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水彩画教室 4

2014-02-13 04:57:42 | 水彩画


庭の眺め 12号 家の廻りを良く描く。自分で整備した場所だから、良く分っている。絵を描くつもりで直した場所もある。


前回の水彩画教室3で書いたことを、もう一度考えてみる。絵を描くのに、その近道を考えるのは悪いことである。遠回りが良いに決まっている。絵の道は到達点の見えない道だからである。日本では美術学校にまで入学競争があるから、要領良く上手くなれる方法など、考えてしまう。絵に至る道まで、詰め込みの受験勉強まがいの要領があると考える。とんでもない考え違いで、そんな絵に対する考えで絵に接していれば、人間自体をダメにしてしまうだろう。もちろん、そういう完成形のあるタイプの絵が無い訳ではない。水彩画でいえば、オオルドイングリッシュスタイルというか、アメリカン水彩とでもいうものだ。こういうスタイル画は様式を身につけて、その様式で描けば済む。そういう世界にも、上手さのレベルはあるが、本来の芸術としての絵画表現とは別の世界のことだ。しかし、良くないことと承知で、マイナス承知で、絵のコツをまとめてみる。自分の中で絵を描くコツでどのくらい絵を描いているのかを、確認しておく方がいいかと思ってのことだ。

水彩画を描いていて気付くことがある。これを思い出して書き留めている。自分の絵のダメさを気付くことが、なかなか出来ないことが、一番厄介なことだ。他人の絵で簡単に分ることが、何故か自分の絵ではわからない。絵を描いているときは、良くしようとか、自分らしくしようと、たぶんしている。ある意味そのやり方に溺れている。それはダメである理由が、自分の人間から生じているからではないか。自分を認識することは難しい。ダメなんてない。と同時に、ダメなものはダメなものである。生きるということは豊かということや、深くということである。豊かに生きるために絵が役立っているのかの方が重要。私絵画の場合は、自分の世界というものにとことん入り込もうということだから、描いたものが自分らしくないということは致命的なことだ。自分を探していることが、絵を描いているということでもある。より豊かに生きて、より深く生きて、それが現われたものとして絵があればと思う。

絵を描き始める時には、描きたくなる何か対象が存在する。頭のなかにあることもあれば、目の前にあることもある。それを画面の中に作り出そうと、たどり始めるのだが、その時に辿ろうとする先が見えなければ、始めないし、始まらない。何を描くのかということなのだが、絵を描くときの「何を」は、富士山とか、酒匂川河口とか、具体的な何かということではない。富士山を描いて、その絵では何を表現しようとするかということになる。ここのところが肝心で、又難しい。一言でいってしまうとごまかしになるのだが、世界観とか、哲学ということになってしまう。これは分析しているようで実は、曖昧にしているだけだ。自分の中にある何かであることは確かである。自分が感動している世界というのが近いだろう。感動に引きつけられているという場合もある。対象に反応している自分の何かを見つめ直している。言い方を変えればこの何かを確認しようとして、絵を描くという実態かもしれないが、これもまた曖昧ないい方だ。

画体をもつということがある。文体のようなものである。自分の絵の方法を持ってその描き方で、自分の世界を展開する。今のところ私にはそれはない。もう何年かしたら画体を持ことを考る。それは頭の中での思考方法ということなのだろう。現状では具体的に展開するべき内容を把握できている気がしないので、画体を持つことは、危険だと思う。梅原流、中川一政流、鈴木信太郎流、マチス流、ボナール流、それぞれの画体があり、それが自分を語る上の語り口として、実にうまく作用している。ただし、これが癖のようなものであったり、借りてきたものであれば、ちゃちなまねごとに成り、絵を深める障害になるのだろう。それよりは、方法論は持たない方がまだいいと考えている。自分の世界観が確立されて初めて、自分の画体が生まれるのであって、無理やり画体を作ろうとすると、それは借り物の絵空事に成り、画格が伴わないものに成る。
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田母神氏610,865 票の意味

2014-02-12 04:09:15 | Peace Cafe


雪の夜 10号 ずいぶん雪が降った。40センチあった。ケイトラの荷台が、何か荷物を積んだように盛り上がっていた。雪明りというが、確かに雪の夜は、小さな光が遠くまで届く。



田母神氏610,865 票得票率 12.5% の投票があった。この意味は考えて置く必要がある。軍国主義を支持する人の数ということでいいのだと思う。軍国主義と私が呼んでいるものを、支持者が軍国主義と考えているのかは別であるが。明治時代の日本の目指した世界である。日本帝国を望んでいる人が、12,5%は確実にいる社会ということだ。この12,5%の人は、強い日本、競争に勝ち続ける頼りに成る日本を望んでいるのだろう。当然強い軍隊を持ち、核武装もする軍事大国である日本。今回は、田母神氏が立候補することで、今まで潜在化していて実態の数が見えにくかった、日本帝国をもう一度作りたいとする人の数が明確になった。若い人が多く投票したというのも、気がかりなことである。民主主義国家ということは、自由に考えてよいということだから、軍国主義を嫌いな人もいれば、好きな人もいて当たり前のことだ。洋ランを栽培する仲間に、保険会社の仕事をしていた人がいた。どのような考え方も、必ず統計的に現われるということをいつも言われて、その仕組みを何度も教えてくれた。

同じ洋ラン仲間の窪川さんが有機農業を始めたことで、有機野菜を食べる人の割合について言われた。どんなことにも必ず、支持者というものはいるものだ。だから、日本の社会の方向として、有機農業が正しいとか、間違っているとか考える必要がないというのだ。5%を対象に考えれば、どのようなことも成立する。日本人全体を考えれば、有機野菜が広がることはないが、5%の人でも十分生きていける。それでよしとして生き方を選んだほうがいいと言われていた。それは、5%の仲間だからこそ、とても結びつきが強くなるとも言われていた。以前から、装甲車のようないでたちで街宣活動をしている人はいた。赤尾敏氏のように渋谷の駅頭で毎日、演説している人もいた。源田実氏のように、人気を博した元軍人もいた。しかし、今回の中心に成ったのは、ネット右翼と言われる人らしい。普通の社会人のような顔をして、はっきりと戦前の社会の再現を望む人たちが現われたのは、始めてではないだろうか。今起きていることは、いつも存在する5%が12,5%に膨張したと考えなければならない。あるいは、投票率を加味すれば、5%理論が当てはまるということか。

少し違う傾向が、日本社会に生まれてきているように感じる。経済復興から、経済成長の大きな時代には、過激な国粋主義的な傾向の人たちは、社会の許容範囲の5%の中にあった。日本が経済的停滞に入り、隣国が目立つようになってきた現在、余裕のない、競争心が軍事拡張の意識に繋がっている気がする。経済で圧倒することはできなくなった。むしろ、圧迫されている分野も出てきた。軍事的な不安も生じ始めている。力を持って対応しなければ、日本は押しつぶされるのではないかという不安感が、通奏低音のようにある。そしてそれと比例して、日本頑張れ頑張れという、掛け声が聞こえ始めている。田母神氏が政策として出していたものは、常識的なものであった。経済主義という点でも驚いた。原子力発電を推進することも、中小企業の経済の為というような、組み立てであった。核武装を前面に押し出してということでもなかったのは、何故なのだろう。まさか本気で当選する気があったとも思えない。もしかしたら、当選すると考えている様な政策だった。

