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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

唯今読書中

2008-10-17 11:06:28 | 書籍・読書

江戸の遺伝子 (PHP文庫)


【本の内容】
 世にも不思議な江戸時代、なぜ二五〇年も平和が続いたのか。徳川宗家第十八代当主が語る江戸の真の姿とは。

【目次】
 第1章 江戸時代とは何だったのか
 第2章 江戸時代を生んだもの
 第3章 家康公の時代
 第4章 最初の百年でつくられた江戸時代のかたち
 第5章 華やぐ江戸の文化
 第6章 日本の宗教と心
 第7章 世界の中の日本と江戸の遺伝子

【著者情報】
徳川恒孝(トクガワツネナリ)
1940年生まれ。徳川宗家第十八代当主(1963年より)。学習院大学政経学部政治学科卒業。日本郵船副社長を経て現在顧問。財団法人徳川記念財団理事長。社団法人横浜港振興協会会長。WWF世界自然保護基金ジャパン常任理事。財団法人東京慈恵会会長。財団法人斯文会名誉会長。夫人は細川護貞侯外孫。
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ネタ切れ

2008-10-16 19:21:16 | 徒然
当サイトでは熊本県立図書館が所蔵する、以下の史料の目録をご紹介している。
   x3-1 盤桓随筆 巻1~巻43                    
    x3-2 吹奇与勢
    x3-3 雑撰録  
    x3-4 上妻文庫 (秉燭雑録 1~437)

(3-1)~(3-3)までは幕末から明治にかけての宮村典太の写本、(3-4)はご存知上妻博之先生の写本である。今日はその目録を終日眺めている。本当に膨大な量で思いもかけない史料が埋もれている。研究者の多くがここから史料を探し出しているのだ。先の「荒木系図」「細田系図」は雑撰録から探し出したものだが、また何か面白い史料を見つけ出そうという魂胆である。正直言うといささかネタ切れの状況になって来た。「兼見卿記」も読むのに少し疲れたし、「綿孝輯録」も「小倉細川藩」も「熊本県史料」も一休みとしたい。又面白い史料をご紹介し様と考えている。
     
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「熊本藩家老八代の殿様 松井章之の江戸旅行日記」

2008-10-15 10:10:56 | 新聞
 今日の熊本日日新聞が、「八代古文書の会」の発足30周年記念誌の発刊について報じている。
【記念誌は、「熊本藩家老八代の殿様 松井章之の江戸旅行日記」のタイトルで二部構成。一部は章之(テルユキ)が1841(天保12年)年の参勤交代時にしたためた自筆の「参府日記」を翻刻した。(中略)二部は「肥後八代の俳僧山石」など、会員の研究論文や、会に参加しての感想などが収録されている。(以下略)】 A5判・149頁 一冊1100円 八代古文書の会

 細川家の「家老が何故参勤交代?」と思われるであろう。実は、松井家は陪臣でありながら、公儀から知行を拝領している。2006/6/16のブログで「松井家公儀知行地」を書いたが、再度ご紹介する。

■始まりは秀吉代に遡るが、康之の母法寿に領地の証書が下されている。

  山城国八瀬村、十三石事令扶持訖、全可領知候也
            天正十三年十一月一日  朱印
    松井母 

 文禄の頃、秀吉は康之に石見半国をあたえ、直参にしたいと考えたようだが、康之は「身に取て難有き上意ニ御座候へとも、幽斎父子数年の恩遇他に異候故、是と列を同するの処難忍覚候」と恐れながらと断っている。秀吉は大変感心し「松井は常に茶道に志深きゆへ茶料にすへし」として、上記母宛ての八瀬村にあわせて神童子村を知行された。

  一、百六拾石壱斗七升  本地城州神童子
  一、拾三石壱斗弐升   母地同 八瀬村
      合百七拾三石弐斗九升
     右令扶助之訖、可全領地候也
      文禄二年十一月十一日  御朱印
       松井佐渡守とのへ

 このことは、徳川の時代になっても受け継がれている。(以下略)

