「中村恕斎日録」が発刊されたのは2002年の事である。熊本大学が所蔵していた恕斎の日録は、十八巻の内二巻が欠けていたというが、中村家にその二巻が所蔵されていて運命的な出会いがあって発刊の道が開けたのだとお聞きした。まだ一巻のみしか発刊されていないが、全十二巻になるらしい。
上田久兵衛については、昭和三年鈴木登氏が「肥後藩士上田久兵衛先生略傳並年譜」を発刊されて識者の知るところとなった。半世紀を経て上田家から貴重な文書類が発見され、当時東京大学史料編纂所の教授であった、宮地正人氏の手により「幕末京都の政局と朝廷--肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た--」となって発刊される。これもまた2002年の発刊である。鈴木登氏の遺志を受けて、ご子息の郷土史家鈴木喬先生が、いろいろな処を得て論文を発表されている。上田家の史料は、散逸を危惧した遺族の手により、東京大学史料編纂所に納められた。
この二つの日録を知らぬまま語られてきた肥後の幕末史は、大きく塗り替えられねばならない。実学党や敬神党、暗殺者河上彦斎のみが生きていた幕末ではない。
明治二年以降、刑死するまでの久兵衛の日録のコピーが、上田家から私に託された。白文の日録に目をやると、自らの非力を感ぜざるを得ない。なんとか久兵衛の生き様を知っていただくべく遅々たる作業を進めている。
上田久兵衛については、昭和三年鈴木登氏が「肥後藩士上田久兵衛先生略傳並年譜」を発刊されて識者の知るところとなった。半世紀を経て上田家から貴重な文書類が発見され、当時東京大学史料編纂所の教授であった、宮地正人氏の手により「幕末京都の政局と朝廷--肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た--」となって発刊される。これもまた2002年の発刊である。鈴木登氏の遺志を受けて、ご子息の郷土史家鈴木喬先生が、いろいろな処を得て論文を発表されている。上田家の史料は、散逸を危惧した遺族の手により、東京大学史料編纂所に納められた。
この二つの日録を知らぬまま語られてきた肥後の幕末史は、大きく塗り替えられねばならない。実学党や敬神党、暗殺者河上彦斎のみが生きていた幕末ではない。
明治二年以降、刑死するまでの久兵衛の日録のコピーが、上田家から私に託された。白文の日録に目をやると、自らの非力を感ぜざるを得ない。なんとか久兵衛の生き様を知っていただくべく遅々たる作業を進めている。
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