Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

第2の里帰り ベイエリアでの48時間~締めくくりは

2024-05-23 21:07:27 | アメリカ生活雑感
昼間から飲んでいい気分になったあと、今度はもう片方の大切な人たちとDinnerの約束。
バークレー・アダルトスクール時代のクラスの先生だったAnne(アン)、クラスメートでウズベキスタン出身のニゴラ、彼女のご主人のフェルースと子供たち(ニゴラにうり二つ11歳のカミーラ、5歳のAJ)が加わった。

ニゴラたちは二人ともバリバリ働いていて、その上バークレーから1時間ほど離れた街に住んでいるにもかかわらず、
「9時間かかったSHOKOに比べたら近いものよ!」
と、渋滞をいとわず仕事を終えたあと子供たちをピックアップし、車を飛ばしてやってきてくれた。
その気持ちだけでうれしい。

Anneが予約してくれたバークレー駅すぐ近くの、イタリアンレストラン。
そのテラス席でみんなの顔を見たとき、
「なんじゃこりゃ~」と心の声。
だって17年ぶりに会うというのに、この人たちちっとも変わってないんだもん。
ニゴラは初めて会った18歳の頃のまま。



その面影と利発そうなまなざしが、そのまんまそっくりカミーラに映し出されていた。
AJは初対面だというのに私に絡みついてきて、もうお人形のようにかわいい。

2時間、怒涛のようにしゃべり続け、少しだけ夜の街ブラをして
この上なく嬉しい再会の時間が暮れていった。

今度はまた近いうちに会おうね!と誓いながら。。。



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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その3

2024-05-22 10:28:46 | アメリカ生活雑感
バークレーでゆっくり過ごせるのは、正味一日、24時間。
その間、いかに「今会いたい人に会うか」が最大のトピックだった。

二日目(にして最終日)の午後は、私のバークレー生活になくてはならない存在だった日本食レストラン「スシ・カリフォルニア(通称:スシカル)」のオーナーで、つい先日店を売却してリタイアしたリョウジさんに会うと決めていた。
ここで過ごした数年間、毎週金曜日になると閉店後に怪しげなミュージシャンたちが集まって
飲んで歌って笑って、大騒ぎしたものだった。
日本人社会とあえて距離を置いていた私はその輪に入るのが少し遅かったのだが、そんな私を快く受け入れてくれて、初日の晩にはもう阿波踊りを踊って大騒ぎした記憶がある(笑)
おおらかで、ウェルカムで、優しくて。
全てはリョウジさんの人柄が引き寄せたものだったのだと思う。


17年前のある夜。毎週こんな感じ(笑)

スシカル最後の日には残念ながら間に合わなかったけれど、どうしても会ってお礼を言っておかねばと連絡をとったところ無事に会うことができた。
38年間、時間に縛られていた生活から解放されたリョウジさんは、なんだかほっとした表情で「行きたいところに連れて行ってあげますよ」と笑顔。
なんと偶然にもこの日はリョウジさんの誕生日。 徳島から持ってきた「鳴門金時焼酎」お土産は、図らずもお誕生祝になった。

近くでデザインTシャツ工房を営んでいるもう一人の大切な仲間、ナオさんのところに行こう!と車を走らせる。
「やぁ~やぁ~」
と工房の奥から現れたナオさんは、昔のまま。

ナオさんとは「ロシアンリバー・ジャズフェスティバル」に一緒に行ったり、

毎年恒例、お庭での独立記念日BBQに乱入したり

Jamセッションで飲めや歌えやの大騒ぎをしたり

と、数えられないほど、(いつもお互い酔っぱらって)時間をご一緒させていただいた。
お会いするのは2012年にシカゴに訪れたナオさんを、Jazz Festにご案内して以来、かも。


もう、この二人との再会がうれしくて。





で、やっぱり同じメンツでまた昼間っから飲んじゃった。

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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その2

2024-05-19 19:43:45 | アメリカ生活雑感
おしゃべりしてゆっくりしすぎたせいか、めずらしくDedeも、そして当然私も寝坊。
そのおかげで、久々に仕事のプレッシャーのない朝を気持ちよくむかえられた。
夕べは風が強かったので一晩中窓の外では木々の音がざわざわと聞こえてきて、それもなんだか子守唄のような心地よさだっだ。


