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地場・旬・自給

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朝日新聞の謝罪

2014-09-15 04:14:32 | Peace Cafe


庭の眺め 中盤全紙 ファブリアーノ 自分の絵に好き嫌いがあるのも変だが、好きな絵である。まだできた感はないのだが、この次の絵が描きたくなる。





朝日新聞は遅きに失したとはいえ、社長が謝罪をして、問題を速やかに調査し、自分は責任を取って辞めると言うことを発表した。これで朝日新聞が生き残れるかどうか。私には無理に見える。それは先日も書いたことだが、記事のレベルが低下している。その理由は報道の明確な目的を失ったからだと思う。その為、内閣改造の日に、谷垣氏の話を社説で書いている。そして単なる経営に成ったのだろう。何故、誤報道事件と言うものが起きたかと言えば、目的が不明確な調査報道になっているからだ。――日本新聞協会は2013年度の新聞協会賞は、朝日新聞の「手抜き除染」が編集部門で受賞した。このスクープは、記者4人が計130時間、福島第一原発周辺の除染現場に張り込み、作業員が汚染された草や水を回収せずに捨てる様子を11カ所で撮影、作業員の証言も集めて1月4日付朝刊を皮切りに報道した。「政府が復興の柱と位置づける公共事業の実態と、本来の在り方を社会に問いかけた優れた調査報道」とされている。手抜き報道と手抜き除染なんだか、日本の現状が透けて見える。

除染等出来るわけがないと思っている。あの福島の広い地域の住居廻りだけを除染した所で、数千倍もある地域に対して手を付けないのだから、除染した場所も又ものとに戻ってしまう。こういう作業を一体誰が本気でやれるものだろうか。除染が発表されたときから、これは新しい形の、失業対策事業であり、無駄遣いの公共事業だとこのブログには書いた。除染が手抜きであると言うような調査報道が、無意味とは思わないし、それを根気よく現場で調査して報道するのは貴重なことだとは思う。しかし、調査しなくてもそうに決まっているようなことは、どれだけ報道の価値があるのか。その力を向けるべき所は違う。この記事が新聞協会で評価されるということは、それ以上の調査報道がない。このことの方が、深刻なのではないか。産経新聞等は鬼の首を取ったように、浮かれているが、我が身を省みるならば、大本営偏向報道そのものである。私のブログが左翼的偏向していても、(その自覚はある。)社会的には問題が無いように、産経新聞がいくら偏向していても、そういうタイプの新聞だと思われているにすぎない。

報道の公共性と言うことである。産経新聞のように批判精神を捨ててしまって、国家のお先棒を担ぐ報道の役割と言うことを、主眼とする新聞もあり得る。それは業界新聞とか、ゴロ新聞とか、様々な新聞があって、読む側もそのつもりで読んでいるものだろう。所が朝日新聞の場合、客観的な報道や、権力に対する警鐘を鳴らす役割と言うものを自認していた。権力を批判するためには、大きな方向性を持っていなければならない。私は地場・旬・自給という考え方を、人類の軟着陸地点として示したいという方向である。朝日新聞は果たして、そうした理想に向けての情熱を失ってしまったのではないか。作り出したい世界のイメージを持っているのだろうか。それが無いと、除染の是非という根本問題から目そむけ、因縁をつけるだけになる。世論を形成する前向きな創造力を失うのではないだろうか。そこには共産主義の衰退と言うことがある気がする。ロシアや中国の状態を見れば、方角はあっちだとは到底言えなくなったのだろう。

では、報道はいらないのかと言えばそんなはずがない。良いマスメディアがなくなったことが、日本の政治の劣化の現状を生んだ要因だと思う。民主党が政権を取ったあと、さらにどうしようもない政治に成った。沖縄の基地問題では、何の方向もないまま適当な思いつきを播き散らした。自民党政権のように、何が何でも辺野古に米軍基地を作ると言って、選挙結果に現われている住民の意思も無視するというのも、ひどい話だが。民主党のように、現実性のない空想話で終わるというのでは、統治能力が無いということだろう。政治と報道の劣化の背景には、日本人の思想の劣化と言うことがあるのではないか。価値観の喪失。目的の喪失。日本人としての文化的誇りを見失い、存在意義を見いだせないでいる。それは生活を確認できないでいる事に由来するのだと考える。日本人がお金という数値だけを価値基準にする、根なし草に成りかかっている。
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青蜜柑エキス

2014-09-14 04:02:27 | 自給


信濃川 中盤全紙 ファブリアーノ とうとうと流れる川と言うものは中々ないものだ。雪解けの信濃川は水量がある。



3日にビンに詰めた所



11日の絞る前の様子



青蜜柑は香りのよいものだ。夏の終わりに摘果をして、実を減らすのが良いみかんを作る為の作業だ。この青蜜柑を絞って、カボスのように使う人もいる。結構使える物に成るので、これをただ捨ててしまうのはもったいないことだ。小さいみかんを根気よく絞らなくてはならないので、横着な私には向かない。そこで、氷砂糖でエキスを絞る。一応使えるものになる。特に3杯酢として使うと又とない美味である。生わかめと和えるのもいい。沖縄のもずく酢をつくるのが好きだ。食べるたびに沖縄で採れたのだと思うだけで、気分が良い。これをまとめて作っておいて、毎食少しづつ食べている。5リットル瓶で作って、3リットルくらいは液が採れる。

みかんの香りと言うものはそのつもりで感じてみるとなかなか良いものだ。青蜜柑の香水と言うものもあるくらいだ。しかし、みかんを沢山食べるとしても1本木があれば十分である。長い間少しづつみかんを食べたいと考えると、何種類も収穫期の違うみかんを植えなければならない。そこでみかんの枝にライムと、レモンを高接ぎした木がある。もう10年くらいになるが、一応、それぞれに成っている。
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安倍総理のラジオ出演

2014-09-13 04:41:25 | Peace Cafe


箱根駒ケ岳 中盤全紙 これは裏側の久野からの景色である。めったに描いた人の居ない裏箱根駒ケ岳である。





夕方車で畑から帰るときにラジオを聞いていたら、安倍氏に似た声が聞こえてきた。ずいぶん良い声で聞きなれないアナウンサーだが、誰だろうと思った。私のケイトラの不明瞭な音でも聞き取れるのだから、よほど声の良い人だと思った。しかし、よく似ていると思っていたら、何と安倍首相本人だった。ラジオニッポンの「ザ・ボイス そこまでいうか!」に出ていた。時々、へートスピーチではないかと言うような発言のあるラジオ番組に、総理大臣が出ていて、びっくりしたが、考えてみればありそうなことだ。こんな軍事評論家ばかり出てくる番組に、少々うかつな気はする。曜日によってはヘイトスピーチの何とかかつやとかいう人の日もあるぐらいだ。この日は青山繁治と言う人の日だった。この人も自民党の国会証人に成るぐらいで、安倍氏と親密であることが売りの人だ。いずれにしても、産経新聞系のこの放送局だから、安倍氏は出たのだろう。