石原氏の維新の会は安倍氏との連携を考えているのだろう。安倍氏の言いたくても言えない範囲のことを、露払いとして様子見をしている。橋下慰安婦発言もそうだった。安倍氏を代弁しているつもりの気がする。安倍氏の痛恨の極み部分を代行している。そのために、田母神氏がまさかと思ったが、公共事業を強調したりしていたのだろう。今後経済がどう転ぼうが、格差がさらに広がることだけは確かだ。国内も不安定化する可能性の方が高い。小選挙区という選挙制度では、30%しか支持されない自民党が、創価学会と組んで、圧倒的多数に成る。こうなるとアベノミクスのごまかしが終わる時が怖い。世界の経済競争で、日本が勝つような可能性は、残念ながら低い。12,5%の田母神氏の支持者が今後どのような変化をしてゆくのか。政治的なまとまりを持つようになるのか。いずれにしても、はっきりとした政治的右派が誕生したということだ。
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カジノの何が問題か。

2014-02-11 04:28:05 | Peace Cafe


渓谷 木曽川 10号 縦横が間違っている。今度直すが今はこのままにしておく。真上から見るという構図に興味がある。川だからこれもない訳ではない。不思議な絵なのだが、自分ではまだこの先がある気がしている。縦にすると滝に見える。水の持つ、神聖な世界。水神。





カジノが出来ると、その周辺では10%の犯罪の増加、アルコール依存症の増加、が起きているとアメリカの研究があるそうだ。カジノはネイティブアメリカンの居留地に出来ることがよくあるそうだ。これと言って産業もないので、カジノで町おこしということらしい。この辺は原発や軍事基地を誘致してまで作る心理と似ている。そしてそのために、アルコール依存症が増加する。そして家庭が崩壊して、その子供が犯罪に手を染める。こういうことが他所の地区より高くなると報告されている。確かにカジノで町には収益が上がる。と同時に、カジノのある自治体では、税の負担が生じている、とも書いてある。結局のところ、経済に暮らしが軽視されるということではないか。金がもうかるなら、何でもやりたいというのが、地域の生き残りである。金の為にはきれい事など言っていられないという、象徴的事業がカジノである。賭け事など、健全な暮らしからすれば犯罪のようなものだ。

何故そういうことを強く思うかと言えば、自分の中にそういうものにおぼれそうな、側面があるからだ。子供の頃、メンコとかベイゴマとか勝ち負けに燃えていた。自分の集団では、もうやってくれる人がいなくなり、遠征しては、つぎつぎに周辺地区に挑戦したほどだ。その内、やり過ぎて誰にも相手にされなくなった。メンコでもベイゴマでも、ともかく道具に工夫をする。メンコを蝋で煮たり、ローラーで圧力をかけて固めたりした。ベイゴマは比重の重い、かたい金属を探して、大きなベアリングから削りだした。負けない為に、勝つために、凝りに凝ってしまうのである。そして中毒症状に成り、片時も忘れる事が出来なくなる。それが将棋に成って、これもずいぶんやった。しかし、賭け将棋はやらなかった。もし、これが賭けるという要素が入れば、はまり込んで恐ろしい状況に成ると考えていたからだ。賭け事は、常習性があり、中毒症状に成る。それを感じていたから、近づくことを避けて生きてきた。ドフトエフスキーの「賭博者」を読むとその心理が良く分る。

私のタイプは、技術的要素があるものが好きだ。昔の手打ち式のパチンコ台なら、はまったのかもしれない。何かをして技術が向上して勝てるようになるというのが、好きだった。それは今やっている、絵を描くことも、田んぼをやることも、少し似ている。違わないが、勝ち負けということがないところがさらに面白い。そのことに幸い気付くことが出来た。農業をやったり、絵を描くことが、金儲けに繋がるから頑張るという人もいるだろう。そういう意味で、資本主義経済というのは、人間の中にある、賭博者的資質を刺激して出来ている。確かに、競輪競馬より株の方が、配当率が大きい。株取引を仕事にする人は、本当の賭博者と言っても良いのだろう。株にハマっても自分の枠内で、始末できる人もいる。しかし、株の投資で身を滅ぼす人もいる。日本でカジノを解禁しようという国会議員連盟がある。こういうことを考える人は、よほど自分が賭博にはまらない自信がある人なのだろう。あの浜田議員や、王子製紙の社長のように、身を滅ぼす人は数限りなく存在する。カジノ中毒者はその人間の能力とは関係がない。

カジノ解禁は日本が堕落してゆく象徴である。何も、公明正大な健全社会だけが方角とは思わないが、せっかく人類が乗り越えてきた、ダメな方向に後戻りすることはない。アメリカ社会のまねをする必要はない。脱法ハーブとか、マリファナとか、法基準は各国によって異なる。どこまで法の取り締まりを取り除くかということより、社会的常識の範囲を、ゆるめないという健全さは保つ必要がある。これが禁酒法となればさすが行き過ぎというのが、社会の許容範囲だろう。又、社会規範を緩めればきりがない。カジノのない社会が、現在の日本の常識の範囲の、普通の健全な社会だと思う。せっかくこういう社会を作り出したのだ。カジノを健全娯楽などと考えるのは、賭博中毒の恐ろしさを身内で経験していない人だ。今ある公営賭博も、徐々に止めてゆくべきだ。これからますます税金が足りなくなり、カジノ依存症に国が成りかねないことを恐れる。
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アベノミクスの崩壊

2014-02-10 04:47:24 | Peace Cafe


八ケ岳冬 10号大 




経常収支は3兆3061億円の黒字だった。黒字幅は前年に比べ31.5%縮小し、現行基準で比較可能な1985年以降では12年(4兆8237億円の黒字)を下回り最小だった。アベノミクスは成果を出せないまま終わると考えている。これはアベノミクスが実質経済を見ようとしなかったからである。全体が見せかけで出来ている。実際に経済の構造は何も変えることはできなかった。そして、経済格差を拡大させる役割は果たしている。この4月以降に、かなりの経済の衰退を予測しなければならないだろう。アベノミクスの主たる手法は、為替の変動による刺激策である。為替が円安に振れている間に、実質経済の転換が行われなければ、成果よりもそこから来る反動が日本経済の衰退させる。経済は公共事業の支出により、かろうじて上昇を示した。しかし、その後の反動により、4月以降深刻な不況に陥ると考えた方がいい。復興予算ということで、一定期間の財政支出も受け入れて頑張らなくてはならないという、社会的な理解があったと思う。しかし、その復興予算も、円高基調であれば、輸入に耐えることが出来た。円安に振れて燃料輸入価格の増加が貿易赤字として、膨らんできた。財政支出の膨張ほど、効果は上がらなくなる。