Berkeleyの高台にあるDedeのおうち。毎年ここでThanksgivingのテーブルを囲んだっけ。

朝食後は、Dedeと昔のようにキャンパス付近をぶらぶらしてみる。
数年間住んでいたアパートはそのままだったが、大学前のメイン通りのテレグラフアベニューはすっかり様変わりしていた。
コロナ禍で閉店したままの飲食店や、空きスペースにペンキで描かれた落書きが悲しく見苦しい。
趣味の悪いビルが出現したり、学生用のアパートが林立する無機質な街並みには虚無感が漂う。


昔住んでいた学生アパート。毎晩近所で暴れる学生がうるさくてたまらず引っ越したけど、キャンパスに近くて便利だった。

 
悪趣味・・


落書きだらけの空きビル


レコードを買いあさったなじみの古レコード屋さんはつぶれずにまだあった。めちゃうれしい!


バークレーの学生たちの集会に歴史的に使われたPeople’s Parkにはバリケードが築かれ、四隅には警官の姿。
何事かと聞くと、こともあろうにここに学生アパートを建設する予定(表向きは)で、よからぬデモなどを起こされないように見張っているのだという。




もちろん、デモなど起こる気配もないので、ポリスも暇を持て余している様子。
まったく天下のUCBが予算をこんなことに無駄遣いしているのか、と情けなくなる。

あきれ返りつつ学内に入ると、見慣れた場所で見慣れた景色が広がっていた。
今全米の大学に広がりつつある、イスラエルによるガザ侵攻、ガザの人たちに対する虐殺行為に対するデモ。
大学がイスラエルの企業に資本援助をすることに対する抗議チラシも多くみられた。
2001年の9月、9・11の直後も同じような光景が広がっていたっけ。





他大学とは違い、UCBではあくまでも平和な形でデモが行われていて、ゴミひとつない整然とした運動だったのが印象的。
卒業式を中止するほどの大学もあったそうだが、ここではそんな暴力は一切見られなかった。


卒業式のシーズンでもあり、すぐ横の正門前では卒業セレモニーを終えた学生たちが誇らしげに記念撮影をしていた。



近くのカフェではいつもと変わらず学生たちが勉強をしている。
この対比もいかにもバークレーらしい。

コロナですっかり留学生が減ってしまったUCBはその遅れを必死で取り戻そうと、最近では学部・学科を乱立させているらしい。それもあって、学生や教授陣の住むアパートが急激に必要になり、市内各所で高層アパートの建設が始まっているのだとか。
中には(失礼だが)成績が良くなくても簡単に入れる学科もあり、”UCB卒業”のネーミングほしさに主にアジアの学生が殺到しているとかで、大学のレベル低下が懸念されている。

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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その1

2024-05-19 17:33:57 | アメリカ生活雑感


LAへの出張帰り、今度こそベイエリアに寄ろうと決めていた。
昨年LAに来たときは団体行動だったので行けなかった、近くて遠い第2の故郷。
あのとき行っておけばよかった、
あのとき会っておけばよかった、
そう思うことがないように、思いついたら即行動、これからはこれで行こうと決めている。

LAから1時間半、ひとっ飛びでサンフランシスコへ。
この空港はLAXよりはるかにきれいで明るく洗練されている。すぐにBARTに乗り継げるし、タクシーやUberの列に並ばなくてもいい。
懐かしいロックリッジ駅までは、1.75ドル。
駅を出るとDedeが待っていてくれた。
彼女に会うのは、シカゴに訪ねてきてくれた時以来だからもうかれこれ6年?
私が初めてバークレーで生活を始めたときからずっと、私の人生を見守ってくれていた生き証人の彼女。
英語が喋れなくて四苦八苦していたときも、大学のプレゼンクラスで悩んでいた時も、助言しつつそっとそばで手を差し伸べてくれた。
彼女なしでは今の私はあり得なかっただろう。

彼女を紹介してくれたのが、当時クラスメートだった親友でエジプシャンのHODA。今はドイツに戻って、メディアに引っ張りだこの政治学者だ。
この地に降り立ち空気を吸うと、この20年間が走馬灯のようによみがえる。
青春の匂いだ。










