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茶碗一杯14円のごはん

2022-10-01 04:15:24 | 暮らし


 食品価格が値上がりしている。食料品の61%を輸入に頼っている国日本では、円安が年率にして1割以上となれば、食料品が1割上がるのは当然のことだろう。その中で値下がりしている物は国産のお米である。なんとご飯は茶碗1杯14円だそうだ。

 この機会にお米中心の食事に変えて欲しいものだ。一日42円。一ヶ月1300円前後。これなら何とかなりそうだ。ご飯と卵ともやしと納豆を食べれば良い。学生の私はそうして暮らしていた。それで十分満足していた。そうだお米は稲作農家だった同級生の大浦さんから頂いた。有り難かった。

 すべてが上がる中で、お米が下がれば、稲作農家の生活はますます追い込まれ、離農がさらに進むことになるのは必然である。この稲作農家存亡の危機を政府は傍観するだけである。むしろこれで稲作農家が減少することを望ましいと考えているように見えるが、実体は打つ手なしと言うことなのか。

 これ以上日本の水田が減少することは果たして日本列島という国土にくらす日本人にとって望ましいことなのだろうか。日本は瑞穂の国と口にした唯一の総理大臣が安倍氏であった。その安倍氏の時代に日本の稲作は壊滅的な打撃を受けた。国際競争力のない農業は止めろという政策である。この人はまったく意味不明なデタラメな人だった。

 日本を瑞穂の国という総理大臣が、何故稲作を終わりにしたのか。アベ夫人はなんとコンバインに乗って、稲作をしている姿を報道させてご満悦だった。その口の根が乾かないうちに、稲作は国際競争力がないから、止めろと言うことになっていった。それが安倍氏のブレーンと言われた竹中平蔵氏の考え方だった。今でもその考えは変わらないらしい。

 これが日本の食糧自給率のさらなる低下になった。日本の農地価格や労働単価、そして気候風土条件を考えれば、日本のお米が国際競争力はあるはずがない。それは何も日本の農家の努力が足りないためでも、能力が低いためでもない。農業のような環境条件に影響される産業の国際競争力は、他産業とは別物なのだ。

 しかし食料の確保は安全保障のもっとも基本的なものである。食べるものがなくなれば、誰も攻めてこなくても飢死する。食糧自給率の向上はアベ政権でも一貫した目標に掲げられてはいたが、この間さらに自給率は低下しただけだった。それがアベノミクス大失敗の実態である。

 食料などお金さえあれば、輸入が出来るとパソナ会長の竹中平蔵氏は主張して、アベ内閣の農業政策を変えていった。しかし、これだけの円安になり、日本の経済はこれから停滞する中進国になる。経済が悪くなったときに日本に食料を輸入するだけの力は残っているのだろうか。日本の十倍以上の人口の先進国中国だって食糧輸入国である。

 水田が放棄され、農業者がいなくなった暁に、日本の経済が不調に成れば、日本と言う国は終わりになるのではないか。食料の基本であるお米の生産は過去の経済の判断で、止めては成らない物と考えるべきだ。日本は瑞穂の国として再出発するほかない。

 稲作であれば、日本人の食糧自給を確保できる。稲作は5000年連作をしても可能な作物なのだ。古代文明が継続したのは稲作をしていた中国だけである。水を利用した農業であるために、他の作物よりも安定度が高く、気候変動にも比較的強い作物なのだ。今後稲作は日本の生命線になると考えるべきだ。

 どれほど日本の経済が落ちたとしても、食べるものさえあれば何とかなる。その原点だけは確保しておかなければならないのが、国の基本条件だろう。このままの農業政策が進めば、あと10年で日本の稲作はさらに半減する。そうなってから回復を目指すのはさらに大変なことになる。

 大規模稲作を試みる企業的農家と、経済を考えないでも良い自給的農家だけが、生き残ることになる。条件有利地域は大規模企業農家が行い。条件不利な小規模農地は自給的農家が行う。今も減少しながら移行しているわけだが、いよいよ今年の米価であれば、普通の稲作農家の維持の限界を超えそうである。

 また稲作農家の平均年齢が1年高くなり、1割の人が離農することになる。止めたくて止めるというのではない。もう年齢的に体力が無理になり止める。経営できない稲作農家に後継者はいない。唯一期待できるのが、企業的稲作農家に就職するぐらいだろうか。

 企業的農家は政府の支援も受けやすい。様々な補助金を上手く利用している。普通の農家はそういう力も乏しい。行政も、JAも補助金について詳しいわけではない。そして大規模経営の農家と競争しなくてはならない。方向としては販売力のある大規模企業農家に統一されるのだろう。石垣島でさえそういう傾向にある。

 一方に生き残る稲作が経営を考えない市民的自給稲作である。経済が厳しくなれば、食糧確保を考える市民は増加する。水田を維持することの、国土保全の意味を考え条件不利地域の水田を市民に開放するのがもう一つの方向としての農業政策である。

 いずれにしてもこのまま進み、政府が何も手を打たなければ、稲作農家は10年で半減する。たぶん政府が手を打つとは思えないから、そうなるのだろう。それが瑞穂の国として良いことのはずはない。田んぼが瑞穂の国から失われることは、日本が失われるということになる。

 その時に条件の悪い水田を守るのは、自給的農家になる。自給のためであれば、経済は関係がない。週一回田んぼに行けば、十分にイネ作りは可能だ。3ちゃん農業と言われて、日本の小規模稲作農家は継続してきた。爺ちゃん、婆ちゃん、と母ちゃんである。

 父ちゃんは勤めに出る。出稼ぎに行く。もう一度そういう時代が来るような気がする。生活がどれほど苦しくなるとも、田んぼがあれば食べるものには困らない。そういう原点からやり直すほかないのが、日本の現状ではないのだろうか。

 次の時代の3ちゃん農業は、父ちゃんが農業をやり、母ちゃんが勤めに出る形が多くなるだろう。友人にはそうした人が多い。家族の一人が働きに出て、残りの人は農業をする。この形であれば、厳しい経済の時代でも暮らして行くことは可能になる。

 自給農業であれば、自分のペースで働くことが出来る。普通の仕事であれば、十分に自給農業は可能だ。市民の1割が自給農業をするようになれば、日本の水田は守られることになる。そのためには、働き方や農地の利用方法が変わらなければならない。

 国の方針で、自給農業を農業の一つの形として認めるようになれば、状況は変わるだろう。大規模企業農家と利用する農地は奪い合いになることは少ないだろう。両者が良しとする目的や条件が違うから、それぞれが上手く棲み分けることが出来るはずだ。

 まず、現在の農地の所有権を整理すべきだ。農地は国の物で、農地は国からお借りするという形が望ましい。農地を相続税の対象にすれば、国に農地は集まるはずだ。また、所有者が耕作を放棄して一定期間経過した場合、国がその農地を没収するのも良いだろう。

 農地を国が所有し、利用する物に貸し出せば良い。貸し出しの条件は有償もあれば、無償もあり、地域や条件によっては付加金付きというのもあり得るだろう。農用地はそもそも個人所有にはなじまないものだ。利用することで始めて価値が出る物だ。

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