Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

ニューオリンズ・行き当たりばったり数珠つなぎ②

2016-06-30 11:41:40 | アメリカ生活雑感
数珠つなぎその4:悶絶のキャベツ屋


さて、ライブの場所(Japanese restaurant “YUKI(雪)”にたどり着いたときには、すでにTsujiさんのトリオの演奏は終わっていて、みんな撤収モード。
ああ、、ごめんなさい。
今度はどこでやるんですか?と聞いてみたら、
「明日お友達のお葬式の帰りにみんなで彼を送るライブをやるんですけど・・まぁ、場所はお勧めできません」と、やや歯切れ悪く教えてくれた。
シカゴに比べたら、どこだって平気ってなものよ、あなた。
明日は最終日。どんなことをしてでも行かなくては。

そんなときに、やぁやぁとまた私の肩をたたく人物が。
あの、神出鬼没のハーブだった(笑)

「自分たち、これからどこ行くの?オレっち、バーボンストリート行くんだけど行かね?」
「それがねー、これからキャベツ食べに行くの」


この、「キャベツ食べに行く」には実は深~い逸話がある。
1年前、ツアーでここを訪れたとき、フレンチメンストリートのとある側道で黒人のご夫婦がPoboy(ホットドッグ)の屋台をやっていた。
夜中の2時過ぎ、M嬢と私は誘惑に駆られてそのPoboyを食べてしまったのだが、それがまぁ、禁断のうまさ!
酔って小腹がすいていたというのもあるが、そこに盛られていたキャベツのうまさに悶絶したのだった。
それ以来、「奇跡のキャベツ」と呼んでいつかまたあの味をここで食べてみたい、と夢見ていた。

しかし二日前、ウキウキしながら再びM嬢とここを訪れてみたところ、屋台も夫婦の姿もなかった。
途方に暮れていたら、M嬢がバンに乗って停まっていた二人の姿を道端で発見、思わず声を上げた。
ものすご~い偶然!まさに執念が呼び寄せた戸しか思えない。
聞くところによると、別の屋台がここで火事騒ぎを起こして以来この場所で商売をすることができなくなってしまい、今は別の路上で商売を始めたという。
ご主人のスティーブは、陽気な笑顔で「あさって出るから是非おいで」と住所を教えてくれた。
キャベツファンとして、これは行かねばなるまいて。


・・というわけで、「私たち、これから約束のキャベツ食べに行くの~♪」になったわけだ。


さて、そのキャベツ屋、じゃなくておいしいPoboy屋さんが新たに“開店”した場所は、フレンチメンから少し外れたしけたカラオケ屋の前。
私たちが駆け付けると、ふたりは相当ヒマそうにしていた。
やはり以前の場所に比べると商売もそうそう儲かっていないようだった。
それでも、私たちとの約束もあって、この日はここでこうして待っていてくれたという。なんといい人たちなんだ!


今日も仲良く共同作業開始


さぁ、にんにくバターオイル入りました。ファイヤー


でけたよ。


わくわくしながらアリゲーター・ソーセージとにんにくバターでいためた激ウマキャベツのPoboyを買い、外は暑いのでカラオケ屋に入っていただき。



これこれ、待ち焦がれた味。


このカラオケ屋、「ステージ」があって、客がここで歌を披露するオールドタイプなのだが、まぁなんというか、出てくる客全てがまぁヘタクソにもほどがあるっていうほどひどいのだ。
元の歌がなんだったかもわからない始末。それでも自信満々に歌い、他の客もやんやの喝采。


店内に入って聞きたくもないカラオケを聞きながらいただく。
なんなんだ、ここは!(笑)

そこへいらいらしたシェフ・スティーブが登場。いっぱつかましてくれるのか、と思ったら・・・



“Easy like Sunday Morning"を熱唱するスティーブ。
やっぱりバラードできたか。うまい下手は言わないことにしよう。十分楽しかったから。(爆)



・・世にも奇妙な数珠つなぎは、さらにつづく




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ニューオリンズ・行き当たりばったり数珠つなぎ①

2016-06-28 21:44:52 | アメリカ生活雑感
数珠つなぎその1

さて、翌日。
ディナーのゲストとして、ニューオリンズのスターたちが次々にステージに登場して度肝を抜かれる。
チケットを別々に買うだけでも大変なレベルの人たちがこうも次々に現れると、そわそわしてしまってかえっておちつかない。
私なんかは気が小さいというか、貧乏性というか、どちらもちゃんと味わいたいので飲み食いとエンタメは別々にしてほしい・・。
だって、天下のドクター・ジョン様を、飲み食いしながら観るというのは、とても失礼な気がするのだ。