アメリカ生活最初に住んだ家。一軒家の中で数人の留学生が部屋ごとに住んでいた。

何も変わっていないDedeの家で部屋に荷物を下ろし、さっそく昔暮らしたNeighborhoodを散歩。
二人でよくおしゃべりをしたカフェで、まるで昨日の続きのようにコーヒーを飲みながらおしゃべりに花が咲く。
寒かったロスとは違い、ここは陽差しが温かい。


アフガン料理の店でゆっくりと夕食を。


部屋からのベイエリアの眺めは何一つ変わらない。

ふかふかのベッドで、やっとビジネスモードからオフへと気持ちが切り替わった夜だった。
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誰かのごみは誰かの宝。One man's junk is another man's treasure

2023-09-27 09:53:02 | アメリカ生活雑感

20年ほど前に亡くなった叔父の家の整理をコツコツと進めている。

こっちも年とるし、この夏場は特にきつかった。

長く県庁勤務をしていた叔父は、(私のかすかな記憶では)博識で、おしゃべりが好きで、多趣味で、蔵書が半端なく、収集癖のある人だった。

鉄道、切手、古銭、骨董・・・なんでも手を出していたことを今になって思い知った(涙)

自分で始末をせずに死なれたあと、どれほど大変なことか本人は知る由もないだろう。

 

普通ならば気にせずに古紙回収に出してしまえばよいのだけれど、それができないのが私の性。

地元の歴史を語るうえで残しておかなければならないような重要書類なども見つかり(昔はコンプライアンスなどなかったのか、自宅にいろんなものを持ち帰って保管している)でもまぁ今となってはそれも時効だし、地域のために役立ててもらう方法を周囲にいろいろと相談してみたところ、県立の文書館がそのような歴史的印刷物を引き取ってくれる(かもしれない)と助言をいただく。

 

重い腰を上げて、ひたすら整理にかかる。

町史、古い地図、古い賃貸借契約書、写真、はがき、・・・すきまから際限なく現れるものたちと悪戦苦闘数か月。

バカ重い「町史」だけでもいったいどれほどあったろう。

ひとまず、段ボールに10箱を運び込んだ。

 

恐縮がる私に文書館の方は「県でもきっちり保管されていないものもありますから、こういう個人の方から寄贈されるものは本当に価値があってありがたいです」と言ってくださり、それだけでも労力が報われた。

とはいえ、まだそれでも半分ほどか

 

没後20年たって、何の付き合いもなかった姪っ子がこうやって遺物を掘り出しているとはよもや知るまい。

叔父よ、あなたはいったい何がしたかったのか?

これだけ一生懸命ガラクタ集めても、最後は一人。持って死ねないのよ。

 

自分が死ぬときは、きちんと整理して誰にも迷惑をかけないようにしてから死のう、とつくづく思う。

最善の方法は、

「焼けるものはすべて焼却してください。それ以外はこのお金で始末してください」と、廃棄費用を包んでおくこと。

人のふり見て我がふりなおせとはまさにこのこと。

勉強させてもらった。

 

つづく・・・

 

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Happy 91st

2023-09-26 09:39:36 | アメリカ生活雑感

2023年9月25日は、父の91歳の誕生日。

Happy Heavenly Birthday, Papa!

 

自宅の自室に戻って本当にうれしそうだった父。

退院のその日には、なじみのヘルパーさんや娘たちに囲まれてハーレム状態で、少し興奮してまた熱を出しちゃった父。

飲食を厳しく制限されていたので、予想が外れて激怒し、私にもヘルパーさんにも怒りをぶちまけていた父。

すき焼き味の柔らかご飯をあげたら、「ああ、やっとお肉が食べられるようになったんだね」と満面の笑顔を見せた父。

毎朝手作りで入れてあげた、セリー状のコーヒーが楽しみだった父。

 

なのに、ある日そっと旅立ってしまった。

戦い疲れたのかな。

ごめんね、好きなコーヒーいっぱい飲ませてあげればよかった

あまりにもきれいな寝顔だったので、来る人来る人がじっと見てしまうほどだった。

最後まで”ダンディー”を通した父。

 

まだまだそこにいるような気がしてならない。

でも私には彼がやり遂げたかった事、唯一無念に思っていた本家の「始末」などをやらねばならないという使命がある。

前を向いて、やりとげる。

 

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今年の抱負、ときたもんだ

2023-01-18 00:07:03 | アメリカ生活雑感

少し遅れの、Happy New Year!

