Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

ラブコールがかなった

2005-06-30 23:45:18 | アメリカ生活雑感
それは、あるラブ・レターから始まった。
ラブ・コールを送ったのは私。相手は「女性」。

9月に出版予定の「バークレー日記」(仮題)がいよいよ本格的に進み始めたのを機に、いよいよ本の顔である装丁について考え始めた。ところが、共同で作業を進めている出版社にはどうしても自分のイメージにぴったりとくるイラストタッチを書いてくれるイラストレーターがいないということがわかり、「それならば、私のほうでやらせてください」と一切を任せてもらうことで合意した。
もちろん、その分コストはあがるけれど致し方ない。
本の印象は、8割がその顔で決まるから、出版社任せのいいかげんな装丁で妥協するわけにはいかない。

そんなある日。
ある雑誌の表紙を見て、ピンときた。このイラストタッチこそが私の本のイメージにぴったりだ、と思った。
なんとかこの人にたのみたい。つてをたどってそのイラストレーターのHPにやっとたどり着いた。
しかし!
「昨年からパリに拠点を移したため、お仕事はお休みしております」という非情の文字。でも、どうしてもあきらめきれない。気持ちだけでも伝えたい。
そこでふと考えた。
パリに拠点を移す、仕事をストップする・・・これはひょっとすると私の3年前と同じような覚悟あってのことではないか、と。

そこでたまらずラブレターを書いた。
「(詳しい事情はわかりませんが)あなたがパリに行かれた、その事実だけでも、なんだか自分がこの本を出す気持ちを同じくできるような気がしたのです。どうかお力をお貸しください」

2日後に返事が来た。
「(おそらく)似たような想いで日本を飛び出し、海外で貴重な時間を過ごされた方とこのような形で繋がることが出来、大変嬉しく鳥肌立ちながらメールを読ませていただきました。装丁の件、喜んでご依頼を受けさせていただきたいと思っております。」

心が通じたことがただうれしくってたまらなかった。
会ったこともしゃべったこともない人に心の底から送ったラブコールに、まっすぐに返してくれたという、この幸せ。

あきらめないでよかった。
念ずれば通ず。ああ、本当にうれしかった。
大げさだけど、これでこの本は90%成功したような気がする。






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暑い!

2005-06-25 16:18:35 | アメリカ生活雑感
空気カラカラで肌寒いバークレーに慣れきっていたせいか、日本のこのムシ暑さにはまったくもって耐えられないこのごろ。
電車でネクタイを締めているサラリーマンを見るだけで、汗が噴出しそうになる。
こういうときこそ栄養をとって、かえって大汗をかくべかと思い、約3週間ぶりに剣道の稽古に行くことに。
行く間際まで、あまりのだるさに「やっぱやめよっかな」と何度も悪魔がささやいたけれど思い切って家を出た。
明日は大田区の大会があるので、今日はそれにむけての試合稽古(だから、ちょっとラク)だった。
ちびっ子の試合をみていて感じるのは、土地柄(田園調布などのいわゆる高級住宅街)のせいか、“お育ちのよさ”が出ているなぁ、ということ。むき出しの闘争心のようなものがない。負けてもケロリとしているし、打たれてもやり返そうなどという気配すらない。
もちろん試合に勝つためにやっているわけではないにせよ、もうちょっと、あふれるファイトがほしい!とおばさんはついついよその子を注意してしまうのだった。
私は明日の試合には出ないけれど、試合稽古の相手をした。
部内練習とはいえ、やはり試合となるとどこかでモードがカチッと音を立てて切り替わり思わず本気モードに。
終わった後「バリバリで高校生みたいですね」といわれ、しょんぼり。(ほめてるつもりかもしれないけど、これって、実は一番気にしていることなんだよね、実は)



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「ベアテの贈りもの」

2005-06-24 16:38:35 | movie


60年前、日本国憲法制定にあたって「男女平等」を書いたアメリカ人女性がいる。
現在81才のベアテ・シロタ・ゴードン。ベアテはそのとき、まだ22歳という若さだった。
名前すら知らなかった彼女の功績をつづったドキュメンタリー「ベアテの贈り物」(岩波ホールで7月9日まで上映)を見た。