アベノミクス円安は、国内の一部製造業には恩恵をもたらしたが、こういうことは経済構造の転換とは何の関係もなく、既存経済を温存し、保護し、むしろ構造改革とはほど遠い結果をもたらしている。「給与を上げろ」などと、総理大臣が繰り返し唱えるのは、見苦しいパフォーマンスである。政府が本気で給与を上げたいのであれば、そういう政策をとる以外にない。しかし、実際には経済には給与を上げられる背景がない。安倍方式では、法人税を下げるから、給与を上げろと主張している。とんでもないことだ。給与を上げれば、企業の利益は減り、そもそも法人税は減るのだ。給与が下がったり、財政支出が増加するのは、日本の産業構造や、労働人口の減少、福祉予算の増加による。産業構成として高額の給与を出しても、利益を出せるような製造業は、海外に移転している。国内の労働人口が、福祉的産業に移動している以上、給与所得は増加するはずがない。

給与を上げるためには、賃上げではなく。賃金の高く出せる産業を作り出す以外にない。それが第3の矢のはずだった。ところが、古い企業体制を温存することばかりに、安倍内閣は熱心で、新産業については、建前論の口先だけで終わっている。法人税を下げるより、その分を新産業育成に使う方がはるかに日本経済の為に成るはずだ。アベノミックスの方向は、格差社会である。上の階層の人が頑張って、下の階層の方まで引っ張ってくれるという構想だろう。そういうことはあり得ない。大半の下の層の人たちは、給与の上昇など関係もなく、ワーキングプアーに固定化される。円安が日本の為に良いわけがない。日本人の下の層の暮らしは円高の方がいい。円安で企業が輸出をしやすくなるのは確かだが、その分暮らしは全体に苦しくなる。現代の暮らしは食糧すら6割が輸入に頼っている。エネルギーに関して言えば、大半が輸入だ。こういう構造で、円安誘導をするというのは、暮らしを追い詰めて、企業に一息つかせようということだ。

企業が良くなることが日本が良くなることになるというのが、アベノミックスである。だから給与を上げろなどと、口先介入である。給与が上がる政策をやればいいのだ。例えば、逆に法人税をもっと高くすれば、給与を上げる可能性はある。最低賃金を上げれば、全体の給与水準が上がる。このままでは日本はとんでもないどん底に向かう。新しい産業を創出しない限り、日本の可能性はない。それは例えば、山中教授であり、小保方さんである。政策として、そういうところに国を挙げて支援をするべきだ。それはエネルギー政策でも、原発にこだわる、既成製造業支援の為のものでなく、新産業として考え推進しなければ、世界をリードできるような新開発はできない。同時に、格差が縮小する政策をとる。頑張っている人が金銭でなく、誇りを持てる安心した社会である。農業をやることは収入は低いかもしれないが、誇りを持って、安定して取り組める仕組みを作る。はずれてくれればいいが、経済降下が近付いている。
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田んぼの雪の消え方

2014-02-09 04:32:52 | 稲作


妙高岳 妙高岳はどこからでも描きたくなる。良い角度、方角があるということはないのがおもしろい。やはり雪がある時が良い。春先の雪が消え始めた頃は、特に面白い。私の場合、ともかく近づいて描きたくなることが多い。




今朝は雪が30センチある。小田原に来て一番の雪だっただろう。田んぼでの雪の消え方を楽しみにしている。田んぼの土壌が冬の間暖かいということは、大切ではないだろうか。雪国では、積雪で土壌が守られているようだ。冬の土壌の状態を雪の消え方で判断するということを、自然農法の石綿さんは写真撮影をして説明されている。今ある雪で、もう一度今年の雪の消え方を撮影してみる。その雪の消え方が遅い事例として挙げられたのが、その頃私がやっていた田んぼだった。それでよく考えてみたのだが、その写真の事例は、地温ではなく、土壌の草の状態にあると私は考えた。先日も、久野で雪が降ったので、田んぼの雪の消え方をあちこち見に行った。案の定、石綿さんの田んぼは今年はいつまでも雪が消えない。むしろ、悪い事例として挙げられた、お隣の田んぼはすぐに雪が消えた。実際には雪が消える姿は、様々な要因がある。土壌表面の状態で大きく変わる。秋起しをした場合と、しなかった場合では、当然違う。観察してみるとこの違うにもいろいろあって、単純なことではない。単純というのは自然農法でやっていれば、微生物が多くなり、地温が上がり、雪の消え方で判断できるという考えである。

藁を播けばその上は雪は消えない。草が生えていればその上は雪は消えない。水があれば雪は消える。欠ノ上の田んぼは、お隣は秋起しをした。私達は秋にソバカスを播いて、秋起しはしない。それこそ雪は私達の所はすぐに消えた。お隣は2日立っても消えなかった。土を大切にするには秋起しはあまり良いことではない。乾土効果ということが言われるが、抑草にはいいのかもしれないが、土壌を育むためには、表面に草があることが大切である。冬の間、土壌が育まれるためには、どんな条件が必要か。小動物や、微生物の餌となるものが豊富にあること。腐植質が沢山あり、土壌に間隙があること。環境がかく乱されないことも大切だと思っている。藁や落ち葉や草で、土壌の表面がおおわれていることも、大切なことである。舟原田んぼでは、藁を広げて薄く全体に播いた。その上から、ソバカスを播いた。こうした成果の蓄積は、翌年では結果が出ない、何年かやっている内に、土壌に粘りが出て来たとか、水を入れた時のミジンコの大量発生が起きたとかいうことにつながる。

そうしたすべての結果が収量に反映する。収量は低いが、お米に不思議な力があり質が良い、などということは、私は信じない。化学肥料を使う稲作とは全く別である。自然農法では、むしろ、収量と米の品質は比例する。5俵以下の田んぼのお米は、質も良くない。粒張りが良い上に、味がさわやかで甘味があるお米は、収量も良い。草がある方が品質が良くなるという経験がない。稲には、草はないほどいい。良い田んぼになればなるほど草は少なくなる。それは水を入れた後の、トロトロ層が良く形成されるからである。トロトロ層の形成には、相当に長い年月が必要である。一番が腐植質の蓄積である。耕作放棄された田んぼはすごい腐食があり、ここに糠を播くとトロトロ層が一気に出来る。これを継続してどうやって耕作法により再現するかである。稲があるということは、土壌から大量の要素を取り出すことになる。これが安定して加えられなければ、土壌はやせてゆく。

田んぼではそれを、水が土壌を豊かにしている。山を母とするのが、田んぼだ。水を生かすための腐植の投入ということが重要であろう。稲藁を田んぼに戻すということは大切ではあるが、生の稲藁が土中に入ることは、その分解が水を含んだ酸素不足の土中で行われると、土壌に悪影響を与え、土壌の腐敗に繋がる。地上で分解された稲藁が、堆肥となり、土壌に入ることが大切である。これを冬の間に行うためには、稲藁の分解する窒素が必要となる。堆肥化された稲藁が、春に土中にすきこまれることは、土壌の補給に成る。雪の消え方は確かにバロメーターになるが、単純にそれを基準にすることはできないということである。雪の消えにくい状態ガいいという場合もある。結論としては、雪の消え方と地温とは別物ということ。冬の地オンの上昇は重要である。これは計ってみる以外にない。