年末は家族の入院や、それにまつわるさまざまな一切合切を取り仕切らねばならず、

新年ムードまるでなし。。。

やっと最近になって年が明けたことを実感として受け入れることができるようになった感じだ。

 

というわけで、今年の抱負らしきものを、無理のない範囲で宣言。

まず、

その1 怒る回数を減らす

昨年は1年中、なにやかやで怒っていた。

世の中に、政治家に、時代錯誤の父に、ゴミの山だけを残して死んだ叔母に・・・

今年はぐっと胸にしまって、明るくいこう。

怒るとお肌に悪いしね。

 

その2 足るを知って始末する。

終活、への準備といえば早いけれど、自分がこれから向かっていくべき大切なものに注力し、それ以外のことはなるべくきれいに始末していく。

そう、シンプルにしていくのだ。

 

その3 もちろん、健康第一

コロナで揺れた4年間。結局私も家人も誰一人罹患せず、今に至る。

免疫力を弱めずにいたからだと思う。

良く寝る、よく食べる、そしてストレス発散。

今年はよく”歩く”を付け加えよう。

 

その4 ブログ更新

おさぼりせずに、熱いうちに書く。

ささいなことでも、その日のうちに書く。

 

ということでがんばれ、2023年の私。

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思い出の8ミリを次世代へつなぐプロジェクト~完成試写会

2022-08-22 23:53:25 | アメリカ生活雑感

 

昨年、徳島新聞で見かけた記事がきっかけで「徳島大学人と地域共創センター」のプロジェクトチームと共に進めていた、

思い出の8ミリを次世代へつなぐプロジェクト 

亡くなった爺ちゃんが趣味で撮りためた段ボールひと箱分以上の古い8ミリビデオやネガ・ポジを、徳島大学の映像デザイン研究室が天文学的な時間をかけてデジタル化してくれた、そのプロジェクトがついに終了!

先週研究室から「フィルムお返し上映会 Editor は見た!徳島再発見映像たち!」

と銘打った完成試写会の招待状が届いた。

このプロジェクトでは徳島県内から多くの歴史的な貴重なフィルムが寄せられたそうで、この上映会はフィルムを提供した家族を招いてお互いに鑑賞し合いながら、歴史を振り返りましょうというもの。

私の提供フィルムは第3部の最後に上映された。

他の方々の映像を見たり、教えていただいたりして知ったのだが、当時これほどのクォリティーの映像を残すのはとても難しかったそうだ。

お爺ちゃんは決して道楽な人ではなく、どちらかと言えば9人兄弟の長男として超がつくほどの倹約家だったのだが、

こと写真や映像に関しては当時から異常に情熱を燃やしていたことを覚えている。

その血が私にも注がれているので、よくわかる。

家族のこと、地域のこと、伝統芸能・・・とにかく何でも心に残ったことは残しておきたい、残さねばという使命感がわいてくるのだ。

結局爺ちゃんが亡くなったあと、家族の誰もがその膨大な記録の存在すら忘れ、ないがしろにして放っておいたのを

私がある日、どうするでもなく救い出しておいたのだった。

その映像、古くは昭和初期のものまで、がこうして令和の時代にデジタル化されて皆に見られる日が来るのだ。

だから”断捨離”などという言葉に惑わされてはいけない!(と私は常々思っているのだが。)

 

50年前の自分たちの結婚式の様子を改めてみたご夫婦も。

 

これは祖父が残した写真(ガラス乾板)から。一番左が爺ちゃん。

 

若き日の母

 両親と私(笑)

戦時中の婦人会の写真も。研究室の佐原教授は、ただデジタル化するだけでなく写真から読み取れる時代背景や撮影場所の検索などもしてくれていて、驚くとともに感謝。

 

上のふたつは、まさに今日の上映会が行われた新町橋界隈で60年前に撮影された阿波踊りの映像。

映像は会場の外でも流されていたのだけれど、この映像のときには多くの人が立ち止まって見ていたそうだ。

それにしても、西新町はあの時から何も変わってないねぇ・・・(ため息)

