Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

ゴールデンじゃないゴールデンウィーク2020

2020-04-26 23:44:44 | ニッポン生活編
もともとフリーランスにはゴールデンウィークなんてものはない。
普段からテレワーク、自宅仕事だから、家に缶詰になることは苦痛でもなんでもない。
だから、世間でいう「自粛疲れ」というものの実感がわかない。
 
それにここは徳島ど田舎。
東京や大阪ほど逼迫してはおらず(これがいけないのだが)、公共の観光施設が皆クローズになったこと、みんながマスクをつけていること、ドラッグストアから”除菌”と名のついたものが全て消えたこと以外はあとは平常通り。
というわけで、平常心をもって平常通りの毎日を送っている。
そんな、他愛もない田舎のGW日記。
 
4月25日 土曜日 プレGW・Day1
ぽかぽか陽気にさそわれて、庭の手入れなど。
幼なじみの近所のさよちゃんと、今は空き家になっているお婆ちゃんの家の裏庭に群生している蕗を収穫することにし、いざ、鎌を片手にやぶの中へ。
長い間放っておかれた手つかずの自然が広がっていて、家の目の前でちょっとした山菜狩り気分を味わう。
 
 
今日は軽く塩ゆでしてそのまま一晩水につけ、灰汁をぬいて明日調理しようっと!
 
小さい頃はよくこうやって二人で近所の知らない場所に出かけて行っては悪さ探検していたなぁ。
「40年以上たってもやっていることは全く同じやん」
 
4月26日 日曜日 プレGW・Day2
ぽかぽか陽気のなか、近所の公園にゴローのお散歩へ。
行ってびっくり!結構人が遊んでるではないか。
ドッジボールをする高校生たち。芝生に並んでお弁当を食べている主婦友・・
それでもみんなマスク姿で、知らない同志あまり近づかないような微妙な距離感。
こんなに平和でいいのか!?
 
午後からや~っと、出しっぱなしにしていた(約50年ぶりに飾った)お雛様を片付ける作業。
こんな時代物の古式ゆかしいお雛様、いまどき手に入らないだろう。
よく見ると、母に面影が似ている。
来年も、再来年も、私が生きている限り毎年飾ってあげるからね!
 
 
さて、今晩は昨日収穫した蕗をさっそくいただくことに。
せっかくだから、普段あまり食べない方法を、ということでパスタに。
蕗のペペロンチーノパスタ。ベーコンとシイタケをたっぷり。
 
 
もうひとつは、定番の筍との炊き合わせ。
 
筍も先週いただいたばかりの新鮮なもの。旬のものを食べると体が途端に元気になる。
スーパーになんか1週間行かなくても、なんだかんだと食事に困らないのが田舎のいいところかもしれない。
 
4月27日 月曜日 プレGW・Day3
平日だけどすでに休日気分。
おまけに天気もいいので布団を干すのが楽しみなこのごろ。
 
ゴローは縁側が気持ち良すぎて、リードもつけずに日向ぼっこ。
 
 
近所のさよちゃんが「いたどり」を炊いてもってきてくれた。
いたどり(山菜)は、高知の方でよく食されるそうだが徳島の人はあまり食べないのだとか。
そういえば私もあまり食べた覚えがない。
山椒がピリッと効いて、ビールの友に最高! 
 
4月28日 月曜日 プレGW・Day4
義太夫のお稽古。
コロナの影響で、今日をもって対面のお稽古も当分お休み。
これはまったくもって仕方のないこと。
十分気を付けているとはいえ、ウィルスをどこでどう拾ってしまっているかわからない身。
しかも、毎日多数のお弟子さんと声を張り上げてお稽古しなきゃならないお師匠の健康も考えないといけない。
このお休みを有意義に使うことを、前向きに考えよう。
 
雑木林のように荒れ果てていた実家の庭が、1か月のリフォームできれいに生まれ変わった。
母が大切にしていた草花も、放ったらかしにされてとぐろを巻いていた藤の木も、すっかり栄養を取り戻して再び同じ土に戻ってきた。
母もさぞかし喜んでいることだろう。
 