1日目のI田んぼ



1日目のSの田んぼ



2日目のI田んぼ



2日目のS田んぼ




3日目のI田んぼ



3日目のS田んぼ
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代作の交響曲HIROSHIMA

2014-02-08 04:35:50 | 水彩画


酒匂川河口 10号 河口の絵はよく描く。河口には何か描きたくなるものがある。山と、川と、海の、出会う物語のようなものが、凝縮している。そうした物語が絵と関係があるのかも良く分らないが、ともかく、描きたくなる。しかし、人工物で汚され、壊され、河口らしい、良い河口というものが失われている。




佐村河内氏の「交響曲第1番 HIROSHIMA」は他人が作ったものだった。食品偽装を連想した。車エビが車エビではないのに、グルメが堪能していた事を思いだした。伊勢海老の味よりも伊勢海老という名前が独り歩きする。これは、絵の世界でも同じことである。ゴッホの絵よりもゴッホ物語が人を引き付ける。商品の時代だから、売れるならどんな物語でも作り出す。芥川賞だって、作者が特別な人の方が本が売れる。売れる出版をしなければならないという企業は、止まる訳に行かない事情がある。音楽業界も同じなのだろう。障害のことをアピールするというやり方が、ベートーベンをイメージさせるとは言え、何とも気持ちが悪い。作品というものは発表された後は自分のものではない。以前も書いたが、このブログに出している絵もどうぞご自由にお使い下さいということである。版権とか、創造物とかいうものは不要と考えている。作品は商品ではない。有効に使えると考えるなら、誰でも自由に使える。

代作をした人はどう考えていたのだろう。代作の新垣隆さんは、現代音楽の作曲家で、桐朋学園大学で講師でもあるらしい。18年という長い期間、28歳から続けていたという。ずいぶん複雑な動機と背景があることだろう。会見の様子では、自分の作品が評価されるのであれば、どんな手段であれ構わないと言う理由でもないようだ。佐村内氏の要望に答え過ぎて、落とし穴に落ちたようだ。落ちた穴から出ることが出来なくなった。本当にこの2人のことだったのだろうか。絵の世界では、タレント作家という人がいる。やはり絵は売れている。商品絵画作家の、鶴太郎さんの作品は小田原駅のコンコースの上に、巨大な陶板画がある。どれほどのものか一度は見る価値がある。判断はそれぞれにお任せするが、これが代作でないとすれば、本人に審美眼があるなら、降ろしたいことだろう。今後長く残ってゆき、どういうことになるのかは、小田原という町の見識が決めることだろう。鶴太郎さん自身は作風を変えて、今はヘタうまは止めた。リアル路線である。代作の背景には、販売価値がある。

商品絵画の世界というものをきちっと認識し、位置づけた方がいい。美術の一分野ではあるが、クール日本とかいう、アニメの世界と同じことである。商品であるから、経済として重じられ、出回ることがその価値である。、絵画という芸術分野とは別ものと考える。絵画は衰退し、社会的価値を失い、個人的価値の問題になった。というのが認識である。それを「私絵画」と呼ぶことにした。どこまでも自分の為の絵画であると考えなければ、存在の立脚点がない。描くという行為に主たる動機がある。千日回峰行が結果を求めないのと同じことである。無駄なことである。無駄なことだから、自分という存在に何かをもたらすかもしれないという考えである。千日回峰行を支えているのは、お布施である。ご飯も食べるし、服も着る。修行者の暮らしは、それを尊いと考えた人が支える。私の場合尊いというほどのことをしていない以上、自給生活を目指す。自給で生きているのだから、後は絵を描いていても問題がない。

佐村河内氏や代作者や、もしかしたらその背後に居た人も良くない。その背景となる音楽業界のあり方は、ひどい世界だ。音楽業界では、代作など横行しているのだと思う。私が作りましたなどと自慢げに説明する、歌手が沢山いる。その方が売れるということだろう。現代音楽の作家が、ヒロシマを作るのは堕落したと言われる。代作者がヒロシマを発表して、評価されたのかどうかである。たぶん評価はされたのだと思う。しかし、それほど売れることはなかっただろう。もしかしたら販売もされていないのかもしれない。そういう商品経済の時代である。しかし、作品を発表する事は誰にでもできる。オーケストラに演奏してもらうというのは、難しいだろうが、楽譜を世間に公表することは、自由である。U-チューブには色々な音楽が存在する。絵を描くということはさしてお金がかかるものでもない。勝手に描いて、一応公表するというスタンスがいいと思っている。それが何かに成るということではなく、ただただ続ける。
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暖房0生活

2014-02-07 04:16:02 | 暮らし


山北、傾斜地 5号 もともとは、横に連なったった作品だった。12枚で組に成る作品として書いていた。最近独立したものとして、少しづつ又描いている。掛け軸とか、短冊のような構図は従来日本では、普通の構図であった。床の間の成立と、関係しているのだろう。




暖房0生活を続けている。原発事故以来という訳ではない。結構長くなったと思う。そもそも寒さは我慢できる方だと思う。冷房も昨年の夏は、ほぼ使わなかった。というか私の家の構造では、冷房より開け放った方が涼しい。夏向きの家だ。だから冬は結構寒い。生まれた向昌院は家の中で風が吹くというほど寒かった。戸棚の中の醤油が、凍っていることがある。甲府盆地の標高400mの日陰にある家で、すべてが凍りつく。ピースカフェ―という通信を始めた頃、エコ生活を取材した。七輪生活という人がいた。電気をほぼ使わないという人もいた。路上生活の人の合理的な暮らしを取材させてもらったこともある。色々勉強させてもらう内に、暖房0生活が面白そうに見えたのだ。と言っても私のやり方は結構お金のかかる暖房0生活であって少し恥ずかしい。暖房0だからと言って支出がどの程度減っているのだろうか。今年の冬対策の目玉は、人型シュラフである。今もそれに包まれて、書いている。ヒューマンノイドの羽毛シュラフである。布団の中に居るようで、出たくない状態である。

足には、羊毛のブーツのようなものを履いている。下着は上下メリノウールの登山用の防寒タイプである。その上に、フリーズを着て、羽毛のチョッキ、そして羽毛のジャンバーと、重ね着である。ともかく軽いものを選んでいるので、これだけの重ね着でも、着苦しいということはない。その上にテーブルには、周りから毛布を垂らしてある。外が氷点下になると、部屋の中でも2,3度にはなるが、何でもない。だから猫が温まりに寄りついてくる。いまはルルがいる。これでトイレに行けるのかと言えば、緊急でも結構大丈夫なのだ。コーヒーもこの状態で毎朝入れている。今ももう一度、確認に実行してみたが、問題がない。良く出来ているとは思う。このシュラフの欠点は、縫い目や、あちこちから羽毛が漏れ出てくることだ。縫製や布が悪いのだろう。ダウンとフェザーの違いもある。残念な点だが、実用的にに困るほどではない。袋に入れて片づけるのは確かに困難だが、春まで袋に入れないで、エモンかけに掛けて使うので問題はない。