 秀吉をして、石見半国12万石の領主とせんとしたほどの松井家(康之)である。松井家あっての細川家ともいわれる。まさしく「八代の殿様」である松井家を誇りとして、八代の皆さんの研究の成果が「八代古文書の会」発行の既刊8冊に今般の発刊が加わった。

 
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志水家縁辺のこと-- 2

2008-10-15 08:32:01 | 歴史
 態致啓上候、然ハ筑紫左近息女忰吉之丞ニ被仰出私娘儀西郡数馬江縁辺被仰付候而被下候由、誠以忝仕合共奉存候、就中左近息女之儀余仁と替申候処ニ、私忰ニ縁辺被仰付候儀、別而難有奉存候、次ニ私幼少之せかれ権佐儀も御側可被召仕旨、被仰出候由申越、重畳忝仕合可申上様も無御座候、右之御礼為可申上星野三右衛門と申者差上申候間、如是御座候、御序も御座候ハヽ可然様御取次成奉願存候、此儀御小姓頭中へも以書状申入事御座候、猶期後音時候、恐惶謹言
                        志水新之丞
      正月廿一日               克重
         御家老中当

 娘の相手、西郡数馬については、【西郡数馬 三百石 真源院様御代御侍免撫帳】が見受けられる。西郡大炊介(清忠、清忍、刑部)の嫡流には、数馬の名前は見えない。大炊介の二男・要人佐は、寛文期番頭(肥後藩主要役職員--肥後讀史総覧)を勤めたが【人持衆・五番組頭 二千石(真源院様御代御侍名附)(真源院様御代御侍免撫帳)】、この関係者であろうと推察されるがハッキリしない。綿孝輯録は『要人死後断絶、子供様子有之他国いたし候由』と記す。

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志水家縁辺のこと

2008-10-14 18:22:07 | 歴史
 慶安二年正月、志水新之丞の息並びに息女に、縁辺の話が持ち上がっている。「筑紫左近女(幸隆主御孫)、志水吉之丞ニ縁辺被仰付儀」についての、父親・新之丞の書状が紹介されている。(綿孝輯録・巻六十四・・光尚公p435)
また新之丞息女と西郡数馬の縁辺についても「被仰付候」とある。

 新之丞とは、志水宗加清久の二男・日下部主水元五の養嗣子(甥)である。志水家系図では恵重とされる。
筑紫氏は広門の代迄、筑後上妻郡・一万八千石の領主であったが、西軍に付き領地没収され、広門の三男左近重門が細川家に召出され、忠興の弟孝隆(妙庵)女・兼を妻とした。
  www2.harimaya.com/sengoku/html/tikusi_k.html 【武家家伝-筑紫氏】

      宗加
 ---+--志水清久---+--九郎左衛門===久馬・・・・・・・・・・・・→凍家
   |          |日下部与助
   |          +--元五---+--新之允・・・・・・・・・・・・→新九郎家(嫡家)
   |          |       |
   |          |       +--権之助・・・・・・・・・・・・→隼太家
   |          |       |新之丞克重
   |          |       +===恵重---吉之允・・・・・→源九郎家
   |          |       |          ∥
   |          | 筑紫広門---重門      ∥
   |          |          ∥-----●圓光院
   |  細川幽齋----細川幸隆---●兼
   |          |       |
   |          |       +--久馬(九郎兵衛為養子)
   |          |       
   |          +--恵之---+--元茂----●蝶・・・・・・・・→長瀬家
   |          |       |        長瀬助之允室・・兄新九郎知行跡目相続
   |          |       +--恵重(元五為養子)
   |          |     
   |          +--要善院日富 志水家菩提寺・真浄寺創建
   |   
   |            志水清久・子
   +--悪兵衛清秀======加兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八代松井家家臣・志水家                                

 志水宗加は幽齋のよき歌道仲間であった。息・日下部与助は高名により、父共々細川家に帰参した。(故在って細川家を離れた)略系図の如く枝葉を広げている。
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本日完了・UP