ありがたいことに、ドクタージョンの他にも、John ClearyやKarmit Ruffins がおしげもなく私たち(コンベンション出席者)のために演奏をしてくれた。




終演後のドクター・ジョンと彼のバンドのトランペッター。
ドクター・ジョンがこんなににやにやしてるの、初めて見た。楽しかったのかな。



ふとみると、Karmitのバンドで弾いているのは日本人のピアニスト!?ちょうど演奏を終えたその彼が後ろを通ったので、隣のMさんが声をかけた。

「日本人の方ですか?」
「あ、そーですけど」(←もろ大阪弁)

Tsujiさん。ニューオリンズ在住6年目だそう。一流のミュージシャンのバンドで活躍しているとは素晴らしい。

「あの、ちょっと聞いていいですか?」と、彼が恐る恐る私たちに逆質問。

「今日のこれって、いったい何の会なんですか?」


爆笑。


Tsujiさん

ミュージシャンってきっと細かいことは知らないんだろうな。
今日は大きな仕事があるから何時にどこそこにいってこい、くらいのレベルで、これがどんな会合でどんな慣習なのか、MCするリーダーくらいしかわかってないのかもしれない。
だいたい“IPW”って名称も、関係者以外誰も知らない。知られないようにしているとしか思えないけど(笑)


せっかくお知り合いになれた彼に「ご自分のバンドでのライブはないんですか」尋ねたところ、あさって市内某所で演りますととある場所を教えてくれた。
Jazzのトリオだそうで、それはぜひ聞いてみたい。


数珠つなぎその2

そして、その当日。寝不足でぼろぼろになっていた体を引きずって、そのライブ会場へ向かう。
その道すがら、前から気になっていたDacature通りにある帽子屋さんに、ふらふらと入ってしまった。
どうしても帽子に弱い私なのだ。

その店の超巨大なマツコのような濃いメークのおねぇ(多分)が、私の好みに合わせて次々と素敵なボギーハットを持ってきてくれる。
絶対買わないつもりでいたのに、せめてもの思い出ににとお気に入りの帽子を一つ購入。(あまりに勧めるから←言い訳)
まだ時間があるし、腹ぺこだったのでそのおねえに
「このあたりでとびきりおいしいガンボが食べられるレストラン知らない?」
と聞いてみたところ、「そりゃぁ、“Coops Place”よ!」と紹介してくれた。
こういう情報はジモピーに尋ねるのが一番。


数珠つなぎその3

ところが、行ってみたらそのお店は思いがけず長蛇の列。実は超有名店だったのだ。
ひとりだし、さくっと食べて急げばまだライブには間に合う、そう思って列に並んだ。
私の前に並んでいたのは、さっきニューオリンズに着いたばかりという、オーストラリア(メルボルン)からの二組のご夫婦4人様。
その中のおひとり、プロのクラシック・ハープ奏者のジュリアンさんと話しこんでいるうちに彼らとすっかり意気投合してしまい、「よければ私たちと同じテーブルでいかが?」とお誘いをいただいた。

「うーん、これは長くなりそうだし困ったな・・」とは思ったものの、こんな素敵な出会いをお断りするのも気が引ける。
次の予定を彼らに告げて、それでよければ、と「同席させてもらうことにした。
この4人は、メルボルンから今日ニューオリンズ入りし、これからペンシルベニアやニューヨーク、ワシントンDCを巡る周流の旅に出るのだそうだ。
悠々自適のリタイア旅行。

「さっき着いたばかりで何も知らないの。ニューオリンズでお勧めの場所はないかしら?」と、彼女。
聞けばここには3泊4日の予定らしい。そこで、彼らが好きそうな情報(郊外のプランテーションハウス・トリップ、Jazzクラブ、レストラン、博物館、などなど)を手持ちの地図におとして細かに説明し、渡してあげたら大感謝された。
お礼のしるしにと、シーフード・ガンボやワインまでごちそうになってしまった。

さっきまで何も知らない者同士だったのに、こうやて同じテーブルでわいわい飲み食いしている不思議。
こういう光景はまず日本ではありえない。
黙って列に並んで、呼ばれ順にさっさと入っていく。その間は他人には目もくれず携帯に目を落とすだけ・・こんな風景だけだろう、きっと。