何を言うのかとつい聞いてしまった。消費税10%を上げるか上げないかの判断を、7~9月期の景気動向の指数を見て判断すると言うことを、こだわって繰り返している。現状の景気判断としては、4~6月期の数字の落ち込みが大きい結果を踏まえている。政府統計が、大きく下方修正された、直後である。特に民間企業の設備投資が2兆358億円もマイナス修正し、突然半減している。こんなことがあり得るのかと疑いを持った。まさか日本の統計がこれほど、予測値変化があることはない。景気指数が発表されたときに、何か理由があると踏んでいた。そうしたら、安倍氏は盛んに4~6月期は消費税の影響で反動減があったが、注目すべき数字は7~9月期であると強調している。何度もそのことを言うので、ここで、ふと思い当たった。企業の設備投資の時期を、移動させたのだ。だから、次の7~9月期は上昇傾向が作り出せる。これを意味していたのだ。

良く中国の経済指標がでたらめであるということが言われていたが、日本の統計も、いよいよ危うくなった。油断も隙もない。政府は消費税を上げるために、嘘の景気動向を作り出している。これはGDPの下方修正も行われたと見なければならない。4~6月期はリーマンショック以来の7,1%の落ち込みになっている。これは一種の演出数字で、次の7~9月期が回復基調の数字が出てくる予定なのだろう。そして、この数字なら消費税があげられると言おうとしている。年間を通せばつじつまが合うからいいだろうという考えだ。ではなぜ、予測値と速報に乖離があるかと言えば、消費税後の影響を極力少なく見せかけたのだ。そして、後から修正しても株価への影響が少ないということではなかろうか。

もう一つ語ったのが、朝日新聞の誤報問題だ。丸で、従軍慰安婦すべてが誤報であったかのような発言をしていた。朝日新聞の誤報が、世界に誤解を与え、日本の外交にまで影響があったと言いたいようだった。原発事故の吉田発言でもそうなのだが、確かに朝日新聞はひどい誤報道をした。しかし、私は吉田発言について書いたことは書いたが、朝日新聞の様には受け取らなかった。吉田所長の危機感は、相当なものだったということが分ったということだった。何故、あの文章から、朝日のようなくだらない記事に成ったかは、確かにもんだいである。しかし、事故が日本が破滅する寸前の、危機的なものであったということは確かに語っている。ここは忘れては成らない。同時に、従軍慰安婦が存在した。そのこと自体が誤報であるかのように、主張するのはこれも間違えである。
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自己新の思想

2014-09-12 05:10:00 | 暮らし


真鶴港付近 中盤全紙





高校時代陸上競技に没頭した。没頭はしたけれど、選手とは言えないぐらい弱かった。1500mで4分30秒の選手だった。インターハイ東京都予選にも出たけれど、一次予選落ちである。高校駅伝の予選では、なにしろ選手にも選んでもらえなかった。その世田谷学園の成績が、東京都の予選の真ん中ぐらいだった。東京都の代表が全国では、下位だったのだから、はっきり言って弱い学校の弱い選手と言うことになる。高校時代の友人も私が陸上競技ばかりやっていたということすら、覚えていない。自分の持って生まれた肉体では、陸上競技では間違ってもオリンピック選手には成れないということは分っていた。それでも何故あんなに必死にしがみついたのかと言えば、人と較べないということだった。自分が向かうのは自分の限界である。今の自分を一歩進めたいという思いだった。だから練習はやった方だったが、身体がそれに耐えられる強さすらなかった。間違っても君原選手には成れないけれど、君原選手と同じくらい、自分を追い求めるのだと思っていた。

君原選手のことはもう覚えている人も少ないのかもしれない。東京オリンピックで8位になった選手だ。選手時代の君原選手は、出場マラソンの順位で一番悪かったのが、この8位という記録だった。今に至るまでの生き方からも、尊敬に値する方だ。マラソンを走るという意味は勝つということだけではない。当時、どこかで僧侶に成ろうと考えていた。その為に走ることを座禅をすることと同じに考えていた。明確には意識はしていなかったけれど、千日回峰業に近いかもしれない。走るたびに、少しでも新記録が出るように頑張る。自分の限界を越える。いまだかつてない自分に成る。俗物の私には、座禅修行の訳の分らなさに、つい乞食禅になったのだ。乞食禅とは、悟りを得るため、目的の為に行う修行のことだ。悟るために座禅を組むくらいなら止めた方が良いと、頼岳寺の三沢先生は言われた。

座るために座る。それ以上でも以下でもないのが修行だ。この境地が今もって理解できない。それで分りやすく、1秒記録が伸びることを目標にした。それは、確かにくだらない。くだらないのは承知で、自分の分る所でやる以外にないと考えていた。そんな高校生だったということだ。それが自己新を目指すという考え方になった。走るということは肉体的に苦しいことだ。苦しいから、力を抜く。少しでも自分の気持ちが、強く成り力を抜かない為に、自己新と言うことを考えた。今ではそれを自己新の思想と少し大袈裟な言葉で考えている。他者との競争思想に対抗したいと考えるからだ。競争を正義として、能力主義を是認している社会だ。能力があるものが、勝者になって良いとする社会だ。能力というものは、体重と同じようなものだ。努力もあるが体質も可成りを占めている。身体を差別の理由にして成らないことと同じで、能力も差別の理由にしては成らない。

能力主義が重視されるのは、それでなければ人間は努力をしないと考えられているからだ。報酬で頑張る。人間をそういう情けないものと考えるのが、能力主義の根底にある。人間と言うものを全面的には信頼していないのだ。確かに、厳しい練習をしていれば、手を抜きたいと思う。しかし、自己新を目標に、各々の努力をすることが尊いと思う。それがほかの人と較べれば、極めて低いものであっても、その努力と向かい合い、評価する社会にしなければならないのではないか。その人なりの努力の意味。自給農業には、誰もが受け入れてもらえる良さがある。1時間で出来る自給を私は達成しているが、そこに至るまでは、3時間の時代があり、2時間になって、ついに1時間になった。これは能力の向上である。一秒短縮するには、その努力がある。家族で、集落で助け合って、それぞれの能力に見合うように、自給を達成してきたのが、日本の社会だった。農業には、それぞれの能力を認めてくれる良さがある。
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金沢大美術部の同窓会

2014-09-11 04:26:54 | 身辺雑記


北信の山 中盤全紙 山と里の関係を描くのが面白くなってきた。






金沢に行って来た。このところ、2年に一回金沢大学の70年前後の美術部の人間で集まる。今年は21人だった。ほとんど参加している。自分の存在確認の様なものだろうと思っている。今やっていることは、金沢のあの4年間から始まった。今の毎日の気持ちが、あのときの笠舞町の下宿で朝起きた時の気分のままに続いている。さあ、目が覚めたぞ、今日はさて何をするか。下宿で起き出したと勘違いしている時がある位、何も変わらない。あのときから、1日、1日を引き続きでやっている。小学校の時から絵を描くと言うことは意識していた。美術展に出すという様なこともやっていた。中学の時には芸大に行くつもりで、美術部で描いていた。そして、金沢で初めて、絵を描くと言うことを自分の生涯をかけて突き詰めてみようと考えた。そう考えるようになった大きな要因は、あの美術部の激流の渦巻の中で、もがいて浮かび上がりながら思い始めたことだ。県体育館の裏の馬小屋で絵を描きながら、絵を描くと言うことを自問自答しながら、今朝になった。

