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想像力は読書で作られる

2024-05-25 04:09:52 | 暮らし


 本を読むことは好きである。石垣から成田まで飛行機の中でも本さえあれば、三,四時間は何でもない。あっという間に過ぎている。本を読み出すと本の世界に入り込んでしまう。本の世界に自分が漂う事ができる。作者の作り出した世界の中を追体験しているような気になる。

 子供の頃中国の本をかなり読んだ。何しろ内藤湖南全集すべてを高校生の時には読んでいたのだから、中国にはまっていたとしか思えない。毛沢東のものもあらかた読んでいた。尊敬していたとも言える。紅衛兵の正義も信じていたのだから、毛沢東思想に洗脳された中国軍国少年だった。その意味では習近平よりも先だ。

 毛沢東はちょぅっとおかしいぞと思ったのは、大学生になってからだ。大学にいた毛沢東派のいわゆる過激派私の考える毛沢東思想とは違っていた。文化大革命の主旨と実体の乖離が、許しがたいものに思えたのだ。本の思想世界が現実にやっていることとあまりに違うので、徐々に毛沢東に幻滅をした。

 本を読むようになったのは、母が本を買うのであれば、自由に買って良いと言ってくれた事が始まりである。母も本好きな子供だったらしい。私が読んだ本の話をすると、必ず読んでいて、読書感想会が始まるのだ。兄や父も土佐流の談詰めに加わることになる。家族全員が本好きだった。

 本には本の世界があるということを知った。その本の世界を歩き回ることがすごい冒険旅行だった。日本の小説も次々に読んでいった。何故か、日本の作家のものが好きだったのだ。外国の小説を読むようになったのは、ドフトエフスキーが始まりだった。食わず嫌いをびっくりしてしまったのだ。

 本をいくらでも買うほどお金がある家のはずがない。今思えば膨大な借金のある家だったのだ。それでも、母は自分のものには全くお金を使わず、無理をして子供の本を買ってくれたのだと思う。私は本当にだめな子供で、そうした母の事情は、分っていなかった。情けない、思い出すと辛い。

 そして、何故か家に来る人は本のお土産を持ってきてくれるのだ。おじさんやおばさんが、本を持ってきてくれる。読み終わった本があれば、持ってきてくれるように頼んで合ったのかもしれない。その本が知らない世界に続いていて、新しい本の世界を読みあさった。

 中学と高校は今の世田谷学園に行ったのだが、図書館があり、それなりの蔵書があった。酒井先生という司書の先生がおられて、本の指導をしてくれていた。酒井先生は後に私が教員になったときにもまだおられて、時々司書室でお茶をごちそうになった。

 毎月購入された本や、寄付された本が司書室の前の棚にあって、いち早くその本を借りた。その本を返すときには、酒井先生から感想を聞かれる。偉そうな生意気な意見を言ったはずだが、馬鹿にせず聞いてくれた。それでますます本が好きになったのだろう。

 図書カードがあり、借りる本を書き込んで、その年度の学年毎に一番本を借りた生徒が表彰される。私は必ず一番だった。当然である。必ず借りて帰るのだ。多分そうして、学校にある本はほとんど読んでしまった。仏教書が多かった。実は授業時間中も本を読んでいた。

 なにしろ、吉川英治の宮本武蔵を同じクラスの原君が毎日一巻ずつ学校に持ってきてやるから、と言うので一冊一日で読んでいたぐらいだ。まさに乱読という奴で、活字を追っていれば良いというような、読書依存症という状態だったと思われる。本の世界がおもしろくて、現実世界から遊離している方が楽しかった。

 今はスマホ依存症、ネット依存症という時代であるが、それと同じような状態が読書依存症と言えるのだろう。読書中毒と活字中毒は少し違うとは言えるが、芦田愛菜さんは読書家だそうだが、活字中毒で、調味料の細かな活字をついつい全部読んでしまうそうだ。その感触は分らないことは無い。

 古本屋にも入り浸った。中学に入ると古本屋巡りを始めた。1冊10円と山積みされている本の山から捜しては購入した。三軒茶屋には4軒も古本屋さんがあった。川村書店ではあんまり買うので、貸してやるから読み終わったら持ってくれば良いと言ってくれたのだ。だから川村書店は私の図書館だった。

 川村書店の店主の川村さんは上野毛にあった多摩美の最初の生徒で、古本屋をしながら絵を描いていた。三軒茶屋に何か新しい独特の風を持ち込まれてた。多摩美の登山部を作った人で、登山部の世話を長年されていた。魅力的な人柄の方で、長く付き合っていただいた。

 本は読むのは子供のうちの方が良い。今も読みたいのだが、目が悪くなって本が読みにくくて仕方がないのだ。子供の頃は布団の中で、本を読み始めると止まらなくなって徹夜をしていた。徹夜はだめだと言われるので、電気スタンドを布団の中に隠して読んでいて、布団をこがしたこともあった。

 本はおもしろいから読んだので、本を読むのは良いことだから読んだと言うことではない。くだらない本はいくらでもあるし、悪書も多い。それはネット世界と何ら変らない。本を読んで成長するというようなこともあるだろうが、本の世界に変形させられると言うことだってある。

 本はおもしろいと言うことだけだ。子供が本を読むと言っても、今の子供はテレビやスマホや色々あって、本を選ぶ子供は少ないのだろう。絵を見ることよりも、アニメを見ることを選ぶのと同じことだ。何が良いかなどは判断は出来ない。ただ好きなことをやると言うことに意味がある。

 何かに依存症と言われるほど好きになる。それがゲームであったり、スマホであったり、賭博であったりすれば、それはまずいと言うぐらいのことはあるだろう。今は田んぼ依存症であり、水彩画依存症である。それでいいと思う。それぐらいでなければものにならない。

 子供の想像力は読書で広がる。活字を読んで頭の中で想像しなければ本は読めない。その想像力はだんだんに培われるものだろう。同じ本を読んでも、その本の世界全体を想像できるようになるには、かなりの訓練が必要なものだ。読書が深まれば、ますます本好きになる。

 その訓練が進むことで、想像する力が広がり、ますます本の世界が好きになる。それは頭の中のの世界が広がると言うことなのだろう。ものを考える力がつくと言うことに違いない。本の作者の様々な世界観を体得するように味わうのが読書だ。

 もちろん本を読むだけでは、ただの頭の中の妄想のようなものだ。読んだ人間がその想像力を持って、現実の世界の実体験を踏まえて、自分の世界観を形成していくことになる。読書で未知の世界を歩いている間に、自分の脳で思考する力がついてくれるらしい。想像する力を高めてくれる。

 
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