 
 
藤の新芽が。来年にはしだれの花が咲くかな。
何があっても木々は芽ぶき、花は咲く。
 
 
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人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること。

2020-04-13 18:09:59 | ニッポン生活編
東京五輪の「オリンピック・マーチ」、高等野球大会歌「栄冠は君に輝く」、はたまた阪神タイガース応援歌「六甲おろし」などの数々の名曲を世に送り込んだ昭和の作曲家、古関 裕而( ゆうじ)を主人公のモデルにした朝ドラの『エール』に、どっぷりはまっている。
 
何をやっても人より鈍く、あがり症とどもりのせいで学校ではいじめられキャラだった少年時代。
そんな彼の音楽の才能をいち早く見抜いたのが音楽担当の藤堂先生だった。先生は彼にこんなエールを送る。
 
「人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること、それがお前の得意なものだ。それが見つかれば、しがみつけ。必ず道は開く」
 
なんと簡潔にして心に響く言葉だろう。
この言葉に勇気をもらい、彼はのちの大作曲家になっていく。
子どもの頃に大人からかけてもらった言葉の影響は大きい。
「ただひとつ、これで生きていく」と言えるものを持った人は、少なからず”運命の出会い”を経験しているにちがいない。
一本の道で生きている人たちを見るとき、多趣味なだけで何においても一流になれなかった器用貧乏の私は、憧憬とも嫉妬ともコンプレックスとも、なんとも表現しがたい気持ちにさいなまれてしまう。今もそうだ。
 
でも、この年齢になって「死ぬまでやりたい」と思うものに昨年ふとある瞬間に出会ってしまった。それが「浄瑠璃義太夫」だった。
これまでの人生、いろんな芸事をやってきた。どれもみな好きだったのだが、全てはここに終結するためのものだったのではないかとさえ思う。
なんといっても「終わりのない奥深さ」にすっかり魅せられている。
 
義太夫を教えていただいている師匠が、以前こんなことをおっしゃっていたのが忘れられない。
 
「私、小さいときから浄瑠璃が面白うてたまらんかったから、逆にこんな面白いものに興味がない人の気持ちがわからんのよ~」
 
人形浄瑠璃(文楽)ははっきり言ってあまりポピュラーな芸能ではない。
これを世間にどうやって知ってもらうか、興味を持ってもらえるかを日々考えている私たちとは真逆に、彼女からするとなぜ興味を持たないのかがわからないのだという。
「子どものころから面白くてのめりこんで、一度も嫌いになったことがないと言い切れる、その道で生きている人」の一本筋の通った素の言葉に、ガツンと食らった気がした。
 
こう言い切れる人はしかし、他の人が想像できないような血のにじむ努力をしていることも忘れてはならない。
両親が浄瑠璃義太夫奏者という”根っからの義太夫”のお師匠も、子供のころは将来プロになろうとはよもや思っていなかったそうだ。
10代の頃から頻繁に舞台に出演していたし、プロになろうがなるまいが生活自体はさほど変わらないと思っていたからだ。
普通に結婚をして3児をもうけ、主婦と義太夫を両立していたノンプロ時代。20代後半になった頃、浄瑠璃の三味線弾きだった母の紹介で淡路の義太夫節人間国宝、鶴澤友路師匠(2016年103歳で没)と出会い、弟子入りをすすめられそこから人生が変わっていく。
 
毎朝、夫と子供たちを家から送り出して徳島から淡路まで車を走らせ稽古に通う壮絶な稽古の日々が始まった。
友路師匠は、練習をしていないとわかるとすぐに「いに!(帰りなさい)」と追い返してしまう稽古の鬼。
師匠の付き人として身の回りの支度、洗濯、掃除をしてからみっちりと厳しい稽古。夕方急いで徳島に帰って家族の夕飯支度と片づけをすませ、夜中すぎまで翌日の稽古をし、ほとんど眠らずにまた朝の弁当作り・・・体力の限界のような日々が何年も続いた。
 