Nさんと言う美術部仲間が静岡にいる。静岡駅まで新幹線で行って、そこからは車に乗せてもらって金沢までいった。行き帰り、今やっていることを互いに話したのだが、彼は理学部の人で、勉強をしないでも成績が抜群と言う人だった。学生の頃から、小説を書いたり、演劇をやってきた。今も劇団を主催者として続けている。パチンコが好きで、パチンコに費やした時間と、稼いだお金の記録を、学生の頃から今に至るまで続けているというのだ。データー化して時給の変化をはじき出している。それが今は一番の収入だそうだ。だから、世間的にいえばパチプロと言うことか。不思議な人生ではあるが、当時の美術部の中では常識的な雰囲気の人である。生き方は全く常識的ではないのだが、一見、一番普通である。今は芝犬を飼っていて、これにも結構凝っているようだ。演劇と、芝犬と、パチンコと、どう繋がっているのか摩訶不思議であるが、彼には奥さんもいれば、成人した2人の子供も近所に家庭を持って暮らしているそうだ。劇団をやっているので、脚本の様な人生に成るのかもしれない。帰りの車ではみんなの人間観察結果を述べていたが、それはさすが演出の専門家だった。ということは、自分を自分で演出している生き方。

車の窓からは、ちょうど稲刈りの景色が見えた。今年も倒れている。この稲の倒れた田んぼの姿と言うのは、今一つ落ち着かない。いくら良いコンバインがあるからと言って、倒すのは恥の様な気になる。それの方が多く取れると言うらしいが、コシヒカリばかり作っているせいもあるだろう。それにしても取れ秋のこの時期の田んぼの半分は、稲を作っていないように見える。黄金色に輝く田んぼがエンえんと連なるというような景色は、もうない。津端と砺波に広く田んぼをやっている友人がいる。彼らは、学生の時も田んぼをやりながら大学に来ていた。稲刈りを終わらなければ学校に来れなかった。今年は日照不足だったけれど、充分にできたのだろうか。しかし、車から見た所では、どこの田んぼも良く出来ている。化学肥料は日照不足を補うことができる。自然を化学が補う農業。異常気象に自然農業は弱い。

自分は少し変わり始めているかもしれない。そういうことを皆んなに会って思った。歳を取って変化してきたと言うこともある。歳を取って頑固に成る人もいれば、歳を取って角の取れる人もいる。自分では分らないがどうだろう。金沢での私は、たぶん地を出している。素を出している。養鶏を止めたということを話して居ても、いつもの説明とは違うことをしゃべっていた。どれも嘘を言っている訳ではないのだが、しゃべっている内に自分の本音の様なものが、みんなによって、むき出てくるということがある。弁解が要らないからだと思う。普段の暮らしは言い訳出来ない気分の物なのかもしれない。仲間の一人に有名な病院の病院長に成ったSさんと言う人がいる。彼も毎回来る。学生の頃のように、飲んで大騒ぎして川に落ちたことまである。今度退職するそうだ。退職記念に絵を欲しいと言ってくれたので、必ず送ると約束をして別れた。
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デング熱ウイルスの常住

2014-09-10 04:08:50 | 暮らし


御嶽山 中盤全紙 開田高原から描いたものだ。開田高原には標高1、000メートルの水田もある。開田高原の農村風景もなかなか面白い。描きに行きたくなった。





デング熱が新たな状況に入ったようだ。今日まで確認された患者数が、千葉県で感染した人が、他の経路で感染したらしいということである。現在ウイルスの遺伝子配列の調査をしているが、おそらく異なっていると考えなくてはならない。と言うことは、昨年日本で感染したらしい、ドイツ人が報告されている。この人の場合は、疑いと言うことではっきりはしなかったのだが、やはり日本感染だったようだ。以上のことから、デング熱ウイルスは日本に常住する事態になったとしなければならないだろう。以前から感染症の研究者の中には、その様に推測していた人もいた。デング熱と気付かずに感染した人が、昨年にはすでにかなりの数いたと考えた方が良いようだ。今年でも、全国で細かく調査すれば、代々木公園以外での感染者も存在するはずである。熱帯性の感染症が、温帯の日本にまで及んでくることは、気候の熱帯化に伴って起こると言われていた。

今回の初期のデング熱の日本伝播の姿の把握は、今後起こるに違いない、深刻な感染症に対する情報収集の場にしなければならない。今回都内の蚊の居そうな公園で蚊を採取して、ウイルス調査をしている。例えば、今回代々木公園にデング熱ウイルスがいる事が判明してから、代々木公園に出掛けて蚊に刺され、感染している人がいる。誰しも、はっきりした判断材料が無い中で、仕方がないことではあった。しかし、これがデング熱であったからさしたる問題が無かったのだが、深刻な感染症であれば、大変なことが起きることになる。いたずらに恐怖を煽る必要はないが、取るべき対策を今のうちから決めることが、次の流行に備えることになるはずだ。台湾やハワイでの流行の経過は日本の対策の参考になる。台湾では2007年に流行が確認されるまで、大きな発生が無かったようだ。しかし、熱帯化が進行して、ネッタイシマカが生息するように成り、深刻な流行になったようだ。

ヒトスジシマカは感染を媒介するが、ネッタイシマカほど感染を広げない。しかし、ナイル熱の様な感染症が今後日本での発生が予測されるなか、蚊の発生の密度を下げることは、今後の生活では一つの条件になってきている。ヒトスジシマカとはやぶ蚊である。私の子供の頃は、山梨には少ない蚊であったが、当時やぶ蚊に刺されると他の蚊に刺される以上にひどくはれると、言われていた記憶がある。1950年以降徐々に日本全国に生息を広げて、今や、北海道にまで居ると言われている。このことは、ネッタイシマカが沖縄や九州では、生息を始めている可能性があるということだ。そうなれば、デング熱の発生は特別なことではなくなる可能性が高い。デング熱自体はそれほど深刻な病気ではないとしても、今後予測される、ナイル熱やマラリヤの様な蚊が媒介する感染症について、対策を急ぐ必要があるだろう。

まず、蚊の生息を抑えることだ。アメリカではナイル熱の流行から、蚊の防除を本格的に行った。しかし、広大な面積を空中散布などで蚊を抑えようとしたが、実際には無理であった。実際には生活の場で蚊の発生を少しでも減らすことは、有効な対策に成るはずだ。水たまりを作らない。ボウフラの湧くような状況を少しでも減らす。小田原周辺では良く見る、みかん畑にある、使われなくなった貯水槽等は蚊の発生源になっているのだろう。流れのない水たまりは作らない。どうしても水を溜めておく場合は、週に一回は水を変える必要がある。池には金魚などを飼い、ボウフラが湧くようなことにならないようにしておく。これは猫や犬の感染症対策からも有効なことになる。また、蚊に刺されないような対策も重要である。夏でも長袖、長ズボンで肌を露出しないことだ。私はこの夏、ほとんど蚊に刺されていない。
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名護市議会議員選挙の結果

2014-09-09 04:57:43 | 地域






今回も辺野古米軍基地移設反対を主張する議員数が、上回った。27議席中16対11という結果と言うことだ。しかし、菅官房長官は「辺野古移設は普天間の危険性の除去と米軍抑止力を考えたとき、唯一有効な解決策だ。(仲井真弘多)知事から埋め立て承認を受けて、粛々を進めている」と発言している。仲井真知事は知事選への影響については「他の市町村を見ると、私の政策に賛成する方向の方が多い。ちょっと厳密な計算をする必要があると思うが、名護だけが沖縄ではない」とコメントした。地方議会と言うものは、国の政策に対して、意味を持たないというのが、知事や政府の考えのようだ。国防と言う様な、日本全体の問題に対して、一番身近な地方議会の意見と言うものが、これほど軽く扱われていいものだろうか。地元の意思と言うものを無視して、基地の様な迷惑施設を作ることには、憲法上問題がある。