靴下は必ず重ねてはく。これは夏でもそうなのだが、足を温めることを重視している。足裏マッサージや、管足法というものがあり、これがなかなかいい。お風呂の中で手でやる。お風呂でじっとしていると退屈するので、やれることがないかと色々やる。足をあれこれ揉んだり押したりする。岩風呂のとがった石にどんどんと押しつけたりもする。お風呂では体液の循環が良くなっているから、効果がさらにあるのではないかと思う。何故足を揉んで肩のこりが取れるのかは不思議なことだ。何かが繋がっているようだ。足の親指の両側を強くこすっていると、首筋のこりが取れた。現在注目しているのは、高校1年の時に、足の指すべての爪が、真っ黒になった。陸上競技で走りすぎた。そして右足の親指は特にひどくて、治ることなく、爪は死んだままで今まで50年来た。しかし、どうも変化を生じた。もしかしたら爪が50年ぶりによみがえるかもしれない。足を揉み温める。免疫力が上がるという説もあるようだ。

足さえ温めて置けば、全身が温かくなる。ホカロンを張るなら、足である。足さえ暖かくしていたら、寒さは乗り切れる。次は腿。そして背中。の順番で寒さ対策をしている。本当の防寒対策は、寒さを味わうことである。寒さも良いものである。寒さを受け入れれば何とかなる。冬がなければ、気持ちが深まらない。身体にある程度のストレスを与えることは必要である。寒いから風邪をひくということではない。味噌や醤油、どぶろくと発酵物は寒い時期が一番向いている。空中の菌が治まっているのではないだろうか。風邪をひくのは、免疫力の低下と、ウイルスである。笑って暮らせば風邪をひかない。笑うのは嘘笑いでもいいので、笑っている内に本当に笑えるものだ。寒さも良いものだと思って味合おうと考えると、不思議と寒くなる。立春を過ぎて寒さの底が来ている。立春大吉と張りだしてある。しばらくは一番の寒さを味わうつもりだ。
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維新橋下氏の違和感

2014-02-06 04:18:21 | Peace Cafe


平戸 10号 以前掲載し絵と同じ場所で描いた一枚である。もう一枚ある。何故このように違う絵に成るかが興味深い。ともかく今は、描くことに専念する。






橋下氏は大阪市長を辞任して、出直し選挙をやるらしい。当人は大義があると力んでいる。慰安婦問題を発言した時も同じだが、掴みはいいのだがあのときは、謝罪や取り消しもあったはずなのに、NHK会長に便乗して、又余計なことを発言した。大阪都構想との関係らしいのだが、今辞任してまで問わなければならない、切迫感が世間的にはない。焦りが生じているのだろう。しかし、日本全体からみれば、状況判断は間違っている。大きな方向性のない思いつき政治という弱点をさらしている。大阪都構想を宣言して、大阪市長に成った人だ。何度出直し選挙をやろうが、議会の構成は変わらない。自分の人気をよりどころに行動している。愚かなタレント政治家にしか思えない。これに比べれば、名古屋の市長の方がはるかにましだ。議会が動かない時に、議会の解散のリコール運動を仕掛けた。議会をリコールして、市議会議員を入れ替える。これ以外に議会が変わる方法はない。それが民主主義の普通のやり方だろう。しかし、今大阪市議会が選挙をやれば、維新が減るだけだろう。

実は問題の焦点は公明党である。最近の日本の政治の鍵を握るのは、公明党の信仰票である。浮動票ばかりの政治状況の中で、確定した票があるということが、政治を動かしている。例えば、表面的には安倍氏と創価学会の池田会長では、憲法に関して考えが違う。この考えの違う人が一緒に成って、実際の政治を動かしている。自民党の衆議院の候補は、創価学会の票を貰わなければ当選できないという人も多い。今行われている都知事選挙もそうだ。創価学会票が、どこに行くかで当選が決まる。もし、創価学会が自由投票になれば、選挙結果は世間的な実情に沿う。最近行われた、沖縄の名護市の市長選挙がそうだ。自民党がどう頑張っても、創価学会票がもらえなければ、当選が出来ない状況が生まれている。創価学会が、辺野古移設に賛成すれば、末松氏が勝利しただろう。自民党は国会運営としては、議席数で、創価学会を無視しても良いのだが、創価学会の票が自民党から離れてまたどこかにくっつけば、今の自民党の議席数は3分の1は減る。これが小選挙区制だ。

大阪市議会でも維新に対して、距離を取った公明党がキャスティングボードに居る。自民党は寝技が得意だから、公明党に負けていない。むしろ、安倍政権は公明党を軽くあしらい始めている。ところが、橋下氏のような単純な売られた喧嘩を買う人は、簡単に公明党に押し切られる。維新の会は、両代表が、めちゃくちゃの行動をとっている。人気だけでは政治はだめだということだろう。2重行政の無駄づかいを正す道は、都構想だけではない。現状の中で、やれることをやり、その実績をもとに、次の市議会選挙を頑張ればいい。それがまっとうな政治だ。区割り案の段階でぐずぐずしているのは、各党反対はしていないが、つぶそうということだろう。政治は時間がかかるし、間尺に合わない。テレビのようにはいかない。議会で過半数を取れなかった。その結果橋下氏は公明党に依存したのだ。公明党と連携することで、橋下独善をやろうとした。これは安倍氏と同じ構図。公明党に逆らうものは、生き残れない日本の政治状況。巧みな創価学会の動き。

大阪市民は選挙に行かないか、白票を投票すればいい。無駄なことを思い知らせてやればいい。結果として橋下氏は当選はするが、支持はされていないという状況に陥る。そして辞任するだろう。又選挙である。何とも面倒くさい断末魔のあがきであろうか。それくらいなら、辞任するのは今でしょう。公明党は人の尻馬に乗るのではなく、自分の政治を行うべきだ。そうしなければ、日本の政治は悪くなる一方である。現世利益とアベノミックスは確かに似ている。最近、維新から明治にかけての宗教組織の取った行動を研究した本を読んでいる。つくづく宗教組織の恐ろしさを思う。宗教兵まで動員して、あっちに着いたり、こっちに着いたり、自分の宗教が生き残るため、有利になるためなら、人殺しなど何でもないという宗教組織。オーム集団と何ら変わらない。日清戦争、日露戦争、その都度人を出すか、金を出すかで、政権にすり寄る行動をとった日本の宗教組織。日本帝国主義の為に協力する宗教。いつの時代も同様のことが起こる。
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柿酢の作り方 2014

2014-02-05 04:18:10 | 自給



山北の傾斜地 5号 昨日の絵の続きの一枚。抽象にも見えるが、抽象画ではない。













柿酢は2年おきくらいに作る。毎年作っても余るからである。いつもは甕で作っている。甕は家の外に於いてあった。今年はガラス瓶で作って、机の上に於いてある。柿酢が出来てゆく経過の写真を取ろうと考えている。上の写真は1月の11日に柿を木からもいで、詰めた所である。柿は渋柿である。木に付けたまま、落ちる直前という感じである。柔らかく熟すのを待っていた。ヘタを取り去るのも簡単に取れる位の状態である。瓶を抱えて、脚立に乗ってもぎながら詰めていった。ヘタの取りにくいのもあったが、ヘタをつかんで力を入れたら手で取れる位には全部が成っていた。ヘタは以前は付けたままだったが、今回はヘタはいらないと思って入れなかった。これをガラス瓶に一杯に成るだけ詰め込んだ。最後は少し押し込んだくらいの状態である。柿を洗うことはない。ただし、よく雨の降った日の翌日を狙った。10分ぐらいの作業で終わった。瓶には中ブタはした。小さな注ぎ口は空けてある。赤い蓋は載せてあるだけだ。これで、経過を眺めている。