2008-10-13 18:18:59 | 徒然
 「旧陪臣代数及原禄根帳目録」のタイピングを完了、UPもどうやら済ませることが出来た。148家と先にご紹介したが、編集の段階でニ三重複している個所が見受けられ、145家と云ったところか。そのご家来の数はまだ完全に掌握できていない。1700~1800位ではないのか、現況数える元気がない。将来的には、「無禄士族基本帳」のUPを目指したいと考えているが、これは簡単にはお約束できない。その前にまだかたがついていない幾つかの仕事がある。まずは完了のご報告。
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快感

2008-10-13 12:40:33 | 徒然
 いろいろお尋ねがあって、それが御先祖探しのヒントになることが多々ある。知り得るデータは差上げるが、深入りはしない事にしている。後はご本人に委ねるのが一番なのだ。その努力の積み重ねが、より御先祖様に近づくことに繋がっていく。
 今日も一つメールをいただいた。思いがけない報告をいただき、驚き入るとともに、そのご努力にも吃驚させられる。そして史料というものが、まだまだ残されている事を実感するのである。我がサイトも満五年を経過して、実に色々なことを知った。あと五年くらいは現役でやれるだろうと考えているが、新しい情報に遭遇する喜びを味わえる五年とも言える。ささやかなお手伝いを、喜んでいただける事が最上の「快感」である。
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三渕兄弟の御母について

2008-10-13 09:51:14 | 歴史
 三渕(ミツフチ)家の藤孝兄弟(1)(6)については、その母親は清原宣賢女(智慶院)とする記述が多く見受けられるが、これは可笑しな話だろう。
■長兄・(1)藤英の父晴員は婿養子であり、生母は三渕晴恒息女(養源院)である。
姉・(2)宮川殿(武田信高室)、(3)佐々木越中守室なども養源院が生母であろうか。
(4)藤孝自身はと言えば、これは清原大外記宣賢の息女(智慶院)が生母である。後、父晴員の実兄・細川元常の養嗣子となり細川氏を名乗るのである。
弟・南禅寺の(5)梅印元冲、大徳寺の(6)玉甫紹は智慶院が生母か・・・
■末弟・(7)好重の生母は山名民部少輔一雲斎息女である。末妹(8)(土御門三位久脩簾中)も同様であろうか・・・
養源院は離別させられたとの記述も見受けられる。智慶院を継室とする記述の根拠であろうか。
将軍義晴公も罪なことをなさる。
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荒木つづき・・「岩佐又兵衛」

2008-10-12 15:09:55 | 徒然

岩佐又兵衛―浮世絵をつくった男の謎 (文春新書)

 山梨県在住のA様からメールをいただいた。荒木村重子孫に関する一連のブログについてのコメントとともに、NHKハイビジョン(BShi)で、岩佐又兵衛に関する放送があることをお教えいただいた。10月14日(火) 午後8:00~9:50までの1時間50分に及ぶ放送だが、皆様にも是非御覧をいただきたいと思い、ご紹介する。
       http://www.nhk.or.jp/bs/hvsp/

 岩佐又兵衛は荒木村重の子であるとされる。浮世絵の開祖ともされる人だが、一族や家臣たちが大勢殺されていく中、乳母の手により密かに脱出したとされる。母方の姓・岩佐氏を名乗った。

   岩佐又兵衛   ja.wikipedia.org/wiki/岩佐又兵衛
   荒木村重    ja.wikipedia.org/wiki/荒木村重

 岩佐又兵衛に関する著作も数々あって興味深い。
■写真の著作は【伊藤若冲よりも妖しい、江戸時代随一の美. 岩佐又兵衛・浮世絵をつくった男の謎. カラー新書. 辻 惟雄. 文芸春秋社/1260円】
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略系図を描く苦労

