goo blog サービス終了のお知らせ 

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

ルッキズム(外見至上主義)に含まれている何か。

2022-05-30 04:03:42 | Peace Cafe


 最近ルッキズム(外見至上主義)批判が注目された。維新の会の石井章氏が候補者を顔で選べば維新党の女性議員が選ばれると発言してしまい。撤回し謝罪した。その栃木選挙区は女性議員が5名もいて、そんな冗談が言いたくなったのだろう。悪気はなかったと思うが、議員の発言としてはさすがにまずい。

 その並んだ女性候補者の写真がネットにでていた。ついそんな目で見た。維新じゃなくて、NHK党だと思ってしまった。そんな話じゃないのについそういう見方をしてしまう情けなさが私の中にもある。すべての人間に生まれついてあるのだろうと思う。その選択眼は石井議員と私とでは違うように、それぞれなのだが。

 女性の写真が並んでいると、ミスコンではないがそういう見方が普通にある。普通にあっては成らないことなのだが、人間の心の中にはそういう否定できない基準がある。すぐに誤解される書き方だが、人間はある意味、始末の悪い情けないものだ。

 外見主義というのも差別の一つである。悪いものをないがしろにするのも、良いものをもてはやすのも、同じ差別なのだ。そもそも生物は生存のために、そうした選択をしてきた。角の長さや、身体が大きいとか。生き残るための選抜がある。

 エレファントマンを見て、怖いと思っては成らないのだが、やはり怖いと感じてしまう感性が、普通の人間である。問題は努力して怖いと思う自分を克服して、相手に悟られないだけの態度がとれるかだと思う。超美人を見たときだって同じ事だと思う。それでこちらの態度が変わってしまい、その変化が看取られてしまうようでは未熟である。

 実はこの問題はそう簡単な問題じゃない。ルッキズムは差別主義で良くないぐらいの分析では無意味である。これから深刻化する問題である。たぶん社会では容姿差別が強まってきているのかも知れない。容姿を社会に必要な能力の一部とみるように成っている。

 政治家は別段女性だけでなく、男性の場合見た目の貫禄が重要視される傾向がある。容姿と同時に家柄という物も入り込む。つまり努力でどうにもならないもので選択されている傾向が出てきている。封建社会の身分家柄とは違った意味で、感じの悪い社会の傾向が強くなり始めている。

 どんな社会がそういう社会なのかというと分りやすいの先進国が韓国社会である。美容整形が普通に広がっている社会。韓国ドラマは主人公は美男美女で出来ている。そこがつまらないのだが、日本でも案外に人気が高い。世界中で販売されているらしい。中国ドラマの方が私にはおもしろい。中国のドラマは韓国とは違い、現実の人間が表現されている。

 建前でどうこう言ったところで、容姿差別が存在する以上整形した方が有利に決まっているという韓国社会。だんだん日本もそうなってきたと言うことかもしれない。韓国社会は熾烈な学歴社会と言われている。学歴と容姿も似たような物なのだろう。よい就職や良い結婚が出来るためには、そうした要素が大きい社会。

 人間の魅力は生まれつきの容姿と言うようなものは、実はほとんど意味をなさない。私がいささか貧相な人間だからそういうやせ我慢を言うわけではない。人間はその内容と活力が姿に現われている。それは単純な容姿と言われるような見た目などどうでも良くなるほどのものになる。

 人種差別や性差別は、明らかに悪い事なのに、なくならないどころか広がっている。見た目で社会的な損得が分かれるルッキズムも、くだらないものだが社会はそれで動いている部分がある。見た目を鼻にかけるというのは最悪なわけだが、鼻にかけているとしか思えない人が、案外に受け入れられている社会。回りがそれで動く部分は目立ってきている気がする。

 家柄や資産の有無で利害が分かれる社会の構造は、このところはっきりとしてきた。能力と相違した物が関連する社会である。資産家の家庭の方が偏差値が高い大学に行く人が多くなる。社会の階層化が進んでいる結果だろう。これを変な意味で突破するのがルッキズムとも言えるのではないか。

 つまり、不平等はどんな場面でも出現する。ルッキズムがもたらす不平等など、美醜には絶対的基準などないし、容姿には階級など存在しないから、まだまだ罪が軽いと言える。そんな状況下、階級が固定化されてくる中で、韓国の美容整形は盛んになったのではないか。

 人間の感じる能力の違いは生まれ育ちの影響が大きい。伝統芸能の役者の世界は氏素性や育ちが見た目に影響してくる。その高低に従って、容姿にも面白い顔や魅力的な顔の役者世界の基準がある。整っているがつまらない顔、否むしろ煩わしい顔も生まれてくる。目鼻立ちが整っていてもつまらない顔もままある。

 ルッキズムの問題の根本には実は能力主義が存在することを見逃しては成らない。見た目ではなく能力で判断してくれと主張すれば正義なのか。ところがそうではない。能力は何のための能力であるかが問題である。政治家の選択は政策である。自分が望む政策に誰が一番近いかで有権者は投票すべきなのだ。マニュフェスト選挙。その人間よりも、政策が重要である。ある意味民主主義は雁首でいい。

 そもそもすべてにおいて、人間を選択などしてはいけない。選んではいけないのだ。それぞれが生きるという意味で、見た目も能力も関係ない社会にしなければならない。分かりにくいのだが、人間は差別をするものだが、差別は悪いもので、克服しなければならないものだという意識を不断の努力をして持たなければならない。

 能力主義の問題が解決されない限り、ルッキズムなど些細な問題だし、解決などされない。能力があるから、役に立つから、社会で働けると言うことはある。社会で役に立つ人はそれでいいし、社会で余り役に立たない人もそれなりでいいという社会でなければ。

 人間が生きるという権利には能力差もない。もちろん容姿の差もない。容姿は分りやすいからそのことで言えば、容姿が良いために選挙に勝つのかも知れない。しかし、問題は選挙に勝利して何をやるかの方だろう。選挙の勝利者が生きることの勝利者ではない。アベ氏のようにすべてがそろっていたかも知れないが、日本をだめにした張本人として今後の歴史に残る人もいる。

 議員が名誉職になっていることが問題なのだ。主張があり、その主張で選挙で選ばれ、その主張の実現のために行動する。当たり前のこのことが、ないがしろにされている。少なくとも維新の会では能力以前に見た目が重視されている傾向は感じる。それが石井議員の発言に表現されてしまった。その維新の会が最近の選挙では評判が良いらしい。見逃せない日本の危機だ。

 民主主義は市民社会の成熟度が問われる。日本の社会も貧困から脱し、だんだんに人間の質が良くなるのだろうと思っていたが、新しい格差貧困が生まれ、社会が劣化を始めている。むしろ未熟社会が出現しているようだ。その現れが拝金主義であり、ルッキズムであろう。そして維新の会のような、ポピュラリズム。トランプ主義。すべては繋がっている。

 残念ながら、この先差別は強まってゆくと考えなければならない。差別社会では気付かず差別してしまうはずだ。私自身が差別を行っていることはきっとあるのだろう。先ずは、注意深く自らを直してゆくことが必要だと思う。誰にも差別がある。残念ながら人間はそういうものである。この自覚はますます重要だと思う。

 次の社会は能力主義をどのように克服できるかが課題になる。どんな社会が来るのか、差別の強い階級社会が進むのか。今がその大切な状況にあるような気がする。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第110回 水彩画 日曜展示 | トップ | あしがら農の会の田植え »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Peace Cafe」カテゴリの最新記事