 ベアテの父、レオ・シロタは1885年ロシアのキエフ生まれのピアニスト。9歳から演奏旅行を始め、20世紀の初頭のウィーンに出て華々しく活躍、更にヨーロッパ全土で演奏活動を行った。極東への演奏旅行中、ハルビンで出会った山田耕筰に誘われて日本まで足を延ばし熱狂的に迎えられたレオは、山田耕筰の強い要請で再度来日し東京音楽学校(現・東京芸大)の教授としてピアニストの育成と演奏活動で、第二次世界大戦後まで17年間滞在した。
 1923年にウィーンで生まれたベアテは、5歳で両親と来日、日本を愛した両親のもとで伸び伸びと育った。しかし、第二次世界大戦が勃発、時代は急速に悪化し、ユダヤ人だったシロタ一家にも暗い影が迫ってきた。1939年ベアテはアメリカに留学したが、両親は大学への義務感と弟子たちへの愛情から日本に残った。そして日米が開戦、シロタ一家は日米に引き裂かれる。
 終戦後、ベアテは両親の安否を確かめるため、軍属の資格を得て1945年暮れに焦土と化した東京に降り立ち、両親と再会を果たした。日本語だけでなく、6カ国語に通じていたベアテは、日本国憲法の草案作りの委員に起用され、女性問題を担当した。戦前から日本女性の地位の低さを知っていた彼女は、草案に女性の人権の確立を盛り込んだ。条文の多くはGHQの委員会で削除されたが、今の24条と14条が残った。男女平等の条項に対する日本側の抵抗は強かったが、幸い日本通のベアテへの心証が良かった為、彼女の草案だと聞いた日本側の態度が軟化し、通過した。(物語より抜粋)

 高齢の今なお、輝くように美しいベアテのなめらかな日本語での講演の様子と、彼女が「作った」男女平等の条項に触発され、戦後の目覚しい女性の進出を支えてきた多くの先駆者たちの活躍ぶりがオムニバスで紹介されていくこのドキュメンタリーは、4月から3ヶ月間というロングラン上映をされている。しかも今日の映画館は満員だったことからも、いかに世の中の関心が高いかを物語っていた。
アメリカにいるころの私は、ちょうど戦争が始まったこともあって「アメリカはよその国に余計なちょっかいを出すな」と感情的になっていた。国をめちゃめちゃにしておいて、「民主化の手伝い」などというキレイごと言ってんじゃないよ、と憤っていた。
けれど、ベアテが戦い抜いて通したこの憲法24条、14条のおかげでその後の女性の地位がどれだけ向上したかは言うまでもない。若くしてこの大役を任された彼女と、彼女の日本への愛情が今の日本を作ったといっても過言ではないだろう。

ベアテは講演でいう。
「今の日本の女性は素晴らしいです。どうかこの憲法を一層生活の中に活かし、今度は世界の女性たちのために働いてください。」と。

これは、すべての日本人に見てほしい映画だ。





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“HATTARI”

2005-06-23 09:06:54 | アメリカ生活雑感
「自信」というものは、わあきあがってきたかと思うとそのそばからガラガラと崩れ去ってしまうものである。
だいたい、人間の毎日の生活ってものはその繰り返し。それでも何気ない顔をして社会生活を送っていかねばならぬ。同じ電車を待っているあの人もこの人も、スーパーでレジ待ちをしているおばさんたちも、きっと毎日この繰り返しなんだろう。みんなどうやって日々の葛藤をget over(乗り越えて)いるんだろう、そう思ってみるととてもけなげに見えてくる。
ふと自分を振り返ってみると、私の場合はある“キーワード”に助けられてここまできたかな、と思う。
それは「はったり」。
大事な試合や、試験や、プレゼンやコンサート・・・たいへんなプレッシャーや緊張を強いられる局面は今までの人生で山ほどあったけれど、そのたびに最後は「死ぬわけじゃなし」と言い聞かせて「まずは体力。体調を整えてあとは自分に任せるしかない。それ以上望んでもムリ」と開き直ってやってきた。
“はったり”だけじゃまともに生きてはいけないけれど、はったりなくしてもまた、生きていけない。
どうしてこんなことを考えるかというと、私の対極をいく人に出会ったからだ。
そう、Pちゃんの人生には“はったり”というものがない。何が起こるかというと、いつも緊張して(テンパって)いるのだ。
当然本人もつらいし、見ているこっちのほうも胃が痛くなってくる。
どうにかほぐしてあげたいと「私なんかねぇ、アンタ」と自分のはったり人生を笑い話にして聞かせようとしたけれど、「はったりは自信があるからできること。自分にはその前提条件である自信すらない」と切り返され、二の句が告げなくなった。

