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田んぼを描くこと

2024-05-18 04:21:56 | 水彩画


 田んぼを描いている。毎日田んぼをやっているくらい好きなのだから、田んぼが描きたくなるのは当然のことかもしれない。田んぼの様子を見続けているし、見とれても居る。目の底には田んぼの様子が焼き付いている。わずかな色の違いも栽培の上で気になっている。

 同じ葉の色でも、良い緑もあれば悪い緑もある。稲穂の黄金色にも、良い黄金色の輝きもあれば、悪い黄金色もある。言うに言われぬ微妙な感じなので絵にも描けない。葉色版という色見本があるが、あれはすべて元気のない死んだ色だ。生きた色でなければ良いお米はとれない。

 絵を描けば当然田んぼが表れてくる。田んぼは空間に描かれた図形であり、色になる。空間は様々な横を通る線が通っている。水平線であったり、地平線であったり、くうかんのおくゆきを示す線がある。そこを道路や田んぼや畑が区切って行く。そのように風景は構成されているとも言える。それはすべてが生きたものである。生命ある風景である。

 その生きている風景の骨格とも言えるものを発見して、画面の中で構成し直すのが、生きた絵を描くと言うことなのだと思う。それは難しい計算をすると言うようなことではなく、手が描いている内に、絵の中の構造がだんだんに発見されるというのが実際の所だと思う。

 描いていると何故かだんだんこのように成るはずだとか、こう出なければならないというようなことが見えてくる。その場その場のことで、絵を通してある一貫としたようなものでもない。ここに山の稜線が来る。それなら水平線はこの辺りだ。では雲はこうはいらなければと、別段理由もないのだが、徐々に場所が定まって行く。

 特には、いらないものは取り、必要なものを加え、試行錯誤を定まるまで続けて行く。こうして絵が産まれてくる。この取ったり付けたりが絵を描くということのようだ。その時にとって定まるのか、描き方を変えて収まるのかというようなことが出てくる。色を変えれば済むというようなことも多い。

 いずれにしても、何かをしたから解決するというようなことではない。何も考えないままに、反応だけを頼りに、収まるまで続けて行く。この収まると言うことは、実はどうして起こるのかが不思議なことが起こる。いつか、絵がピンと立ち上がってくる。それならこうすればよりピンとすると言うだけである。

 このピント立ち上がる感触は、絵に命が籠ったと言うことなのだ。絵が生き物になった感じである。葉色版の緑が死んだ色であるが、良い稲の葉色が生きた緑であるのとの違いのようなものだろう。田んぼから湧き出ている強い生命力は、わたしの目には印象的なものだ。この生命が絵に乗り移ったときに、絵はピンとする。

 だから絵ができたと言うより、何か安定を得たというような気がして終わる。最近ある意味「し上げる」というようなことがない。仕上げなければピンとする感じにならないと言うことがないだけだ。どうでもピンとすれば後のことはそれでいいと言うことになる。

 しかし、だんだん時間がかかり困ってる。なかなかピンとしないのだ。あれこれの試行錯誤が限りなく続く。何か生きているという違うものが、厳密化を要求している。結論が分っているから厳密化していると言うより、分らないことが多くて、切りがないと言うことの方が近いかもしれない。

 絵を描いている人なら似たような経験は誰にもあるのかも知れない。ないのかも知れないし、全く違うのかも知れない。ともかく次に進むことだけを期待している。何に向かっているのかと考えても、自分に向かっているとしか言えないのだ。だから方角はないに等しい。

 自分の世界観を絵にする。観ている世界の生命を、感じて、見て、絵の上で作り上げようと言うことをしている。世界の空間は無限で、広大であるから命が存在する。それを画面という小さな平面のなかに、模式図的に再構成しようとしているのだから、それは当然一筋縄ではいかない。

 そういうことではあるのだが、自分たるものの確立がないのだから、だめで曖昧な自分の世界観と言うことなのだろう。でっち上げてもしょうがないことだし、どれほどインチキでもインチキな自分であればそれはそれでしょうがないというようなことなのだろう。
 
 そのインチキの中に、偽物ではあるのだが、偽物を演じている私のような者が見え隠れしているような感じなのだ。これはこれで前よりは良いと思う。前の自分は、良さそうな自分を借りてきた他人の絵画から作っていたのだから、見栄えはいくらか良いがそんなものは、絵ではないと思いだした。

 ダメになって良かったというのも変なことだが、多分このだめをところをとんやることが、私絵画の道なのではないかと思っている。良いだけが絵ではないと言うこと。その覚悟だけは出来たのかも知れない。今日は絵が描けるのかは分らないが、ともかくアトリエカーで出掛けて、のぼたん農園で絵を描く。

 日々の一枚である。絵は大脳で描くものでは無い。小脳の反応で描くものだ。絵は考えてはだめなものだ。それなのに思想や哲学がなければならない。自分の人間全体が、絵を描くと言うことに反応して行かなければならない。反復運動の練習である。

 歩くことを忘れない。歩くことをしたことの無い人が歩けるようになるのは、大変なことだろう。それでも歩けるようになれば、いつの間にか考えないでも適切に歩くことが出来るようになる。その歩き方はその人間を表わしている。その人間が作り出した歩き方だからだ。

 歩き方講習会でナンバ歩きや忍者走りを覚えたとしても、忘れるまで歩かなければ、その人にとって良い歩きにはならない。こういうのがよい歩き方なのかと、考えながら歩いている内はあくまで学んだ歩き方で、その人らしい歩き方ではない。

 むしろ歩き方など学ばなかったときの方が、ずっとその人らしい歩き方をしていたはずだ。学んだことで自分なりに合理的な歩きだったものを崩して失ってしまったのだ。だから、ナンバ歩きを忘れるまで、歩き続けなければ自分の歩きにはならないのだ。

 学んだことを忘れるには、学んだ時間だけかかる。しかもはるかに忘れることの方が難しい。努力して身につけた良いと思う行いを失おうというのだ。まるでバカみたいな、無駄なような話しだ。所が、忘れかけてみると、何かまた自分と絵の上で遭遇できる。

 このたまたまの遭遇を頼りに、その方角に進むほかない。絵を描く航海には羅針盤もない。自分を捜して行く生き方にも羅針盤はない。その捜して行くこと自体を、道としてそれを良しとするほかないのだろう。そもそもその道には目的地すらない、達成できないような道らしい。
 
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