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自然エネルギーへの転換

2012-10-24 04:22:18 | Peace Cafe
脱原発が日本の新しい可能性に成るのではないか。新エネルギーは世界全体の可能性に成るはずだ。何故日本の企業人は、遮二無二に挑戦しようとしないのかが理解できない。原発がリスクの高い、廃棄物処理に不安のある発電方法である事だけは確かだ。少なくとも日本の世論と、ドイツはそう判断している。原発の数は今後も増えるだろう。次にどこかで原発事故が起こるはずである。テロの可能性も高まる。その時の被害は福島の事故を繰り返す事に成る。その程度ではまだ人間は気が付かず、止めないだろう。経済を考えれば、リスクは承知の上で突き進むと言う信じがたい保守化。事故を繰り返しながら、最後のどどのつまりまで行って、原発ではだめだと言う事に成ると想像している。反対運動でも何でもして、今すぐに全廃させたい。しかし、無理だとうと思ってしまう。

何故、企業人は新たなエネルギー開拓に意欲が無いのだろうか。新エネルギーに転換できた国は、次の世界をリードすることに成る。技術的にも、暮らしかたに置いても、GNPではない、新しい世界基準のリーダーに成るだろう。日本の経済界の衰退は、守りに回っている。現状維持の気持ちにあるようだ。何も無い時代は、ともかく仕事に成ることなら何でも挑戦したのだろう。松下幸之助氏や本田宗一郎氏のような姿である。所が一定の成功をおさめてしまった日本。安定志向に成り、多くの企業人が守りの気持ちに成っている。こういう心境に成ってしまった時には、新たな挑戦である、新興国の企業には負ける。何も持たないものが挑戦する気持ちになれば、今事業化されていない分野に果敢に攻め込むだろう。日本が徐々に経済で遅れをとっているのは、野心的精神を失っているためだ。一か八か、多くの人が挑戦し、わずかの成功したものが育ってゆく。戦後の復興期であれば、多くの事業者が新エネルギーに挑戦したはずだ。

日本人らしい細やかな知恵で、新事業を開拓し、世界の歯車を回さなければならない。意欲を失った一つの原因は格差社会である。60年代は格差の消えてゆくものとした社会だった。やりたい事をやっていれば、何とかなると思えた時代。そして頑張ればそれに相応しいものを得た。もちろん今の時代より貧しい社会である。大学に行くにしても、経済的に大変であったが。その気になれば、働いて進学できた。みんなそうだったから、それが当たり前のことだった。現代社会は表面的には豊かな社会である。その為に新しいことに挑戦する意欲が失われた。一度へばりついた原子力エネルギーと言うものを見捨てることが出来ない。それはどの分野の産業も同じなのだろう。いまだかつてないものを作り出そうと言う人間が少ない。意欲的な社会であれば、新エネルギーは大きなチャンスだからもっと、挑戦者が多くいるはずだ。

日本には江戸時代という、循環型社会の手本がある。豊かさの意味を再考する。江戸時代の精神を元に、新しい豊かさを探求する。私の考える新エネルギーは節約である。どこまでエネルギーを使わない暮らしが出来るかである。20年後に電気量が倍に成るなら、電気が半分で今より豊かな暮らしが出来ることを提案したい。自給農農業の生産方法も、省エネで無ければならない。できる限りその場にあるものを利用することだ。農業用水路発電をJAでは主張している。こうしたことも是非取り組んでみたい。畑の斜面に設置する太陽光発電はどうだろうか。屋根だけでない設置場所を考えてみるのもいいと思っている。いずれにしても法的な問題の処理など、小田原電力の事業として取り組んでももらえないだろうか。

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