民主主義の根幹は基本的人権の尊重である。一人の人間の権利であっても、守られなければならないものはある。現在、の沖縄の県民の意思を政府が無視してもかまわないというのでは、民主政治を放棄したことにならないのだろうか。こうした国防という最も重要な場面でこそ、充分にその場所で暮らす人の声を尊重し、踏まえなければ、良い結果が出るわけがない。沖縄の基地軽減を政府自身が主張しながら、沖縄の都市部から、過疎地へ基地を移転するという政策では、過疎地の人間が被害を受けるのは、少数者だから仕方がないというようなことになる。肝心なことでは国益が優先され、住民の意思が尊重されないというのでは、民主主義国家ではない。辺野古移設問題では、名護市議会、名護市、県知事と選挙に置いていずれも移設反対意見が勝利している。仲井真知事は覆したが、次の知事選挙結果も無視されるということか。

地方議会の意思と言う一番身近な住民の意思が、最も重視されなければならないのが、民主主義の原則でなければならない。国は国益の為に、住民の意思を尊重しながらも、どのような妥協策があるかを探る努力が必要である。ところが、今回の菅官房長官の意見によると、国益の前に、地方議会の意見等無視して粛々とすすめさせてもらうということの様だ。自らの主張する所である、沖縄の基地軽減の主張との整合性はどうなるのだ。沖縄周辺の無人島にでも基地を作ればいい。アメリカ軍がそれで嫌だと言うなら、日本から出てもらうしかない。他所の国に基地を作っているのだから、その地域の住民の意思を無視するのでは、アメリカが民主国家ではないということになる。アメリカは常に人権侵害を、正義の価値観にしているではないか。名護市民の人権を侵害して当然とする、日本政府に便乗するなど、正義に反した行動ではないか。アメリカが人権を重んずる国であるなら、もう一度次善の策を検討すべきではないか。


本来国防重視であれば、日本中に基地は分散すべきだ。日本人が等しく負担を負うべきだ。昭和天皇実録では「昭和天皇が沖縄の軍事占領継続を希望している」と明記され、天皇が「占領は米国の利益になり、日本の保護にもなる」などと考えた。ここにも沖縄差別が存在する。弱者に負担を押し付けるという、強者の論理は、民主主義国家として恥ずべきことだ。沖縄は本来独立国であった。中国や、薩摩藩に2重支配される様な、複雑な歴史を経ている。先日、オオシッタイというやんばるの森の中の古い集落を訪ねた。日本政府が琉球王朝の人々に、明治政府が開墾させた村が他にも沢山やんばるにあると言う話を伺った。会津藩の人々が下北半島に行かされたことに似ている。国内にもこうした差別が残っている。沖縄は独立国であったが、日本民族である。むしろ、本来の日本人的な縄文文化的要素を色濃く残している。日本人は沖縄から学ぶことが沢山ある。これからの、軟着陸地点は沖縄的なものだと思っている。日本政府の名護市議会選挙無視の横暴は、琉球処分と何ら変わらないではないか。
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何故近隣諸国を蔑むのか。

2014-09-08 04:08:31 | Peace Cafe


月の眺め 3号 月と言うものの象徴性は逃れることができないが、出来ればそういうものに依存しない、ただの月の光の美しさの様なものを描きたい。







何故これほどまでに、近隣諸国を蔑む心が育ってしまったのだろう。日本の社会的衰えが浮かび上がるようだ。ヘイトスピーチもその一例ではあるが、それ以上に普通の人たちの中に、広がる差別意識だ。国連機関では、日本のネットでも広がるヘイトスピーチにも、懸念を表明している。このブログでも、時々ヘイトスピーチ的コメントがある。厳しく当たらなければならない。テレビでの朴大統領の発言が放映された時の反応が怖いほどだった。日帰り温泉での反応なのだが、怒りの声が出る。たまたま居合わせた秦野の湯花楽はまるでヘイトスピーチ状態になってしまった。湯花楽には外国の人も結構多く来ている。東海大学の関係もあるかもしれない。あるいは、周辺にある工場で働いているのだろうか。ともかく、あの耳障りな言葉をどんな気持ちで聞いているのかと思う。大体同じ人が発端を作る。問題はそれに呼応する人がいると、エスカレートして行く。つい同調してしまう人間の甘さ。嫌な兆候を感じる。

在特会の様な事例は極端だと思うが、蔑む心が一般に広がって来ている。果たしこういう日本人の傾向は、いつ頃から育ったのだろうか。江戸時代の身分制度も中期以降強化されてゆく。髪型、足袋の使用、衣類の制限など、江戸時代初期の緩やかな身分制度が、より強化されてゆく。これが差別の広がる背景にある。これは長子相続制度の強化によって、家庭内に差別を持ちこまざる得ない、家族制度の強化が背景にあるようだ。室町時代は、差別という意識は少ない社会だったらしい。もっと野放図で日本人にこんな権利意識が存在したのかというほど、権利裁判事例が多かったらしい。江戸時代も後半に成るに従い閉鎖的な社会が強化されてゆき、差別が深まる。大きな要因は武士階級の経済的な逼迫があり、社会の先行きに不安が醸成される。黒船が来なかったとしても、社会の仕組みは限界は近づいていた。差別に対する極端な差別行動が強まってゆくのも幕末だ。本来1000年以上続く特殊の存在が、村の村立が危ぶまれる浮浪化する不安時代に入り、農民の定着、身分制度の強化、画策されたのではないか。

明治期に入ると、近隣諸国への差別意識は深刻なものになる。身分制度が解消されると同時に、新たな差別意識が、明治政府の意図によってつくられる。長子相続を強化せざる得ない、農地面積の限界と人口増加問題。それが能力主義差別というようなものに、置き換えられてゆく。皇国思想の出現と、出世主義と経済格差。それまでは同じ日本人内での差別が、一気に中国人朝鮮人への差別意識に変わってゆく。これは、明治政府の脱亜入欧的な意識の反映なのだろう。遅れたアジアでは植民地化されてしまう不安、欧米の帝国主義への対抗。競争意識の強化に、中国、朝鮮の人への蔑視意識を植え付けてゆく。頑張らなくては、植民地化される不安。大東亜共栄圏を目指し、そして敗戦する。何とか立ち上がり復興する日本。経済競争に全精力を使ってきた日本。その頃は一時的に差別は影をひそめる。その自信が揺らぎ始めているのが、現状ではないか。近隣諸国が独自に、日本人の手を借りなくとも、経済発展するということは、想像をしていなかった日本人がそこにいる。

他人を蔑むという気持ちの裏には、自分の中にある差別された意識への、うっぷん晴らしがある。それだけ、現代日本人が不安や不満の中に暮らしているということなのではないか。社会全体に余裕がないということが考えられる。その屈折した思いが溜まってゆく。日本人が近隣諸国をどう考えるかより、世界が日本をどう見ているかを重視しなければならない。周辺国を悪く言う風潮が、世界における日本人の評価を大きく下げているのだ。国連の日本への勧告を、緊急に、正面から受け止める必要がある。相手を慮り、許す心を育てるには、まず自らの安心立命が必要である。日本社会の先行き不安は競争に敗れる不安だ。経済競争に負けたとしても日本で十分にやって行けるという安心感を持つことが大切。競争意識を捨てれば他国を必要以上に意識することもなくなる。自分がどうあるかということでいいはずだ。一番でなければ終わりだと思い込む必要なぞない。
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園芸療法のベンチ

