以外はこのお金で始末してください」と、廃棄費用を包んでおくこと。

人のふり見て我がふりなおせとはまさにこのこと。

勉強させてもらった。

 

つづく・・・

 


Happy 91st

2023-09-26 09:39:36 | アメリカ生活雑感

2023年9月25日は、父の91歳の誕生日。

Happy Heavenly Birthday, Papa!

 

自宅の自室に戻って本当にうれしそうだった父。

退院のその日には、なじみのヘルパーさんや娘たちに囲まれてハーレム状態で、少し興奮してまた熱を出しちゃった父。

飲食を厳しく制限されていたので、予想が外れて激怒し、私にもヘルパーさんにも怒りをぶちまけていた父。

すき焼き味の柔らかご飯をあげたら、「ああ、やっとお肉が食べられるようになったんだね」と満面の笑顔を見せた父。

毎朝手作りで入れてあげた、セリー状のコーヒーが楽しみだった父。

 

なのに、ある日そっと旅立ってしまった。

戦い疲れたのかな。

ごめんね、好きなコーヒーいっぱい飲ませてあげればよかった

あまりにもきれいな寝顔だったので、来る人来る人がじっと見てしまうほどだった。

最後まで”ダンディー”を通した父。

 

まだまだそこにいるような気がしてならない。

でも私には彼がやり遂げたかった事、唯一無念に思っていた本家の「始末」などをやらねばならないという使命がある。

前を向いて、やりとげる。

 


今年の抱負、ときたもんだ

2023-01-18 00:07:03 | アメリカ生活雑感

少し遅れの、Happy New Year!

年末は家族の入院や、それにまつわるさまざまな一切合切を取り仕切らねばならず、

新年ムードまるでなし。。。

やっと最近になって年が明けたことを実感として受け入れることができるようになった感じだ。

 

というわけで、今年の抱負らしきものを、無理のない範囲で宣言。

まず、

その1 怒る回数を減らす

昨年は1年中、なにやかやで怒っていた。

世の中に、政治家に、時代錯誤の父に、ゴミの山だけを残して死んだ叔母に・・・

今年はぐっと胸にしまって、明るくいこう。

怒るとお肌に悪いしね。

 

その2 足るを知って始末する。

終活、への準備といえば早いけれど、自分がこれから向かっていくべき大切なものに注力し、それ以外のことはなるべくきれいに始末していく。

そう、シンプルにしていくのだ。

 

その3 もちろん、健康第一

コロナで揺れた4年間。結局私も家人も誰一人罹患せず、今に至る。

免疫力を弱めずにいたからだと思う。

良く寝る、よく食べる、そしてストレス発散。

今年はよく”歩く”を付け加えよう。

 

その4 ブログ更新

おさぼりせずに、熱いうちに書く。

ささいなことでも、その日のうちに書く。

 

ということでがんばれ、2023年の私。


思い出の8ミリを次世代へつなぐプロジェクト~完成試写会

2022-08-22 23:53:25 | アメリカ生活雑感

 

昨年、徳島新聞で見かけた記事がきっかけで「徳島大学人と地域共創センター」のプロジェクトチームと共に進めていた、

思い出の8ミリを次世代へつなぐプロジェクト 

亡くなった爺ちゃんが趣味で撮りためた段ボールひと箱分以上の古い8ミリビデオやネガ・ポジを、徳島大学の映像デザイン研究室が天文学的な時間をかけてデジタル化してくれた、そのプロジェクトがついに終了!

先週研究室から「フィルムお返し上映会 Editor は見た!徳島再発見映像たち!」

と銘打った完成試写会の招待状が届いた。

このプロジェクトでは徳島県内から多くの歴史的な貴重なフィルムが寄せられたそうで、この上映会はフィルムを提供した家族を招いてお互いに鑑賞し合いながら、歴史を振り返りましょうというもの。

私の提供フィルムは第3部の最後に上映された。

他の方々の映像を見たり、教えていただいたりして知ったのだが、当時これほどのクォリティーの映像を残すのはとても難しかったそうだ。

お爺ちゃんは決して道楽な人ではなく、どちらかと言えば9人兄弟の長男として超がつくほどの倹約家だったのだが、

こと写真や映像に関しては当時から異常に情熱を燃やしていたことを覚えている。

その血が私にも注がれているので、よくわかる。

家族のこと、地域のこと、伝統芸能・・・とにかく何でも心に残ったことは残しておきたい、残さねばという使命感がわいてくるのだ。

結局爺ちゃんが亡くなったあと、家族の誰もがその膨大な記録の存在すら忘れ、ないがしろにして放っておいたのを

私がある日、どうするでもなく救い出しておいたのだった。

その映像、古くは昭和初期のものまで、がこうして令和の時代にデジタル化されて皆に見られる日が来るのだ。

だから”断捨離”などという言葉に惑わされてはいけない!(と私は常々思っているのだが。)

 

50年前の自分たちの結婚式の様子を改めてみたご夫婦も。

 

これは祖父が残した写真(ガラス乾板)から。一番左が爺ちゃん。

 

若き日の母

 両親と私(笑)

戦時中の婦人会の写真も。研究室の佐原教授は、ただデジタル化するだけでなく写真から読み取れる時代背景や撮影場所の検索などもしてくれていて、驚くとともに感謝。

 

上のふたつは、まさに今日の上映会が行われた新町橋界隈で60年前に撮影された阿波踊りの映像。

映像は会場の外でも流されていたのだけれど、この映像のときには多くの人が立ち止まって見ていたそうだ。

それにしても、西新町はあの時から何も変わってないねぇ・・・(ため息)

今回デジタル化された膨大な個人記録は、地域にとって有用な資料などを選抜して地域の公共資産として徳島大学や徳島市、県などの自治体が活用していけるように整備していくそうだ。

これこそ、祖父が心から望んでいたことに違いない。

これでやっと「映像供養」ができたと、ほっとした。

9月1日の命日には、お仏壇の前で上映会をしてあげよう。

総合科学部 映像デザイン研究室の佐原教授をはじめ、学生の皆さん、

これほどの量の画像や動画を一つ一つデジタル化するにはとてつもない労力がかかったはず。

改めて心よりお礼申し上げます。