2008-10-12 12:54:41 | 徒然
 荒木系細田氏の「略系図}を書くのに半日を費やした。ブログの画面でどう表現し様かと苦心惨憺の結果であるから、ご理解をいただきたい。幽齋公と三渕好重兄弟の位置関係が上下逆転してしまったが、当事者の婚姻関係などを分かりやすくするためには、これも仕方がない事である。どうやら関係者を大方取り込むことが出来たから、ひとまず吉としなければならない。関係各家の先祖附などにより、ほぼ間違いなり関係図が出来たものと思う。ただし、荒木善兵衛家の系図とは整合しない部分があるが、今後の課題としたい。
 (こんな事をやっているから、腰痛がひどくなっていく)
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荒木・細田系図-- 4 

2008-10-12 12:32:38 | 歴史
 荒木村重系・細田氏略系図


                     十次郎・左馬介(細田姓)
  荒木村重---+--十次郎------村完(梄隠)---+==三郎権右衛門(谷内蔵之允為養子)
          |            ∥       |            初代       
         谷出羽守衛友---+--●姉      +===============梶之介・・・→(細田家)        
          |         |  初代            二代
          |         +--内蔵之允   +======権右衛門・・・・・・・・・→(谷家) 
          |             ∥--------|        ∥
  +--------------長岡好重-----●幾久     +----------●
 |        | 三渕伊賀守・幽齋末弟
 |        | 
 |        +--村勝----------克之----+--女子(栖隠妻)
 |                      ∥     |
 |                      ∥    +--村長-----梶之介(栖隠歿後養子・名跡相続)
 |吉田兼見---兼治           ∥    |
 |         ∥----徳雲院    ∥    +--弥平
 +---幽齋---伊也      ∥    ∥    |
                   ∥-----●    +--三郎(栖隠養育・為養子)
               初代  ∥
      長束正家----田中平左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(田中家)


   【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】より
         谷衛友   ja.wikipedia.org/wiki/谷衛友
         吉田兼見  ja.wikipedia.org/wiki/吉田兼見
         長束正家  ja.wikipedia.org/wiki/長束正家
    
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侍の日本語

2008-10-11 16:02:25 | 歴史

日常生活で使ってみたい「侍」の日本語―武士の言葉を現代に応用した実戦会話術


著者/訳者名:市川スガノ/著
出版社名:日本文芸社
発行年月:2008年05月
販売価格:720円(税込)


【本の内容】
侍たちが使った美しくも格調ある言葉-その語義を豊富な例文で楽しく解説しつつ現代の生活でどう活用すればよいのかを伝授。

【目次】
第1章 日常で使ってみたい侍の感情表現
第2章 あいさつで使ってみたい侍の日本語
第3章 恋愛で使ってみたい侍の日本語
第4章 ビジネスで使ってみたい侍の日本語
第5章 路上で使ってみたい侍の日本語
第6章 家庭で使ってみたい侍の日本語
第7章 飲み屋で使ってみたい侍の日本語
第8章 偉い人のための殿様の日本語

【著者情報】
市川 スガノ(イチカワ スガノ)
編集者・ライター。横浜生まれ。上智大学大学院文学研究科国文学専攻博士前期課程修了
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荒木村重系細田氏--谷氏--田中氏(長束氏)--三渕氏

2008-10-10 17:19:07 | 歴史
 荒木村重系細田氏、谷氏、田中氏(長束氏)の先祖附を熟読、ようやく謎が解明した。
手書きで略系図を書きながら、ようやくもつれた糸を解く事が出来た。

 ■細田家と谷家、三渕家
  1、荒木村重の孫左馬介(細田栖隠)は従兄弟・克之の子三郎を幼い頃から養育、養子とした。
  2、三郎は忠興の命により、谷出羽守衝友の子内蔵之允の婿養子となる。
    内蔵之介の妻は、細川幽齋の弟・長岡(三渕)伊賀守好重の女・幾久である。
    好重の室は幽齋女・栗であるから、幾久は幽齋の孫女である。
  3、左馬介の死去後、三郎の兄・村長の子・梶之介が養子となり細田家の名跡を継いだ。
    初代政之允である。