2014-09-07 04:26:36 | 暮らし


岸辺の眺め 中盤全紙 ファブリアーノ この絵は少し描けていると思う。海に向かい合うということは、3,11の大津波である。絵であのことを表すとすれば、どうなるのかということだ。










畑の家から頂いたベンチとテーブル(吉田さん撮影)

畑の家が活動を休止すると言うので、沢山の農具を農会で戴いた。畑の家は田丸さんと言う方が運営されていた町田の方の活動である。バイオセラピーとか、園芸療法と呼ばれ、気持ちが落ち込んだ人が、農作業をしながら回復をゆっくりと探す場所である。私自身が畑の作業で、自分を維持してきたような気まするので、人間が農作業を通して元気になるというのは、体感的に分る所だ。畑の家の活動が休止するのは、残念なことではあるが、田丸さんの様な方が存在しなければできないことだと思うので、35年続いてきたということが、十分以上のすごいことだったと思うしかない。この片づけの作業に行けないで本当に申し訳のないことだった。農の会の何人かの人が出かけてくれた。それで、帰りにベンチを戴いてきてくれたのだ。機械小屋の横に置いてあったのだが、今度、欠ノ上田んぼで使わせていただくことになった。ベンチを見る都度畑の家を思い出すのもいいかと思う。欠ノ上田んぼには、川沿いに栗畑がある。ここが木漏れ日の素晴らしい空間だ。

農作業療法と言うものがある。農作業を通して、気持ちの回復をはかる。田丸さんの強い人格を思うと、こうした療法はかかわる人間次第だと改めて思う。私の僧侶だった祖父は、お寺で精神疾患の患者を預かる仕事をしていた。それは、お寺の隣にあった、お滝の森と言う場所に流れ落ちる滝があった。その滝に打たれることで、気の病から回復するという、江戸時代から続く治療の場所があった。深沢七朗氏もその場所のことを書いている。戦後もまだそういう習慣は残っていた。向昌院は赤十字の記録でも、そうした治療院として記録されていた。だんだん見える患者さんも減って、見えたとしてもお滝の森のさらに奥にある、お宿と呼ばれていた家に泊まるようになった。そのお宿の家は、森の一番の奥にあるのだからずいぶん寂しい家だった。回覧板では遠くではあるが、向昌院のお隣と言うことだった。夜にこのお滝の森を通り過ぎると、モモンガが巨木から舞い降りた。お滝の森も、第2室戸台風で明るくなるほどに大木が折れた。そして、今は明るい公園のようになっている。

畑の家のような活動こそ、これからますます必要とされるものである。しかし、私の祖父や、田丸さんのような人は、めったにいる訳でもない。農の会の活動はやりたい農作業の場を提供するだけのことだから、療法とまでは言えないとしても、ストレス解消の活動に成っている。人間疎外と言うのだろう。人間が生きづらい社会にますますなっている。特に、優しい人には辛い世界だ。人と違う個性を持っている人には、辛いことである。いつでも、そこに行けば受け入れてもらえる場がある。もちろん、農の会に合う人もいれば、合わない人もいるだろうが、農業が好きといことで、自分なりにかかわりが持てるのであれば、良い場所ではないかと思っている。と言いながらも、私には到底、園芸療法的資質が無い。指導したり、導いたりできるようなしっかりしたものを持っていない。だから余計分りやすい、農業技術的なものに傾斜するのだろう。


ダッシュ村には、あきおさんがいた。農の会から沢山のあきおさんが誕生すればいいと思う。その為には、先ずしっかりした農業技術の確立である。自然の循環に関する知識の蓄積である。欠ノ上田んぼは4反の面積である。ここで、色々の農業を学び、次につなげて行くことができれば、これほど素晴らしいことはない。この先、放棄地は増えるに違いない。放棄地が増えると言うことは、水のことでも、獣害のことでも、経営としては困難が増すということだ。自給的な農業者が、放棄地を増やさないように農業にかかわってゆくことは、必要である。そして、田丸さんがやられていたように、農作業にかかわることで、気持ちの回復が図れる場にもなれば、それはそれで貴重な活動の側面に成るだろう。そんな気持ちを覚えておくためにも、畑の家のベンチを置かせてもらった。
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朝日新聞はどうしたの。

2014-09-06 04:18:31 | Peace Cafe


下田の畑の庭 中盤全紙 ファブリアーノ 美しい庭を美しく描こうとした。また描くつもりだ。




朝日新聞が最近2つの記事で話題になっている。二つとも吉田証言と言う所が不思議だが、従軍慰安婦誤報の32年経っての訂正記事と、福島第一所長の事故後の吉田調書の暴露だ。気になって久しぶりに朝日新聞の紙面をじっくり読んでみた。そこで驚いたのは、文章と内容の劣化である。昔は報道文の事例のように思っていただけに、悪文が多いいのに驚いた。そのことはあとでもう少し細かく触れるにして、さらにびっくりした池上彰氏のコラム掲載拒否である。池上氏の新聞斜め読みは、いわば外部評価である。自分の少々都合が悪い記事が出たからと言って記事の掲載を拒否するようでは、もう新聞としての生命が終わろうとしているとしか思えない。今日になって「池上彰さんの連載について おわびし、説明します。」という記事が出ている。掲載拒否の理由が関係者への脅迫まがいの行為の激化を心配してとある。新聞社たるもの脅迫に負けるのが言い訳か。ここでも責任の所在と今後の対応には触れていない。マスメディアが衰退することは、国家として深刻に受け止めなくてはならない。

池上氏の記事は、批判を受けて掲載することになった。これを読んでみると、当たり前過ぎて、この程度の記事を掲載できないとした、判断力の低さに愕然とする。池上氏の主張は記事の訂正をしたなら、謝罪をするべきだとしている。「過ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」と池上氏はコメントしている。報道機関が間違う等、当たり前のことだ。誤報道等必然のことだと思う。報道の正否を判断するのは、読者である。マスコミと言うものが絶対に間違わない。祭り上げるから、腹を立てているのだと思う。どの新聞もテレビも間違う、受け手に多種多様の情報を見分ける能力がなければだめだ。子供の頃、近くで火事があった。その火事の記事が新聞に出た。その家の職業を間違えていた。新聞と言うものはこの程度の物だ。近所だから間違いに気付いたけれど、全部がこんなものだと思って読まなければならないと思ったものだ。

誤報道以上に問題なのは、池上氏の記事を掲載しないと一度でも判断した、上層部の人達のことだ。反省がないどころか、言論の自由という自らの存立基盤を否定したのだ。本来報道と言うものは、冷静な客観的判断をする人の記事を、客観評価として設けるべきものなのだ。それが新聞斜め読みであったはずだ。にもかかわらず、掲載拒否をするということは、内部の知性は崩壊していると言える。池上氏も朝日新聞も、従軍を取っている。私なら取らない。それでは間違えの部分を含んでいる可能性があるとは思うが、従軍は取らない。その方が本質を表していると思うからだ。池上氏の記事を掲載したことを、編集長は自浄作用のように、まるで反省のない視点から始め書いている。これがダメ体質の表れだ。慰安婦記事の訂正と同じことだ。掲載拒否を何故一度はしてしまったのかが、最も重要な間違いである。間違いは誰にでもある。2度とこういう間違いが起きない為には、どのように編集部を建て直すかを示すことが、報道機関としての取るべき行為である。

