庭の眺め 中盤全紙 ファブリアーノ 自分の絵に好き嫌いがあるのも変だが、好きな絵である。まだできた感はないのだが、この次の絵が描きたくなる。
朝日新聞は遅きに失したとはいえ、社長が謝罪をして、問題を速やかに調査し、自分は責任を取って辞めると言うことを発表した。これで朝日新聞が生き残れるかどうか。私には無理に見える。それは先日も書いたことだが、記事のレベルが低下している。その理由は報道の明確な目的を失ったからだと思う。その為、内閣改造の日に、谷垣氏の話を社説で書いている。そして単なる経営に成ったのだろう。何故、誤報道事件と言うものが起きたかと言えば、目的が不明確な調査報道になっているからだ。――日本新聞協会は2013年度の新聞協会賞は、朝日新聞の「手抜き除染」が編集部門で受賞した。このスクープは、記者4人が計130時間、福島第一原発周辺の除染現場に張り込み、作業員が汚染された草や水を回収せずに捨てる様子を11カ所で撮影、作業員の証言も集めて1月4日付朝刊を皮切りに報道した。「政府が復興の柱と位置づける公共事業の実態と、本来の在り方を社会に問いかけた優れた調査報道」とされている。手抜き報道と手抜き除染なんだか、日本の現状が透けて見える。
除染等出来るわけがないと思っている。あの福島の広い地域の住居廻りだけを除染した所で、数千倍もある地域に対して手を付けないのだから、除染した場所も又ものとに戻ってしまう。こういう作業を一体誰が本気でやれるものだろうか。除染が発表されたときから、これは新しい形の、失業対策事業であり、無駄遣いの公共事業だとこのブログには書いた。除染が手抜きであると言うような調査報道が、無意味とは思わないし、それを根気よく現場で調査して報道するのは貴重なことだとは思う。しかし、調査しなくてもそうに決まっているようなことは、どれだけ報道の価値があるのか。その力を向けるべき所は違う。この記事が新聞協会で評価されるということは、それ以上の調査報道がない。このことの方が、深刻なのではないか。産経新聞等は鬼の首を取ったように、浮かれているが、我が身を省みるならば、大本営偏向報道そのものである。私のブログが左翼的偏向していても、(その自覚はある。)社会的には問題が無いように、産経新聞がいくら偏向していても、そういうタイプの新聞だと思われているにすぎない。
報道の公共性と言うことである。産経新聞のように批判精神を捨ててしまって、国家のお先棒を担ぐ報道の役割と言うことを、主眼とする新聞もあり得る。それは業界新聞とか、ゴロ新聞とか、様々な新聞があって、読む側もそのつもりで読んでいるものだろう。所が朝日新聞の場合、客観的な報道や、権力に対する警鐘を鳴らす役割と言うものを自認していた。権力を批判するためには、大きな方向性を持っていなければならない。私は地場・旬・自給という考え方を、人類の軟着陸地点として示したいという方向である。朝日新聞は果たして、そうした理想に向けての情熱を失ってしまったのではないか。作り出したい世界のイメージを持っているのだろうか。それが無いと、除染の是非という根本問題から目そむけ、因縁をつけるだけになる。世論を形成する前向きな創造力を失うのではないだろうか。そこには共産主義の衰退と言うことがある気がする。ロシアや中国の状態を見れば、方角はあっちだとは到底言えなくなったのだろう。
では、報道はいらないのかと言えばそんなはずがない。良いマスメディアがなくなったことが、日本の政治の劣化の現状を生んだ要因だと思う。民主党が政権を取ったあと、さらにどうしようもない政治に成った。沖縄の基地問題では、何の方向もないまま適当な思いつきを播き散らした。自民党政権のように、何が何でも辺野古に米軍基地を作ると言って、選挙結果に現われている住民の意思も無視するというのも、ひどい話だが。民主党のように、現実性のない空想話で終わるというのでは、統治能力が無いということだろう。政治と報道の劣化の背景には、日本人の思想の劣化と言うことがあるのではないか。価値観の喪失。目的の喪失。日本人としての文化的誇りを見失い、存在意義を見いだせないでいる。それは生活を確認できないでいる事に由来するのだと考える。日本人がお金という数値だけを価値基準にする、根なし草に成りかかっている。