今回デジタル化された膨大な個人記録は、地域にとって有用な資料などを選抜して地域の公共資産として徳島大学や徳島市、県などの自治体が活用していけるように整備していくそうだ。

これこそ、祖父が心から望んでいたことに違いない。

これでやっと「映像供養」ができたと、ほっとした。

9月1日の命日には、お仏壇の前で上映会をしてあげよう。

総合科学部 映像デザイン研究室の佐原教授をはじめ、学生の皆さん、

これほどの量の画像や動画を一つ一つデジタル化するにはとてつもない労力がかかったはず。

改めて心よりお礼申し上げます。

 

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オセロゲームの始まり

2021-01-25 14:07:03 | アメリカ生活雑感

無事に1月20日(アメリカ時間)が終わり、やっと本当の意味での新年が来た気がする。

馬鹿騒ぎのない、静かで厳かな大統領就任式とそれに続く祝賀パーティーは、これから4年間の「アメリカの立て直し」の決意に見えた。

アメリカに住んでいたときは、共和党と民主党の間での大きすぎる振れ幅に驚きを通り越して大変だったけれど、生まれ育った人たちにとってはそれが当たり前なのだろう。

昨日までOKだったことが急にNGになったり、いいことも悪いこともすべてが劇的に変わっていく。

ただ、トランプの4年間だけは「政策」などと呼べるものではなくわがままな子供の自己顕示欲に振り回されアメリカの歴史に汚点を残すことになった。

バイデン大統領が素晴らしい政治家だとはこれっぽっちも思っていないけれど、少なくとも社会の常識を取り戻してくれるはずだと信じたい。

そして一刻も、あのオレンジ野郎を記憶のなかから葬り去り、弾劾し、牢獄にぶち込んでほしい。

ふと、2009年1月のオバマ大統領就任のときを振り返ってみた。

あのときも「史上最悪」と呼ばれたW.ブッシュのあとで、アメリカは狂喜乱舞していた。

ブッシュの政策をオセロゲームのようにことごとくひっくり返し、最初の1か月は溜飲を下げる思いだった。(そのあとはなんだかのら~りくら~りで口だけだった感はあるけど・・。)

今から思えば、ブッシュもトランプの前ではかわいいもん。いい人に見えるから不思議だ(笑)

        

さて。就任式にあまりにも「カジュアル」なジャケットと手袋姿で現れた民主党左派の我らがバーニーサンダースがここのところバズりまくっている。

その姿がいろいろジョークにされていて、こういうところに「アメリカらしさ」を感じるのは私だけだろうか?

 

個人的にはこれが一番好きかな。

 

 

シカゴ美術館に飾ってほしい作品。

 

心の底からこの人にこそ大統領になってほしかった・・・。清廉は政治の世界では嫌われるらしい。

 

作った人もえらい。

 

 

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悪夢の終焉と、次なる試練の始まり。~大統領選挙雑感

2020-11-08 23:41:11 | アメリカ生活雑感

 

4年に一度やってくる「大統領選鬱」

アメリカの大統領選は、エンターテイメントのようなもの。

民が二つに分かれて2年以上の長い戦いに明け暮れ、疲れ果て、そして最後は花火がど~んと打ちあがって終わる、そんな感じ。

今回のこの馬鹿げたショーを、アメリカ国内で見ずにすんだことにまずほっとしている。

これまでのようにアメリカで体験していたら、今回こそ正気ではいられなかったと思う。

選挙権のない私たちでさえそうなのだから、国民はさぞかし大変だろう。でもそれもこれもひっくるめて全てがショーなのだから、慣れっこなのかもしれない。

投票から4日目でようやく決着(数字の上での)が着くという異例尽くしの大統領選は、今もなお波乱含みだ。来年1月に無事に就任式が行われるかどうかも、今のこの状態では予想すらできない。

トランプという男は何をやってくるかわからない、テロリストのようなやつだからだ。

普通の神経では予想できないことを平気でやってくる。逆に言うと、だからこそこれほどの熱狂的信者を集めたとも言える。

今まで表だって出てこなかった”普通の神経ではない”半数近い輩が、もっとすごい奴に覚醒されてしまった。モンスター映画みたいに。

日本時間11月7日午前1時半すぎ速報が入ると同時に「長い悪夢はおしまいだ」というSNSの投稿があふれ出した

 