すぐに水分が染み出し始め、翌日には下の方5ミリほど水分が溜まった。3週間で一番上まで水が来た。写真は2月3日のものである。柿の木にはすでに柿はない。液は濁って来ている。小さなあぶくが少しずつ上がっている。1週間ほどした時に、3か所に白い糸状菌のようなものが付いた。そのままにして置いたら、湧いてきた水分に埋もれている。いつもこういう白い菌糸は発生する。液をなめてみると、甘く、少し酸っぱいような液である。どうも味から言って、このまま置いたらお酒に成るのかというような感じの液である。香りは柿のほのかな香りと、乳酸発酵をしているような甘酸っぱい香りがしている。又3週間ほどしたら、この続きで写真を撮り報告する。




3月9日の様子
だいぶ水分が上がってきた。柿が浮かんでいる感じだ。すでに酸っぱい香りがしてきている。液はまだ白濁している。上部の水面にでた部分に白いカビがある。先日、だんだん出来てくるトコロテンのような物体は、お酢に成る菌ではないとのことを言われた。しかし、いつもぶよぶよの物体が出来てきた。そして、お酢に成っている。どういうことだろうか。今回のものを継続観察をしてゆく。



4月16日の様子
柿はやや沈んできた。白濁はさらに進む。



6月26日の様子
完全に沈んだくらいで、さしたる変化はない。



7月24日の様子
較べてみると濁りが濃くなってきた。なめてみたら、酸っぱくなっている。しかし、柿酢というにはまだまだである。



9月3日の様子
この所見た目の変化はないが、味はどんどんお酢らしくなっている。もう使おうと思えば使えるような味だ。



10月31日の様子
ほぼ完成だが、まだこのまま置いておく。次の柿を仕込む時期が近付いた。



2015年 1月5日の様子 仕込んで11カ月経過した状態。完全にお酢である。かなりきつい味だ。色は沈殿が進み、透明になっている。

2015年 5月7日の様子 仕込んで1年3カ月経過したものだ。お酢である。入れた柿が黒ずんできた事と、お酢の透明度が増した。もういつ使ってもいい状態であるが、他のお酢もあるので、2年ぐらいで使う事になるのだろうか。

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細川氏、宇都宮氏の一本化を

2014-02-04 05:58:41 | Peace Cafe
今回の都知事選挙は、都政の問題を越えている。現在の流れでは、舛添氏が当選するだろう。しかし、反原発票の、細川氏と、宇都宮氏を併せた票はそれを上回るに違いない。もし、本当に両陣営が脱原発を考えるなら、両者が話し合いをして、一本化するほか道はない。自民党から共産党まで、考えが入り乱れているのは誰にもわかる。しかし、今何が重要なのかを考えてほしい。降りた人を副都知事に入れればいいではないか。そして両者で都政を担う。今ならまだ間に合う。
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水彩画教室3

2014-02-04 04:28:25 | 水彩画


山北、傾斜地 5号 もともとは、横に連なったった作品だった。12枚で組に成る作品として描いていた。最近独立したものとして、少しづつ又描いている。掛け軸とか、短冊のような縦長の構図は従来日本では、普通の構図であった。床の間の成立と、関係しているのだろう。




絵を深めてゆくためには、絵を描くというそのことを深く考えなければならない。何のために、何をしているのかである。好きだからとか、面白いからとかいうのでは、絵を描く意味を確認したことにならない。たぶんそこに趣味の領域と、絵を描くことを人生の目的にする違いがあるのだろう。私の場合描かれた絵が役に立つものでなければならないという、呪縛に長いこと囚われてきた。絵が社会を変えてゆく役割を持つということである。そう思い込んで、ずいぶん長い間描いていた。絵が好きというより、社会を変えるためにはどうしたらいいかということが先にあって、人間が変わらなくてはならないということになった。人間が変わってゆくためには、方角を示す指針が必要だと考えた。それに基づき教育が行われる。その手段として絵というものがあると考えた。身近に絵を置くことで、少しづつ絵に示された価値観が浸透して行くと考えていた。そう頭で考えて絵を描いてきた。ところがそれがなかなか上手く行かず、結局のところ、現代社会に於いて、描かれた絵にそういう力はないというのが、結論になった。

弘法大師の言われるように、12年かけて正しい道を心に秘め、行脚の道を歩み始めている。まず、1年目は、今まで自分の身についてしまった。自分のくせのようなものを取り払おうと考えている。こういう絵が自分の絵だというような、狭い考えを取り払うことだ。自分らしい絵と今まで考えて来たものをどう抜け出せるのか。1年間でまるで違うところまできれいさっぱりとしたい。そういうことは何度も思ったことかもしれない。描きたいと感じるように描いてみている。そして何故そう描きたかったのかを考えてみている。前より良くなったと感じるのはどういう理由によるのかを、あれこれ考えてみている。それが自分の中に植え付けられた、先入観なのか。自然に近づいたとするなら、自然の何に近づいたのか、自然の何を絵に抜き出しているのか。これを洗い出してみようと考えている。言いかえれば、今やっていることは、過去の絵画というものから学んだものを、自然から学ぶものに置き換えようとしているのかもしれない。


次に、今までの60年生きてきた自分というものは何かというものを考えてみたい。畑や田んぼをやることが、絵を描くことだと考えたのが、40歳の時だ。それまでは、絵を深めるためには、今までの絵画を学び、絵をひたすら描けばいいと思っていた。40少し前に山の中に移住し、気が付いたのは、自分が描いている絵は、自分のものではないということだ。知識の寄せ集めで、自分の中から生み出されたものは少しもないということだった。今までどおりには描けなくなった。そして自分が美しいと感じるものをただただ描いてみようと考えた。これでは趣味ではないかという変な気持もある。美しいと感じるものが、絵画と何か関係があると考えた。それまで美しいというものは美術で、芸術はもう少し違うと思って描いてきた。自分が生きているのは、昨日の食べたものだということである。それなら、自分の食べるものを自分で作って、生まれ変わろうと考えた。生まれ変わればもう少しまともな絵にたどり着けるかもしれないと考えた。そのごは、絵を描くときは土を耕すように、農業をやる時は絵を描くようにを、心がけて進めてきた。

今年に入って、実際に絵を描いている。これは私にとっては久しぶりのことだ。たぶん30年ぶりくらいだろう。今までは、犬の散歩をしているときに、頭の中に絵を組み立て、絵を描いていた。畑を耕している時、眼を使って絵を描いていた。だから絵を実際に描くときには、20分で大体結論を描いた。それを今はただ、画面に向かって絵を描いている。こういうことは何十年振りだろう。このまま1年はこのやり方を続けるつもりだ。その結果がどこに行くのかは分からないが、1年後に次のことを考えようと思う。今は良い絵を描くとか、人にはどう見えるかよりも、自分が描きたいという気持ちをたどってみようと思っている。辿る先に絵があるということも忘れて、無心に描き続けることで身についてしまったものが取り去られることを期待している。結果を考えず、やってみる。
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日米関係のきしみ