たぶん、もうそういうこともできない新聞に成ったのだろう。この紙面の全体の迫力のない文章はそういうことを表している。社説では谷垣幹事長の生きる道と題して幹事長になった谷垣氏のことを書いている。谷垣氏を穏健な政治信条をもつとして、保守色の濃い安倍首相とは肌合いを異にする、と書いている。安倍内閣の改造に当たって、書くべき社説であろうか。谷垣氏では主題から外れている。重要な視点は、今回の安倍人事は珍しく安倍氏自ら行ったと感じられる点だ。この布陣はなかなかなものだと一見感じた。政策については外部発注のようだが、人事については自分の判断である。人任せにすることと、自分のやることを使い分けている所が、さすが人形総理大臣である。その自らの人事では、河野太郎氏が入閣しない、女性でも小池百合子氏、野田聖子氏は外す。石破氏が地方創生大臣で入閣と言うあたりに、安倍氏が対抗馬を嫌う、弱気の本音が見える。
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日本全国のダッシュ村

2014-09-05 04:10:10 | 暮らし


志賀高原:田の原湿原 中盤全紙 ファブリアーノ この場所もたぶん20枚くらいは絵がある。100枚は描いた場所だ。それくらい面白い場所だ。高さを変えて、色々の視点で描いてみている。





ダッシュ村のあきおさんは亡くなられた。亡くなられた後で、あきおさんの評価はますます高くなっていると思う。あきおさんの伝統農業の知識はあきおさんとともに消えた。しかし、日本には無数のあきおさんが居る。このことを引き継いで行くのが、私達の目標だ。ダッシュ村は福島の浪江町にあった。おおよその場所は見当がついた。画面に映る山や川の様子で、福島あたりと言うことは分った。それも中通りよりは海に近いだろうと思っていた。山の木の何とない木の様子が参考になった。小田原の山より、福島の山は少し緑が重い。日本中絵を描いて歩いたので、その違う空気は感じる。その違う空気の様なものを描きたいと考えてきたのだ。それは、見えているのに、描けないものだ。今書こうとしたのはそのことではなかった。あきおさんは、原発事故で浪江町を離れた後、日本全国の伝統農業を回ることになった。それがあきおさんの日本農業ノートである。ダッシュ村の制作意図が良く分る。

現在放送中のダッシュ村では無人島で暮らしを再建する話をやっている。子供のころ読んだ、15少年漂流記を思い出す様なわくわく感がある。瀬戸内海の中くらいの大きさの島だ。以前は集落があったようだ。日本にはこうした放棄されてしまった集落が、相当数あるはずだ。どこの集落もそこに人間が暮らしを切り開いた、深い思いと、努力の集積で出来たはずだ。1000年を超える歴史がある集落だって、沢山あるはずだ。今無人島に戻ってしまった島も、江戸時代以前であれば島暮らしはむしろ豊かな暮らしの地であったはずだ。日本の豊かな自然は、日本人のふるさとだ。軟着陸地点だ。辺境の無人島の国境争いどころではないのだ。現に多くの人が暮らしていた島から人が離れていっている。アノネノネの清水国明さんは最近そういう無人島の再生をやっているらしい。無人になった集落と言うことになれば、全国にいくらでもある。日本人がそういう所で暮らしを再生できるのかは、これからの重要な課題である。

もう少し若いころであれば、どこかそういう所に暮らし始めたかもしれない。今はさすがに、新しい場所に移住することは断念している。次に移住するのは、どこかの老人ホームではないか。30代に移住場所を探したときの条件は、水と道路があると言うだけだった。今放棄さされる集落は当然、道と水はある。やる気さえあればこれで十分である。ダッシュ村は伊根の舟屋を移築したりして、とても凝っている。私なら、土嚢袋ハウスを作る。これなら根気よくやれば、一人で1ヶ月もあれば、何とかなりそうだ。昔、こういう家を知らなかったので、配達付きでイナバの物置を買った。山の奥まで届けてもらった。それを組み立てて、小屋として暮らした。水はその頃はなかったので、屋根からの雨水を溜めていた。飲み水分は山の下から背負って上がっていた。水を分けてもらえるようになったのは、1年以上経ってからだ。良く考えれば水だってなくても暮らせないことはない。

ダッシュ島には、まだ畑は作っていない。畑を作ったり、生きものを飼ったり、そういうところまで進めてもらいたい。それには常駐する人がいなければ出来ないだろう。私が自給生活を始めたのは今のトキオのメンバー位の歳だった。こんなに面白い経験はないと思う。体力のある内に、人生の中で一回はやってみる価値がある。私は何もない山の中で始めたのだが、もともと集落だった所ならば、楽なものだ。畑でも、田んぼでも一度耕作されたことのある土と言うものは、山に完全に戻っていても、全く違うものだ。そうあきおさんの知恵が必要になる。あきおさんの伝統農業の知恵は、そして自給で暮らしを立てる知恵は、今消えかかっている。もう消えてしまって、手探りで再生するしかないものもある。暮らしの知恵と言うものは、実はやってみなければわからないことばかりだ。そしてそれを見る目と手を持ているかである。トキオの人達もずいぶん逞しく成った。貴重な記録がダッシュ村には詰まっている。
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絵の品格について

2014-09-04 04:19:55 | 水彩画


箱根駒ケ岳 中盤全紙 インド水彩紙 この場所ではたぶん一番描いたのだと思う。家から近いということもあるので、何度でも行く。しかし、納得ゆくような絵が描けたことはほとんどない。





美術ジャーナルと言う画廊が、銀座にあった。その古いビルには須之内さんのやられていた現代画廊が3階にあって、その2階に美術ジャーナルはあった。1階は思雯閣?とか言った古い日本画の画廊だったと記憶する。とても古いビルで手でエレベーターの扉を開け閉めするので、覚えている人もいるかもしれない。残念ながら今は取り壊された。美術ジャーナル画廊は、目利きと言うことで名の通った、羽生さんと言う方がやられていた。羽生さんは須之内さんよりも専門家の間では、絵が分る人だと言われていた。私は羽生さんに絵を見てもらいたいと考えて、手紙を書いた。その後しばらくして、わざわざ山北の家に絵を見に来てくれた。私の絵を評価してくれたわけではなく、努力する機会と言うことで、何回も個展をさせてもらうことになった。そうこうしている内に、羽生さんはタイのチェンマイに行かれた。帰って来た機会に絵を見てもらうことはあったが、私の絵をまだまだと思われていたと思う。申し訳のないような気持ちでいた。そのことは今も続いている。今個展をやらなくなった理由の一つだと思う。

その後画廊もなく成り、羽生さんはまだタイにおられるのだろうか、日本に戻ってどうされているかと思っていた。偶然水彩人の会場で、美術ジャーナルを川越で再開するという話と、羽生さんもお元気であるということを伺った。その川越の画廊から、時々美術ジャーナル紙が送られてくる。ジャーナルと言う位で昔から、雑誌として活動されていた。毎号巻頭言の様なものがあるのだが、それは無署名であるが、たぶん羽生さんが書かれたものだ。「絵で一番大切なことは品格である」毎回そう書かれている。これはまったく正しい見方である。結局のところ、それ以外に絵の良し悪しを言えないということが分る。絵を見極める基準を一言でいえば、画格である。正しい見方ではあるが、その本当の意味はなかなか難しいことになる。商品絵画の時代なので、絵自体がが売れたくてよだれを流している様なものが多いいのは事実だ。これでは当然品が悪い。経済が全ての様な、下品な時代では絵だけ別の世界と言うはずもない。

