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農の風景を描く

2024-10-11 04:17:07 | 水彩画


 季刊地域59号ーー農文協では農業の作り出す風景が特集されている。送られて来て驚いた。「農の風景を描く」、と読んでしまったのだ。まさか、そうではなかった。農業は風景を作り出しているという特集である。私は風景というものは人間の営みの表れだと思っている。

  農は人間の営みの原点。農に関わることで、人間が作られて行く。誰かのために農は行うものではなく自分自身のために行うものである。だから、禅宗の僧侶も畑作業は行う。自分の食べるものを自分の手で作ってみる。それが自分という人間の成り立ちを知ることだと、祖父はそのように教えた。

 ただ風景は農によぅって作られるだけでなく、耕作放棄地は人間の痕跡というものが風景になる。太古の自然というような、人跡未踏の地などは私にとっては風景としての興味は無い。人間が自然の中でどう折り合いを付けて、生きようとしているかによって、風景が生まれるものだと思っている。

 その意味では、山の自然よりも庭の情景に惹きつけられることが多い。ただ出来上がった庭よりも、放棄されて形を失いかけている庭の情景は、何か耐えがたいような、目が離せなくなるものを感じる。人間の営みが壊されて行くことでより強く表れるときがある。

 そもそも風景という言葉は「風の景色」である。風は何を意味しているかと言えば、その場の空間であり場である。空気の動きであり、立ち位置の動きである。人間の営みが場という空間を風のようにそよがせている姿である。風土と言えば、風景の時間的な重なりになる。

 風という、眼には見えないが確かに動いているものの中で、日々を生きているのが人間なのだ。だから人間の営みが現われた風景を描いている。人間の痕跡のない自然など、私には描く価値がない。それが最近やっと分ってきたことなのだ。

 日本では1950年代までの里地里山の風景が、日本人の団塊の世代、我々世代までが思い出す故郷の風景である。うさぎ追いしかのやまである。夕焼け小焼けの赤とんぼである。もうすでに無い景色である。ただ我々世代の記憶の中にはまだわずかに残っている風景と呼べるもの。

 トラックターもない、軽トラックもない農村の風景である。牛馬が生活の中に居て、炭焼きが当たり前に行われていた。里山が日本の中東だった時代だ。まだプロパンガスもなく、里山から薪炭林が切り出され、村の中の自給的生活が回っていた時代。

 それはまだ、江戸時代の面影が残っていた里地里山の暮らしだったのだと思う。山梨県の藤垈の一番奥の山寺で育った。藤垈の暮らしは大きくは江戸時代と違わなかったのだと思う。それが、青年団が出来て、生活改善の婦人会が動き出して、急激に変わり始めた時代。

 変っていってしまう。失われて行く風景。だからこそ懐かしく、貴重なものに感じるのだろう。そして、新しい我々の風景を作る時代が来た。後水尾天皇が作った修学院離宮のように、我々が次の時代を生きる風景を作り出さなければならない。風景を作るとは里地里山の復元活動ではないのだ。未来を生きるイーハトブなのだ。

 村の道普請は部落総出で人力で行われていた。用水普請もあって、部落の人は総出で参加して行われた。当時はまだ食糧不足であり、坊ヶ峯の開拓事業があり、これも総出で行われた。自分の開墾場所が決められていたようで、開墾が終わった後自分の畑と言うことになった。

 沖縄で言えば結いまーるである。誰か監督がいて、働いて対価が生じて行われるというものではない。自分等の暮らしに必要なことを部落で決めて行う共同作業である。この共同作業の空気はある意味、お祭りに近いものがあった。各家の生活まで見ていている中での協働である。

 水争い、畦道の小競り合いは、常にあった。誰もが仲が良くやっていたわけでもない。それでも全体では何とか治まるところに治まっていたのだと思う。祖父は役所にも勤めていたし、向昌院の住職でもあったので、話をまとめる役割を担う側に居たのだと思う。

 村には江戸時代から続く序列がまだあった。それが徐々に崩れてゆく時代であった。一番は農地解放である。みんなが自分の所有の農地を持つ時代になった。これが一番大きく変ったところではあったが、旧来の序列が新しい秩序に移行する時代であった。どちらかと言えば、昔の「良いし」は大変だ、とよく言われていた。

 良いしに相応しい出費をしなければならないが、外に働きに行きにくい良いしは、生活的には苦しくなっていった。「下とりのしいは、どこにでも働きにでれるから良いじゃん。」などとひがんだ言い方の声が聞こえた。民主主議への移行期間。

 そういうモヤモヤした声があったことを記憶している人も少なくなっていると思うので、少し思い出したことを書いておいた。あれから70年も経っているのだから、何もかもが良い方向に変らなければ成らない。所が良いことばかりではなかったのだ。

 部落に人影がまばらになった。新しい人も来ているのだが、崩壊している家も無いわけではない。そうした中で、新しい農の風景を作り出すと言う、新しい動きを農文協の季刊地域では特集している。とても重要なことだと思う。この動きを評価していることは分るが、それゆえに少し現実を空想的に見ている。

 ユートピアはいつも空想なのだが、宮沢賢治のイーハトーブの理想郷も理想であるから美しいものである。しかし、それを現実化してゆこうというのが、私たちが行っていることになる。宮沢賢治が100歳まで生きたとして、何が出来たかである。

 岩手の樹木葬を始めた住職の方が取り上げられている。樹木葬をしながら、その費用で自然の豊かさを作り出してゆく、理想郷の姿である。死んでしまえば寒さはないから、岩手でも良いかと思う。30年で完結するお墓である。永代供養が50万円だそうだ。

 私の場合、のぼたん農園で田んぼの肥料にして貰えれば一番良いのだが、そうは行かない現行法である。お墓まで含めた農地の方が良いと思うのだ。田んぼ葬である。「肥料になり、お米になり、食べられる。」樹木になるより、何か循環しているようでイメージが私向きである。

 風景を作るとは実はそういう人間の生活すべてのことだと思うのだ。人間が生きて死んでゆく。その全貌が風景である。少なくとも私が描く風景はそのつもりである。だから、耕作放棄地も美しい風景だと思う。人間が必死自然にしがみついて、暮らしを立てる。それが風景だ。

 だから風景は寂しいものだ。悲しいものだ。しかし、とびきり希望に満ちたものでもある。その風景の中で、一日一時間働けば、人間は生きていけるのだ。それが風景の全貌だと思っている。風景は生活を秘めている。だから、村普請で作った野良道は美しい風景になる。

 都会の風景がいらだつようなものなのは、お金だけの世界だからなのだ。金儲けのために出来た高速道路は、美しいどころか自然を破壊しているとしか見えない。都会の風景は絶望の風景である。人間の暮らしから遠ざかるばかりで、暮らしの実感がない。

 農が作り出す風景は、人間が生きていると言うことが見えるから、希望を感じるのだ。より希望に満ちた風景はどこにあるのか。それを探り続けるのが、風景を描くことであり、のぼたん農園を作ることなのだと思う。どれだけやれるかは分らないが、生きている間は風景を作り続けたいと思う。

 そして描き続けたいと思う。私の絵を見れば希望の農の暮らしの空気がある。と言うような所まで行きたいと思っている。農の世界の希望と言うことを目的に描くわけではないのだが、自然にそういう空気感が生まれれば良いとは思っている。

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