2014-02-03 04:08:06 | Peace Cafe


紅葉と雪 10号 紅葉も面白い題材である。色に引きつけられる。空の青さ、雪山の白と紅葉の赤と草モミジの黄色。どうも私にとって一番の材料は色彩の関係のようだ。



最近日米関係の風向きが変わってきた。アメリカは日本に預けてあるプルトニュームを返せと言ってきた。核武装の懸念を感じ始めたのだろう。ケリー副大統領が、中国韓国に訪問する際、日本にも寄るようにお願いしたら、時間がないと断られた。一方で自民党が妙にアメリカを軽視した発言をしている。アメリカ何するものぞという感じだ。アメリカに卑屈になり、土下座外交と言われてきた位だから、きちっとした姿勢でモノ申すことは重要である。きっかけは、安倍氏の靖国参拝である。アメリカは戦勝国として、敗戦国日本の軍国主義再生を強く恐れている。日本の宗教観、政教分離、については理解しにくいと思う。アメリカに対して強気になる背景が、北朝鮮と変わらないような幼稚な感じがしてならない。アメリカにしてみたら同盟国と言っても、軍事的に自分の手下のつもりだろう。対等でないのは誰が見ても明らかである。アメリカが安倍政権の跳ね返りを強く危惧するのは、無理もない。安倍政権が登場した1年前、安倍氏を軍国主義者だと書いた。そんなことはないというコメントがいくつもあった。確かに当時はまだ一般には安倍氏の本質は、そうは見えていなかっただろう。

ところが最近の安倍氏の言動に対しては、国民の半数くらいは、軍国主義者かもしれない、という危惧を抱いてきたのではないだろうか。後1年すれば、国民の大多数がやっぱり安倍氏は軍国主義者だったのかと思い知らされるだろう。普天間の米軍を再編して、辺野古に東アジアを統括する米軍海兵隊を置く計画である。これはアメリカにとっては、普天間基地が危険だから移転するという程度の問題ではなく、アメリカの世界戦略の問題なのだ。もちろんそれが日本にも影響する。しかし、本質はアメリカの日本コントロールが主目的である。日本にとってだけ考えれば、沖縄の基地は、どこかの無人島でやってもらえばいい。米軍間の連携が難しいとか、色々主張はあるが、やり方はある。そうすれば沖縄の人たちにとっても、ずいぶんさっぱりとするだろう。そういう島もある。それでは日本に居る価値がないと考えれば、フィリピンなり、ガゥアムなり、韓国なりに基地を移す可能性もある。そこではじめて、米軍の日本駐留の意味を明確に話し合えるのではないか。この辺のあいまいさが、安倍政権の屈折した憲法改定論に現われている。

アメリカの世論調査では、中国の方が日本より親近感があると最近出ているそうだ。安倍氏のダボス会議発言を契機に、中国と韓国は、あからさまな国連での反日発言である。それを許す空気が世界に広がり始めている。中国とアメリカは第2次大戦では連合国として、日本と戦った。日本のおかれている位置は、両国の敵対国であった。日本は日々アメリカから遠のいている。安倍氏の靖国参拝がもう一度行われれば、アメリカは本気で具体的な行動を取るであろう。その状況下での、ダボス会議の記者会見の日本の状況説明の失敗である。安倍政権に対するアメリカ政府、およびヨーロッパの空気は安倍政権批判が強まってきている。安倍氏が再登場した時からのアメリカの危惧が、はっきりとしてきたという感じだろう。それがむしろ、中国や韓国の方がましだという意識に現われてきている。東アジアの米軍の軍事力配置位置は安倍氏の動向次第で、大きく変わる可能性がある。それは安倍氏の織り込み済みの戦略なのかもしれない。

強い日本に進もうとすれば、どこの国も戦時中の尋常ではない日本を思い出すのだろう。その意味では確かに共産主義を辞めた中国の方がまだましだという、印象もあるのだろう。増して、中国の経済は日本を引き離し始めている。そして今後どんどんその差は開いて行くだろう。中国とアメリカの2強時代の可能性が高いと経団連では予測している。アメリカが日本に厳しくなる原因はこういうところにもある。だからと言って何も、アメリカのいいなりになる必要はない訳だが、強い日本など危険極まりないということに気付くべきだ。力の対決をすれば、どう考えても勝てない時代が来る。そうなれば核武装である。それがプルトニュームの返還要請であろう。次は放射性廃棄物の再処理の監視が言われるだろう。日本の世界での立場が、北朝鮮と同じことに陥入りかねない。武力で対抗するなど、無駄な抵抗なのだ。憲法9条を守る平和な、嫌われない日本を目指すことだ。それは江戸時代のような「地場・旬・自給」の日本である。それが本当の意味で強い日本である。
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NHK原発再稼働のコスト論を放送拒否

2014-02-02 04:54:01 | Peace Cafe


境川の桃の節句 10号 育った向昌院から遠くない場所である。昔はこういう景色の場所ではなかった。桃はなかった。今年ももう一度この場所に行って描いてみたい。



<NHKラジオ ビジネス展望>「原発再稼働のコストと事故リスク」NHKの朝のラジオ番組に出演予定だった中北徹・東洋大教授が、30日放送予定だった番組内で脱原発をテーマに取り上げようとしたところ、NHK側にテーマ自体の変更を求められ、放送が中止になった。今後の出演などにはついては現在のところ不明。「都知事選中は原発問題はやめてほしい」と言われた。ー―朝日新聞


いよいよ、安倍政権のNHK圧力が顕著化してきた。安倍政権は原発再稼働を遮っているのは、世論と考えている。それが、あのとんでもない籾井勝人氏の会長就任挨拶である。意図的な戦略として行われたと考えている。あれでNHKの職員は震え上がったと思う。反原発報道を行えば、会長に逆らうことに成り、色々立場が不安になる。当然再稼動派は勢いづいただろう。このやり方がまさに安倍政権の手法である。表面では報道の自由を尊重するなどと言いながら、脇から圧力をかけている。結果がすぐ出てきた。中北教授のラジオ番組に放送制限が加えられた、意見の全文を読んでほしい。どこが問題なのかが全く分らない。学者としてごく当たり前の経済論である。原発のコストを分析しているにすぎない。制限するというのは、明らかに安倍政権のゆがみがNHKに反映されている。安倍政権として、原発の経済コストを主張できるのが政府である。きちっとした根拠を示せばいい。東電の事業計画では、原発が再稼働できなければ、10月に値上げすると利用者を脅している。では、放射性廃棄物の処理費用。廃炉費用。などは何故、電気代に入れないのだ。

その上に、もし事故が起きた時には、膨大な費用に成る。福島原発事故の結果が今の日本経済の状況だろう。この事故に伴う復興経費は、どれほど日本の経済を揺るがしているのか理解しているのだろうか。もう一回事故があれば日本人は、完全にしぼんでしまう。その対策として田母神氏は、福島の原発避難地域は安全なのだ、早く住民を戻せと主張している。科学性が全くないと私には思える。科学的議論が必要なのだ。その材料を提供するのが、NHKの役割のはずだ。コストについては、様々な見解を並列するとしても、政府の原発は安い電力という説明は、根拠が示されていない。放射能の内部被ばくについてもNHKはたくさんの実験データーを放映した。科学性に基づき、様々な意見を並列すること以外に、安心感は生まれない。意見の背景となる、根拠を示すことが、公共放送の責任である。判断は視聴者が行えばいい。ただでさえ将来の展望を持てずに、生活再建に悩まれている福島の人たちに対して、将来の判断の材料に成る十分なる科学性である。