そんな彼女を、家族は全力で応援した。
幼い子供3人をかかえる普通のサラリーマン家庭にとって、稽古代など出費は負担が大きく、両親が修行の間お金の援助を申し出てくれたのだという。
「嫁いだ後も親に援助を受けることは後ろめたいけど、今は甘えよう。そして一人前になったら必ず恩返しをしよう」と歯を食いしばって厳しい修行の日々を乗り切った。
 
その後部屋持ちの師匠として独立し、弟子も増えて今では徳島で一番の人数を抱える義太夫部屋を束ねる存在となった。
一昨年、国の重要無形文化財「義太夫節保持者」に認定され、より一層後継者の育成・指導に力を注ぐ。
 
 
かの友路師匠は、80歳を過ぎて「三味線が楽しくなってきた」と言い、100歳を過ぎて新しい演目にも挑戦をしていた方だった。
その教えを受けた我が師匠の筋の通り方も半端じゃない。
だからこそ、彼女の芸に妥協のない姿は見る人に感動を与えるのだと思う。
 
フリーランスをいいことに、起きるも寝るもフリーな生活をしているしまりのない己が人生を恥じ入るばかり。
義太夫を始めて1年。思いもかけず8回もの舞台を踏ませていただく機会に恵まれた。
これが私の「人よりほんの少し努力するのがつらくない」道だとすれば、しがみついていきたい。
なにより、義太夫節の世界はまだ先が長い。
目標は、80歳で「近ごろ義太夫節が面白くなってきた」と言うことだ。
 
 
 
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今、そこにある死。

2020-04-08 23:21:15 | ニッポン生活編
テレビも新聞も、人の話題も全てコロナで、気が滅入る毎日。
震災のあと、何度も映像がテレビで流れてプチ鬱状態になったのと少し似ている。
だからもう、つまらない映像を垂れ流しにして恐怖心をあおるテレビは一切見ないようにしている。でも、そう心に決めていても志村けんさんの追悼番組は見てしまった。
 
私はあまり志村けんさんのこと、彼のコントのキャラやギャグを知らない。
というのも、我が家は「8時だよ!全員集合」禁止だったからだ。単純に、母親があの番組を見せたくなかったのだろう、「4チャンネルは映らないから」といわれて(民放は映らないようにしていた)あきらめざるを得なかった。
中学でみんなが♪東村山~♪と踊っていても、なんのことだかようわからんまま。
 
でも、今こうして彼を失っていろいろな人のコメントを聞いていると、日本はとても大切な人を失ったのかもしれないと思い始めた。
追悼番組で流れる往年のドリフのコントに大笑いし、昔のお笑いって面白いなと思った。『モンティ・パイソン』や『サタデーナイト・ライブ』もそうだけれど、笑いとはどうあるべきか、を計算しつくしていい大人たちが一生懸命知恵を絞ってスキットを考えている、そんな時代だった。
日本語がわからないPちゃんでさえ、私が笑っているのを見て「この時代のコントは世界共通のクオリティだね」と言っていた。
「志村どうぶつえん」で見せる優しいまなざし。動物からも全力で愛される人柄は、稀有な存在だった。
おそらく、本人はまだ自分がこの世にいなくなったことに気づいていないのだろう。
今頃彼の魂はどこをさまよっているのだろう。
 
悪人たちは今日も平気で国民にうそをつき、一般人の善人は疫病でコロリと死んでいく。
嗚呼、なんという世の中だ。
 
一つ言えることは、明日は我が身であるということ。
1週間先には疫病で意識がないかもしれない。
明日、事故で死んでしまうかもしれない。
一寸先はあの世。生きている限り死とはいつも隣り合わせだ。
だから、今やりたいことはこの瞬間にしないとな。
まぁまぁやりたいことはやった、生ききった、と思いたい。
自分の中だけでも、未練を残さずに生ききりたい。
 
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