画格が高い絵の意味を考えてみる。絵にある思想哲学が、純粋で深いということが、画格の大きな要素ではないか。これは分りやすく書いただけで、本当の意味を表してはいない。私の絵に卑しさがあるとすれば、物欲しげな所があるのかどうかである。褒められたいとか、見識を示したいとか、評価されたい、上手く描きたい。さらに言えば良い絵を描きたいという気持ちすらない方がいい。ただひたすら自分の人間と、思想哲学を見つめている所が大切なのではないか。邪念を捨てると言うことなのだろう。このことは結局のところ、自分と言う人間の品格の問題に成る。ここが難しい。自分の品格を高めるために努力し磨くというような意識は、実は卑しい人間を作ることになる。それが乞食禅である。自分が頑張っているというような意識は、最悪の考え方で、一番厭らしいものなのだ。こういうものが絵に出ていると、当然画格は低いものになる。画格は自ずとにじみ出ているもので、品格のある人間の人格を、ただ表しているということになる。品格がある絵ということは、結果なのだ。紛らわしいのだが、品格のありそうに書く絵と言うのが、一番下品な絵と言うことになる。

目利きはこの品格の違いを見定める。描く人間が意識するようなことではないのかもしれない。品格の全貌を考えるのは難しいが、品格のある絵は分る。マチスの絵が好きなのは、品格が高いからだ。他に言いようもないし、考えようもない。最近、ドイツに行かれている水彩人の仲間から、ハガキがきた。その絵ハガキはマチスの墨一色の筆の素描である。絶妙である。立派である。すごい技術でありながら、その技術が全く見えないように書かれている。巧みさが全くない。まさに子供の様に技術なしに描いている。しかもヘタウマではない。普通なのだ。普通であり、驚異的である。何もないようであり、十分である。マチスはそもそもヘタな画家だ。ヘタなままで良かった画家だ。本質が分っていたので、技術的なものが要らなかったのだろう。その脇目をふらない所が、画格の高さになっている。

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デング熱の感染経過

2014-09-03 04:24:55 | Peace Cafe


飯山周辺の山 中盤全紙 飯山あたりの風景はいかにも里山と言う場所が、まだ残っている。秋になったらまた描きに行きたい。






デング熱と言う、熱帯のウイルスの病気が代々木公園から広がった。この病気は蚊から感染が広がるということだ。人から人への感染はなく、蚊を媒介にするのが特徴ということらしい。熱帯では、感染者がいつもどこかに居て、その人から蚊がウイルスを抱えてしまう。そして人を刺して感染を広げる。さらに人の血を吸った蚊から他の人が感染をする、という循環が起きている。日本の場合、現在分っている36人のデング熱感染者が蚊に刺されない限り、感染は広がることはないということになる。今後注目しておくことは、代々木公園に行っていない人が、感染するかが問題になるであろう。代々木公園でまだ確定されない海外で感染したデング熱の感染者が、蚊に相当刺されたということが事の始まりなのだろう。その人はどこか外国で蚊に刺されて感染したのだろうか。これだけの感染が広がったのだから、発病はしていたとみた方が良い。発病したのに病院に行かなかったのか。

可能性が高いのは、外国人の旅行者で、そのまま日本を離れてしまったのではないか。代々木公園では、東南アジアからの多数の来訪者のイベントがあったと言う。この時が感染の発端になっていると思われるので、出来ればたどれればいいのだが。現在36人が分っている感染者だ。蚊の数は少なくとも10匹以上と考えられる。と言うことは、一人の感染者が発端だとすれば、相当に蚊に刺されたことになる。36人は間違いなく氷山の一角である。10倍は実際には感染したと見なくてはならない。まだまだ、感染者は現われたとしても、驚かないことだ。8月に代々木公園に行った人は、誰でも自分の身体を注意した方が良い。潜伏期間は長くて2週間くらいまでの様だから、今現在、発病してもおかしくはない。しかし大半は気がつかないままとなるだろう。重症化するということは、ウイルスが増加するということだから、感染者が再度蚊に刺されて、次に広げなければ自然治まるはずだ。

戦後東南アジアからの引き上げに伴って、日本でも感染が20万人まで広がったことはあるらしいが、そのまま終息した。寒く成り蚊が居なくなって自然に治まったようだ。熱帯でこの病気がなくならないのは、一年中蚊がいるからなのだろう。今回の感染の広がりを、徹底して調べておくことが大切であろう。必ずまた起こることだ。今回は代々木公園と言う場所が特定されているのだから、8月後半に代々木公園に行った人は、自己診断をして怪しければ病院に行ってもらいたいものだ。そうすれば、どういうレベルで、この病気が広がるかがつかめる。他の新しい感染症の例えば、鳥インフルエンザの感染が広がる場合の、参考にもなるはずだ。病気を畏れるだけでなく、その実態を把握しておく事が大切な対応である。エボラ熱が、アフリカで感染を広げている。この病気もワクチンの対策はない病気である。封じ込めがなかなか困難なようだ。こうした熱帯の病気が、日本にも及んで来る可能性は考えておく必要がある。

未知のウイルスによる、あるいはウイルスの変異によって、病原性の高まる病気の出現。こうしたことは常に考えておく必要がある。大規模畜産にその原因は隠れていると考えている。人間も生き物の一つである以上そうした病原菌と共に生きているのだ。体内には細胞の数以上に微生物が存在するそうだ。その総体として人間が生きていると考えられる。自分と思っているものと、自分を取り巻いているものと上手くかかわってゆくことだ。対立抹殺ではなく、共存である。自分の体の免疫力を少しでも上げることだ。そして、いつかは免疫力も低下して、死んでゆくことになる。日常の生活の中で、滅菌とか、消毒とか、自然と遮断することでは病気には対応できない。むしろ、様々な菌と触れることで、自然免疫力を高めることが大切だ。万が一を畏れて、大多数の人間が、健全な肉体の確保がされることを、見失っては成らない。デング熱でもウイルスに感染しても、発症しない人が80から90%と言われているのだ。その理由の方を考えた方が良い。
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稲の水管理

2014-09-02 04:23:25 | 稲作


桂林七星岩 インドの水彩紙 中盤全紙






良い稲作は水管理がすべてである。良い水管理を行うことで良いお米が出来る。水管理は良い土壌と表裏一体である。田植え後は出来る限りの深水管理である。分げつを確保するために、田植え後の浅水管理で分ゲツを取るという考え方もあるが、深水でしっかりとした稲を作ることの方が、重要である。田植え直後から深水することで、土壌のトロトロ層の形成が促進される。トロトロ層が初期に形成されることで、植えられた苗はがっしりしたたくましい苗に成る。トロトロ層が作られる為には、3つの条件があると仮説を立てている。一つ目は土壌に腐植を増やすこと。出来る限りの植物残渣を堆肥化して入れてゆくこと。落ち葉でも、稲藁でも、周辺の雑草でもいい。そして緑肥作物である。二つ目は田植え直後に微生物の餌と成る、米糠などの有機物を入れることである。それを行うためには、ここで十分に米糠が消費される様な、条件が無くてはならない。微生物の爆発的な発生が起きなくてはならない。三つ目は深水管理である。充分な水が常にある状態を作る。8センチ以上の水深である。これら3条件を5年間続ければ、田んぼの理想の環境が作り出される。