NHKの会長の責任追及をゆるめてはならない。予算委員会で、会見に不慣れの為という理由を述べている。私見はすべて取り消したとしているが、取り消したところで考えを訂正した訳ではない。大企業の社長の人が、不慣れのはずがない。これは意図的な発言と考えなければならない。不偏不党を旨とする公共放送の委員に、次々に安倍氏と信条を同じくする人間を送り込むことは、政府の宣伝放送化としか思えない。委員には、女性は家で育児をしろという長谷川氏もいる。田母神氏の支持を表明した委員もいる。委員会でこの会長を拒否できないということが、すでに委員の編成にゆがみがあるということだ。NHKの委員会に自浄作用が期待できないのであれば、国会がこのことを問題にすべきだ。予算委員会での籾井氏の弁明によると、個人的意見は記者会見で述べたとおりだが、NHKの会長としては、不偏不党の精神であり、公共性を維持すると述べている。まさに詭弁である。NHKはすでに、原発に関して意見の制限を始めている。会長の意向を知った職員が、保身を始めているのだ。

中北教授の意見は、原発の発電のコストを細かく経済学者の見地から説明している。特別ゆがんだことを述べているものではなく、情報を伝えていることに過ぎない。これが許されないということは、原発のコストには実は政府もに自信がないのだ。中北教授に対抗する。原発は安い発電方法だという、経済学者にNHKで述べてもらえばいいのだ。そうやって、原発コストの本当の所の議論が始まる。これが全くないのが、現状である。一方的な東電の発表の経営計画が鵜呑みにされ、政府は原発再稼働しなければ、電気料金の値上げをすると脅している。不偏不党という以上、NHK会長を辞めさせなければ、日本の報道は徐々にゆがんでゆく。あそこまで発言しても大丈夫となれば、NHKの職員は姿勢を変えるだろう。このことは日本の未来を、戦前の報道管制の時代を、人事によって再現させるということになる。ここは絶対に譲ってはならないことだ。自民党が幾ら多数派だとしても、明らかにおかしいということを国民に示してゆけば、これ以上の横暴を止められる。
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2月の自給作業

2014-02-01 04:14:01 | 自給



桂林 漓江 夜明け 10号 手前側のホテルの窓から描いている。なるほど中国の絵画はこうして場所の写生から生まれたのかと理解できた。岩を描くことが、絵画研究なのだと、岩が描ければ、宇宙が描ける。こういう絵画が生まれた。




1月は農作業はほとんどしなかった。絵を出来るだけ描こうとしていた。少しづつ農作業を始めようと思っている。昨日には、柿畑の下に鶏フン堆肥を蒔いて、トラックターで耕した。田圃の苗床にも鶏フン堆肥を播く。3日が節分4日が立春である。身体も春を感じ始める。今の畑の状況は、大麦が10から20センチくらいに成った。しっかりした分げつが取れているようだ。まだ草取りが必要なほどではないが、早めに草削りと土寄せをやりたい。麦踏はすでに3回はやった。今食べているものは、こかぶ、ホウレンソウ、小松菜、白菜、ニンジン、大根、どれも生育は遅いが少しづつ伸びてくれている。じゃがいもはまだ掘り出しながら食べている。6日には田んぼの畦直しの土の移動。8日に田んぼの修復の開始である。石垣が壊れ始めているので、今回はモルタルを使って石の間を埋めてゆく作業をする。その前に田んぼの石積みの裏の大きな穴を3か所土で埋める。この土が軽トラック2台分は必要である。田んぼの下を水が流れている。石垣の手前の土が徐々に抜けてしま陥没が出来た。この穴を土で搗き固めて埋める。出口に成っている石の隙間をモルタルで埋めること。

農業はある意味水土作業である。水と土をコントロールすることができなければ田んぼはできない。しかも、手入れを続けながら、自然の姿に沿った直しを続ける。春野菜の苗作りが2月中に始まる。まずその前に踏み込み温床の積み直しをしたい。大分熟成してきているので、もう一度米ぬかを加えながら、切り返し、水を加え、踏み込んでおく。作物では今年もトマトとタマネギに力を入れたい。毎年のことだが、なかなか良く出来たというところまで行かない。昨年はトマトは苗までは良く出来た。タマネギは苗を失敗した。苗土作りは上手くいった感じだ。夏の暑さでダメにした感じがしている。唐辛子、ナス、ピーマン、辺りは2月中には作り始める。種まきは苗トレーに蒔く。作物にそれが良いというより、畑の方がじか蒔きするスペースがない。春の直播は畑の草に紛れてしまい、草取りが大変に成るということがある。最初からポットや、セルだと、種まきが煩雑である。植えかえも必要になる。苗トレー栽培は水やりが簡単だし、自分にあった方法だと考えている。

苗トレーにどのくらいの量種を蒔くのかが一つのポイントのようだ。どうせ、大した数の苗が必要になる訳ではないので、それぞれの作物に1枚の苗トレーを充てるぐらいでいい。8枚のトレーが置ける踏み込み温床なので、8種類の作物が出来ると言う事になる。トマト、なす、ピーマン、きゅーり、インゲン、かぼちゃ、ニラ、トウモロコシ、これくらいだろうか。2月末を目標に準備する。昨年成功した、プランターや不織布袋に種を蒔き、そのまま育てるやり方を、さらに実用研究したい。家庭菜園の範囲だと、かなり合理性がある。ニンジン、ゴボウ、アスパラ、小カブ、山いもは不織布袋栽培。袋は不織布の良いものを通販で発見し、結構利用している。ニンジンが出来るようになったのは、プランターに蒔くようになってからだ。ニンジンは草を嫌うので、周りの草を完全に取ることが必要らしい。私には向いていない。それでもプランターという狭い範囲なら、草が出ないような土に出来る。ゴボウや、山芋のようなものは、掘らないで済むという利点がある。


2月は鶏の雛の孵化の準備をしたい。既に笹鶏は分けて飼っている。卵を貯めたい。年寄りの鶏ばかりなので余り卵を産まなくなっているので、この春が笹鶏の系統を残す最後のチャンスになるだろう 。実は昨年もそう考えて頑張ったのだが、上手く行かなかった。そういう意味で、深刻なラストチャンスである。笹鶏の孵化が難しいとしても、その他の鶏も今年は少しだけ孵化する。雛を育てる床作り。保温のやり方、もう一度確認しながら進める。緑餌を播くのも2月末に予定する。まず、土の整備、竹の片づけをして、堆肥を播いておく。これは一仕事に成る。そして今年はヘヤリーベッチを播く。種は準備した。ソーラーパネルが出来たので、緑餌播きをきちっとしないと、草が足りなくなるだろう。タマネギの草取りも頑張ってやらなければならない。タマネギが他所に比べて、いかにも生育が悪い。寒さにやられていると同時に草のせいもあるかもしれない。しかし、去年のタマネギがまだ十分に保存出来ている。一年タマネギが切れずにあるというのは、始めてのことだ。
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