メディアが支配した大統領選

トランプは負け惜しみで開口一番こう吠えた。

「これは、メディアが作り上げた選挙結果だ」と。

ある意味、これは当たっている。アメリカも日本も、政治はメディアの報道に振り回され、一般市民はそれを真に受けてしまうからだ。

アメリカのメインTV局は、これまでさんざん「フェイクニュース」呼ばわりされ罵詈雑言をツィートされ続けた恨みから、もちろん「反トランプ」で結束している。

報道もいつも以上に民主寄りで、バイデン氏を支持するというよりはトランプを引きずり下ろすことで一つになっている感があった。現にバイデン氏に都合の悪いニュースは、表だって報じずにいた。

選挙戦も終盤に差し掛かったころ、バイデン側にとって都合の悪い爆弾ニュースが流れ始めた。

バイデン氏の次男ハンターが、ウクライナのエネルギー会社の取締役に就任して多額の給与を受け取っていたことが判明。それだけなら特に問題にはならないのだが、その期間のほとんどが父親であるバイデンが副大統領だった時期と重なる。

「父親の地位を利用して口利きをした報酬を受け取っていた」との疑われても仕方ない。

ハンターは同時期に、中国関連の投資会社の役員も務めており、これは父親が訪中したときに同行した時期と重なる。「父親とは関係ない」とは言い切れないだろう。

しかし、アメリカの主要メディアは一部を除いてこの”爆弾ニュース”をスルーした。明らかにバイデン擁護に動いたのだ。

その理由は4年前の大統領選。投票日約1か月前にヒラリーの「個人メール事件」が発覚したときの主要メディアの報道で、それまで優勢だったヒラリーはの勢いは急に陰りを見せトランプにまさかの逆転勝利を許してしまった。

この苦すぎる経験をふまえ、今回メディアは「バイデン擁護網」を敷いて慎重にスキャンダルを抑え込んで臨んだといえる。

そんなメディアにトランプは「徹底的にこのウクライナ事件を調べろ!」と一層牙をむいた。

しかし、このウクライナ事件は皮肉にも自分の首を絞めることになる。ウクライナ当局に「ハンターと当該企業との関係を捜査しろ、さもなくばアメリカはウクライナへの支援を止める」と迫ったことが判明。

相手候補のスキャンダルを暴くために大統領の地位を利用したという恐喝罪で、弾劾裁判にまで発展した。

共和党が過半数を占める上院でこの弾劾裁判は否決されたが、命拾いしたバイデンに対するトランプ信者たちの怒りはまるでハリケーンの渦のごとく投票日に向けて大きくうなり続けた。

隠れトランプ票を入れてもバイデン氏が一定の差をつけて勝利するとみられていた選挙がここまでもつれ込んだのも、最後の1か月のトランプ側のなりふり構わない「ウソでもなんでもありキャンペーン」が一定層に熱狂的に受け入れられたからだった。

 

8年間の”黒人大統領”の揺り戻し

コロナでの失策による22万人の死者、あからさまな人種差別問題とそれをあおる言動、サイエンスを無視した根拠のない発言、パリ協定からの脱退宣言、不法移民入国家族から子供たちを引き離して監禁する非人道的行為、国境への壁建設・・・と身の毛もよだつような傍若無人ぶりを繰り返し、それでも自分を正当化し美化するモンスター。

州法に基づいてこれまで粛々と行われてきた郵便投票を、自分が不利となると「不正だ」と根拠なく息巻き、保守系「FOXニュース」の垂れ流す陰謀説やフェイクニュースを平気でツィートし続ける卑怯者。

これが日本だったら、武士道の風上にも置けぬ。切腹ものだ。

それでもアメリカの半分はこれからのさらなる4年間を託そうとした。その事実にもまた、震撼する。

その理由はなぜなのか? 