深水は、稲の生理からいえば、穂揃いまで続けたいことである。しかし、トロトロになった田んぼのままでは、穂が重くなるに従い、倒伏することになる。そこでどの段階でで土壌を固めるかである。それが中干しと言うことで、幼穂形成期以前に田んぼを固めてゆくという考えがある。しかし、それではゆっくりと分げつを確保する深水管理では、まだ分ゲツが進んでいる状況でもある。また、幼穂が形成され、徐々に大きくなってゆくためには水も今まで以上に必要とする。増して、出穂が始まれば、さらに水が欲しくなる。登熟期までは水を切るどころか、さらに水が必要になる。とすると、ここまでの間のどこかで、一番障害の少ない時期に、土壌を固める以外にない。その意味で中干しは稲の為にはやりたくはないが、収穫の為にはやらざる得ない作業と成る。その為に観察に従った、細かな水管理が必要になる。土壌を固めるぎりぎりの間断灌水と言うことを今はしている。間断灌水は、土壌条件によってかなり異なるが、穂揃い期以降であれば、かなり水を切ることが可能になる。

開花・受精後、子実の外形は、長さ→幅→厚さの順に決まり、その後30日頃まで玄米の充実が進む。出穂後10日~2週間頃が長さと幅が急激に増加しており、この時期を「登熟最盛期」という。また、粒張りを左右する形質である厚さが決定するのは最も遅い時期で開花後20日頃である。(かがわアグリネット)
出穂期にはすでに受粉が始まり、穂揃い期までは水が一番必要と言うことに成る。この時期稲に十分水が行き渡りながら、土壌を固め体という矛盾のある水管理が望まれる。それは野生稲の穂より、現代の品種は数倍の穂の重さがある為である。土壌がある程度乾きそこに新鮮な水が流れ込むということは、酸素をふくんだ生きた水が、根の周囲に到達するということになる。根を生かした状態で行けるかが重要になる。根が長く元気で活動できるための間断灌水でもある。それは止葉の状態に現われる。止葉が厚く、幅があり、長ければ、良い穂が作られるのだが、この止葉が長く活動してくれなければならない。その為には、根が元気であることだ。葉が最後まで緑が残り、光合成していることが重要である。

この為に間断灌水には、充分な観察に従わなければならない。朝一時間水を入れて、止めると言う間断灌水もある。深水まで溜めて、浸透させて乾くのを待つという考えもある。夜の間流し水を入れて、水尻を空けておく、そして朝止めるという考えもある。これは夜間25度を越える時の対応にはいいと考えている。いずれかの組み合わせて、徐々に水を控えめにして、登熟を待つ。しかし、倒れないのであれば、出来る限り最後まで水は入れてゆく。この最後の水加減で、良いお米はできると考えている。倒れるぐらい実らせなければお米は取れない。倒れないようなしっかりした稲を作らなくてはならない。思い出したので書いておくが、冬季湛水を試みたことが何度かあるが、土が緩くなりすぎて、良い管理が今のところ出来ないので、その後は止めている。
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9月の自給作業

2014-09-01 04:12:52 | 自給


陽朔 中盤全紙 しばらく、中盤全紙が続く、写真の撮影の都合である。どの絵ももう一度見ると又描く所が出てくる。完成ということになかなか至らない。この感覚はどういうことなのかと思う。意味があるのか、ないのか。






9月は稲の仕上げである。今年は9月後半の稲刈りに成りそうだ。出来れば10月まで稲が倒伏せず、維持してくれればと思っている。後2週間の水管理の頑張りである。根がしっかりしていて、後半の熟成は重要だと考えている。出穂から35日が一般の刈時の目安だとすれば、もう1週間は最低でも長い方が良いと考えている。2週くらい先でも、問題はない。45日ぐらいか。その為には、根が最後まで生きていることだ。充分に熟したお米の方が美味しいに決まっている。早めに稲刈りした方が美味しいと考える人がいるのだが、それは自然栽培ではないからだろう。自然栽培ではハザ掛けで干す。ハザ掛けで干すには、稲刈りの時にすでにかなり乾き始めている方が良い。少なくとも穂を見て、穂の根元の何粒かに緑が残っているくらいで刈れば、刈り遅れはない。刈るのを遅らすもう一つは、収量が上がるということがある。最後の追い上げである。止葉にいつまでも緑が残っているように栽培する。それは根がまだ活動している目安である。良いお米とは、元気な稲に実るお米ことだ。収量も畝どりが目標である。

根が早く弱り、止葉が黄色くなってしまうようでは粒張りが悪い。粒張りの良さがお米の最後の決め手だ。根の力があれば粒張りが良くなる。根が早く枯れてしまうのは、土壌と水の管理である。土が充分に良いものになれば、根は最後まで生きている。生きているとは腐敗しない土壌と言うこと。それにはできる限りの間断灌水である。土を固めながら、酸素を送り、流し水をしてゆく。この加減は倒伏との兼ね合いで、見極めの困難な作業なので、明日まとめて水管理として書きたい。稲の仕上げが収量には大きく影響をする。遅れ穂がどこまで実るかどうかである。田植えを2,3本でやると、中央の穂が大きく、実りも良くなるのは当然である。孫分ゲツになると、穂は2,30%小さくる。そしてひ孫分ゲツや遅れ穂になれば、青米でとどまる場合が多い。最後の穂まで、十分登熟させ大きな粒に実らせることができるかどうか。稲を倒しては成らない上のことだが、これを目標に観察しながら行うのが、9月の水管理である。



大豆は花が咲き、実り始めている。ちょうど良い時期に雨が降り始めて、大豆には恵みの雨だった。今年は、初めて土中緑化法が少し効果が出始めているのかと思われる。まだ結果は分らないが、土中緑化苗には堆肥を多く入れてみた。その影響がわずか見えてきている。この後9月の展開次第で、土中緑化法が本当に意味があるのかが分る。9月に雨がないと、水やりをしなくてはならない。今のところ何とか雨が降り始めて、土は充分に濡れている。花が咲いて実になるのかならないのかの差に、水が影響するというのだが。田んぼ跡から山の畑に変えてから水が心配だったのだが、平地の畑の様には土が乾かないということが分ってきた。雨量が平地の倍ある。また朝の露が平地より多いい。案外に水は大丈夫なのかとも思えてきたので、9月の大豆と水分の関係の観察を重視したい。今のところ花の数はそこそこある。

野菜はゴーヤ、キュウリ、は余るほど取れた。トオモロコシも出来が良かった。甲州トオモロコシは虫にやられなかった。味が違うということは分ったのだが、昔の様においしいとは思わなかった。種は残したので、また来年挑戦するつもりだ。ピーマンはそこそこ。ナスがまたダメだった。虫にやられた。これは最近毎年繰り返している。カメムシだ。これがびっしりついて木を弱らせてしまう。いくら取ってもすぐ集まるので、やられ始めたら諦める。この所もう一度回復傾向にある。コンポスターに作っているのは虫が目につくので、何とかなる。大して食べる訳ではないので、来年からは、コンポスターだけにしようかと思う。トマトは今頃なり始めて来た。9月に入ったらすぐ、1、大根 2、白菜、3、キャベツ 4、こかぶ、5、タマネギ6、ブロッコリー 7、ニンジン 8、ホウレンソウ (4日に実行)を播こうと考えている。畑は準備してある。これで結構来年前半の野菜になるのだ。そばはまた倒れた。肥料がわずかでも残っている畑で作ることはできないようだ
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