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2019水彩人展 批評3

2019-10-03 03:59:36 | 水彩画
 批評1では大原さんの絵のことを書いた。批評2では初入選の人のことを書いた。今度は今回よくなった人のことを書いてみたい。悪くなった人もいる。



 結論に至った山平さんである。よく自分の底にたどり着いたかと感銘を受けた。山平さんは山平さんの人間に到達したのだと思う。ある意味絵が良いとか、悪いとかと言うような説明的な意味もここにはない。

 北海道の十勝の人である。人間の苦闘というようなものにじかに向っている。北海道の開拓魂の絵だ。北海道魂の慟哭を感じていた。よくもここまで来たかと深く感銘を受けた。そういう感じ方も私だけなのかもしれない。

 自給生活を目指してつるはしで岩を削って田んぼを作ったことを思い出すのだ。岩から跳ね返ってくる、腕のしびれのようなものを絵から思い出す。一ヵ月も毎日岩に跳ね返されていたのだが、その田んぼで自給が実現できた。その喜びの裏側に、跳ね返された腕のしびれの感覚はいつまでもあった。

 絵作りを超えた気がする。自分に至ったの感がある。これこそ絵を描く道ではないだろうか。勝手に大変だったと思う。他人ごとではないのだが、自分の絵に向かい合うことのできる人は少ない。世間的な良い絵と向かい合う人が多いものだ。



 他者の眼というものを振り切っている。自分の奥底に至る制作。この純粋でまっすぐなでこころに、わたしは浄化される。これこそ私絵画ではないだろうか。とことんの私は、すごく奥の所で人に伝わるもののようだ。

 黒い岩のようなものが描かれている。岩というよりも、黒々とした線のかたまりと呼んでもいいのだろう。わりあい短い線の水に溶けた線の重複である。その奥には光を感じさせる黄色が潜んでいる。

 いつも描いた希望のようなものを覆いつくしてゆく、黒い線なのではないか。自分の行為として刻む黒というよりも、立ち向かうものを拒絶するような自然の威厳に見える。だから、開拓というものは希望に向かうのではなく、絶望に向っているというような世界観。ここに無数の開拓民のうめき声が聞こえる。

 山平さんのお父さんは「なつぞら」に出てきた農協の組合長のモデルである。立花隆の「農協」を読んで、今のJAとは違う、農民の協働という事を考えた時代があったのだ。総合商社としての農協。水彩人の山平さんを知る前から、日本の農協を作った人物として知っていた。山平さんがまさか、その娘さんであると知ったのは、だいぶ後のことだ。

 唯一ともいえる展望的指摘は、アメリカのように競争原理を農業に持ち込み、農業人口を3割減らせばいいとしている。全体的には批判にとどめ、用心深く展望を避けている。ここで書かれている優良事例としての農協のその後はどうなったのであろうか。着目点は総合商社的経営をしている農協。日本一の畜産飼料会社である。日本の農協を総合商社にした人なのだ。ーーーというようなことを以前このブログにも書いている。

 山平さんは北海道の開拓民の矛盾を書いて居るのではないだろうか。身近に成功と失敗を無数にみてきた人である。そして今現在の豊かになった開拓者が、どういうものを目指しているのか。というようなことは、たぶん私の勝手読みにすぎかもしれない。

 農民の暮らしを守ろうとして農協を総合商社に作り上げた山平さんのお父さんが今生きていたら、日本の農協の金融業と不動産業になった姿をどう考えるだろうか。農民はどこに行ったのであろうか。そういう思いも、私は絵を見ているとどうしても感じてしまうのだ。


 もう一人驚かされたのは杉浦さんである。こどもの世界が見事にあらわされている。人柄のすばらしさが絵につながっているのだとおもう。謙虚な方である。他を顧みることなく、自分の世界観に向かう。この生真面目さが花開いた気がする。

 絵を見ている内に、子供を取り巻く世界に感覚が巻き込まれてゆく。イスラムの文様に目がくらむように、子供の世界にのめり込む感覚に同調してゆく。絵というものを見ていることを忘れて見入ってしまう。

 私には一番ない資質である。どこまでも遠回りができる。遠回りを楽しんでいる。絵として出来上がるという以上に、一つの色を塗ることそのものの充実である。一つの花を置いた時の喜びが千の花としてあふれてゆく。一つの花を描くときの没頭のようなものが伝わる。


 満ち溢れて、重複してゆくさざ波のような花園感。確かに実際の花園も美しい。しかしその美しさは描かれたときに、花がただ美しいということに加えて、花は命の象徴であり、消えてゆく命のはかなさでもある。一時輝く命。だから美しい訳だが、そのはかない美しい一瞬が、無数につなぎ止められようとしている。

 子供というものがそういうものである。自分の子供時代の輝きのようなものは、永遠のように思い出の中で輝く。記憶の中で輝きを増す。だから、この絵は若い人の絵ではない。子供を遠くから暖かく見守る絵だ。

 子供というものの持つ命の輝きが花に重ねられてゆく。つまり願いの絵画なのだ。子供の祭壇画のようなもにまで高められた。果たしてこれほど魅力的な童画があっただろうかと思う。真実美しい絵画は祭壇画にまで高められる。

 お二人の様な一心な人の前に立つと、自分の絵の至らなさをつくづくと思う。大きな反省を頂いた。自分の絵に向うほかない。今回の水彩人は自分にとって再出発になったと思う。


 
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