一連の流れの始まりは2016年、トランプ大統領が生まれたあのときだった。

8年もの間、世界から一目置かれノーベル平和賞まで受賞してしまった”黒人大統領”に対する、白人主義者たちの口には出せない憎しみが、次期大統領候補ヒラリー・クリントンといういけ好かない女性に向けられた。

ヒラリーと最後まで民主党候補者指名で争った左派のバーニー・サンダース氏は、金まみれの”政治屋”にアメリカを託すことに絶望していた若者を中心に絶大な支持を得ていた。

にもかかわらず、その”あまりにもクリーンで正統すぎる”信条と、企業からの資金献金に頼らない独自のキャンペーンと若者からの圧倒的支持に恐れた民主党幹部たちが、蜜月関係にある主要メディアをおさえてバーニーの露出を控えさせ、支持の拡大を防いだという過去がある。

バーニーの支持者たちはこのしくみに怒りを爆発させたのは言うまでもない。

「メディアに作られたヒラリーをアメリカの歴史で最初の女性大統領にさせまじ」と、彼女に票を入れるくらいなら棄権するか、もしくは腹いせに(どうせ負ける)トランプに入れてやろう、という動きにつながったことは確かだ。

今回、2020年の民主党候補選びにおいても、バーニー氏は直前まで人気を凌駕しておりほとんと指名を勝ち取りかけていた。にもかかわらず、またもら民主党内から足をすくわれた。

「極左のバーニーでは民主党はトランプに勝てない」と決めつけたのだ。

多くの民主党幹部がバイデン支持を表明し、バーニーは自ら指名争いから身を引かざるを得なかった。

ただ、今回は4年前の轍を踏まぬようバイデン側も「バーニー氏と手を携える」ことを公言し、バーニーも「トランプから政権を奪回するためにもバイデン氏に投票を」と早い時期に呼びかけた。

 

「政治屋」 VS 「ならず者」の戦い

バイデンはある種、運のいい人である。

今回選挙で勝てたのは、ひとえに過去の過ちを犯さないように陣営がしっかりと対策をたてていたこと、そしてコロナの影響で民主党支持者の多くが投票所で並ばずに早くに郵便投票をすませることができたおかげだ。

本当の闘いはむしろこれから。

バイデン政権がすぐに目に見える成果をあげなければ、中間選挙でまたアメリカは真っ赤に色づくだろう。

勝って兜の尾を閉めろ。

さぁ、ショーは終わった。

グッドラック、アメリカ。

 

 

※以下、バイデン氏当確の瞬間からSNSのタイムラインに流れ出した印象的なpostから抜粋。

”ジミー・カーター第39代大統領(民主党:96歳)は、生きて再びジョージア州がブルー(民主党)に変わったのを見届けた”

南部ジョージア州は共和党の牙城。1992年以来一度も大統領選で民主党候補が勝つことはなかった。ジョージア州出身のカーター氏はこの歴史的瞬間を生きて見届けた。

 

二人の勝利を天の上から見届けた”エンジェル”4人。出身州はいずれも民主党の勝利となった。

左から、イライジャ・カミングス Elijah Eugene Cummings (メリーランド州選出下院議員・民主党。公民権運動の推進に尽力した。トランプ政権のロシア疑惑や脱税疑惑などを厳しく追及し、真っ向から対決した。2019年10月に68歳で没)、ジョン・マケイン John McCain(アリゾナ州選出上院議員・共和党。2008年の大統領選挙でオバマ氏と激しく争って敗北したが、党派を超えて”正義の人”と呼ばれた。トランプ政権を激しく非難したことでも知られる。2018年8月に81歳で没)、ジョン・ルイス John Robert Lewis (ジョージア州選出下院議員・民主党。公民権運動活動家。1963年にキング牧師らと「ワシントン大行進」に参加した。2020年7月80歳で没)、ルース・ベイダー・ギンズバーグ Ruth Bader Ginsburg(1993年から27年間にわたりアメリカ連邦最高裁判事を務めたリベラル派判事。特に妊娠中絶など女性の権利に対して進歩的だった。2020年9月に87歳で没。※大統領選挙の約1ヶ月半前の死去に際して、新大統領就任までは自身の後任人事が行わないよう言い残していたが、トランプは保守派のエイミー・バレット後任として指名するという暴挙に出た。)

 

「46代大統領と47代大統領」というかなり気の早い投稿も。

 

 

Comments (2)
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