帰り際、「メルボルンに来ることがあったら絶対連絡してね。ぜひうちに泊まって頂戴。子供たちも既に成人して家を出て部屋は空っぽなの。きっとよ!」
そう言って、ジュリアンさんはぎゅっとハグしてくれた。


約束のライブの時間はもう終わろうとしていた・・・あーーー 



偶然隣り合わせたの同士、テーブルを同じくする。また楽しからずや。


とってもチャーミングなジュリアンさんと。
彼女は、大阪万博のときも演奏で日本を訪れているそう。「あなたは生まれてないから知らないと思うけど」って。いやいや、迷子札もらいましたから~(笑)

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第3の故郷、ニューオリンズ。

2016-06-27 21:16:01 | アメリカ生活雑感
ニューオリンズに来るのは、もう何回目になるだろう?
20代の後半の頃に初めて訪れて、それから毎年10年連続通い続けた。
皮肉なことに、会社を辞めてアメリカに来てからは、近くなった安心感からかパッタリと行かなくなり(その頃はベイエリアで学生生活をしていて忙しかったし、なにより贅沢などしていられなかった)、そして2005年、カトリーナ。

ようやく訪れたのは、カトリーナから10年たった2015年だった。
大切な心の故郷は、表面的には何もなかったかのように迎えてくれたのだが、この10年間で人生が一変してしまった人、この地を離れて行った人がどれほどいることだろう。

そんなことを考えながら、再びニューオリンズの地を踏んだ。

空港に着いたその瞬間から、じゅわーっと体から噴き出る汗。ものすごい湿気。
軽く35℃は越えていた。

ホテルにチェックインし、しばらくクールダウンしつつ仕事の続き(らしきもの)をしていたものの、やはり夕方には待ちきれなくなって外に飛び出した。

まずはこれを食わなきゃ、私の中でニューオリンズは始まらないのである。



生ガキ!! 秘伝のスパイシーソースとニューオリンズのAmberビールで。

さて、バーボンストリートを流すとしよう。
金曜日の夕方のバーボンは、やっぱりものすごい活気に満ち溢れていた。
ビールを片手に、ブルースやカントリー、ロックやJazzなどの音楽が入り乱れた通りをひとりでふらふら。
シカゴでは絶対に(ストリートフェスティバル以外)絶対にできない芸当だわ。

 











あんまり暑いので、ご機嫌なブルースを聞かせてくれていたこの店に入って一休み。




私がシカゴから来た、なにかシカゴブルースやって、と言うと
「シカゴかぁ。。。。」
と二人はしばし固まってしまった。え?そんなに難しいこと言ったっけ?(笑)
そのあと気を取り直して、マディー・ウォーターズとか、お決まりのところをやってくれた。


ほろ酔い気分で、次はJazzを聞きに、“Fritzel's”へ。
始めて入った店だったけど、実はかなりの有名店のようで11時ごろには店内はお客さんで満杯。
ファンキーなニューオリンズJazzが心地よい、昔の芝居小屋のような雰囲気漂う素敵な空間だった。


 






明日からのハードスケジュールにそなえて、最初の夜はバーボンを流しただけでおしまいにしといた。



■ 出会いが出会いを呼ぶ、ニューオリンズ・数珠つなぎ


去年、同じツアーでここを訪れた友人のジャーナリストから、取材先で知り合ったマルティグラインディアンのショーのプロデューサーの黒人男性、ハーブを紹介してもらったことがあった。
彼は夜な夜なフレンチメン(ニューオリンズで若者が集う繁華街)を徘徊しているジモピーで、不慣れな私たちを地元ガイドよろしくいろんなところに案内してくれた。

そういや今ごろ彼はどうしているのかなー、と思っていたある夜、また去年のように11時ごろ彼女とフレンチメンをふらついていたら、急に目の前にハーブが現れた。
なんか、待ってたんじゃないの?という、笑っちゃうぐらいのタイミング。

ハーブは、やぁやぁ、久しぶり~、ウェルカムバック、といいながら、いいところに連れて行ってあげよう、とさっさと歩き始めた。
どんどんどんどんはずれのほうに歩いて行く。

「ここはね、ジモピーしか知らないんだ」
そりゃぁそうでしょうよ。こんな住宅街、住んでる人しか来ないわなあ。
と、あるお店の前で立ち止まり、扉を開けた。
蛍光灯が煌々と光る、ただのワインショップだった。
店先にはなぜか、グランドピアノが置いてあった。
たまたま飲みに来ていた近所のおっさん、名前はエディー、が「やぁ、ようこそ。店の奥に案内してあげるよ」といって、店の奥に連れて行ってくれた。



そしてびっくり。
店の奥には、想像もしていなかったような素敵なバーがあるじゃないか
ソファーやテーブル、腰高のテーブルや椅子が並んだ、本当にちゃんとしたお店。
しかもバーテンダーのいるカウンターもある。
こんな場所、誰も知らないよ。というより、知られたくないのか?