 ■荒木克之と田中家
  1、村長・三郎兄弟の父・克之は、荒木村重の孫(村勝・子)
  2、克之室は、田中平左衛門(長束正家嫡男)女である。
    平左衛門室は細川幽齋女・伊也と吉田侍従兼治卿の女・徳雲院である。
    故に克之は幽齋の女系の曾孫となる。

 略系図が分かりやすいのでご紹介しようと思うが、関係が大変複雑に絡み合っていて、なかなか書けないでいる。しばらくお待ちを・・・

 いずれにしろ、荒木村重の子孫は、谷氏・田中氏・三渕氏、ひいては幽齋に遡る「血」を継承している。

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大失敗

2008-10-09 18:50:36 | 徒然
 昼食もほどほどに、荒木村重系・細田氏に関して、どうしても長束(田中)氏や谷氏の先祖附を読まなければと、痛い腰や背中をかばいながら図書館行き。必要部分をコピーして本日は終了、汗をかかぬように、腰に来ないように、ゆっくりゆっくり自転車をこいで帰還。シャワーを浴びてしばらくゆっくりして、いざコピーを眺めると・・数枚のコピーが見当たらない。大切な部分を置き忘れてきたようだ。慌てて図書館に電話しようと携帯を観ると、なんと図書館から電話が入っていた。ありがたい事に、ちゃんとお預かりいただいていた。今晩読み込んでまた一文を書こうと思っていたが、一休みと相成った。問題は何時取りに行くかだが、何とか明日がんばって行かずばなるまい。大失敗だ~。

10/10 AM10:00 いつものチャリンコで図書館行き、少し雲行きがおかしくなってきたと思ったら、帰り道は小雨となる。大急ぎで帰り往復ジャスト1時間、朝の運動と相成った。
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新刊「藩の文書管理」

2008-10-09 15:36:13 | 歴史

藩の文書管理 (史料叢書 (10))


人間文化研究機構 国文学研究資料館・編
定価8400円(本体8000円+税)
上製本・ケース入り・A5版
ISBN978-4-626-01718-5


 文書管理史研究は、当該文書群の作成・利用・管理システム、保存形態、保存空間などを歴史的に明らかにしようとするものであり、近年では、文書管理史の研究から当該組織体の組織論や事務処理システム論などにも広がりをみせるようになってきた。日本近世の藩などの組織体で、発生・蓄積する文書群の内部構造を明らかにすることは、それに含まれる文書を十全に理解するためには不可欠であり、文書を作成、管理、保存してきた組織の歴史を明らかにすることにもつながる。

 本書には、熊本藩と松代藩の文書管理に関する史料と松代藩の支配替えや廃藩置県にともなう明治初年の文書引き渡しに関する史料を収録する。熊本藩・松代藩においても藩政文書の管理・保存に関する規定や方法、あるいは実態について明示した史料はほとんど見当たらず、本書に収録されたような文書の管理・保存台帳などに記載されている文書管理・保存に関する注記文言、いわば文書管理・保存の痕跡を丁寧に読み取って、そこから文書管理・保存の実態を復元していかなくてはならない。そういう意味では、本書は藩政文書の実態を知り得る参考の書であるとともに、文書管理史研究に寄与することを意図するものである。

〔史料目次〕

【1】熊本藩の文書管理

1.天保四年五月 御刑法方諸帳目録
2.文政八年七月 御蔵二階六番入目録
3.文政八年ヒ月 御蔵三拾二番入目録
4.年欠 御蔵入目録
5.文政八年七月 杉之文庫入目録
6.文政八年七月 杉之小箱入目録
7.文政九年八月 坤御櫓入目録根帳

【2】松代藩の文書管理

8.文政三年四月 日記并諸帳面入注文 乾
9.文政三年四月 日記并諸帳面入注文 坤
10.年欠 日記并諸帳面入注文

【3】松代藩の文書引渡

11.明治三年六月 御預所村々伊那県管轄替引渡書類控
12.年欠 廃県統合引渡伺指令留
13.明治四年八月・九月 地方諸書物引渡目録
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