自信ってものは幼いころに親にはじめてほめられたところから始まると思う。
その人生初めての小さな「やった!」が積み重なって、つまづきを恐れない強い心になっていくのかも。最近仕事柄、教育やら子育てやらのことを考える機会が多いせいか、ついついこんな二人の性格の違いも幼いころにまでさかのぼって考えてしまう。
40年も生きてきて、小さいころの「やった!」に思いをはせるなんて、やはり教育とは恐ろしい。

ところで、はったりって英語でなんていうんだろう。
「MOTTAINAI」につづくいい言葉だと思うんだけど。






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いきなり現実。

2005-06-21 23:45:57 | アメリカ生活雑感
6月19日。ついに3週間に及ぶ夢のようなBerkeley滞在を終えて、あっという間に気がつきゃ東京。
出かけたときの肌寒さはもうなく、すっかり蒸し蒸しとした夏がそこにはあった。
さぁ、そして仕事は容赦なく待っている。
そう、働くってことはすばらしいことだと今は心から思える。
アメリカで友人たちと会い、自分の仕事について自分の言葉で語れるという幸せをつくづくと感じた。
そんなかけがえのない人たちからパワーとヒントをたくさんもらえた。

がんばろ!

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最後の週末は。

2005-06-20 21:32:05 | アメリカ生活雑感
6月18日(Sat)

朝からA’s(オークランド・アスレチックス)の試合を見に行く。
せっかくなのでサンミとふたりの息子たちも誘って、5人で一緒にでかけた。
対戦相手はフィラデルフィア・フィリーズ。ん?よー知らんぞそんなチーム。
でもとにかく今日の目的はメジャーリーグを味わう、あわよくば先着10000名にもらえるA'sキャップをゲットするということ。
なってったってPちゃんは野球のことをまったく知らないヨーロピアンでアメリカで野球を見るというのが積年の夢だったらしく、もうひとりで大はしゃぎ。
結局2対1という貧打戦でA'sが勝ち。わずか2時間半という即効ゲームだった。



観客の入りはいまひとつ。でもやっぱりアメリカ。
いつものように駐車場では朝からバーベキューを楽しむ人たちであふれ、あちこちビールの空き瓶の山。
これってどう考えても飲酒運転ってことでしょ?



球場内部のBar。野球場に来てテレビを見てる人たちっていったい・・・?



サンミたちと(左)    「これぞアメリカ」とはしゃぎっぱなしのPちゃん(右)



最後の夜はスシ・カルで最後のディナー。
この日は私の「お帰りなさい会(?)」を一席設けてくれるというので、たまには“お客”としていくことにしたのだ。
閉店間近、いつもの面々が集まってきていつものようにワインや焼酎や日本酒を片手におしゃべりが始まる。
残念なことに誰もギターを持ってきていなかったのでいつものように歌はなかったけれど、マスターの昔の写真(20数年前のヒッピー時代)をみながらの懐かしい話に花が咲く。
その身ひとつでアメリカにやってきて「なんとかなるもんですよ」と言える、その力の抜け方とやわらかさがとてもうらやましかった。




いつもこんな感じで飲んでます。



6月17日(Fri)

Dedeのお宅にディナーのおよばれ。
クラスメートだったモニカ(スペイン)の元カレのジョンとも連絡が取れて約1年ぶりの再会を喜び合う。Dedeの友人のマルグリー(オランダ)、Pちゃんもやってきて5人でDedeお手製のディナーを堪能。
やっぱり、この話題豊富な大人のメンバーは落ち着くわぁ。



Dedeはいつもきちんとメニューを考えもてなしてくれる。今夜のディナーはサーモンのグリル。
しゃべりっぱなしの人たちの話を聞くだけで、かなり疲れちゃった。




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師弟再会

2005-06-17 08:03:02 | アメリカ生活雑感
6月15日(Wed)

約1年ちょっとの間お世話になったAJOB(バークレーの小さな語学学校)で、私に英語を徹底的にたたきこんでくれた恩師、Azrael(アズリエル)に再会。
クラスメートだったコニー(香港)にも連絡が取れて、サンフランシスコの“House Of Nang King(南京飯店)”という中華レストランでランチ。
この店はベイエリアでいつもBest Chinese Restaurantに選ばれる有名なお店。値段も手ごろでとてもおいしかった。