エディーは「まぁ、ピザでも食べなさい」といって、そのあたりに置いてあった出前のピザを持ってきてくれた。

(ってか、あなた、誰?)

そのうち、日本人女子(おばさはん)二人をもてなしたことにでっかり調子に乗ってきたエディーは、お店のボトルを自由に使って“エディーズ・スペシャルカクテル”なるものをふるまってくれた。
ウォッカとレモンとシロップ?入り。これがまた、すっきりしてなかなかいけた。

そろそろ帰らないとあしたが・・・と、腰を上げ店を出た。
外は小雨模様。

ハーブはでっかい社用車(バン)に私たち二人をのせて、ホテルまで送ってくれるのかと思いきや・・・そのまま次なる場所へ強制連行。

もうやけくそだ。こんな経験もまぁないでしょうから。
そこは、DJがガンガン大音量で音楽をかけまくり、若者たちが踊り狂っているクラブだった。
寝不足の頭に割れそうな爆音が響く。
しばらくして、今度こそありがとーさん、といって退散。

・・するはずだった。

しかし、そのあとまた連れて行かれたのが、24時間営業しているPoboy(ホットドッグ)屋さんだ。
この界隈じゃめちゃくちゃ有名だそうで、夜中の2時半を回っているというのにレジ前には列ができている。
こんな時間に山盛りのホットドッグとコカコーラを呑んでいたら、そりゃぁ太るでしょうよ・・。



それでも真夜中の、しかも飲んだあとのジャンクフードはなぜか体が欲するのよね。
日本でいうラーメン、磯辺焼き、お好み焼きorたこ焼きのようなもの?

あーあ、食っちまったよー。でももう遅い。
すっかりニューオリンズの洗礼を浴びた、そんな夜。



(つづく)





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体力勝負の6月

2016-06-25 19:07:53 | アメリカ生活雑感
暑い。本当に毎日暑すぎる。
今年の6月は異常に暑い。
そんななか、屋外のイベントが本格的に始まり、汗だくでの取材に命がけで走り回る毎日。

先月末頃からなんだか虫刺されのようなものが顔にポツリとできたかと思うと、異常にかゆくなってそのあとは激痛。
夜はその影響か頭痛で眠れず3日間。完全な寝不足。
余りに調子が悪いので、思い切ってエマージェンシーケアのクリニックに駆け込んだところ、診断はなんと、

帯状疱疹・・・

そういえば、この眠れない頭痛は水ぼうそうに似ているよなぁ、と思っていた。
でも、発症から3日以上たっているので今更抗生物質を飲んでもまぁ、効かないでしょう、時間の経過を待つしかありませんね、と先生に言われ、仕方ないので家にあったタイラノールだけ飲んでしのいだ。

自腹で165ドルもかかっちゃったけど、とてもいいドクターだったし原因がはっきりしたからよかったとしよう。
でも、顔や目の周りに発疹があり、下手すると視力を失う可能性もあるので眼医者に行くように、と言われた・・・でもそんなお金も時間もありゃぁしない。
こういうとき、アメリカで保険なしで暮らしていることがとことん不安でいやになる。

ちょうど時を同じくして、ブルースフェスを見に日本からシカゴを訪れていた友人が我が家に宿泊する予定だったり、
阿波踊りの練習場所を探し回ったり、パフォーマンスのオーガナイズしなきゃいけなかったり、その合間に家の大掃除やなんやらで疲れとストレスが一気に噴出したのが原因だとか。
ちなみに英語で帯状疱疹は“シングルス”(Shingles)という。
って、はじめて知った単語(笑)



そんなこんなで、眉間の間にぽっつりと赤い発疹を残した不細工な顔のまま、3日間のブルースフェスティバル取材に突入。
最初の二日間は地獄の蒸し暑さ、最後の日だけは肌寒いような涼しい過ごしやすい一日になった。
いつもこんな温度差の激しい天気になる。雷雨がこなかったのだけが幸運。

