予定通り、今日11月11日に小麦を播種することになった。品種は農協にお願いした「あやひかり」である。播種機も杉本さんからお借りすることが出来た。もし上手く蒔けるようなら、来年は購入するつもりだ。小麦をやるということが徐々に伝わって、やりたいという人が何人か集まった。それなら、農の会の全体の中で募集した方がいいと言うことになり、皆さんにお伝えした。現在、9名ということになっている。有難いことだ。これで一軒1畝の麦畑ということになる。30キロくらいということになるか。自給にはちょうどこの位がいい。みんなでやるなら、大した手間もかからない。手間のかかるのは、麦刈ぐらいだろう。それも9人も集まれば、大した手間にはならない。機械も使うのだから、田んぼの会と同じように、農の会に会費は払う必要があるだろう。後は「草取り、麦踏」と、やれる時に各自にやってもらえばいい。田んぼが終わり、麦の播種。そろそろ大豆の刈り取りも入る。良い順番になりそうだ。
農の会では小麦をやっている人は結構いる。すでにグループでやっている人達もあるようだ。パンを家で作るというところから、小麦を栽培してみたい。ということに繋がっているようだ。私としては「おほうとう」に関心があるので、まずは麺用小麦を作ってみたい。多分参加者の気持ちはパンを作りたいということに傾いているだろう。もちろんそれもいい。来年は考えた方がいいかもしれない。いずれにしても最初は作りやすいものを作ってみるのがいい。みんなでやる一年目だから、全体を通して流れを確認する。今まで自分で作ったのは、2畝までである。手刈りでやれる範囲である。これで自家用でやるには十分だった。これをみんなでやることでだいぶ楽になるはずだ。小麦の会の仕組みづくりを考えて見たい。
小麦の栽培で一番の障害は、安い小麦が存在することだ。輸入小麦が安いのは当然であるにしても、国産小麦も安い。安いことは悪いことではないのだが、補助金で安い。補助金をもらえない人間には、関税障壁と同じことだ。それで小麦粉を販売すると高いと言われてしまう。これは戸別補償でも同じことである。高いといわれるほど高く売る訳ではない。販売するとなれば小さい農家には小麦粉キロ1000円以下では生産できない。手間暇考えればそうなる。これが小麦が広がらない、価格的障害になっている。これからは戸別補償とも、対決しなければならない。戸別補償は我々のような新規就農者の、しかも独自販売を開拓してきたものには、受け取ることのできない仕組みだ。しかし、自給となればその点は構わない。価格というのはあってないようなもの。将来的には日本の農業は、自立できない状況になるだろう。価格的には今の補助金くらいの補てんでは誰もやれなくなる。その時にこそ、自給的農業はいよいよ意味が出てくる。
理屈はともかく、みんなで麦がやれることがうれしい。大豆の会が始まったのも、農の会の借りていた農地が突然空いてしまって、さてどうするかということから始まった。それが今では会の中心の一つの大きなグループに成長した。自給の家もそうだった。家作りに挑戦したい思いだけで、提案したことが、今最小限の家として存在する。小麦畑もやれなくなった農地をどうしたらいいか、ということから始まりそうである。農の会の素晴らしいことは、「小麦をやりたい人いますか。」というような呼びかけで、1週間足らずで、9人も集まるところだ。誰かが、やってみたいということを提案する。一人では難しいことが、何とか形作られる。それがもしかしたら、農の会の新しいグループに成長する可能性もある。
農の会では小麦をやっている人は結構いる。すでにグループでやっている人達もあるようだ。パンを家で作るというところから、小麦を栽培してみたい。ということに繋がっているようだ。私としては「おほうとう」に関心があるので、まずは麺用小麦を作ってみたい。多分参加者の気持ちはパンを作りたいということに傾いているだろう。もちろんそれもいい。来年は考えた方がいいかもしれない。いずれにしても最初は作りやすいものを作ってみるのがいい。みんなでやる一年目だから、全体を通して流れを確認する。今まで自分で作ったのは、2畝までである。手刈りでやれる範囲である。これで自家用でやるには十分だった。これをみんなでやることでだいぶ楽になるはずだ。小麦の会の仕組みづくりを考えて見たい。
小麦の栽培で一番の障害は、安い小麦が存在することだ。輸入小麦が安いのは当然であるにしても、国産小麦も安い。安いことは悪いことではないのだが、補助金で安い。補助金をもらえない人間には、関税障壁と同じことだ。それで小麦粉を販売すると高いと言われてしまう。これは戸別補償でも同じことである。高いといわれるほど高く売る訳ではない。販売するとなれば小さい農家には小麦粉キロ1000円以下では生産できない。手間暇考えればそうなる。これが小麦が広がらない、価格的障害になっている。これからは戸別補償とも、対決しなければならない。戸別補償は我々のような新規就農者の、しかも独自販売を開拓してきたものには、受け取ることのできない仕組みだ。しかし、自給となればその点は構わない。価格というのはあってないようなもの。将来的には日本の農業は、自立できない状況になるだろう。価格的には今の補助金くらいの補てんでは誰もやれなくなる。その時にこそ、自給的農業はいよいよ意味が出てくる。
理屈はともかく、みんなで麦がやれることがうれしい。大豆の会が始まったのも、農の会の借りていた農地が突然空いてしまって、さてどうするかということから始まった。それが今では会の中心の一つの大きなグループに成長した。自給の家もそうだった。家作りに挑戦したい思いだけで、提案したことが、今最小限の家として存在する。小麦畑もやれなくなった農地をどうしたらいいか、ということから始まりそうである。農の会の素晴らしいことは、「小麦をやりたい人いますか。」というような呼びかけで、1週間足らずで、9人も集まるところだ。誰かが、やってみたいということを提案する。一人では難しいことが、何とか形作られる。それがもしかしたら、農の会の新しいグループに成長する可能性もある。