彼は来週から英語の先生の職をみつけて、なんとひとりで台湾に行くことになったらしい。聞くところによるとあんなに大好きだった奥さんと別れ、傷心のあまり国を出る決意をしたという。
奥さんはベトナム系チャイニーズで、幼いころ両親とともに亡命してきたという過去を持つ。
「別れた理由は?」と聞くと「彼女が経済的な安定を今すぐ求めたこと」。
動乱の中で安寧を求めてアメリカに渡り、厳しい環境下で懸命に自分を育ててくれた家族を少しでも早く安心させてあげたいという責任感からくる焦りが、彼女の中に日ごとに膨らんでいったのだろう。
アメリカ人と恋愛して結婚した彼女を、家族や親戚は激しく非難したという話を思い出した。アズリエルはAJOBのほかにも小学校で教師をしていたので、夫婦は決して経済的に苦しかったわけではないにせよ、彼女は次第に「それ以上」を求め始めたのだろう。
彼はとてもリベラルで頭のいい人。それゆえに自分の道を「教育者」として追求しはじめ、職を辞めてまで学校に戻って勉強する道を選んだ。その道が皮肉にも彼女の望む方向(夢)ではなかった。
どちらの気持ちもわかるだけになんだかやりきれない。
この国ではお金を持っていないと本当に惨めだ。
それが「カネさえあれば勝者」という価値観を生んでいるのかもしれないとまざまざと思い知った。

あんなに自信にあふれて強気だったアズリエルが「今はとにかく遠いところでひとりになりたいよ」とさびしげに言うので、「大丈夫。あなたはまだ若いんだし、これからいいことがいっぱいあるよ。台湾でがんばってきてね」とおばはん二人であげますのだった。



1年間の空間を埋めるように、3人で怒涛のようにしゃべり続け、気がついたら4時間近くも経っていた。



彼は8月の原爆記念日に、積年の夢だった広島をたずねるつもりだという。
ちょうど彼へのおみやげにと『父と暮らせば(“The Face Of JIZO”)』の英訳本をもっていったのでこれはタイムリーだった。
彼の幅広い知識と、特に映画における造詣の深さはきっとこれから、私の助けになると思う。
「これからもずっと連絡取り合って利用しあおうね」と、近い再会を約束。

がんばれ!!

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Last Week

2005-06-17 04:28:37 | アメリカ生活雑感
6月14日(Tue)

いよいよ最終Weekに突入。早いなぁ。
今日はガリーナに誘われて、現Anneクラスによる昼食会に参加することに。
Tegraph Ave.のエチオピア料理レストラン“Addi's”で生まれて始めてエチピア料理を堪能。エチオピアからきたクラスメートに食べ方を教えてもらった。



ホットケーキのようなパンをひと口大にちぎって、お肉や野菜などいろんな料理をくるんで食べます。



これがエチオピアのラガービール。すっきりしてとってもおいしかった。


*最近のひそかな楽しみ



図書館からいろんなCDを借りてきてはコンピュータにせっせとコピーしています。
今日借りたのはグレンミラーオーケストラとJazz関連3枚。
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ヘイト・アシュベリーFestival

2005-06-14 06:40:57 | アメリカ生活雑感
6月12日(Sun)

これ以上の晴天はないというお天気に誘われて、オークランドからフェリーに乗ってサンフランシスコに行ってみる。午後のJack London Squareではオーガニックの市がたっていて、観光客や地元の人たちでにぎわっていた。

 風船おばさんに夢中の子どもたち 

 
ベイ・ブリッジとゴールデン・ゲート・ブリッジが重なって見える最高のポイント。片道$5.50、20分ほどの船の旅。



ヒッピー発祥の地、ヘイト・アシュベリーでのストリートフェスティバル。前が見えないくらいの人・人・人・・・。レゲエのライブに思わずオカマも踊り出す。キンパツお姉さんの刺青は「涅槃」。

世界中の旅人に有名なB&Bは超サイケ。

おまわりさんとこっそりツーショット。

バスの中でかなり疲れた人発見。
Tシャツをちゃんと着ないのがどうやら若者のはやりらしい。


一日の終わりはまたまたイタリア(タウン)。そしてピアノバーでマティーニを一杯。
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個展をみにいく

2005-06-12 08:02:52 | アメリカ生活雑感
6月11日(Sat)

来月初旬にDede友達の弁護士さんジョンが日本に旅行に行くので、いろいろ役立つ情報を教えてほしいという。
お茶を飲みながら約1.5時間、地図を広げていろいろとおしゃべりして来月また東京で会う約束。




6th streetの古い倉庫を改造したアートギャラリーで、Dedeの幼ななじみのダイアンが個展ブースを出しているので見に行く。



彼女とも約1年ぶりの再会。ご主人のマイケルさんと一緒に日本に7年間滞在したときに習得したカリグラフィー(習字)と、独特の抽象画アートを展示していた。
絶えず何か新しいものに果敢にチャレンジしようとする彼女のアグレッシブさには圧倒される。
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