今年のブルースフェスの最大のトピックは、最終日のオオトリ企画、「オーティス・ラッシュ・トリビュート」。
オープニング二ングに、そのオーティスご本人が登場したのが大きなサプライズだった。
ご本人を生で見ことがなかった私にとってはもちろん、会場を埋め尽くしたファンもつゆ知らず。
車椅子姿を見せたくないと、ご本人もご家族もこの日の登場を最後まで渋っていたと聞いたが、ファンの前に顔を見せてくれたそのことだけでもどれほど大きな意味があったことだろう、と思う。
実際、オーティスの顔色はとてもよく、ファンは安心した。
とても大切にケアされているんだな、と一目でわかった。ご家族(奥様)の努力のたまものだろう。
いつまでも長生きして、またいつかステージに立ってほしいと願うばかり。


シカゴ市長から、「2016年6月12日をオーティス・ラッシュの日と定める」という宣言が手渡された。


もうひとつのトピックは、この栄誉ある企画に二人の日本人ブルースマンが出演したこと。
この様子は記事にUPしたので、こちらからご覧ください。

完全燃焼第“33回 シカゴブルース・フェス”日本人ブルースマンたちがオーティス・ラッシュに捧げた、心のブルース。



Ariyo


Shun


Shoji


その他、今年はこんな人たちをいろいろ堪能しました。



故ジェームス・ブラウンのバンドのトロンボーン奏者でプロデューサーのフレッド・ウェズリー率いるThe New JB's


ジョン・プライマー





ニューオリンズから、ソウルの女王、アーマ・トーマス


急逝したオーティス・クレイのトリビュートバンド


地元シカゴからリル・エド&ザブルース・インペリアルズと、ブルースハープの第一人者、コーキー・シーゲル


ギターの名手、ビリー・フリン

 
エディー・”ザ・チーフ”・クリアウォーター


ロニー・アールの“浪花節”ギターがうなる


シカゴブルースの宝、ルリー・ベル


個人的には、この人の歌が一番! ネリー・”タイガー”・トラヴィス


ミシシッピ・デルタ出身のダイナマイト、ノラ・ジーン・ブルーソ


若手のブルース女王、シェミキア・コープランド


地元シカゴから人気急上昇の、トロンゾ・キャノン


中央は、今年88歳で現役バリバリのジミー・ジョンソン




ブルースフェスティバルが終わり、今度はばたばたとニューオリンズへと旅立つ。
昨年の4月以来約1年ぶりのニューオリンズ、今回は、あるコンベンションに参加するためだった。
一言で言えば、「旅行先としてのアメリカを知りつくし、プロモーションする」ためのイベント。
世界中から6000人もの人たちが集結し、昼間は大商談会、夜は各州主催のパーティーが毎夜のように行われた。
平均睡眠時間は約4~5時間。
でも、中身の濃い有意義な日々だった。

私のような個人ジャーナリストは、もちろん経費も自分持ち。
往復の航空費も、プラスの宿泊代も、飲み食い代も、市内の移動費も、全部自腹。
ただでさえ貧乏な暮らしが、いよいよ極貧になっていく・・・けれど、人間攻めるときは切り詰めてでも先行投資してでも攻めなきゃいけないことがある。
このコンベンションは、まさにそういうイベントだった。
ここで培った人脈、知識、体で感じて見聞きした(これが一番大事)全ての物事を、今度はこの残り半年で全て吐き出そう。

特に今回、事前の計画もなくその場で動き回り、行く先々で出合った人たちから得た情報で次の行先を決めて行動した。
まさに、ニューオリンズ数珠つなぎ行脚の日々だった。
これが、なんと恐ろしく楽しく、おいしい結果に結びついたことだろう!


この話はまた次回。。。






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グッチにならなかった男。

2016-06-08 00:54:23 | アメリカ生活雑感
先月末のこと。
友人が主催する写真展のオープニングに顔を出したとき、ある服飾デザイナーと知り合った。
彼が製作した作品を友人が着ているのを以前見て、ひそかに彼のデザインセンスの大ファンになっていたので、
「あなたの作ったあれ、最高に格好いいよね!私にも作って欲しいくらい」
と軽くお願いしたところ、じゃ、そうしよう、明日電話してね、とトントン拍子。

本当のプロフェッショナルは、いつもこんなふう。
絶対に変な躊躇をしないし、どんな相手であろうが自分のセンスを欲してくれる人に作品を捧げる用意ができている。

そして翌日、そのMさんから
「昨日会ったMだけど、どんなふうにするか打ち合わせをしようよ」と携帯に電話が入る。
(動きが早いなー・・・)

せっかく作ってもらうんなら、みんなが着ているのと同じじゃなくてオリジナリティーが感じられるものがいい、それには「和」のテイストを盛り込みたいんだけどどう思う?
そう私が言うと、Mさんは大乗り気で
「ああ、いいねぇ。ボクも前からそういうのがやりたかったんだよ。今度打ち合わせのとき何か素材もってきてくれるかな」

こうして、知り合ってちょうど1週間後、私は彼のギャラリーにいた。

Mさんは私が持っていったちょっとした和ものの巾着やろうけつ染め、絞りの素材を見るや目を爛々と輝かせ、
「いいねー、これ最高だね。絞り(Tie Dye)だね」
“絞り”を知っていることにこちらがまずびっくり。
僕は世界中のファブリックをいつも研究してるからね。
そのあとは、もう止まらないといった様子で次々とスケッチ画を描き始めた。
何かにインスパイアされた瞬間に、この人の頭の中は新しいデザインで洪水状態になっていくようだ。

こういうクリエイティブなエネルギーを持った人と話しているときが一番楽しい。
新たなものが世の中に作り出されていく瞬間に立ち会うほど、ワクワクするものはない。
この人はいったいどんな人なんだろう?
今まで一体どこの誰かも知らずにいたけれど、ここでようやく彼自身のことを聞くことができた。


シカゴ生まれ。
小さい頃から服飾が好きで、自分にはデザインの才がありその道に進むことをすでに知っていた。
ロスアンジェルスのデザイン学校に進み、そこで日本人の先生と運命的な出逢いをする。
その先生は「裁縫こそすべての基礎」とMさんに裁縫のイロハを叩き込んでくれた恩師。その恩師のおかげで今の自分がいるんだとMさんは言う。
デザイン学校を卒業後いろんな国を旅し、その国々の伝統的な素材やパターン、デザインを旅先で学んだ。
しばらく暮らしたサンフランシスコでは、ヒッピーカルチャーの真っ只中に身を投じた。
その後、ビバリーヒルズにある友人の工房の片隅を借りて、自分のデザインの洋服を作り始めた。
ある日、ウィンドウに自分が作った洋服を飾っていたところ、ある女性が立ち止まって「これは誰が作ったの?」と問い合わせてきた。

その人は、ダイアナ・ロスだった。

彼女が着たことにより、Mさんのドレスは瞬く間に世間に知れ渡ることになった。
しかし、Mさんは自分の名前を前面に押し出すことを決してしなかった。
作品そのものに価値を感じてくれればそれだけでよかった。

「僕はグッチやベルサーチにはならないんだ。それは誰が作ったドレスなの?と聞かれて「誰ソレ?」って言われるくらいがいいのさ」

その後、チャカ・カーンやマイケル・ジャクソンなど、名だたる大スターがMさんのデザインした服を愛し、仕事は一気に忙しくなった。
工房もフル回転となり、当然人も抱え、お金も十分に入った。

しかし、Mさんはそのことに苦痛を感じ始めた。
あくまで一人のアーティストでありたかったのだ。
自分で裁断し、裁縫し、一人の人のために丹精込めて一つの作品を仕上げる、そのスタイルに回帰するために工場での量産をあるとき一切やめた。
一週間に2着作れるか作れないか。
それでも、顧客一人一人の顔を見て、実際に言葉を交わしながらその人に合ったモノを作り上げていく、その喜びを失いたくなかったのだと。

「(1週間前)あの個展にも行こうかどうか迷っていたんだ。でも行ったおかげで今こうして君と向かい合って新しい製作のアイでデアを語り合っている。改めて外に出かけて行くことの大切さを学んだよ」
Mさんは、こう言ってうれしそうに笑った。

どこの誰とも知らない者同士、インスパイアされながら素敵なものを生み出していく。
その人はひょっとしてグッチやベルサーチやシャネルと肩を並べるくらいの人なのかもしれないけれど、私は調べないしそんなことはどうでもいい。
彼も私を詮索しない。
アーティスティックなアイデアでつながれた二人がわくわくと何かを作り出す。それで十分なのだ。
私はアメリカのこんなところが好きだ。

店に入るとき、彼の作った衣装をとりに来た女性がすれ違いざま私に声をかけてくれた。

「聞いてるわよっ!ジャパニーズテイストの新作を作るんですって?きっと素敵なものになること間違いなしね。待ちきれないわ」
その人は、ミュージシャンのAnne Harrisだった。










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